ATFの戦争映画観戦記



【File097】あゝ邦画戦争映画は燃えているか・・・Shall We タンク!【前編】

2003年09月30日(火)

陸戦を描いた作品に華を添えるのは何と言っても�狎鐚岫瓩任△襦J睚爾�登場して小銃や機関銃を撃ち合うだけの作品も多いが、やはり�狎鐚岫瓩�登場しているといないとでは、興行宣伝的にも大きく影響がありそうだ。�狎鐚岫瓩箸いΝ牴�物�瓩�スクリ−ンに登場し、人々の幸せな暮らしを踏み潰し、立ち向かう人間たちを嘲笑うかのように威容を誇る姿・・・それに様々な手段で対抗する人間たち・・・対戦車兵器や航空機、そしてまた�狎鐚岫畆�身。海外の戦争映画では数多くの戦車にお目にかかれる・・・軍隊の所属車両や個人・団体によるコレクション車両等々。しかし邦画ではどうだろうか・・・戦後製作された戦争映画や一般作品で思いつくものを挙げてみると・・・。
戦車の登場する主要戦後公開邦画戦争映画作品※特撮は除く
1953 沖縄健児隊(M24戦車)
1958 二等兵物語/あゝ戦友の巻(M4A3戦車)
1959 人間の條件/第四部戦雲篇(M4A3戦車)
1961 五人の突撃隊(M24戦車)
1962 太平洋戦争と姫ゆり部隊(M24・M4A3戦車)
1963 独立機関銃隊未だ射撃中(模型ダミー戦車�爍複�-2?��)
1964 馬鹿が戦車でやって来る(改造ダミー戦車�犇綵住夕扱攸�甲車?��)
1968 ああひめゆりの塔(61式戦車の足廻りのみ)
1970 喜劇 右向けェ左!(M24・M4A3戦車)
1970 激動の昭和史 軍閥(M41戦車)
1971 戦争と人間/第二部(改造ダミー戦車�倏麓�戦車&九十五式軽戦車?��)
1971 激動の昭和史 沖縄決戦(M4A3・M41戦車)
1973 戦争と人間/第三部完結編(T34/85・改造ダミー日本戦車��)
1978 野生の証明(米軍M48orM60戦車)
1979 戦国自衛隊(改造ダミー�爍僑閏粟鐚岫�)
1982 大日本帝国(M41戦車)
1988 ぼくらの七日間戦争(改造ダミー�爍僑閏粟鐚岫�)
1989 2/26(改造ダミー戦車�犇綵銃鷦綾伝�甲車?��)
1990 マドンナのように(74式戦車)
1993 動乱/第二部 雪降り止まず(改造ダミー八十九式中戦車)
1993 僕らはみんな生きている(タイ陸軍M41戦車)
1994 右向け左!自衛隊に行こう(74式戦車)
1994 最後の弾丸(マチルダMk�鏡鐚�)
2000 守ってあげたい(90式戦車)
2001 アヴァロン(ポーランド軍T72戦車)
2001 ムルデカ17805(改造ダミー戦車�爍唯碍收鐚屐���)
戦後公開された邦画戦争映画は300本以上・・・それから考えると、僅か一割にも満たない作品数。海戦や空戦を描いた作品は、お家芸である円谷プロに代表される特撮技術を駆使し、戦闘シーンと俳優の演技場面の合成によって、優れた作品が多数製作された。しかし同一カメラフレーム内で、戦車と俳優が登場する場合が多い陸戦作品では、ミニチュアでは誤魔化せない・・・やはり実物大の可動戦車が必要となる。しかし日本国内では外国為替及び外国貿易法によって�犒慨蓮Σ佶ぁΦヾ惱董�戦車・・・等の兵器�瓩詫�入禁止、また武器等製造法によって�牴弍衒�射機や銃砲を搭載する構造を有する装甲車両で無限軌道装置により走行する物�瓩僚衢�は禁止。民間での可動�狎鐚岫瓩僚衢�は不可能なのだ。それ故、必然的に�狎鐚岫瓩鮟衢�する公の機関・・・自衛隊に頼らざるを得ない、と言う訳だ。

自衛隊の撮影協力と撮影制限の壁
