ATFの戦争映画観戦記



【File106】マカロニ戦線異状アリ・・・珍説イタリア戦争映画史《傾向と対策��》

2004年04月03日(土)

字数の関係で前置き、後書は省略・・・さっそく行って見ましょう。それでは【開演ブザー】毎度毎度でくどいですが、携帯電話の電源はお切り下さい【今回も、また資料的価値は�狒瓦��瓩△蠅泙擦鵝�

【イタリア映画の興隆と衰退】
1893年、発明王エジソンが「キネトスコープ」を発明し映画の起源となった。その2年後、フランスの写真技術者リュミエール兄弟が投射式映写装置「シネマトグラフ」を開発しパリのカフェにおいて興行を行った。1896年ニューヨークにおいて、エジソンが「キネトスコープ」を改良した「バイタスコープ」による初の興行を成功され、ここに本格的な映画興行の歴史が始まった。最初の映画は、ただ風景を撮影しただけのノンフィクションな短編作品であったが、その後ストーリーを持った長編作品が製作される様になる。1900年代になると、ヨーロッパ各国において映画製作・興行会社やスタジオが設立され、また映画製作の分業化(脚本・演出・編集・音響・装置等)が確立、映画産業は急激に拡大され、庶民の娯楽としての地位を確立される。また映画スターが生まれ、国際的な人気スターが生まれて行く。1911年、米国カリフォルニア州ロサンゼルス郡を中心に、米国の主要映画製作会社が撮影所を建設・・・年間を通じて明るい陽光の降り注ぐ天候条件が、映画撮影に持って来いだった・・・ハリウッドの誕生である。1914年ヨーロッパにおいて第一次世界大戦が勃発・・・ヨーロッパ各国は戦争に国力を割かれ、また主戦場となり映画どころではなくなり、米国ハリウッド製の映画が進出し勢力を拡大する事となる(1920年代には年間700本以上の作品が製作される様になり世界の映画市場を独占する程になる)。さてイタリアにおいては、1902年に初の映画製作会社チネス社が設立され、本格的な映画製作が始まる。1908年にはアンブロオ社が製作したスペクタクル大作「ポンペイ最後の日」が世界的大ヒット作となる。1911年になると「クオ・ヴァディス」「トロイ戦争」「スパルタカス」等の歴史大作映画が大流行。1913年にはイタラ・フィルム社が、トリノの撮影所で豪華なセットや奇想天外なストーリー、精巧なミニチュアによる特撮などの新技術を多用した2時間超大作活劇作品「カビリア(紀元前3世紀に起こったカルタゴ戦争を題材とした)」を製作し、また「クオ・ヴァディス」が米国でニューヨークで公開され大ヒット・・・1916年に製作されたD・W・グリフィスの「イントレランス」等ハリウッド作品に多大な影響を与え�爛好撻�タクル�瓩箸いΡ撚茱献礇鵐襪魍領�する。しかし第一次大戦後の自国映画興行の衰退と米国ハリウッド映画の進出、そして世界恐慌の影響による映画製作会社の倒産が相次ぎ、1920年代後半には製作される作品数が減少の一途を辿るのである。

【イタリア人の為の、イタリア人による、イタリア人の映画】
第一次世界大戦の1918年、ドイツにおいて映画製作会社・・・全映画共同組合(UFA:ウーファ)・・・が設立される。これは戦争遂行という国家的行事における映画の役割・・・宣伝媒体/プロパガンダ・・・を高く評価したドイツ帝国政府が、軍部主導の下、産業界や金融界の後援を受けて設立したモノで、大戦によって英仏の映画製作会社は、その活動が衰退したが、敗戦国にも関わらず、UFA社の製作したドイツ映画は、ヨーロッパでアバンギャルド(前衛的/古典的なものを否定し新しい芸術的表現を模索する)運動の盛り上がる中、世界中で評価され、ドイツを世界有数の映画大国に押し上げ、後にナチスの台頭と共にUFA社はナチスの宣伝機関と化す(ユダヤ系&左翼系文化人の粛清により映画界の逸材の多くが国外に流失する)・・・国家や政府、政党がプロパガンダの手段として映画(現在ではマスコミ)を利用した事は歴史上でも明確である。ナチス・ドイツや旧ソ漣に限らず日本、米国、英国・・・世界中の国家が戦意や敵愾心の昂揚や思想統一等の手段に映画を用いた。