A Thousand Blessings
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2004年01月27日(火) 小沢健二「刹那」の至福と平原綾香“ジュピター”の驕り

仕事を終え、部屋に帰り、ウィスキーをやりながら
小沢健二を聴く至福の時。
アルバム名「刹那」。いいタイトルだと思う。
当初は収録時間の短さに不満が無くはなかったが、
聴きこむにつれ、この短さが何ともイイカンジに思えてきた。
腹八分目。また明日も聴きたい!と思わせる絶妙な長さだ。
やはり小沢健二は手抜きではなく、きちんとアルバムをプロデュースしていたんだ、と納得した次第である。
“強い気持ち・強い愛”という曲が収録されているが、
これは筒美京平が作曲したものだ。
しかし、どこからどう聴いても小沢健二の作曲としか思えない仕上がりだ。
つまりこれこそが筒美京平の学習能力の凄さなのだろう。
小沢健二の音楽的ルーツにまで遡っての検証を、
我々の常識外の時間、つまり瞬時にして行なってしまうその「才能」。
あの筒美京平をして模倣せしめるほどの優れて個性的な音楽を作り出している
小沢健二の「才能」を再確認できるアルバムだ。
“夜と日時計”で僕は、膝小僧を抱えたくなってしまうのだ、少年のように。

平原綾香の「ジュピター」が毎日会社の有線から流れている。
思わず耳を塞ぎたくなる僕だ。
これほど歌詞が耳に入ってこない作品も珍しいのではないか?
もちろん原曲は良く知っている。ホルストの「惑星」。
その中の“木星”の後半の旋律にそのまま日本語の歌詞を
何の推敲(すいこう)もなく乗せただけの、ただの思いつきに過ぎない駄曲。
音楽大学でのアカデミックな教育そのままの歌唱法も
ほとんど嫌味の域に達している。
声には、潤いというものが全くと言っていいほど、無い。
のっぺらぼうの声とはこういうのを言うのだろう。
しかし、評価はうなぎのぼりだという。
どうしてみんな騙されちゃうのかな。
無表情な噛み応えのない音楽を
よくも堂々とプロとして大衆にお聞かせできるものだなぁ、と呆れてしまう。
しかし、それは裏を返せば
大衆がそういうものを求めているということなのかもしれない。
要望にお答えしただけのことか?音楽を作る側の主体性はないのか?
聴き込めば聴き込むほど味が出てくる音楽を、今の大衆は求めていないのかも
しれない。
ヤワラカイ、アマイ、ヌルイ、ヤサシイ、カワイイ、、、、、
そういうものしか受け付けない触覚を持ってしまった人々の姿が
頭に浮かぶ。そんな人々を利用して商売する連中を僕はアーチストだとは
認めたくない。ただの策士だ。


響 一朗

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