もへんじょ=だろの不定期更新日記
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2015年07月19日(日) 夏の琵琶湖だぜ!

ストレス溜まりまくってたから今日は弾けて遊ぶぜーーー!!!
(過去日記参照)



3連休の中日だけど、知った事かと旅に出る!!


メンツは俺、ゲレゲレ、キタイの3人!!
本当はコチヤも参加予定だったが、お祖母ちゃんが亡くなったそうで
不参加です。

ご冥福をお祈り申し上げます。






さて
行き先は琵琶湖!
夏だぜ〜
湖だぜ〜〜!

ゲレゲレ車で1時頃に我が家に迎えに来て貰い出発♪



家に着いた時点でキタイが助手席でゲレゲレ車のシートの革の匂いで
盛大に酔ってます(汗)



ま〜それ以外(ヲ)は順調に進み、東名も全然空いていてラッキー☆



ゲレゲレの運転で順調に進み、俺は後部座席で爆睡(笑)



ゲレゲレが最初のSAに立ち寄った時に、トイレに行こうと
思ったのですが、迷っている間にゲレゲレが戻って来てしまったので
次のSAまで我慢です(汗)





で、次に停まった愛知県の上郷SAでゲレゲレに遅れて俺も
下車してトイレへ!

助手席でくたばっているキタイに一応「俺もトイレに行って来る」と
告げてトイレへGOです。


トイレではゲレゲレに会えずに「すれ違いか〜」などと呑気に小便を
してから車へと戻ります。

建物の中を通ってトイレから車に戻っていたのですが、車の近くまで
戻って来た辺りでやっと車に乗り込むゲレゲレを発見出来ました♪

こんなに人が居ない深夜のSAででもすれ違う時はすれ違うもんだよな〜
と思って歩いていたら








ゲレゲレ車急発進!!





え!?



慌てて走ります(汗)











そのまま軽快にかっ飛ばして走り去っていくゲレゲレ車・・・




俺は走った時に壊れたサンダルを持ったまま











大爆笑!(マテ)



いや、だってもうね、笑うしかないだろ(笑)



しかもカバンも携帯も車の中って言う奇跡☆




一応、財布は持っていたので、公衆電話を探して自分の携帯へと
電話を掛けます(笑)


ま〜繋がらなわな(苦笑)




もうこっちは開き直って、9時までに連絡が付かなかったら
SAを降りて近所で遊んでから帰ろう♪とSAで近所の観光地の
情報を集めながらコンビニでお菓子買って食ってました(爆)


で、10回目くらいでやっと携帯が繋がりました



「あ〜もしも」
キタイ『先輩ですか!?先輩ですか!?!?今何処ですか??
申し訳ありません!!!何処に居ますか?本当に申し訳ありません!!』



あーまずは落ち着け(汗)




どうやら車内では
次のPA付近で眠くなったゲレゲレがPAに入り停車。

で、椅子を倒すのに後部座席の俺に「倒すよ」と聞きながら
座席を倒したところ・・・・・・・・



テンパり、トランクまで開けて俺を探したそうです(マテ)
で、キタイを叩き起して2人でテンパったそうです(笑)


その後、一旦高速を降りて来た道バックしつつ俺からの電話を待っていた
そうで・・・


連絡がついた後、SAで朝飯を食ってコンビニで立ち読みして
彼らの到着を待っていたら、スゲー速度でSAに入って来た
横浜ナンバーの車がいて、まずはそこで1笑い(笑)

で、コンビニに入って来たゲレゲレとキタイが汗だくでテンションが
おかしな事になっているのを見て2笑い(爆)

エアコン効いていた車内にいたはずの2人の服が汗でビチャビチャに
なっていたので3笑い!!



いや〜朝から笑った笑った!!(笑)

結局、次のSAで力尽きたゲレゲレから運転を代わり
その後は特に問題もなく現地に到着です(笑)


滋賀県『瀬田城址』
本当は『瀬田の唐橋』だけを見に来たのですが、近所に石碑だけ残って
いるとの事だったので序でに見てきました!

そもそも、この瀬田という場所は昔から超重要な場所で、
近代になるまで東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、
琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から
流れ出る瀬田川を渡る必要がありました。
瀬田川にかかる唯一の橋であったので瀬田の唐橋で、まさにこの橋は
京都防衛上の重要地であったことから、古来より
「唐橋を制する者は天下を制す」とまで言われていました。

この橋に関わる歴史上の事件だけでも
平安時代では「治承・寿永の乱(源平合戦)」で1183年の
源義仲対平家。
1184年に源義経対義仲。この合戦で京都防衛側が橋板を外して
防衛をした記録が残ります。
鎌倉・室町時代では「承久の乱(1221年)」、後鳥羽上皇の京軍
(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房
率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
「建武の戦い)1336年)」、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が
瀬田川を挟んで交戦。
「本能寺の変〜天王山の戦い」唐橋を現在の位置に移したのは織田信長
だと云われています。
架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたと記録が
あります。
明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、景隆は光秀が安土を攻めようと
したため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。

他にも「藤原秀郷の大ムカデ退治伝説」の舞台になった橋としても
有名で、まさに歴史に名を残すに相応しい橋です!


