生きているものの世界たる現世と、そうでないものの領域たる幽世。 其処に流れる時間はそれぞれ異なっている。 幽世から現世へと魂のみの存在となって舞い戻ったシュテルは、その「時間差」に言葉を失った。 幾ら幽世から現世の様子を見られるといっても、己が感覚で量り得るものには限界がある。 この空気や音、広がる光景などを、仲介無しで感じて初めて知るものもあるのだ。 昔は無かった高層建築物、大地を覆う化学物質の皮膜、其処を這い回る沢山の機械の箱や馬、それより更に多い人、人、人。溢れる騒音と熱気。 早くも疲労を覚えたシュテルは、しかしその混雑の中に昔と変わらぬものを見つけ、無い筈の目を見開いた。 強すぎる陽光を避け、硝子と金属で出来た四角いビルの影の中で、ぼうと立っている青年。 (……ガルデン様……) 急にこの世とあの世に別たれ、以来、彼を置き去りにしてしまった己が力不足を恥じ、悔やんで、それゆえ他の連中がする様に気軽に「会いに行く」事も出来ず。 それでも想いを断ち切れず、ただただ幽世から見守っていた、シュテルの大事な主。 ……実に実に久し振りにこの「目」で間近に見た彼は、相変わらず美しく、涼やかで、そして何処か寂しげだった。 027:電光掲示板 (…………) シュテルは一瞬躊躇ってから、その傍にふわふわと近付く。 ガルデンは気付く様子も無い……現世の者には、今の魂だけであるシュテルは見えないのだから、当たり前だが。 安堵した様な、寂しい様な、複雑な心境になりながら、そっとその表情を伺ってみる…… ……その翠の目はしんと深く静まり、あくまで穏やかな、しかし曖昧な光を宿している。 喜怒哀楽がはっきりとしていた頃……共に在った頃からすれば、酷く大人びた様な眼差し。 ……数万年を生きた竜のそれに似ていた。 シュテルを失った後、ガルデンはそれまでの長い人生と同じく、様々な動乱や苦難に巻き込まれ続けた。 しかしそのどれもを、彼は自分ひとりの力で解決して見せた―――――そうせざるを得なかった。 彼はいつもひとりだった。強すぎる力と近付き難い雰囲気、付いて回る「闇の騎士」「魔法剣士」の名がそうさせたのだろうか。 ……いや、その力や字(あざな)が他者から忘れられても、彼はひとりでい続けた。 彼が頼りにする程近しい人物というのは、長い長い時間の中でも殆ど現れなかった。 たまに現れても、皆ガルデンより先に死んだ。 やがて訪れた平和な時代。 リューも剣も魔法も無い「今」のはじまり。 戦から解放され、平凡な日常に身を移したこの頃から彼は、こんな表情をする様になった。 激しい怒りも悲しみも、苦悩も無い。 ただ穏やかで、少し寂しそうな、曖昧な表情。 それは幽世のシュテルにしてみれば、けして悪い様には見えなかった。 寧ろ嘗ての、苦悩や悲しみ、怒りに溺れそうな姿に比べれば、幸福そうにすら見えた。 見えていた。 今此処にシュテルが在る理由だって、その幸福な顔見たさに拠るものだった。 が。 (……………) こうして間近に主を見詰め、シュテルは (そういえばこんな顔をされるようになって以来、ガルデン様は余り笑っていらっしゃらない) と唐突に気付いた。 昔の彼はよく怒り、同時によく笑うひとだった。 それより少し後の彼は、苦悩と悲しみを胸に宿しながらも、時折はっとする様な微笑みを浮かべる事があった。 その笑みは、紛れも例外も無く幸せそうな笑みだった。 今の彼は怒りも嘆きも苦悩も見せず、代わりに笑う事も無い。 笑ってもそれはゆるく曖昧な笑みで、本当の「笑顔」とはどうにも認識し難かったのだ。 ガルデンはふわふわ彷徨うシュテルにも相変わらず気付かず、金属の壁を背に、忙しく行き交う人々の中ただ空を見ている。 ……正確には、この辺りで空に一番近い、向かいのビルの最上階を見ている。 夏の太陽を、張り巡らされたガラスでいっそ涼しげに見えるほど綺麗に散らしている其処には、横に長い大きな電光掲示板が設置してある。 此処からなら眩しさや暗さに影響されず、くっきり文字が読み取れる掲示板だ。 日々の事件や出来事、お知らせ、株価、天気予報に星座別の今日の運勢に防犯の呼びかけなどなど、引っ切り無しにするすると流れてきては消えてゆく。 それをただ、彼は曖昧な表情でぼうと飽きもせず見詰めている。 幽世から眺めていただけならば、これを「穏やかで平和な彼の日常」のひとつとして捉え、「自分が居らずとも彼の方は幸せでいらっしゃる」と思えたのだろうが。 ……シュテルが彼を見つけてからもう随分時間が経った。 が、彼はいっかな其処から動こうとはしない。 周りの待ち合わせと思しき人々は、次々約束した相手を得て雑踏に紛れていくと言うのに、彼だけが其処で変わらず佇んでいる。 何故かは知らない。誰かを待っているのかもしれないが、確たる事は判らない。 ……幽世からただ「彼は幸福だ」という想像越しに見ていただけでは、詳しい事情など判る筈も無かった。 (わたしは何をしに来たのだろう―――――) シュテルは主と共に電光掲示板を眺めながら思った。 (わたしはただ、この方の幸せな顔を見に来ただけなのに) けれど、主はシュテルが思っていたほど幸せそうには見えなかった。 色んな幸せの形があるのだから、不幸だと断言は出来ないが。 