Rollin' Age

2004年10月24日(日)
 悪が悪であるために

 溝口敦著「食肉の帝王−巨富をつかんだ男 浅田満」という本を読んでいる。牛肉偽装事件をはじめ政界や暴力団との癒着疑惑など、食肉卸大手のハンナングループと、そこに君臨する浅田満をめぐる黒い噂の実態をあばこうとした著作。ハンナンをめぐっては、今年4月に大阪府警が浅田満らに逮捕状を取ってからというもの、大阪の各新聞社は騒然となった。大阪で記者やってる以上、いつかこの本を読まねばならないと先日購入したのだけれど、なかなか読み進まない。どうも、実感がわかないという理由で。

 この著作は、牛肉偽装事件の際にどのようにグループ間で資金が流れたか、浅田満はどんな人物かなどについて、かなり詳細に調べ、鋭く切り込んでいる。警察や新聞が動き出したのよりも約1年早い03年5月に単行本化されており、独自に進めたその取材は、暴力団との関係も取りざたされるだけに、様々な困難もあっただろう。文章の端々に、真相を明らかにしようとする著者の信念が感じ取れる。ハンナングループを巡る実態について、「こいつはおかしいだろ」と訴えているのが伝わってくる、のだけれど・・・。

 「不正」の意味について考える。例えば、この牛肉偽装事件。被害者は、誰だったのか。偽装された牛肉に対して支払われた金は、税金。だから国民が被害者だということになる。ごく簡単に言うならば、ズルをして大金を国民から巻き上げたわけで、それは許されない、というのは、分かる。

 分かるけれど、例えば今も流れるハンナン絡みのニュースに接して、自分が被害者であるという実感はわくだろうか。牛肉偽装事件に限らず、例えば秘書給与流用疑惑などについても、自分が被害者だという実感はあるだろうか。もちろん、「俺たちが払う税金を騙し取りやがって」という怒りは正当なものだし、不正な振る舞いに対する正義感からの怒りももっともなことなのだけれど。少なくとも私は、「食肉の帝王」を読みながら、「許せない!」とか「けしからん!」とは思わず、どこか遠い世界の出来事の解説本を読んでいるようで実感がわかなかった。だから、どうも読み進まないままでいる。

 世の中を騒がす様々な「不正」について、真剣に怒る人というのは、いるだろうか。殺人とか暴行とか恐喝とかならばもっと分かりやすい、怒る人もいるだろうと思ってしまう。殺された被害者の遺族、狡猾な手段でだまされた人、などなど、「自分や身内が同じ目にあったら」という感じ方が容易になる。なにより実際に被害にあう人の怒りは、まぎれもなく心から発せられるものだろう。一方で、「不正」に対して、どう怒ればよいのだろうか。

 心から怒るだなんて、そんなものは筋違いで不正は不正だという意見もあるかもしれない。だけど、アタマで考えて許せないと判断するものと、心から許せないと思うのとは、重みが違うんじゃないかと、考える。その「重み」なんて関係ない、不正は許せないものだと言われるとそりゃそうなんだけど。

 時代劇を思い浮かべて欲しい。越後屋と悪代官。彼らは「不正」をやっている。ただし、たいてい筋書きには「かどわかし」とか「殺人」とかがオマケで付いてくる。誰か特定の被害者がいないことには、越後屋と悪代官が悪者として印象付けられない。「不正」だけでは遠山の金さんも暴れん坊将軍も動かない。なんの罪も無い苦しむ人々がいて初めて、越後屋と悪代官が「悪」として際立ってくる。「こいつら許せない」という感情が生まれる。

 牛肉偽装や贈収賄などについて、被害者不在とは言わない。ただ自分たちが被害者であるという意識すら持ちにくい、このシステムの中で、単純に「けしからん」と言うだけで済むことなのか、そこを考えている。別に「不正」に限らず、「日本の財政」とか「環境破壊」とか「世界平和」とか、別のトピックに移し変えても良い。自分の身に降りかかる問題であるにも関わらず、実感などほとんどわかないこれらの事柄に、人はどう対処すれば良いのか。「選挙に行こう」とか「地球を大事に」とか「人類皆兄弟」だとか。そういうお題目を、どこまで身に引きつけることができるのか。私には分からない。


 < 過去  INDEX  未来 >


なな

My追加