現在は木造の橋ではなく、昭和54年に作り替えられたコンクリ製の
橋で普通に車も橋を通れます。
しかし橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」
などの銘が入ったものも現存しています。
見掛けも木造っぽい古い外観をして作られていて、ま〜雰囲気があって
良かったです♪

で、この橋の防衛としてだと思うのですが築城年代は不明(汗)
一説によると甲賀出身の山岡氏が築き、南近江を支配下に置いた
六角氏に臣従。
六角氏が織田信長に滅ぼされると織田家に仕えます。
信長が明智光秀に本能寺で討たれると、光秀の誘いを断り織田に義理
立てし安土に迫る明智軍の足止めをする為に橋と城を焼いて時間を稼いだ
と云われています。
その後は廃城になり、復興することなく消えたそうです・・・


さて、コンビニで軽く朝飯を食った後(俺以外(笑))
コンビニで食い物系が全然品切れで売っていなくて
結局、道すがら出て来たマックで朝マック♪





さて、これより本日のメイン!
島に渡ります!!

目指すは沖島
琵琶湖に浮かぶ島で、過去に訪れた竹生島(過去日記参照)とは
違って普通に人が生活している有人島。
しかも(当たり前だが)日本で架橋されていない唯一の淡水湖上の
有人島です!!

すぐに船に乗るつもりで本土?から島への玄関口である『堀切港』
を目指したのですが、そう言えば今日は日曜日で船の便も土日シフト!

・・・・90分待ちか〜(汗)


ただ待っているのも嫌だったので、近所の『能登川水車村』に行きます!
かつて能登川では、水車が精米や製粉に活躍しており、一時は36基も
あったのですが今では全く姿を消してしまったので、その歴史を
後世に伝える為に復元された直径13mの大水車を見学して来ました♪

我々は水車だけ見てマッタリとしたかったのですが・・・・


この日は川に併設するカヌー施設で、カヌーの大会がやっており
煩いは混んでいるはで全く時間を潰す事が出来ずに、水車を見たら
即時撤収する羽目に(涙)

結局、最寄りのコンビニで立ち読みしていました(苦笑)



20分前くらいに駐車場から船着場へと移動。
船着場の蒸し暑さに耐えながら、野生の誇りを完全にパージした
人懐っこい野良猫と戯れて遊びます(笑)

船に乗って15分くらいで沖島側の玄関『沖島港』へ到着です。
島内は狭く、車なぞ100%不要!!
なので島民は1家に1台車。では無く1家に1隻船が常識だそうです(笑)


しかし、船で15分なのに片道船賃¥500は高いと思う
しかも駐車場代は別途¥500だし(怒)


ま〜料金設定には色々と思う事はありますが、気を取り直して
島内の散策です♪

『琵琶湖』に浮かぶ島。

分かっていたのに、島必須の
・潮の香りがしない
・波音が聞こえない
・フナムシがいない

何て言うか、一度気が付いてしまうと凄い違和感でした(汗)


島民は300人前後との事ですが、1.52平方キロメートルの
小さい島の大半が山や岩場なので、狭い範囲に家々や通路が密集して
いて全体が迷路の様でした!
島の歴史は、保元・平治の乱(1156〜1159)による源氏の
落武者7人がこの島に逃れて来て、山裾を切り開き漁業を生業とし
居住した事に始まると云われています。
その後、戦国時代から琵琶湖水運の重要拠点として栄え、豊臣政権の頃
まで関所があり水上の拠点になっていたそうです。

突然の俄雨に降られながらも迷路の様な島の中を進んで行き、何度も
迷子になりながらも何とか見つけ出した『奥津島神社』をまずは参拝。
和銅5年(712年)に勅命を蒙った藤原不比等によって創祀されたと
伝わる古刹!
島の家々を見下ろせる高台の上に建っているので見晴らしが良くて
景色が最高でした♪

更に迷子になりながらも見つけ出した『西福寺』を拝観!
7人の落武者の一人、茶谷重右衛門の末裔が本願寺第8代上人の蓮如に
帰依し庵を建てた事に始まる寺院です。
寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号と正信偈が残されているそうです。

沖島の住人西居某が蓮如上人に帰依し、法名を釈願證と授けられ建立
したと云われる『願證寺』も探し出して拝観して来ました!(笑)


後は帰りの船の時間まで港でマッタリと潮の香りが全くしない
風を感じながら景色を眺めながら時間を潰します・・・


島から戻り、後はもうオマケ状態(ヲ)
折角なので超久しぶりに彦根城でも見るか!って事で彦根へ移動します。

まずは『宗安寺』
徳川四天王の武将といわれる井伊直政の正室東梅院の父母の菩提を
弔うため上野国箕輪に建立された安国寺をこの地への井伊家の栄転を
機に移転&安国寺から宗安寺へ改名されました。
朱塗りの門があることから「赤門」 と呼ばれる山門が目印です。
本尊の阿弥陀如来は夏の陣の際に大坂城より持ち出された淀君の念持佛。
江戸時代には朝鮮通信使の宿となり、歴史的にも盛り沢山な寺です♪
因みに赤門。佐和山城大手門を移築した物と云われており、貴重な
佐和山城の現存物です!!

