前潟都窪の日記

2005年07月20日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂36

 十四.大阪、江戸を経て会津へ                                      

 三月半ば過ぎまで城崎で過ごした玉堂は、岡山への脱藩届けを知り合いの者へ託送してから四月の初めには大阪へ到着していた。大阪を拠点にして詩集「玉堂琴士集」出版の準備をするのが目的であった。また木村拳霞堂を訪問してその豊富な収蔵品を鑑賞するとともにここへ集う文人達と交誼を取り結び、且つ鴨方藩の探索動向についての情報を得ることも目的の一つであった。宿屋に旅装を解くと拳霞堂へは四月四日には子供の中の一人を、六日には春琴、秋琴二人の子供を、十六日には春琴を訪問させておいて、自分は京都まで足をのばした。皆川淇園に序文を依頼するとともに京都詩壇の雄、村瀬栲亭、六如上人等には巻頭に寄せる言葉の寄稿を依頼して歩いた。このあと大阪へきていた片山北海から跋文を受け取ると讃岐へ急いだ。「玉堂琴士詩集」へ載せる名士達の原稿を讃岐の版元へ渡すとともに、讃岐の雅人池小村、山田呆々、後藤漆谷、山田鹿庭、長町竹石等からも巻頭に寄せる言葉の寄稿を依頼するためであった。

 玉堂が「玉堂琴士集」の出版にあたって学界、詩壇の錚々たる顔ぶれを揃えたのは、文雅の道で今後生きていこうとする意気込みを天下に宣言する意味をもっていたし、冷遇された鴨方藩主に対する決別宣言の意味を持つものでもあった。
 このあと再び大阪へ戻り五月二十七日、六月六日、六月二十八日、八月末日に木村拳霞堂を訪れてから江戸へ向かった。

 鴨方藩では玉堂の脱藩についてお構いなしの扱いにしたという情報を得てから初秋にはいって江戸で琴の教授所を開いた。

 入門者はたちまちのうちに増えて、繁盛し風雅の町人や諸藩藩士が多かった。
 やがて会津藩徒士荒井文之助が入門してきて、玉堂父子は会津藩へ手厚く招聘されることになる。この間の経緯について会津藩の記録である「家政実記」につぶさに記録されているところを見てみると

<寛政七年四月二十八日、見弥山御社御神楽御再興の為、備前浪人浦上玉堂江戸より罷り下らるの条。
 見弥山御社の御神楽は、その草創の初、城州八幡之神官、紀斉院という者が下向して曲節を伝授した。神楽歌は吉川惟足並びに杉沢彦五郎という者の詠作で、斉院がその音節を付し演奏したと伝えられているが、後世になって常に略奏で既にとりおこなわれ、その後ますます楽歌は絶えてしまったというように聞いている。

 ところで、玉堂は備前侯末家池田信濃守様の御家来で、浦上兵右衛門と申し、御用人を相勤めていた者であるが神楽、催馬楽、東遊歌、諸国の風俗、今様歌並びに管弦、鼓搏の調奏まで詳しく、江戸在勤の時には御家中へ指南もしていたが、今から十年(本実記編集当時から)ほど前に引退し、当時、頭髪を長く伸ばして束ね、鶴装衣という鶴の羽毛で作った毛衣を着、まるで中国の隠者のような恰好で江戸に住み、和漢の詩や音楽等、広く指南し、大名衆や旗本にも罷り出て教授していた処、会津藩の和学大竹喜三郎の門弟で供方を勤めていた荒井文之助という者を、寛政六年の秋、本番勤番の為江戸に登った際、旗本中沢彦次郎の紹介で玉堂の下に入門させ、見弥山奏楽の事をも玉堂に語り、音楽の稽古等をさせていたけれども、勤務に多忙で、音楽の修業はなかなか思うにまかせず、大変であることを藩の和学大竹喜三郎に訴えでた。

 見弥山の御神楽は、以前は完備していたが、今では楽歌や本末唱和の事をも絶えてしまい、その訳をすら知る者がいないようになってしまった。鳳翔院様、徳翁様の大いなるご賢慮を以て定めおかれた御神式の内、奏楽の件は全く不備となり、長年の間嘆かわしい事と思われていたが、このたび、荒井文之助が玉堂に入門して学んでいる内、本務を免じてもらいたく、且つ諸経費もいることなので送金してもらいたいこと、又、太鼓、和琴、横笛等も学ばなければ不完全であるので、一人ではとても及び兼ねるので、扶持方の組付、上崎辰六郎の弟芝三郎を江戸へ差し向けられ、二人で学びながら、一通りのことは会得したい旨を申し出てきたので、御家老とも協議の結果、見弥山神楽歌等の再興の為にもなることでもあるので、訴えの通り、文之助を御供方の勤めから免じ、彼の跡は当座誰かを雇うことにして、稽古に専念するように仰せつかった。且つ芝三郎を江戸へ登らせたついでに、御供方安恵雄蔵がかねてから雅楽を嗜んでいると聞いたので、江戸詰めを終えて帰る所であるから、彼の本務を繰り合わせ、稽古をするよう申し添え、その通り文之助、雄蔵両人へ申しつけた。


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