| 2005年08月22日(月) |
三村一族と備中兵乱27 |
宇喜多直家の正室奈美は沼城(岡山市沼)城主中山備中守信正の娘である。沼城は平山城ではあるが、備前の中央部に位置し屈指の穀倉地帯をその領地内に抱え、国人達の垂涎の地であった。天文18年(1549)直家は若干21才で新庄山城(岡山市角山)に城を築き、主君浦上宗景の命により、浦上家の財務担当の重臣・中山信正の娘を妻に迎えた。新庄山城は備前の東部盆地を北方に見下ろすことができ、盆地の南端を抑える要害の地であったから中山信正にとってこの縁談は政略的にも都合のよいものであった。中山備中守信正は当時上道郡東部盆地の大半を領有する大身であったから、遠く京都の公家にも名前が知られているほどの実力者であった。蝶よ花よと何不自由なく育てられた妻奈美は気位が高く、なにかにつけ実家のことを自慢する誇り高き女性であった。
一方の直家は幼くして父を失い、流浪生活までして辛酸を嘗め尽くした上で成り上がってきた男だけに、名門の妻を迎えた喜びは大きく、束の間ではあったが、新庄山城で送った甘い新婚の生活は戦場往来の殺伐とした気持ちに安らぎを与えるものであった。従って気位の高い妻のわがまま勝ってな振る舞いも気に触るどころか却って、自分ももっと大身になって妻から尊敬されるようにならなければと闘志をかきたてさせるのであった。夜毎同衾して、乱れ狂う奈美の白い裸身の餅肌が桃色に変わり、切なく喘ぐ声は直家の征服感を満足させるものであった。それはまた誇り高い鼻をへし折られ、羞恥の気持ちを苛まれ歓喜の世界へ誘われるのを成熟した女体が待ちのぞんでいるという合図のようにも思えるのであった。そのような新婚生活の結果として直家と奈美の間に双子の女児が誕生した。長女を美代、次女を千代と名付けたが、二人の姉妹が11才になったとき、悲劇が発生した。
永禄二年(1559)正月天神山城へ伺候して、主君浦上宗景に年賀の挨拶をしたとき非情冷酷な命令を受けた。 「一大事が発生した。お主の舅、中山備中信正が首謀者として謀叛を企て島村観阿弥と結託しているという確かな情報が手に入ったのじゃ。この浦上宗景を亡きものにして、わしにとって替わろうという魂胆じゃ。信正は東大川と西大川とに挟まれた肥沃な穀倉地帯を領地に持っている。一方島村観阿弥は砥石城(邑久町豊原)にあって千町平野の肥沃地を領有しておりその収穫高は備前一だと言われている。この二人が提携して、備前を統一しようということらしい。お主の祖父の能家は島村観阿弥に弑いされて、砥石城を奪われたのであろう。お主の仇敵島村観阿弥とこたびの謀叛の張本人中山信正の征伐を命ずる」というものであった。
古来、内外を問わず実力のない主君は、力をつけてきた家臣達を権力闘争に巻き込みお互いに覇を競わせて勢力を消耗させ、その均衡の上に立って自らの権威を維持しようとする。無理難題をふっかけられた直家は策略を巡らして二人を倒すしかないと決意した。
直家は沼城の近くに茶亭をつくり狩猟にことよせてしばしば岳父の中山信正を茶亭に招待して供応したが、そのうち信正は城から茶亭へ遠回りするのが面倒になり、茶亭と城の間の沼に仮橋を架けるよう勧めた。内心喜んだ直家はおくびにも顔にださず、橋を架けその後もしばしば信正を招いて茶亭で酒宴を開いていた。
永録二年(1559)の初秋、狩猟帰りに茶亭へ立ち寄った直家はその日獲物が多く酒宴が盛り上がり夜半に及んだので、信正に勧められるままに沼城へ宿泊した。深夜城中が寝静まったところを見計らって直家は突然信正の寝所へ襲いかかったのである。合図に従って直家の家来達は手筈通り、仮橋を渡って沼城へ雪崩れこみ信正を討ってこの城を奪取したのである。
沼城に狼煙があがるのを見た島村観阿弥は砥石城から僅かの人数で急行したが、予ての打合せ通り出撃してきた浦上宗景の応援部隊と協同して一挙に島村観阿弥を討ちとってしまったのである。この事件によって直家は沼城の他に砥石城を手にすることになったのであるが、実の父親を夫に殺害された妻の奈美は双子の姉妹美代と千代を道連にして戦国の女性らしく自決したのである。この事件以来、直家は勧める人があっても決して後妻を娶ろうとはしなかった。
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