北東崎鳳凰−記録帳
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| 2002年01月14日(月) |
普段と違うもの、そして普段以上の発想にか?(笑 |
般若心経FLASH ・・・(゜◇゜)
http://leafmania.tripod.co.jp/flash/oharai.swf
・・・いや〜、こんなん見られるとはね。 世の中まだまだ広いわ。(゜◇゜)
移動について考えてみるも、とあるヒントは二通りは思いつきます。 気象学、境界の2つですな。 風呂に入りながら、般若心経でもBGMにしながら、ちと思いついたという。 風呂は風呂。風呂でこんなんBGMにはしていません。(^_^;)
大気の移動は、切れ目無く、地球全体を循環している・・・ そこに自然全体の事象移動のモデルを見出すものです。 まぁ、自然全体の方が奥は深いかもしれませんな。しかし、予測のし難さなら 結構類似するものがあると見ます。 地球の表面にいて、地球の表面で認識できる事象しか知らない・・・ 事象の認識についても似たようなことが言えそうです。ほんの表面程度しか知らないとね。
あと、事象は何も無いところでは基本的に発生せず、境界の上で発生するというのも ヒントに。 アインシュタイン・ロマンで思い出しましたが、「ゲーテの色彩論」でも 同じようなことを言っていましたな。色が見えるのは、 境界線上にて見えると。そんなとこだったかな。 循環する区域で、境界線上にて発生する事象が、色々な変化を受けることで 移動しているように認識できると言う事になってきますか・・・。
あとは、初期条件やら、後付けで別事象を加えたりすることで どう影響するかなど。最も単純な条件下に置いたところで、 どういう振る舞いを示すかも多いに興味は有りますな。
光の速度が光速度で定義される定数というのも いまいち納得行きません。アインシュタインの発想とは言いますが、 その発想がいつまでも真実かどうかは不明ですしね。 循環・境界から光の速度が移動に必要なパラメータとして出てくる 必然性があるのか、あるいはまだまだ低次元の科学理論による 粗近似の副産物に過ぎないのか・・・まだまだですな。
自分自身について知り、地球自身について知ることが 自然全体を知ることに繋がってきましょうか・・・。有無。
確かに・・・移動し無ければ事象が認識できませんな。 光を当てて「見る」、分子の衝突で聴く・感じるなど 人間の5感からして、事象の移動無しには成り立ちません。 それに、方程式にするにしても、何も移動無しなら ほぼ無意味な恒等式が漠然と出てくるだけでしょうしね。
ここで指が動くのだって、キーを叩くのだって、 移動できるからこそですしね・・・。
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