加藤のメモ的日記
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関東大震災と同規模の大地震であった安政2年の大地震でも、大火が起こっている。発火したのは66カ所で、関東大震災の84カ所と著しい差はない。が、その焼失面積は、関東大震災の方が19倍という凄まじさであった。安政大地震の折に町奉行から幕府へ提出された「地震後所々出火儀甲上候書付」と題する報告書から判断すると、焼失面積は62万坪で、それに比べて関東大震災の焼失面積は、1150万坪にも及ぶ大規模なものだったのである。
江戸時代に比べて大正時代の方がはるかに消防能力は秀でていたのだが、地震による水道管の破壊によって消防力はほとんど無に帰していた。それに家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方に伸びたのである。東京市内にあった橋は総数675で、地震よって墜落または破損したものはわずかに18にすぎなかったが、火災によって340の橋が被害を受けた。鉄橋も炎上したが、それは木材を多く混用していたためであった。
橋が焼けたことによって、避難者は逃げ場を失い死者の数を激増させる結果になった。橋が焼失した原因の最大のものは、避難者たちの手にした荷物が橋を覆い、それに延焼したためであった。橋が焼け落ちる寸前には、橋を渡る者たちの間で激しい混乱が起こったが、最も悲惨をきわめたのは隅田川に架けられた永代橋であった。「大小大震災大火災」(大日本雄弁会講談社発行)の中に永代橋で危うく死をまぬがれた生存者の一青年の回想談が収められている。
「深川区は、午後3時五には火の海でした。独身者の私は、どちらかといえば呑気に、そちこち逃げ廻っていましたが、日の暮れにはどうにもならなくなったので、人の群れに押され押されて、永代橋までやって来ました。橋を渡って日本橋から京橋の方面へ逃げようとしたのです。ところが大変です。逃げようと思った対岸がまた一面の火で、猛火の挟み打ちを食った形です。私は橋の中頃にいましたが身動きもならぬ始末で、女、子供は潰されかけて悲鳴をあげています。そのうちに、橋の両側にある家が燃え、火は容赦なく迫ってきました。橋の両側にいた者たちは、どうもこうも暑くてならず、人を押しのけて橋の中央部に行こうと必死になって押し合います。怒号、悲鳴で何が何だか分からなくなりましたが、窒息死するのでしょうか、人が片端から倒れてゆくのです。それが50、100と見る間に増えてゆきました」
上野公園以外の地に集まった避難者数は、宮城前広場約30万人、芝公園約5万人、九段靖国神社境内約3万人、深川清澄公園約5千人、洲崎埋立地約5万人であった。東京の全壊戸数2231戸に対して、18149個という倒壊家屋を出した横浜市では、大激震に襲われると同時に火災も発生して、全市の総面積の約80%が焼失した。被害は東京を上回っていたため、死者は多く、辛うじて生き残ることのできた避難者の苦しみも大きかった。港湾都市である横浜市には、官庁以外に外国人関係の建物も多かったが、官庁関係建物43のうち33が焼失、、残りの10の建物も半壊状態であった。また外国領事館26はすべて焼失、残りの10の建物も半壊状態であった。また外国領事館26はすべて全焼、326の銀行諸会社もわずかに17残っただけで、約3000の工場も90%にあたる2700が焼失した。
丘陵に囲まれた地形を持つ横浜市内では、大崖崩れが50ヶ所も起こって人家を埋没させ、橋は墜落または焼失し、川の中に入って溺死した。殊に午後3時ごろには、中村町にある神奈川県揮発物貯蔵庫に飛び火して火災は発生した。同貯蔵庫には、26棟の倉庫に石油、機械油、パラピン油、松脂、揮発油、アルコール類、カーバイト等が多量に収蔵されていたが、それらに引火して大爆発が連続して起こった。避難者の恐怖はつのり、逃げ遅れた者たちは海や川の中に飛び込んだが、水面に浮遊する重油に引火して数1千名が死亡した。幸いにも死を免れた者たちは、横浜公園、山の手公園、新山下町埋め立て地、伊勢山、掃部山(かもんやま)、税関山、久保山、中村町の丘陵に避難したが、猛烈な火災が迫って死の危険にさらされた。
まず横浜公演には数万の避難者が流れ込んだが、たちまち公園は火災に包囲された。人々は熱さにたえられず泣き叫びながら逃げまどったが、旋風が起こって焼けトタンが飛散した。その頃、水道管が地震によって破壊され、園内は噴出する水におおわれ、低い部分では腰にまで達するほどの泥水が溜まっていて身を地面に伏すこともできなかった。人々は泥水に脅かされたが、この泥水を浴びることによって多くの者たちが焼死をまぬがれた。また新山下町の埋め立て地も、数万の避難者が殺到した。その埋め立て地は8300坪の面積を持つ広大な地で、建築物はなく絶好の避難地と判断されていた。人々は、危険を脱した安堵から埋め立て地で休憩をとっていたが、やがて火災が迫った頃、「津波が来た」という叫び声が起こって、人々は狼狽し四散した。そして、火炎の中に走り込む者も多く、埋め立て地で夜を明かしたのは千名前後で、津波来襲の事実はなかった。
伊勢山は、麓に人家があるが、付近一帯の最も高い場所で面積も広く、人々はこの丘陵を安全地として争って斜面を登ったのである。しかし、麓に迫った火炎は、四方から丘陵を這いのぼりはじめ、避難者は頂に向かって移動した。頂上には皇大新宮があったが、その社殿社務所にも延焼し、わずかに神楽坂を残すのみになった。もしもその神楽坂に火が移れば、頂上に押し合う約1万名の者たちは焼死する。
大混乱が起こったが、男たちは互いに励まし合って神楽殿にしがみつき、死力をつくしてその建物を押し倒しようやく焼死をまぬがれた。また伊勢山に接する掃部山にも約1万名の避難者が集まり、伊勢山と同じように火が四方から頂上に迫ったが、建物がないのが幸いして、奇跡的に死を免れることができた。地震に次ぐ大火も、ようやく静まったが、関東大震災の悲劇は、それで終了することはなく、大恐慌が始まったのだ。
1703 元禄大地震 (江戸)M8.1
1707 富士山大噴火 元禄大地震から4年後、江戸が灰に埋まった
1812 横浜駅地下地震 富士山大噴火から105年 M6.9
1855 安政の大地震(江戸)・横浜駅地下地震から43年 1923 関東大震災 安政の大地震から68年
2014 今年、関東大震災から90年
『関東大震災』 吉村 昭
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