このような歴史の例に漏れず、イタリアの映画産業もムッソリーニ率いるファシスト政権と密接に関わって行く。ところがイタリアにおけるファシスト政権と映画界との関係は、ちょっと変っていた・・・イタリア映画界は、ファシスト政府のプロパガンダの手段として、一方的に利用された訳ではなく、むしろその逆で、イタリア映画界がファシスト政権を利用し、その発展に利用した・・・と言う事も出来るのである。1930年代になるとファシスト政権は自国の映画産業の建て直しの必要に迫られる。ハリウッド映画の購入による自国通貨(リラ)の国外流出を防ぎ、映画産業の復興による失業者対策という現実的な政策を掲げた事により、芸術の保護者を自認していたムッソリーニが「イタリア人の為の、イタリア人による、イタリア人の映画」を掲げた事による・・・1932年、ベネチアにおいてファシスト政権主導によって「国際総合芸術博覧会」が開催され、その一部門として映画コンクール(作品賞・監督賞・主演男優&女優賞)が行われた。これが今日世界三大映画祭のひとつとして高い権威を持つ「ベネチア国際映画祭」の起源となった。また1935年にはイタリア国内大手映画製作会社であるチネス社、ルクス社、そしてティタヌス社等が映画製作および配給を一手に引き受ける独占製作配給会社エニック社に統合され、また国立ローマ労働銀行等三大銀行に、映画産業用特別口座が開設され、資金援助が積極的に開始される。また映画に関する様々な国家の監督する機関(ニュース映画を製作して情報操作する教育映画連盟(LUCE)や映画製作者養成の為の国立実験映画センター等)が設立される。そして1936年にはファシスト政権の最大の功績である国内最大の国立撮影所チネチッタ(映画都市)の建設が始まり、1937年4月に完成。ローマ市南部郊外の約40万平方メートルの広大な敷地に撮影所、学校、研究所、編集室、現像所等映画に関する様々な施設を備え、文字通り�牘撚茲療圻瓩半里垢襪冒蟇�しく、ムッソリーニ参列の下、壮大な落成式が行われ、以後ファシズムを謳歌する国策映画が次々に製作された・・・かと思われるが、それは全く逆・・・武蔵野美学長の長尾重武氏の著書「ローマ」によれば、ムッソリーニの失脚までにチネチッタ撮影所において製作された作品は合計279本・・・内120本が喜劇映画、142本が歌劇や歴史映画等で、直接的に戦争美化や賞賛、国威昂揚を謳った映画は、僅かに17本に過ぎなかったらしい。こうなるとチネチッタ撮影所がナチス・ドイツ政権下におけるUFA社撮影所と同様に、ファシスト政権下の国立施設としての役割を充分果たせたのかどうか、という疑問は沸いてくる。しかし「イタリア人の為の、イタリア人による、イタリア人の映画」を掲げたムッソリーニは、自国民に映画と言う娯楽を提供する事で国威発揚に繋がると考えていた様である・・・結局ナチス・ドイツの様にユダヤ系芸術家を弾圧する事も無く、後に反ファシズムを代表するネオ・レアリズモ映画で名を馳せる監督達・・・ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニーニ等を育てて行く・・・。

【戦中・戦後のイタリア映画界】
【1940年代】
そして第二次大戦中・後の1940年代、ファシズム政権末期の庶民生活の哀歓や反ファシズム・レジスタンス運動の過酷な現実・・・イタリアの現実を描いた「ネオ・レアリズモ」と呼ばれる作品群が世界中で評価され始める。アレッサンドロ・ブラゼッティの「雲の中の散歩(1942)」ヴィットリオ・デ・シーカの「子供たちは見ている(1943)」ヴィスコンティの「郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)」等の作品を起源として、ファシスト政権が奨励する様な「健全な市民」ではなく、当時の一般的な市民生活が描かれた。後にネオ・レアリズモの旗頭となるロッセリーニは、戦中は軍に協力しプロパガンダ作品「白い船(1941)」「ギリシアからの帰還(1941)」を製作。戦後になると�狎鐐荵杏�作�瓩噺討个譴襦崟鏖个里�なた(1946)」「無防備都市(1946)」「ドイツ零年(1947)」を送り出した。その他デ・シーカは「靴みがき(1946)」「自転車泥棒(1948)」によって戦後の社会問題を描き、ヴィスコンティは「揺れる大地(1948)」において�狠亙�の発見(ローカリズム)�瓩魍領�し、ここにネオ・リアリズモ作品は頂点を迎える。
