chikuの日記...chiku

 

 

例えば。 - 2002年11月16日(土)

*君がいるだけで心が〜♪(違)
*この題名日記結構かいてる気がしてきた。

感情は記憶によって決められものだとしよう。
嬉しいとか、悲しいとか、辛いとか…それは全て「こんなときは、こう思わなくてはならない」という情報(記憶)からなのだ。
私は、「こんな時はこうしなければならないのだ」という事が多々あり、例えば「高校入試に受かった」ら「喜ばなくてはならない」と思ったし、「誰かが死んだ」ら「悲しまなくてはいけない」と思ったのだ。
感情とは、脳に情報が行く前に体が反応する事なのだとは限らないと仮定する。
脳が「嬉しい」と判断したから嬉しいわけで、反射的に「嬉しい」という考えが出てくるとは限らないのだ。
つまり、感情と言うのは脳が創り出したまやかしである可能性が高く、「このときはこのようにしなくてはならない」という自分なりの定義であるのだ。
さて、「感情が記憶によって決められた」というのはどのようなことなのか。
記憶(情報)はある程度の年数生きなくては得られないものだ。
子供の時になにが「嬉しい」なにが「悲しい」かを学ぶことによって感情が身につくのであって、少しずつ脳が「感情」を学ぶと言う事になる。
つまり、「感情」とは生まれた時から人間に身についているものではないということである。

こう考えて見ると、私が「悲しい」だとか「嬉しい」というのは「記憶」であって、本当の意味での「感情」ではないのかもしれないのだ。
「こうした場面ではこうしなくてはいけない」と感じている自分が嫌で嫌で…
計算といったら聞こえは良いかもしれないが、私は私が何に触れても「こうしたときはこうする」の定義によって動いている自分を見たとき、なんて機械的に生きているのだろうと思う。

脳と体が別物と考えた時、私は脳によって支配されているわけで、私は私の考えで動いていないということになるのだが、脳も自分の一部なのだから、それは自分の考えであって、それからくる行動という結果なのだ。
矛盾である。

なにがおかしいのかと聞かれたら、「順序」…なのだろうか?
普通、「干渉」→「感情」なのだが、「干渉」→「記憶」→「感情」なのだ。
「記憶」をたどってから「感情」に行き着くのであって、干渉されて感情が浮くわけではないのだ。


なにが言いたいのか。
つまり、私は「記憶」で動いているので、「感情」が無いのだ。
感じてはいる。
ただ、それは記憶なのだ。
私の「感情」は「記憶」なのだ。

あぁ…壊れてしまえ。


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