白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2002年02月15日(金) 『黄落』〜親の死を望む瞬間〜

『黄落』 佐江衆一 新潮文庫 を読んだ。

還暦を迎えようという初老の夫婦が
92歳になる父親と87歳になる母親の介護の日々を描いた物語である。
人間が避けて通ることのできない
「生」「病」「老」「死」という道程の中でも
出来る事なら目を背けていたい「病」「老」「死」が鮮やかに描かれていて
読み応え抜群の作品だった。

「老人介護」などというテーマは「ありきたり」な事であり
どこのご家庭にもある問題なので
ある意味において「まったく珍しくも、なんともない物語」なのだけれど
そこは作者の筆の巧みさでもって見事にカバーされていたように思う。
なによりも私の心を直撃したのは
主人公の男性が、自分の親にたいして
「死んでくれ」と心の底から願う場面である。

親に対して「死んでくれ」とは人道に反する感情だとは思うのだけれど
じつは、私も過去に同じ感情を抱いた経験があるので
正直なところ、とても他人事とは思えなかった。

私の父はアルコール性の肝炎が進行して、脳が萎縮してしまったために
最後の8ヶ月は50代にして「痴呆症の老人」と同じ症状に陥ってしまった。
凶暴になったり、暴言を吐いたり、暴れたり。笑ったり。
もっとも、暴れるだけの力もなくなるほど病状が進んでからは
「いつもニコニコ笑っている赤子のようなオッサン」になったのだけれど。

父にはもう快復の見込みが残されていないと主治医に告げられた日に
主治医と私達家族の間で「その後の処置」につてい話し合いが持たれた。
ポイントは「どこまで延命」するのか……という事だった。
父は脳が正常な頃に「医学にしがみついて生きるなら死んだ方がマシだ」
……と言っていた事から、父の意志を尊重して
「延命はしない」という方向で治療がすすめられることになった。

本来なら病院は「病を治療する機関」であるため
まったく何もしないという訳にはいかないということで
法律的にも、保険制度的にもギリギリのラインで
緩慢に治療が進められることになった。
父の主治医は心の熱い人だったので
「病院の方針」と私達の意志の間に立って
最後まで私達の意志を貫く方向でもって尽力してくださった。
本来ならホスピスでもない限り、今の日本の病院では
「治療をしない患者」というのは受け入れられない場合が多いようなので
私はいまだに、父の主治医には心から感謝している。

私は「父の意志を尊重して」と書いたのだけれど
それには少し語弊がある。
なぜなら「延命しない」というのは父の意志でもあったのだが
私達家族……母や愚弟の意志はともかくとして
「延命しない」という事は少なくとも私の意志であったのだ。

「お父さん。悪いけど、もう死んでちょうだい」

私は心の底から父の死を願った。
良心の呵責など微塵も感じはしなかった。
そんな状態で生き続けられても困ると思った。
私にはもう治る可能性の無い父の「生」よりも
私と母や愚弟の「生」の方が大切だったのだ。

親の死を心から願うなんて人として最低の感情だと思うのだけれど
同じような経験をされた方は以外と多いのではないかと思うし
これから先、そんな経験をされる方も多いのではないかと思っている。

『黄落』という小説は、その辺の生々しい感情が見事に描かれていて
老人介護の問題云々……と言うよりも
むしろ人としてのタブーを感じてしまった人の
哀しみと、憤りと、悔恨が織り込まれた小説だと私は思った。
↑もちろん、その中には家庭内での激突や葛藤などもあったりする。

しかも、この小説には、それ以外に
「もう1つ」ピリッとしたエッセンスが秘められていたのだ。
70年間連れ添ってきた夫婦の間に秘められた
……と言うよりも「妻は夫に従うべし」という時代に生きた妻が
痴呆により、人から遠ざかっていく過程で
自分の感情を取り戻していく……という姿に
私は胸を打たずにはいられなかった。

病に臥し、老いて、そして死んでいく……

その過程は誰1人として逃げることのできない道であるがゆえに
ドラマがあり、その中で人間の「本性」のようなものが
見え隠れしてしまうのだと思った。

現在、私は恐らく自分より先に死んでいくだろう母と
「それなりの・これ」で生活している訳なのだけれど……

「お母さん。悪いけど、もう死んでちょうだい」

そう思う瞬間が来るのかも知れないなぁ……などと思いつつ
静かに本を読み終えた。
もちろん、あっさりした死に際の方もたくさんおられる事だろう。
親の死…あるいは夫や妻の死を願う瞬間など
できれば味わわずに生きていきたいと思うのだけれど
今の進んだ医学では死ぬのも、なかなか大変なようである。

突き詰めて考えてみると「何もかもがとにかく大変」で
生きている事さう嫌になってしまいそうなのだけれど
『黄落』の中には小さな「救い」が2つばかりクッキリと描かれていた。

1つは死に逝く母が息子夫婦に残していった哀しくて大きな愛。
↑その「愛」の形はネタバレになると興ざめなので伏せておきます。
もう1つは「自分の子供達には、決して同じ思いをさせない」
……という親を見送った息子夫婦の強い意志である。

大きな愛と、強い意志が「今」の世の中を作ってきたのだなぁ
……と思った。
現在ある「福祉サービス」も10年前に存在しない物も多いのだ。
もちろん、まだまだ充分だとは言えないのだけれども。

貪るように、一息で読んでしまった1冊だったが
もう1度、ゆっくり味わって読みたいと思う1冊だと思う。
「読書感想文」を書いてみたところで
今日の日記は、これにてオシマイ。



親の介護や面倒を見るのがが辛くて、ここに辿り着く方が多いようです。
参考になればと思うサイトを貼っておきます。

親の面倒をみたくない。これって法律的に許されるの?


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