気がつけば、もう20年も前の事件だったんだ、あれは。
20年前といえば私はまだ12歳で、社会の出来事になんてそれほど関心を持たない頃でした。でも、あの事件に関しては良く覚えてる。その異常性や、社会に蔓延した恐怖感や生理的な嫌悪感。詳しい事は判らないながらも、大変な事が起こってるんだという事を肌で感じていたような気がする。
正直言うと、以前は死刑反対でした。国家による殺人だと思っていた。でも、光市の母子殺害事件の報道を詳しく読むようになってから、考えが変わりました。
犯人が死んだからって奪われた命は帰ってこない。でも、何の罪もない人を何の理由もなく殺した人間が、本当に反省して悔いているかもわからないまま税金で保護されて生かされるのは理不尽だと思うようになった。死刑になる事でしか償えない罪もある。死刑になっても尚償えない罪もあるのだと。
まだほんの数年しか生きてなかった我が子を理由もなく殺され、あるいは殺す前に犯され、あるいは殺された後に死姦され、さらにその体を焼かれて遺骨を送り付けられたり、遺体の一部を食べたなどと供述された親の気持ちを考えると、死刑で一瞬で死なせてしまうなんて生ぬるいとすら思います。
宮崎勤が獄中から月刊誌に送った文章の中に、現在の日本の死刑執行方法である絞首刑を批判する文章があったそうです。
『踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである』 『それは人権の侵害にあたる』 『この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、刑執行時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる』
などと主張して、アメリカと同じ薬殺を希望していたとか。
多分、これを読んで同じように感じる人も多いと思うんだけど……何の罪もない子供を何人も殺しておいて、自分は怖くない方法で死にたいなんて、よくもまぁ図々しく言えたもんだなと。沢山の可能性を持っていた子供の未来を奪っておいて、自分の人権だけ主張できるとはどういう神経なのか。『死』そのもだけでなく、その『執行されるまで味わい続けなければならない恐怖』こそが本当の刑罰なのでは?
殺した人数と同じ回数だけ、本気で『死ぬかも』という恐怖を味わわせて、それから本当に死刑にしてもいいぐらいだと個人的には思います。自分が殺した命の回数だけ恐怖に晒される。そこまでやってもやりすぎだとは思わない。もしくは、自殺させる。手段は問わず(ただし、最近多い硫化水素ガスのように周囲に迷惑をかけそうな方法は除いて)決まった日に本人自ら命を絶たせる。
……それはやり過ぎ?
ついこの前、東野圭吾さんの『さまよう刃』という小説を読んだんですよ。あ、この先ネタバレしますので、まだ読んでないとかこれから読む予定だとか、とにかく中身を知りたくないわって方はこの先はご遠慮くださいね。
いいですね?
あの小説は、1人娘を無残な方法でレイプされて殺された父親がふとした事で犯人の素性を知り、復讐しようとする話なんですね。実際に1人は成功する。2人目を追い詰める過程で、犯人を追ってる事が警察にも知られて報道されてしまうんですが、そのニュースを見たある家族連れの会話が途中で出てくるんです。
ニュースを見た父親が 「もし自分の子供が同じ目にあったら、自分も同じようにするかもしれない」 と言うと、一緒に見ていた母親は 「私もやるけど、でもこんな方法はとらない」 と言うんです。 「やるなら、絶対に自分が犯人だって判らない方法を考えてから完全犯罪でやる。だってそんな人間のカスを殺したせいで自分のその後の人生棒に振るなんてイヤだもの」
この部分を読んだ時に、笑う所じゃないのに思わず笑ってしまいました。だって、あまりにも自分が考えてた事と同じだったので。小説の中では 「女の方が現実的で怖い」 なんて流れになってましたが、なんで男の作者がそんな気持ちが判るんだろうと、つい本気で感心してしまいましたね。
『さまよう刃』は最終的には2人目の犯人(事実上こっちが主犯格)を殺して本懐を遂げる事は出来ないんだけど、それを止めた刑事も、自問自答を繰り返すのです。主人公にこれ以上人を殺させるわけにはいかない。だから止める。でもそれは結果的に、『強姦殺人をした未成年』を守るために『被害者の親』を撃つ事になる。それは正しいのか?現代の法律では仇討ちを認めていない。だから主人公を止める事は、これ以上主人公に無用の犯罪を犯させないためでもある。それでも、少年法で守られてしまうであろう未成年の犯人を守るために、娘を無残に殺されてしまった父親を撃たなければならないのか?
もちろん、主人公も悩みます。例え復讐を遂げても、自分は救われない。それは1人目を殺した時点で判ってる。もちろん娘も帰ってこない。それでも、逮捕されれば犯人は少年法に守られて死刑にはならないだろう。ろくに反省もしないまま、捕まった自分の不運を嘆きながらいつかはそ知らぬ顔をして社会に戻ってくる。自分は犯人の人となりも、裁判の進み具合も、何も知らされないまま蚊帳の外に置かれる。被害者の父なのに。そんな事が許されていいのか?
悩みながらも犯人を追い続け、ようやく見つけた犯人を追い詰めたところで阻まれる。
そんな苦悩が描かれた小説を読み終えた数日後にこの死刑執行のニュースですよ。どうしても結びつけて考えてしまいます。
私がいつも楽しみにしてるある方の日記で、死刑とか陪審員制度の事について書かれてた時に 「被告が有罪かどうか考える時の1つの基準は、いつかその被告が刑期を終えて世の中に戻ってきた時に隣人になれるか否か」 と書かれてた事があって。その時に、例えば私なら、宮崎勤や光市母子殺害事件の犯人と同じ町には住みたくないなぁ、と。その人に再犯の可能性があるとか更正の余地があるとかも大事なんだけど、上記の方の言葉を借りるなら『その人と一緒に社会を作っていけるか』と考えた時に、どんなに寛大になろうと思ってもできない犯人(または被告)というのが必ずいるんだろうなぁ。そう考えた時に、どんなに死刑廃止が世界の流れだとは言っても、私はそれに賛成は出来ないと思ったのです。
いろんな所で言われてるけど、死刑を廃止するなら終身刑を採用しろと。どんな凶悪犯でも、死刑もなく、無期懲役とは名ばかりで長くても20年そこらで刑務所から出てきてしまうのでは恐ろしくて暮らせないと。
本音を言えば、終身刑でも私はイヤです。生涯世の中に出る事を禁じられるほどの悪人が、世間の誹謗中傷や冷たい視線も届かない場所で税金で食べさせてもらって守られて生きて行くというのが、どうしても納得できない。
死刑に犯罪の抑止効果があるかどうかは、正直言って微妙だと思います。抑制になってる人もいれば、逆に『死刑になりたいから』なんていう遠回しな自殺の手段として犯行に及ぶ人間もいるから。(死にたきゃ1人で死ね、と心から思う)
犯人が死んでも、殺された子供達は帰ってこない。遺族の気持ちもおそらく晴れはしない。ただ、ほんの少し片付いたような気持ちになるだけなんじゃないだろうか。
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