前潟都窪の日記

2005年07月09日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂25

 その一方で恩師の玉田黙翁が89才の天命を全うして永眠するという不幸もあった。なお玉田黙翁が健在であったこの年正月三十日付けの司馬江漢より浦上玉堂宛の書簡が残っていて 

「先達者玉田翁僊薬百目被遣 此代六○為持上候 御落手可被下候」
 となっていて玉田黙翁処方の薬を玉堂が司馬江漢へ仲介している。
更にこの書簡の追伸として 

「紅毛者色々出候得共 遠方故御目に懸難候」
 とあり、玉堂の好奇心の強さと交遊が多方面にわたっていたことを窺わせる。

天明六年(1786)正月、本藩の藩主池田治政へ初めてお目見えした。   
初のお目見えであるから藩主から特に下問のない限り、挨拶だけ言上して引き下がるのが通例であるが、この御目見えでは大飢饉についてどのように考えるかとの下問が特別にあった。知行合一を実践しようとしている玉堂は下問に対して臆することなく所信を表明した。

 先ず当面の飢饉対策としては、

 ・藩が米価の暴騰を利用して米の転売により利さやを稼いでいるのを即刻やめること、         
・商人から借銀してでも領民の救済対策にもっと力を入れること、
 ・当面年貢の税率を低くして困窮民の窮状を緩和すること、
 ・音物禁止令の適用を厳格にして儀礼的な贈答を全面禁止し贈収賄の絶滅を徹底して藩経費の節減を図ること
 を挙げ

 次に将来の対策として

 ・児島湾の干拓を積極的に推進し収穫高の増大を図ること
 ・甘薯の山地栽培を奨励し米麦の補完的な役割を持たせるようにすること ・藩財政の独立採算制を断行し本藩に頼らず自己の才覚で財政運用できる体制を作ること
 ・参勤交代制度を幕府に働きかけて廃止し、経費節減を図ること
 と主張し

 最後に上下ともに教導して良知を致し質実剛健で規律ある藩風を確立することが最も大切なことであると結んだ

 鴨方藩主政直と平生行っているやりとりと、同じような内容の繰り返しに過ぎなかったが、何時も煮え切らない態度をとる政直に対して、大きな影響力を持つ本藩の藩主に直接意見を開陳できたので、鬱屈する気持ちが晴れる思いであった
 しかしながら玉堂が受けた印象は、私淑する光政とも理想の君主として仕えた政香とも全く肌合いが違っており、政直と同類の凡庸な藩主であった。

 この頃琴を自作することも面白くなっていて、石室眷兄のために唐製琴の「雷かく」に模した琴を作って贈った。

 春の一日、予て交遊を結んでいた赤松滄州、西山拙斉、菅茶山、姫井桃源が玉堂宅に会合して酒宴を催し夜ふけて玉堂の琴に聞き入った。

 赤松滄州は播磨の人で医学に通じた儒学者で赤穂藩の藩儒となり、家老を勤めて治績を残した後、致仕してからは京都で儒学を講じていた。

 西山拙斉は鴨方の儒学者で、若い頃大阪で医学と朱子学を学び詩をよくした。この頃は郷里で欽塾を開いて育英に任じておりその高潔な人格を讃えられていた。
 菅茶山は備後の詩人であり、姫井桃源は岡山藩の儒官であった。
                                                                


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