【1950年代】
1950年代に入ると、戦後の経済成長に伴いネオ・リアリズモも転換期を迎える。ハリウッドスター・イングリッド・バーグマンとの不倫が話題になったロッセリーニは、バーグマン主演の「ストロンボリ(1950)」「ヨーロッパ1951年(1950)」「イタリア旅行(1952)」を続けて発表するが、批評家の評価は低く興行的に失敗。それに反してデ・シーカは「ミラノの奇蹟(1953)」「ウンベルトD(1951)」「終着駅(1953)」「屋根(1956)」と様々なテーマに基づく作品を発表し高い評価を得る。ヴィスコンティは「夏の嵐(1954)」によって、ネオ・リアリズモからリアリズムに転換。レナート・カステラーニの「ロミオとジュリエット(1954)」は大ヒット作となった。フェデリコ・フェリーニは「白い酋長(1951)」によって監督として認められ、以後立て続けに「青春群像(1953)」「道(1954)」「崖(1955)」「カビリアの夜(1957)」を発表した。彼の作品は社会の底辺に生きる人々を描いている点ではネオ・リアリズモの延長線上にあると言えるが、社会よりも人間の内面的なモラルに視点が向けられている点が大きく異なる。アントニオーニはブルジョワや中産階級の世界を描き、人間の孤独や愛の危機を描き「ある愛の記録(1950)」「女ともだち(1955)」「さすらい(1957)」で高い評価を得た。反面フランチェスコ・ロージは「挑戦(1958)」「シシリーの黒い霧(1962)」で、またカルロ・リッツァーニは「パルチザンに気をつけろ!(1951)」、ピエトロ・ジェミニは「鉄道員(1956)」「刑事(1959)」で、正統派ネオ・リアリズモを継承した。
【1960年代】
1960年代前半イタリアの経済成長はピークを迎え、それに比例して映画大国として揺ぎ無い地位を得る。映画界はネオ・リアリズモの回帰を目指し、ロッセリーニは「ロベレ将軍(1959)」「ローマで夜だった(1960)」デ・シーカは「二人の女(1960)」ヴィスコンティは「若者のすべて(1960)」を発表し興行的に大ヒットする。その他にナンニ・ロイの「祖国は誰れのものぞ(1962)」マリオ・モニチェッリの「戦争(1959)」「明日に生きる(1963)」リッツァーニの「汚れた英雄(1960)」「ヴェローナ裁判(1963)」ジッロ・ポンテコルヴォの「ゼロ地帯(1960)」プロレスターノ・ヴァンチーノの「残酷な夜(1960)」等が発表され、いずれも興行的に成功した。しかし、これらネオ・リアリズモへの回帰は一時的なモノに終わり、代わってフランスのニーヴェル・ヴァーグの影響を受けた新たな動きが登場する。フェリーニは「甘い生活(1960)」「81/2(1963)」「魂のジュリエッタ(1965)」「サテリコン(1969)」を発表し、後の映画監督たちに大きな影響を与えた。またアントニオーニは「情事(1960)」「夜(1961)」「太陽はひとりぼっち(1962)」で経済成長下ブルジョワ社会を背景にした孤独や不安、愛の不毛を描き、後にイタリアを離れ「欲望(1966)」「砂丘(1969)」を発表し国際的な評価を得る。これらの影響を受け、ロッセリーニは商業映画からテレビ映画へと転向。デ・シーカは「昨日・今日・明日(1963)」「悲しみの青春(1970)」でアカデミーを受賞。晩年には「ひまわり(1969)」を発表した。ヴィスコンティは「山猫(1963)」でカンヌ映画祭グランプリを、「熊座の淡き星影(1965)」でヴェネツィア映画祭グランプリを受賞し独自の美学世界を確立する。ジェルミは「イタリア式離婚狂想曲(1961)」「誘惑されて棄てられて(1964)」の社会的風刺喜劇で成功する。またピエル・パオロ・パゾリーニは「アッカトーネ(1961)」「マンマ・ローマ(1962)」「奇跡の丘(1964)」「アポロンの地獄(1967)」「テレオマ(1968)」を続けて発表し、独創的な映像美で好評を博した。またセルジョ・レオーネが黒澤明の「用心棒(1961)」に影響を受け「荒野の用心棒(1964)」を発表したのを期に�爛泪�ロニ・ウェスタン�瓮屐璽爐�起こり、1970年代へと続く。