さて、凄い久しぶりに『彦根城』を訪れました・・・



行きの高速も、下道も今までの観光地?も、そこまで混んでいなかった
のですっかり忘れていたよ・・・
今日は日曜日じゃん
流石は国宝天守閣

駐車場から超混雑(汗)


しかも天気もガッツリと回復しちゃって炎天下だよ・・・


井伊家15代270年の居城
遺構は天守(国宝・三層三階の層塔型)、太鼓門・続櫓、西の丸三重櫓、
天秤櫓、廊下橋、二の丸佐和口多聞櫓、二の丸厩長屋、 石垣、水堀
が現存して綺麗に残っており、更に復元物とは言え表門口に表御殿まで
建っている見所満載の城です!!

江戸時代にこの地を治めた井伊家が佐和山城や長浜城などの廃城になった
城の建材を再利用して築かれた城で、大阪を警戒した徳川幕府による
警戒線の最重要ポイントと同時に交通の要所でもあったこの地を重臣で
ある井伊家に任せました。


いや〜天守閣
入場規制がかかってるよ(汗)



・・・・興味が無い奴は邪魔だから来るなよ!
薄暗い天守閣に50人くらい押し込まれて、煩いは全然進まないは
蒸し暑いはで危うく逝きそうになったぜ!!(怒)


城を見て回った後は二の丸に作られた『玄宮園』なる庭園を
見学です!
城は何度か見に来た事がありますが、実は庭園の方は初です(笑)

城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘八景にちなんで選ばれた
近江八景を模して造られたそうです。
4代藩主直興が延宝5年(1677年)に造営した云われています。
池泉回遊式の庭園で「蓬莱山」「武蔵野」「魚躍沼」など園内各所に
名前がつけられたポイントでは絶景が楽しめ、特に池を囲む木々や草花、
抜ける様な青空。立派な日本家屋。そして池に映るそれらの風景が特に
美しく、更に小高い山の上には先程見学してきた彦根城天守閣が景色に
更なる美しさを与えてくれます!!


いや〜・・・・・・・・・・・・・・暑かった(ヲ)


景色を見ながら、あまりの炎天下で頭頂部がジリジリして危うく
昇天するところでした(汗)


庭園見学で炎天下の下、ギリギリまで粘って隅々まで見学して
体力を使い切ったので、庭園から駐車場までの道のりがハンパなく
キツかったです・・・(涙)


車に戻り、エアコン全開で癒されます・・・

暫し涼み、回復してから本日最後のポイントへ移動です。

『宮部神社』
戦国時代、湯次神社の社僧宮部継潤が、寺を要塞化して浅井長政の
家臣となりました。
=城址です(笑)

しかし、継潤は、1571年(元亀2)、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に
勧められて織田方に寝返ります。信長は小谷城攻めのために宮部城を
改修し、宮部から浅井本拠地への軍道を開いたと伝えられています。
その後、継潤は秀吉に従って各地を転戦。
1581年(天正9)、秀吉の因幡鳥取城攻めで手柄を立て、鳥取城に
移る事になり、その際に宮部城は廃城とされました。
跡地は現在宮部神社となっていて、遺構は殆ど残っていませんが
唯一太鼓橋が架かる用水路は堀の名残とされています。


そろそろ夕暮れ時
ま〜既に時刻は18:00頃ですが、外はまだまだ明るいです♪



帰路は流石に行き道よりは混んでいました(涙)
途中のSAで晩飯を食ったり土産を買ったりしたのと
御殿場からの渋滞に激ハマリしたせいで伊勢原着が23:30

最後に近所のTSUTAYAに寄って買い物&会費の精算をしてから
我が家にて解散です!

最後の渋滞さえ無ければ23:00前には余裕で帰宅出来たのに!!



ま〜今回の旅は色々ありました〜・・・

特に行き道からクライマックスでしたね〜(爆)

いやいや、無駄に朝から時間を使ってしまいましたが滋賀くらいの
近距離イベントで良かったよ(ヲ)
これが中国地方とか東北地方の北部へのイベントだったら、流石に
あれだけタイムロスしたら計画が大きく狂って大変だったからね(汗)

ま〜何はともあれイイ経験をしました!
・・・・特に2度目を経験はしたくないですがね(笑)


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