1954年『ゴジラ』撮影時に海上保安庁が撮影協力・・・したのを最初に、3年後の1957年『地球防衛軍』では自衛隊が撮影に協力する。これは60年安保を控えた時期に、国民に対し存在をアピールしようとした表れではないか。以後自衛隊による特撮・戦争映画への協力、更には自衛隊自身を描いた作品製作・・・主に航空自衛隊・・・が盛んに行われる。特に特撮映画は未知の怪獣(敵)から国土を防衛するという、自衛隊の大義名分を顕著に具現化している。しかし撮影に際しては、自衛隊から様々な制限が科せられた。アメリカのSF映画では巨大な正義のヒーローは殆ど登場しない。それはアメリカの軍隊は常に強いから。ところが自衛隊は軍隊ではない・・・今のところそういう事になってる・・・したがって怪獣をバッタバッタとやっつける程、強すぎる訳には行かない・・・邦画特撮映画では、正義のヒーローの活躍でジ・エンドとなる場合が殆ど。しかし自衛隊にも面子がある。護衛艦や戦闘機は簡単に撃沈・撃墜されては困る・・・高い税金をかけて造っている兵器が簡単にやられては遺憾、という訳(でも戦車は特撮では結構直ぐに撃破されるが)。それに戦争映画では殆どの場合、敵戦車役で登場する。慌てふためいて逃げ惑う自衛隊員の姿は絶対NG。こんな様々な撮影制限に苦労しながら、邦画戦争映画や特撮映画は作られていた。ところが安保時代を過ぎ、左派政党の発言力が増してくると、自衛隊存在批判の増長と共に、自衛隊の映画撮影協力が国会で問題視される。貴重な税金の無駄使いではないか・・・こうして70年代後半から80年代にかけ自衛隊の映画協力は激減・・・協力するにしても以前にも増して撮影制限が厳しくなった。しかし近年、左派政党の発言力も弱まり、再び自衛隊の映画製作への協力が増している。私は未見なのだが、特撮ファンの中には『ガメラ2』を自衛隊の広報映画という方もいるし、また『右向け左!』や『守ってあげたい』の様に、自衛隊員自身を描いた全面協力作品も大手を振って製作されている。しかし相変わらず制約は根強く残り、自衛隊員が民間人を殺傷する設定や自衛ではなく侵略をイメージさせる設定は未だに御法度だ。邦画戦争映画に登場した�犲�衛隊戦車�瓩燭舛砲蓮△海Δ靴浸�代の流れや数々の御法度が常に付きまとっていたのだった。しかし自由な表現を追い求める映画人たちは、これらの制限に囚われない作品の製作を試みる・・・もっと思い通りにスクリーンの中で戦車を走らせたい・・・と、いう訳で(オイオイ今までは前振りかよ〜)邦画において制限に囚われなかった�狎鐚屬療仂譴垢觝酩吻瓩鬚款匆陲靴茲Α�それでは開演《開演ブザー》。いつものように携帯電話の電源はOFFにして。【恒例/この記述には資料的価値はない】

『馬鹿が戦車でやって来る(1964)』
1964年に公開された『男はつらいよ』シリーズの山田洋次監督、クレージー・キャッツのハナ肇主演による�倏麓�三部作(他に『馬鹿まるだし』『いいかげん馬鹿』がある)��のひとつ。因みにタイトル中の�狎鐚岫瓩廊爐擦鵑靴祗瓩任呂覆��爛織鵐���と読ませる。数々の邦画音楽に足跡を残す巨匠団伊玖磨の書き下ろした「日向村物語」を原案として、架空の農村�狷�永村�瓩鯢饌罎法�地主仁右衛門(花沢徳衛)と小作人サブ(元少年戦車兵/ハナ肇)の土地の境界争いに端を発したイザコザが、村人を巻き込んだ大騒動となる。村人たちに馬鹿にされ怒り心頭に達したサブが、終戦のドサクサに紛れて少年戦車兵学校から持ち出した戦車・・・将に豆タンクを駈って、ところ狭しと暴走、地主や村会議員の屋敷を蹂躙し捲る。山田洋次監督曰く、この主人公サブのキャラクターは、後の�狷劼気鶚瓩慮凝世世箸�・・・。日本的�爛爛薛畆匆颪琉�襲を、強烈な風刺コメディタッチのストーリーに織り込み、障害に対する偏見や差別を痛烈に批判した(現在では放送禁止用語満載の)山田洋次監督の初期代表作だ。