2006年12月15日(金) |
汚い自分から目をそらすな。 |
ニュースを見ていたら、ベトナムの結合双生児として有名だったベトちゃん・ドクちゃんの片割れドクさんが結婚するという報道がありました。
ベトナムでは、今でもベトナム戦争時の枯葉剤の影響で障害児(現地の人は奇形児と言っていた。日本では差別用語だけど、むしろその言葉が一番正しいような気がする)がたくさん産まれてくるのだそうです。そして、捨てられて施設で育てられていたりする。
「なんか、こういうの見ると涙出そうになるな」 ポツリと次郎君が呟きました。 「そうだね」 「・・・・・・」 「・・・・・ユウが五体満足で良かった、って」 「思うよな、やっぱり」 「でも、そう思っちゃうことが申し訳ないような気もするんだ」
切なくなります。
ユウが五体満足で健康に産まれてきてくれて、本当に嬉しい。
でも、嬉しいと思うという事は、心のどこかにそういう障害を持つ人達を『かわいそうだ』とか哀れむ気持ちがあるという事で。
障害を持つ人を差別してはいけない、偏見を持ってはいけないと教えられてきたし、福祉の勉強をしてきた分、そういった気持ちは薄い方だという自信もあります。見下したりバカにしたりする事はもちろん、心配しすぎて過保護になるようないわゆる『逆差別』の感情も特になく、ごくごくフラットな感覚でそういう人達に接する事ができる自信もあります。
でもやっぱり、ユウに(少なくとも今のところ)なんの障害もない事を喜んでしまうという事は、自分の中のどこかに、健常者である事への安心感や優越感があるという事なのだろうな、と。
障害はあるよりない方がいい。それは事実だと思います。
でも、いろんなメディアでそうした障害を持つ人達の姿を見るたびに、 「あぁ、ユウが五体満足で良かった。なんの障害もなくて良かった」 と思ってしまう。そして、そう思うたびに、自分の中の差別意識や偏見が(それが人より小さな意識であったとしても)確かにそこにある事を思い知らされて切なくなるのです。
「そう思っちゃうのは仕方ないことだよ」 と次郎君は言ってくれるし、私もそう思います。
でもやっぱり、自分やユウに障害がない事を喜んでしまう時、どうしようもない後ろめたさも感じるのです。
その後ろめたさとちゃんと向き合う事を、忘れてはいけないと思います。
自分の中にある差別意識や偏見をきちんと認める事が、そういうものをなくしていく大事なステップだと思うから。
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