幸せだと信じる事も出来なかった。 今の主には、シュテルの知っている「幸せな笑顔」が無い――――― 「―――――」 ガルデンは、掲示板に流れる十数回目の天気予報を黙読しながら、周囲に散らばる日差しと影で今が何時かを把握する。此処で待ち合わせしようと「相手」に言われた約束の時間から、既に1時間半過ぎていた。 ……何か有ったのかも知れないし、何も無かったのかも知れない。すっぽかされたのかも知れない。 約束にも待つのにもその結果にも慣れているから、ただただぼうと待つ。 どんな事態も予想できるから、期待も心配もせずに、待ち続ける。 だって、他にする事が無い。 今の平和な世界には、自分に出来る事は沢山あったけれど、しないといけない事は余り無かった。 それが良い事なのか如何なのかは判らない。悲しむべきか喜ぶべきかも判らない。 ……それが良い事なのか如何かは判らない。 <12星座別・今日の運勢> 掲示板に流れてきた文字列。これももう暗唱出来るほど繰り返し見ている。 今の時代で言う自分の星座は、健康運も金運も恋愛運も一番低い数値だった。 曰く、この星座のひとは今日から暫く絶不調、スランプから抜け出すまで相当掛かる、とか…… ラッキーアイテムは携帯電話、けど自分は携帯を持っていない…… 「あ……」 表示されたその結果に、ガルデンは思わず小さな声を上げた。 最下位だった数値全てが最高になっている。 ラッキーポイントは…… 「銀髪と翠の目……?」 先程まで表示していたのと全く違う上、何だか余りにピンポイントなアドバイスに、その翠の目を瞬くガルデン。 予想も出来ない事というのは久し振りで、どう反応したら良いのか判らない。 星詠みも居ない時代のこんな占い、如何でも良い事に違いないのに…… でも。 「……そんな無理矢理に褒めなくても」 流れるメッセージを見ている内に、ガルデンはつい呟いてしまった。 曰く、この星座のひとは元々優れているのに加え運勢も好調、特に銀髪に翠の目を持つひとは何をやっても巧くいく。 ……銀髪に翠の目なんて、まさか自分の事では無いのだろうけど、それでも何だかくすぐったい気分になって。 気が付けば、何につけても自分を褒めてくれた彼の事を思い出していた。 大きくて強面で、強くて厳しくて合理主義者で何でも出来て。 なのにどうしてか自分には、とても甘くて優しくて不器用で口下手だった彼――― (…………) 俯き、他人には判らない程小さな笑いを浮かべたガルデンに、シュテルはほうと見惚れた。 それはシュテルの切望する「幸せそうな笑み」と違い、どう見ても「おかしなものを見たり思い出したりした為の発作的な笑い」だったが、……しかも、やはり何処か寂しそうではあったが、正真正銘、感情のこもった笑顔に違いなかった。 もう長い間見ていなかったその表情の愛らしい事きれいな事。 「魂」である事を利用して電光掲示板のロムに侵入し、内容を改ざんした苦労もこれで報われる。 報われると言うかお釣りがくるくらいだ。 ……最初は、こんな平和な世界に戦の道具である自分の居場所は無いと思っていたけれど。 (ガルデン様が笑って下さるのなら、このまま道化になってしまおうか) 今ではこんな考えすら浮かぶ。 舞い上がりすぎだと思うくらい、もっとこの方の笑顔を見たい、という気持ちが沸々と込み上げてくる。 無力な自分でも、……あの時あなたを置き去りにしてしまった自分でも、出来る事ならば。 掲示板へ視線を戻す主の、その翠の瞳に滲む笑いを正に魂に焼き付けながら、シュテルは願った。 今、彼は久しく無かった程切実で、しかも幸せな気持ちだった。 ――――― 「文字書きさんに100のお題」配布元:Project SIGN[ef]F様 ――――― 電化製品など電気を使うものの類には、ひょいとそこらの魂が入り込んだりするんじゃないかというイメージが在ります。 テレビとかビデオとか。 ――――― さて、最下位の星座が最高位に改ざんされたという事は、代わりに別の星座が最下位になってしまうという事だが。 「ああああ、ついてねえ、俺……」 暑い中、呻きながら待ち合わせ場所へと必死に走る少年は、ふっと視界に入った掲示板で自分の星座が最下位になっているのを見、思わず足を止めて汗だくの顔を引き攣らせた。 「げっ……ラッキーアイテムは携帯電話って、今持ってねえよ」 今日は朝からミスばっかで事故にもあいかけるし携帯は忘れるし、挙句一目惚れした憧れの人を遂にデートに誘ったってのに、肝心の待ち合わせに大遅刻と来た。 一時間半も遅れて、普通なら怒って帰っちまっているだろう。 …でも、だからってそのまますっぽかす訳には行かない。 待つ辛さも待たせる辛さも一応知ってるつもりだから。 「ちくしょう、占いなんか信じるか」 少年は一声吼えて、再び走り出す。 今日は何としてもあのぼうっとした人を笑わせてやるって決めてんだから。 待ち合わせのビルの前まで、もう少し。 ……其処に辿り着いた直後から、不可解な現象の数々に襲われる事になるなど知らず、彼は赤い髪を夏の熱風に乱しながら駆けていった。
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