登場する戦車は�牋υ�八十七号��イメージ的には旧陸軍の九十四式軽装甲車の様に思えるが、砲塔には小口径砲を搭載し、さらに九十七式中戦車の如くアンテナフレームの様なものが取り付けられているし、車体後部には八十九式中戦車の様な超壕装置っぽいものまで付いている。�牋υ↓瓩覆鵑凸唄峺デ室嵶召量樵阿�付けられていて、よくよく考えてみれば、日本の戦車の特徴を充分具現化・・・まるで絵に描いたような、将に戦車らしい�爛織鵐���なのだ。しかしまぁ、この戦車良く走る。元は何なのか・・・一説にはブルドーザーを改造したものだ、と言われていたが、調査の結果、どうやら雪上車を改造したものだと言う事が解った。しかしそれだけでは観戦武官諸士は納得されないだろう・・・そんな事は、既に皆さんご存知で1へぇの価値もない・・・。と言う訳で、我が戦争映画観戦記としては、もう一歩深く踏み込んだ調査を行い、ここにその結果を報告する運びとなった・・・。※因みに九十四式軽装甲車が大活躍する作品として『将軍と参謀と兵』が超オススメである・・・包囲された師団司令部を救援する為、西部劇の騎兵隊宜しく師団捜索隊所属車両が敵砲火の中を突っ走る姿が最高!
�〔瓦了絢粟鐚崕弍�・・・
実は、この映画が企画されていた時、土浦の陸上自衛隊武器学校に陳列されている三式戦車の可動復元計画が進められていた。米軍から払い下げられた三式戦車に、三菱の工場に残されていた統制型エンジンを搭載・修理して、可動状態に戻そうという計画だったらしい。当時の武器学校長が強く推進し、かなりの段階まで計画が進んでいた様だ。山田洋次監督が『馬鹿が戦車でやって来る』の撮影の為、動く旧軍の戦車は無いか、という話を戦車研究家の竹内昭氏に相談したところ、それじゃという事で武器学校の話を教えてもらったそうだ。山田洋次監督は早速武器学校に連絡を取ったそうだが、時既に遅し・・・その復元計画を推進していた校長が異動となり、新しく着任した校長は経費削減から三式戦車復元計画を中止・・・エンジンは廃棄され、また部品の幾つかも紛失されてしまい、計画は夢と消えてしまった・・・との事(以上:大日本絵画刊アーマーモデリング誌第3号に掲載されている記事がネタ元だが、当該文章については内容未確認)。もし三式戦車復元計画と映画出演が実現していれば、実車の三式戦車が走り廻っているという、将に軍オタ垂涎の邦画作品となっていたかもしれない。しかしATF的には、物々しく力強そうな三式戦車・・・軍国主義の恐怖の象徴・・・よりは、愛すべき豆タンク愛國八十七号(以下:馬鹿戦車)の方が、この映画のキャラクター的には充分正解だったと思える・・・。まだ八十九式中戦車だったら納得もできる設定ではあるが!(追記・・・この土浦武器学校の八十九式戦車も昭和50年代までは走行可能な状態だったとか・・・涙)
��馬鹿戦車の正体・・・
さて前述の如く、映画に登場させる為に本物の戦車・・・しかも旧日本軍の・・・を探していた山田洋次監督だったが、目当ての三式戦車が駄目になった為、自衛隊に戦車を借りる事も考えた様だが、これも実現不可能・・・国民を守る為の自衛隊の戦車を、国民を追い掛け回す様な役で登場させる訳にはいかん・・・って事らしい。結局製作スタッフからの提案もあって、撮影用に戦車を作る事となった。戦車のもっとも戦車らしいところは、何と言ってもあの�爛�ャタピラ��である。こればっかりは普通の乗用車やトラックを改造しようにもどうにもならない・・・グラスファイバー製の車体を被せるならまだしも・・・一から戦車を作ろうにも、それだけの技術はない(後に「戦国自衛隊」では実現・・・)となると、元々キャタピラを使っている車両を改造するしかない・・・当時映画製作の予算はたんまりあった(当時・・・今から約40年前で2500万円)のでブルドーザーを改造して戦車を作ろうという案がまず上がった様だが、山田洋次監督はストーリーの設定上、村人たちを追い廻すだけのスピーディーな動きを要求したそうだ。