加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will
「寒くさびしい古庭に、二人の恋人通りけり、まなこおとろえ、口ゆるみ、ささやく話もとぎれとぎれ。お前は楽しい昔のことをおぼえておいでか」 約したのは永井荷風。若いころダンディーで鳴らし、中年となってからも、同時に複数の女性の関係を持ち続けた荷風にも、老いはきざした。1945年に荷風は65歳だった。3月、26年間住んだ麻布市兵衛町の崖上の家「偏奇館」が大空襲で炎上した。避難先の東中野も、5月の山の手空襲で焼け出された。
ツテを求めて岡山に疎開すると、そこでも空襲に遭い命からがら逃げた。荷風は岡山県の山間、勝山に疎開中の谷崎潤一郎夫妻を訪ねた。谷崎夫妻を頼りたいと考えたのだが、部屋は見つけられても、食料の見通しが立たないと谷崎に言われ、あきらめた。夫人心づくしの弁当をもらって岡山市に帰った日の夕方、終戦を知った。
手のつけられぬ偏屈な老人
その後、三味線の師匠をしている従兄弟の疎開先を頼って熱海に行き、ともい千葉県市川の借家に移った。しかし、三味線の稽古の音、四六時中耳を刺すラジオの騒音に耐えがたくて駅の待合室に避難する日々となり、やがて憤然としてその家を出た。次に世話になったのは、荷風の古くからのファンでフランス文学者の家だった。だが、ここにも長居できなかった。家主が自分の食料を盗む、家主の妻が部屋掃除の名目で自分の金のありかを探す、と荷風は罵って去った。しかしその実、荷風が夫婦の寝室や、妻の入浴姿をのぞいたのがバレて追い出されたのだった。
どちらの家も好意で荷風を同居させたのに、結果は最悪だった。「著名の文人と老人であることを除けば、いかにしても許されるべきにあらず」と穏やかな常識人の従弟に述懐させるほど、荷風は手のつけられぬ偏屈な老人になり変わっていた。やがて京成八幡駅近くに、12坪の小さな家を買って独居した。ほとんど毎日浅草へ出かけて街区を彷徨し、ストリップ小屋の楽屋に上がり込んだ。レストラン「アリゾナ」の同じ席で同じものを食べ、そうでない日には、八幡駅近くの大黒屋食堂でカツ丼を食べた。
荷風が吐血したのは、、59年4月30日未明だった。一度目は、枕元の火鉢の中にある未消化のカツ丼の混じった血を吐いた。二度目は畳の上に吐血し、三度目、血塊を喉に引っかけて窒息死した。79歳の荷風が残したものは、鍋2個、茶碗、湯飲み、包丁、七輪各一個、古い洋服2着と靴三足、壊れた洋傘1本、中身の入ったボストンバッグだった。51歳のヴェルレーヌは、老娼婦と同居の寒々とした部屋で肺炎になった。水でも飲もうとしたものか、ベッドから出ようとして転げ落ち、もう動けなかった。老娼婦ユージェニーに大男をベッドに戻す力はなく、床の上の彼にあるだけの毛布をかけた。ヴェルレーヌが死んだのは翌日、1896年。1月8日である。
28歳の正岡子規が脊椎カリエスで病床から立てぬ人となり、樋口一葉が栄養不良によって亢進した肺結核で。24歳で死んだ年。荷風は日ごろ、どこへ行くにも土地家屋の権利証書、銀行預金の通帳、文化勲章など、全財産入りのボストンバッグを持ち歩いていた。ゴミ屋敷のような家に残されていたその中身の額面総額は、2334万円だった。現代の価値に換算すれば、3億円ほどか。
『週刊現代』3/16
|