一人称と小説を書くことと影響を受けたままに考察
影響の元は「ダンボールボートで海岸」。 自分は酷く影響を受けやすい人間です(形は直接的行動でも小説でも映像でもなんでも構わず)。影響を受けやすいと言うのを、その対象の主張に完全に迎合するものと取られても困るので、注釈を加えるとするのなら、感情だの方向性だのを誘発されやすいのです。それを迎合と言うのだと言われたらそれはそれで困るのですが、。 主人公は自分を「僕」と呼ぶ少女と女性の中間点。この一人称「僕」を多用していた頃がある。たまにこの日記でも使用。多分最近は「自分」が多い。ということでつらつらと理由を考えてみる。「女である自分を認められなかったので」。はっはっは。文字にすると何か違う気がするのは表現力と伝達能力の不足でありましょう。過去のことを書くと、小さな小さなエピソード(例:小学校のクラスにおける仲間意識と「みんな」という言葉の解釈)から始める羽目になって面倒だから却下。今平気なのは、大してそれが大きな問題でないからです。これもなんか誤解受けそうな表現だな。勿論性別というのは、絶対的な違いであって、それはどうしようもないのだけど、その大きさまでも絶対的ではなくて、その差が存在する分野も絶対的でなくて、それでそんなに囚われなくても、色々な会話は出来るし、勉強だって仕事だって生きていくことも出来ると言う事です。今の私は。ああ、ありがたいとまとまってないけどそんな話。 そしてもう一つ。これは直接ホンのどの部分に関わっていたかとかではなく。小説を書きたい書きたいと思っていたが、では何を書きたかったのか。幾らかの繋がった言葉は、たまに気づきたまに広いたまに呟くことは出来るし、それを更にたまに書き出してきたけれど、原稿用紙100枚を埋め(あぁ今この表現は古いのかもしれない、何キロバイトになるかもわからないテキスト文書を?)書き通し、一時的にでも終わらせることの出来る程の何かは自分の中に存在しない。ただ偶然に繋がった言葉を捨てて忘れるのは辛いので、それを書き留め書き散らす事に日々の幾分かを費やす、その行為を完全にやめることも苦痛だろうなので、続けています。いつか書きたいことが出来るでしょうか?今伝えていること以上に、見知らぬ人に伝えたいことが?僕は、今ここで届く人に伝えたいことを伝えることで精一杯でそれでもきっと足りていないです。いつか、伝えたいことを伝えたい人に伝えることが自由になったら、その時に伝えたいことが残っていたら。あるいは、誰に伝えていいかわからない思いを抱えたら。もしくは、休日に仕事を持ち帰らずとも仕事をこなせる余裕が出来たら、えぇきっとその時は。 勿論明日になったらこんなこと忘れて、何か書こうとかのたまってるかもしれません。軽いって?うん、多分軽いでしょう。一冊の本で本気で泣いたって明日には別の映画で笑うのです。影響を受けやすいってことは新しい影響を受ければ以前の影響からは冷めやすいのです。次の影響なんか問題にならないほど、世界変えてくれる影響ー望むとも望まないとも言えません。あるならば見てみたいって感じですか。どうせなら刺激的世界。寄り道が多いですが、駆け回っているのです。 珍しく「長」乱文でした。乱文はいつもか。あー本が沢山読みたいなぁ。
2004年01月22日(木)
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