前潟都窪の日記

2005年07月16日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂32

十三.脱藩
                                  

 寛政六年(1794)玉堂は五十才の年を迎えた。何回も何回も自問自答を繰り返し決意した脱藩決行の年を迎えたのである。節分までを家で過ごした玉堂は、仏前に座って母茂、妻安に脱藩決行の決意を秘かに報告した。

 藩に対しては立春とともに、心身疲労のため湯治にでかけたいからと休暇を願いでた。閑職であったから願いは直ちに聞き入れられ、玉堂は二人の子供春琴、秋琴を連れて但馬城崎へ湯治にでかけた。春琴、秋琴の二人の子供も父親と一緒の旅は始めてであったし、湯治も始めてのことだったので自炊用の薪木を拾いに山へ行ったり、魚の買い出しに浜へ漁師を訪ねたりと物珍しい体験に嬉々として過ごした。父にならって景色の写生をしたりして倦むところがなかった。山陰の風光は山陽とは異なった趣があった。海の幸も瀬戸内海ではみられない蟹や鮑などがあり食欲を増進させた。

 流石に長い逗留に飽きてきたのかある日、春琴が父に聞いた。
「既に一月近くになりますが、まだお帰りにはなりませぬか」
「そろそろ岡山が恋しくなってきたか。帰ってもお前達を可愛がってくれる母はもういないぞ」
「それでも父上のお役目があるのでは・・・」
「儂はもう岡山へは帰らぬ」
「えっ。何故ですか」
「脱藩するのじゃ。儂は国を捨てた」
「何故脱藩なさるのですか」
「儂の信念と意地を通すためじゃ」
「父上の信念とはどのようなことでしようか」
「儂は陽明学を信奉しているから、良知を致し知行合一を実践して仁政を実現しようと努めてきたが、こと志に反してもうこの藩では、儂の宿志は受け入れられなくなってしまった。そして個人的な生活信条も今の勤めを続けている限り守れなくなってきた」
「父上の生活信条とはどのようなものでしょうか」

「第一に威張らないこと。第二に嘘をつかないこと。第三に人を侮らないこと。第四に人を謗らないこと。第五に人を貶めないこと。この五つだ。お前達もうすうす気づいていたとは思うが儂の今までの挙措言動はこのような原則に基づいて行ってきたつもりだ。世間の俗物どもは、やれ融通がきかないとか頭が固いとか、贈り物もしない礼儀しらずだと言って非難をした。しかし、それは人それぞれの見方だから、謗られようと侮られようと儂は意に介しないで心の中になんのやましいこともなく生きてきた。人に後ろ指を指されるような反社会的な行為も悪事もしたことなく、ひたすら愚直に生きてきた。よくきれいな空気ばかり吸って生きていけるわけがないとか、世間の裏を知らなすぎるとかいかにも世の中の辛酸をなめつくしたような言い方をする人がいるが、人生や世間に対する態度が不遜に過ぎ、物の考え方が薄汚いと言わざるを得ないと思う。規範意識が乏しく倫理感の欠乏した人間ほど悲しくも哀れな存在はないと言えよう。私腹を肥やすために違法行為を行い、発覚すると藩のためにやった必要悪であり、それがお家のためには正当な行為であったと強弁し、たまたま露顕したのは運が悪かったのだとぐらいにしか捉えられない破廉恥な人間が藩内に増えてきていることは悲しいことだ。権力の頂点にいる者やそれに追随する者に規範意識がなく自ら禁則を破っておいて、下の者に対しては規則を守れと説いてもそれは通用しないということは経験則からも判っていることだろう。権力の頂点にいるから人は命令には従うかもしれないが腹の中ではせせら笑っているのが実情だろう。面従腹背ということだ。とかく愛想がよく弁のたつ人間には嘘つきが多く、ぶっきらぼうに見える口下手に誠実な人が多いというのが世の中なのだ。お前達がどのような考え方で生きようとそれはお前達の勝手だが、反社会的な行為と自分の良心に恥じる行為だけはしないようにして欲しい。多少くどくなってしまったが、これが儂の生活信条だ」

「お父上のお考えはよく判りました。それで、この次はどちらへ行かれるのですか」
「諸国を流浪する。とりあえずは大阪へ近いうちに行ってみようと思っている」
「岡山へはお立ち寄りにはならないのですか。藩へのお届けは」
「辞表を書いて送っておくだけで十分じゃ」
                   


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