【1970年代】
1960年代後半から1970年代にかけて政情不安と経済インフレが進行し、イタリア社会情勢は悪化の一途を辿る。そんな中1974年にデ・シーカとジェルミが、1975年にパゾリーニが、1976年にヴィスコンティが、1977年にはロッセリーニが相次いで死去、映画界は大きなダメージを受ける。中でもヴィスコンティは晩年「地獄に墜ちた勇者ども(1969)」「ベニスに死す(1971)」「ルードヴィヒ(1972)」(以上ドイツ三部作)その後、病を経て「家族の肖像(1974)」を製作、�玻ソ呂靴身�の世界�瓩鯢舛�イタリア映画界を牽引する・・・が「イノセント(1976)」が遺作となった。もう一方の牽引役フェリーニは「フェリーニのローマ(1972)」「アマルコルド(1973)」「カサノバ(1976)」といった多様な作風な大作を続けて発表した。1970年代にはヨーロッパ映画と米映画との違いが目立ち始めた。ヴィスコンティとフェリーニの二大巨匠を中心にしたイタリア人監督たちは、完全に自由な作風を尊び美しさと感動を求め、フランス映画の「ヌーベルバーグ」と並んでヨーロッパ映画界をリード、チャップリンやオーソン・ウェルズ等に代表された自由な映画人が消え、資本主義的商業戦略によって完全に組織化された�爛轡隋璽咼献優広瓩箸覆辰討靴泙辰進胴颯魯螢Ε奪姫撚莖Δ紡亶海靴燭�、次第に巨大な資本に裏付けされたハリウッド映画に圧迫されて行く。しかし数多くの作品が海外で評価を受ける。エリオ・ペトリの「殺人捜査(1970)」ダミアーノ・ダミアーニの「警視の告白(1971)」ジュリアーノ・モンタルドの「死刑台のメロディ(1970)」タヴィアーニ兄弟の「父パードレ・パドローネ(1977)」エルマルノ・オルミの「木靴の樹(1978)」ベルナルド・ベルトリッチの「ラストタンゴ・イン・パリ(1972)」「1900年(1976)」また女流監督のリーナ・ヴェルトミュラーの「流されて・・・(1974)」「セブン・ビューティーズ(1975)」とリリアーナ・カヴァーニの「愛の嵐(1974)」等である。また1970年代は多彩なイタリア人監督たちの個性が開花した時期でもあった・・・マルコ・フェレーリの「最後の晩餐(1974)」「最後の女(1976)」エットレ・スコーラの「あんなに愛しあったのに(1974)」「特別な一日(1977)」マルコ・ベロッキオの「父の名において(1971)」「凱旋行進(1976)」マウロ・ボロニーニの「わが青春のフロレンス(1970)」フランコ・ゼッフィレッリの「ブラザー・サン シスター・ムーン(1972)」ダリオ・アルジェントの「歓びの毒牙(1970)」「サスペリア(1976)」等である。
【1980年代】
1985年、第一回東京国際映画祭の審査員として来日したベルトリッチは「イタリア映画は瀕死の状態だ」と発言し物議を醸した。事実1980年代に日本で公開されたイタリア映画は1970年代初頭に公開されたソレに対して三分の一に減少した。イタリアの映画人口は1970年代前半には5億人だったが、1985年には1億2千万人に激減した。その主な原因はテレビの普及・・・常時何百ものチャンネルで番組が放送されており、テレビ言語世代が台頭して来た事が考えられる。その様な中にあって映画界は作品製作続行に躍起になり、海外との合作(仏・西独等)推進、イタリア国営放送(RAI)の映画製作進出(資本参加)が進められた。また才能ある若手やベテラン監督たちが精力的に活動を続けおり、映画史上に残る多くの作品を産み出した。若手ではマッシモ・トロイージ、ナンニ・モレッティ、マウリッツオ・ニケッティ、カルロ・ヴェルドーネ、ロベルト・ベニーニ、ピーター・デル・モンテ、サルヴァトーレ・ピシチェッリ、ジョゼッペ・ベルトルッチ、ジャンニ・アメリオ等である。