| 2005年04月06日(水) |
秦 河 勝 連載49 |
607 (推古7年)聖徳太子は第二回目の遣隋使として皇帝煬帝のもとへ 小野妹子を使者として送った。 「海の西の貴国には菩薩のような立派な天子が仏教興隆に励んでおられると聞いております。私たちは入朝の使者として派遣されてきましたが、仏教をもっと学ぶために僧侶数10人も連れてきました」と使いの一行は隋の役人に言って国書を提出した。 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という言葉が国書には記されていた。隋からいえば東夷の一つに過ぎない日本が隋を対等に扱ったこのような文意の国書を提出してくるということは、国際関係に無知で無礼な態度であるといえた。
当然のこととして煬帝は怒った。 「蛮夷の書、無礼なる者有り、またもって聞するなかれ」と煬帝は国書を見て鴻臚卿(外務大臣)に言った。 この年7月に隋に派遣された小野妹子は半年も経つのにまだ帰ってこなかった。往復の途中で船が難波したのではなかろうか、或いは国書の内容が煬帝の怒りに触れて使者が抑留されてしまったのではないだろうかと聖徳太子は心配な日々を過ごしていたが、608 年4 月、妹子一行が筑紫に到着したという速報が斑鳩宮で待ちわびる聖徳太子の許へ届けられた。 「小野妹子一行の遣隋使が筑紫に帰着しました」と飛報をもたらした使者が言った。「大儀。小野妹子は無事か」と聖徳太子は使者を労いながら言った。 「はい。隋国よりの使者裴世清様一行12人を伴われました」 「そうか。あの大国の隋が使者を差し向けられたか。早速国使を歓迎する準備にかからねばなるまい。まず難波吉士雄成を出迎えのため筑紫へつかわせ。次に国使を歓迎する館を難波に建てよ」と聖徳太子はテキパキと指示をした。 妹子の一行は筑紫で雄成の出迎えをうけてから大和へ向かった。豊前から再び船に乗り瀬戸内海を通って六月十五日には難波の津へ入ったが津の入口には飾り船三十艘が出迎えるという国をあげての大歓迎であった。国使は新築なった迎賓館にはいり、中臣宮地連麻呂・大河内直糠手・船史王平が接待に当たった。中国語の話せる船史王平が通訳にあたった。 隋の国使が難波で歓待を受けている間に、小野妹子は一足早く飛鳥の都へ戻り、復命した。 「只今、帰国致しました。国書は確かに隋国王煬帝に提出致しました」 「煬帝のご機嫌は如何であったか」と聖徳太子が聞いた。 「使者は直接皇帝と謁見することはゆるされませんでしたが、鴻臚卿を通じて煬帝のご機嫌は上々と承っております。返礼の国使を差し向けられたことをご覧になればそのことは御理解戴けるものと存じます」 「煬帝からの国書は」 「私が帰還の時、授かりました。まことに申し訳ないことですが、帰国途中百済国を通っているときに、百済人の襲撃を受け国書を奪われてしまいましたので残念ながら提出することができません。同行した裴世清が同じ内容の国書を持って参ります」 「他国宛の国書を盗んでも何の役にもたたないと思うが」 「百済国では東方の大国大和と西の大国隋が軍事同盟を結んで百済国を襲撃するとでも思ったのではないでしょうか。そのために煬帝からの国書は是非見てみたかったのだと思います」 「盗んで見たはいいが、内容は儀礼的なことばかりでがっかりすると同時に安心もしたことであろう」と聖徳太子が言った。 「いずれにしてもけしからん。使者たるものは命をかけても大国の国書は守るべきなのに、怠慢も甚だしい」と大臣蘇我馬子が言った。 「そうだ。国使の任務をなんと心得る。厳罰に処すべきでありましょう。流刑に値いしましょう」と群臣の一人も賛同した。 「少しまたれよ。その考えかたは如何なものでしょうか。遣隋使は大変な危険を冒して使命を果たしたのです。そのことは隋国の使者を一緒に連れて帰国したことで証明されているでしょう。国書を盗まれたことは確かに失策ではありますが、その影響を考えたとき、百済国に日本の国威を見せつけることにこそなれ、これを損なうことはない筈です。功績は失策を相殺してあり余りましよう。その功績をこそ評価してしかるべきだと考えますが如何でしょうか」と秦 河勝が言った。
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