ブルドーザーでは馬力は出るが、懸架装置などがないので、とても軽快な動きは出来ない。でブルドーザー改造案は却下・・・本物の戦車以外にキャタピラで軽快に動ける車両・・・東北の豪雪地帯出身のスタッフがいたかどうかはわからないが、思いついたのが南極観測や豪雪地方で活躍していた�狎秕綣岫�だった訳。結局あの馬鹿戦車・・・新潟県かどこかの豪雪地帯で使用されていた民間の雪上車を改造して製作された物だという事が判明した・・・ってそんな事も既にみんな知っとるわい・・・お怒りは御尤も。それじゃと言う事で、もっと気合を入れ直して調べてみた・・・。
��ベースとなった雪上車の正体・・・
そんじゃベースになった雪上車って一体どんな車両なのか・・・。ネットを駆使して調べる事数週間!実にありがたい事に、現在日本で本格的に雪上車を製造(改造は除く)している企業は一社しかない。その企業とは大原鉄工所という新潟県長岡市に本社のある企業。以前はフォークリフトで有名な小松製作所・・・現小松フォークリフト��・・・なんかも雪上車を製造していたようだが、今ではこの大原鉄工所一社だけの独占業種となり、日本の南極越冬観測隊や陸上自衛隊寒冷地用の雪上車を一手に手がけているのだそうだ。この大原鉄工所が雪上車の分野に進出したのは昭和26年。新潟県庁幹部から、豪雪に閉ざされる冬期の交通確保の為の雪上車の開発が、当時唯一の地元資本機械製作メーカーであった大原鉄工所に依頼された。時の大原鉄工所の専務であった上村氏は、進駐軍の兵士が使用していたウィーゼル水陸両用車を参考とし、また新潟県からの補助金と旧軍戦車の資料(「戦車工学」)を基礎資料として、全くの零からの雪上車開発に着手した・・・履帯の強度、車体重量(接地圧)など様々な欠陥や問題点を解決し、幾度とない試行錯誤を繰り返し、昭和30年に漸く雪上車の実用化に成功する。現在では全国のスキー場で使用されているゲレンデ整備用の雪上車の約5割も、この大原鉄工所製の車両なのだそうだ。さて問題の馬鹿戦車のベースとなった雪上車だが、どうやらこの大原鉄工所が昭和28年に開発したKC40型という雪上車ではないか・・・という事に辿り着いた。
�ぢ膰凝換�所製KC40型雪上車・・・小松製作所製六十式3トン雪上車
このKC40型雪上車だが、実は陸上自衛隊用の寒冷地車両として開発された小型雪上車である。陸上自衛隊での試作時の名称は五十三式雪上車と呼ばれていた。ところが前述の如く、この当時まだ小松製作所でも雪上車を製作しており、このKC40型・・・五十三式雪上車(一部改良が加えられ五十八式雪上車として約60両が生産された)は、小松製作所でライセンス生産される事になる。この小松製の車両は小松六十式3トン雪上車と呼ばれ、昭和36年〜52年までの期間、合計400両以上が製造された。まぁ小松製作所の方が、元々技術や生産ラインを持っていたので大量生産し易かったのかもしれない。大原鉄工所の方では、民間仕様としてのKC40型を70両ほど生産する(小松製作所は、何故かこの六十式雪上車を最後に雪上車部門から撤退、以後大原鉄工所が日本における雪上車のオンリーワン・メーカーとなる)。さて、この六十式3トン雪上車の画像をネット上で探したのだが、結局ハッキリ映った写真は発見出来なかった。しかしこちらの大原鉄工所のサイト中の雪上車開発50周年記念のコンテンツの中で、民間用KC40型と自衛隊試作型五十三式雪上車の写真と動画を観る事が出来る。馬鹿戦車は、この大原鉄工所が開発した民間用KC40型雪上車、或いは自衛隊用六十式3トン雪上車が民間に払い下げられて使用されていた車両をベースとして、撮影用に改造された車両だと思われる。因みに六十式3トン雪上車の写真は発見出来なかったが、陸上自衛隊が採用した時の六十式3トン雪上車正式採用要綱と六十式3トン雪上車平面図は発見できた。転輪や懸架装置、エンジンや操縦機構の配置が良くわかり、改造された�牋υ�八十七号�瓩瞭睇�配置の様子が想像出来る。ビデオを観直して確認し直したが、足廻りの懸架装置や転輪配置も間違いない様だ。