ベテランではリリアーナ・カヴァーニの「皮膚(1981)」「ベルリン・アフェア(1985)」マルコ・ベロッキオの「両目に口(1981)」「肉体の悪魔(1986)」ベルナルド・ベルトリッチの「滑稽な男の悲劇(1981)」「ラストエンペラー(1987)」ブービ・アヴァーティの「追憶の旅(1983)」「いつか見た風景(1989)」エットレ・スコーラの「パッション・ダモーレ(1980)」「ヴァレンヌの森(1982)」「ル・バル(1984)」「マカロニ(1985)」リーナ・ヴェルトミュラーの「女と路地と陰謀と(1985)」「流されて2(1987)」エルマルノ・オルミの「歩く歩く(1983)」「聖なる酔っぱらいの伝説(1988)」タヴィアーニ兄弟は「サン・ロレンツォの夜(1982)」「カオス・シチリア物語(1984)」「グッドモーニング・バビロン!(1987)」マルコ・フェレーリの「ありきたりな狂気の物語(1981)」「ピエラ愛の遍歴(1983)」ティント・ブラスは「鍵(1984)」「ミランダ(1985)」更に映画界の長老監督たちも意欲的に活動している。アントニオーニの「ある女の存在証明(1982)」フェリーニの「女の都(1980)」「そして船は行く(1983)」「インテルビスタ(1987)」ロージの「三人兄弟(1980)」「カルメン(1983)」「予告された殺人の記録(1987)」等が上げられる。また多くの新人監督たちがデビューしたのも1980年代の特徴と言える。マルコ・リージ、ガブリエーレ・サルヴァトレス、フランチェスカ・コメンチーニ、フランチェスコ・ヌーティ、カルロ・マッツァクラーティ、ジュゼッペ・ピッチョーニ、ダニエーレ・ルケッティ、リッキー・トニャッツィ、フィオレッラ・インファシェッリ、フランチェスカ・アルキブージ、クリスティーナ・コメンチーニ、そして「教授と呼ばれた男(1986)」「ニュー・シネマ・パラダイス(1988)」のジョゼッペ・トルナトーレ等が上げられる。
【1990年代】
イタリア映画で日本国内公開作は極端に少ない。1993年フェリーニが死去し映画界は精神的象徴を失った。また1990年代は旧ソ連の崩壊に象徴される様に大きく社会体制が変革し、ひとつの時代が終わったと言えるが、かつて映画人の多くが共産党を支持していた為、彼等も変革の波に直面する事になった。二世監督や俳優出身監督たちの活動も目立つ。この年代にデビューした監督たちには「アメリカから来た男(1991)」のアレッサンドロ・ダラトリ、「フライト・オブ・ジ・イノセント(1992)」のカルロ・カルレイ等がいる。特に「フロリステッラへのアクラの下降(1992)」のアウレリオ・グリマルディは、以降「シチリアの娼婦たち(1994)」「パゾリーニ・スキャンダル(1996)」「肉屋(1998)」「年上の女(1999)」等ローカリズム&セックスを重要なテーマとした作品の発表を精力的に続けた。その他には名匠コメンチーニの娘クリスティーナの「心のおもむくままに(1995)」リッキー・トニャッツィの「ウルトラ(1991)」マルコ・リージの「外の少年たち(1990)」「ゴムの壁(1991)」「生贄(1994)」フランチェスカ・アルキブージの「黄昏に瞳やさしく(1990)」「かぼちゃ大王(1993)」ナンニ・モレッティの「親愛なる日記(1994)」マイケル・ラドフォードの「イル・ポスティーノ(1995)」ガブリエーレ・サルヴァトレスの「エーゲ海の恋人(1991)」「ニルヴァーナ(1996)」が上げられる。しかし相対的に見ても1980年代に引き続きイタリア映画界の不調は続いており、1990年代後半は、特にその傾向が強い。1998年になってベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル(1998)」トルナトーレの「海の上のピアニスト(1998)」が世界中で大ヒットし、漸くイタリア映画の威信回復の兆しが見えて来たと言える。

この続きは次回に・・・【続・・・く】

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