�デ麓�戦車のその後・・・
この『馬鹿が戦車でやって来る』撮影後の�牋υ�八十七号�瓩里修慮紊両誕�は、ネット上からでは知ることが出来なかった。多分製作映画会社である松竹の大船スタジオの倉庫に保管されていたと思われる。ところがそれから6年後、この馬鹿戦車、再び姿を現すのである・・・なんと異なる映画会社の作品に・・・!その作品とは、日活が製作した大作映画『戦争と人間』・・・この『戦争と人間』は日活が社運を賭けて製作した大作である。新興財閥伍代家の人々を中心に、次第に軍部の暴走によって大陸での戦火が拡大していく昭和初期当時の社会を描いた日活スター総出演の一大歴史絵巻かつ大河ドラマ・・・の筈だったが興行的に奮わず、資金難の為に全四部のはずが第三部(1973)で製作が打ち切られてしまった曰くつきの作品(この後日活はロマンポルノ路線へと移行せざるを得なくなる)。無理やり完結編になってしまった第三部の後半は�爛離皀鵐魯鷸�件�瓩�メイン・テーマ・・・当時、戦闘シーン撮影の為、陸上自衛隊に協力を要請したところ断られ、ダメもとで旧ソ連のモス・フィルムに撮影協力を要請(山本薩夫監督が左翼系だった為)したら呆気なく許可され、旧ソ連軍から実車のT34/85や火砲、大量の兵員が撮影に借し出された。更に業々ソ連製軽戦車を改造した日本軍戦車を登場させる、と言った将に至れり尽せりの豪華な戦争映画として仕上がってはいるのだが、映画として作りが雑になっているのは認めざるを得ない・・・そうそう馬鹿戦車だが、この戦争映画している第三部ではなく、第二部(1971)のラストシーンにちょこっとだけ登場している。ちょうど昭和12年の�珸湛其胸�件�瓩慮紂�日本が中国での泥沼な戦争に踏み込んで行き始めるのを予兆させるシーンで、突撃する日本軍歩兵の先頭を切ってゴトゴト走っている。ところでこのシーンにはもう一両戦車が登場している。その形状からするに、どうやら九十五式軽戦車を意識している様だが、足回りはどう見てもブルドーザー・・・懸架装置なんて見えない。果たしてこの戦車の正体は・・・?この『戦争と人間』の撮影は日活のスタジオで行われていたそうで、馬鹿戦車がそこに持ち込まれた事は確かである。しかし松竹で製作された馬鹿戦車が、どう言う経緯で日活へと移ったのだろうか・・・単なるレンタルなのか、それともスクラップとして譲与されたのか(充分動いているが)・・・たった数分間のシーン・・・実際の撮影はもっと長時間かかっている筈・・・の為に、態々馬鹿戦車を買い取ったのか・・・ネット上で検索し得た情報だけでは、それは解らなかった。この辺の事情をご存知の方・・・激しく情報キボンヌ!それと馬鹿戦車がその後どうなったのか、そしてあのもう一両の戦車の正体は何なのか・・・秋の夜長に謎は益々膨らむばかりである・・・。

名作『馬鹿が戦車でやって来る』のお話、如何でしたでしょうか・・・紋切り口調で話が纏まってないぞ・・・そんな観戦武官諸士のお怒りの声が聞こえてきそうですが、書込字数制限故の処置として、平にご容赦の程を・・・そんな訳で懲りずに�狎鐚岫瓩里�話を【まだまだ続けます】

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