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2005年11月03日(木)
『韓国のデジタルデモクラシー』玄武岩 

『韓国のデジタルデモクラシー』玄武岩 集英社新書
韓国のノ・ムヒョン政権の実現の原動力になったインターネットの実際とはいったいどういうものなのだろうか。今回の衆議院選挙でも話題になったが、もし公職選挙法が改正されたら、日本でもその可能性があるのだろうか。そういう問題意識でこの本を紐解いた。

著者は韓国出身の東大助手。1969年生まれだから現在34歳。典型的な2030世代(現代の20〜30代。02年大統領選の中心世代。キム・デジュン大統領を実現させた世代とは様変わりている。)である。初めての著書だそうで、少し詰め込みすぎて、韓国の公職選挙法の実態も分からないし、日本でよく見られる『荒し』に対する対応の仕方もよく分からなかった。今ひとつイメージが沸かなかったのではあるが、いくつか受けた刺激をもとに、日本の『デジタルデモクラシー』について、展望、とはいえないまでも感想を述べたい。

背景としては民主化運動と大新聞社との歴史的な対立構造がある。60〜80年代パク政権時代に朝鮮日報、中央日報、東亜日報<朝中東>の権力癒着は構造化し、さらに新聞自体が権力化する。それに対抗して「ハンギョレ新聞」なども創刊されるが、力としては弱かった。そして最初選挙運動監視者運動などの成果で多くの市民言論団体が登場する。これらの運動が発展して常勤記者と市民記者でつくるインターネット新聞「オーマイニュース」http://www.ohmynews.com/「プレシアン」などが生まれる。

私は今ひとつその実態が分からなかったが、その日本版の「JANJAN」というサイトがあることを知り、訪れてみた。日本版はおとなしい。まだ市民記者が少ないので暗中模索の状態なのであろう。「オーマイニュース」は現在35000人の市民記者、60人の常勤記者で1日200本の記事をアップしいる。そのうち150本は市民記者によるものだという。

候補者の公式HPも大統領選では先にはじめたノ・ムヒョンに圧倒的に有利であった。HP「ノハウ」だけでなく『ノムヒョン放送局』『ノムヒョンラジオ』などのインターネット放送も積極的に活用する。(現在大統領のHPは青瓦台のHPに統合されているらしい)もちろん掲示板は公開されているから、誹謗中傷も入ってくる。それに対しては閲覧数の高いものを「ベストビュー」として別途管理したという。選ばれるのは鋭い情勢分析の場合もあるが、多くは一般の人の感性豊かな体験談らしい。また、オンライン上では誹謗をかわす論拠や相手候補の失策が即時に伝播出来るというメリットもある。たとえばハンナラ党が賛助演説員として投入した「普通の受験生のオモニ」が、実は議員の補佐官であったことは、インターネットを通じてまたたくまに広まったらしい。いずれも自発的な『ネティズン(ネット市民)』の層の広がりと歴史的に鍛えられた成熟度を示すエピソードだ。

もちろんオンラインに全てを託したわけではないらしい。しかし、オンラインではないと出来ないこともあった。象徴的なのは大統領選投票前日に候補一本化によりいったん引き下がった有力候補が突如ノムヒョンに対する支持を撤回するするという事件が起きた。そのとき支持者が書きこんだ掲示板の文章が『オーマイニュース』や公式ホームページにすぐさま流れ、するべきことが示される。『ニュース』の訪問者数はその日延べ623万人に上ったという。支持者は電話やメールでもう一度知人に指示を訴える。結果はいうまでも無い。

著者は「ただインターネットという武器を先取りして積極的に活用したことだけでない。水平的で分権的なネットワークは、自発的な参加と議論の場を保障する双方向性と内容の真実性によって成り立つものである。」と書く。確かにいくつかの事実はそういうことを証明するのだろうが、韓国のこれからもその方向で行けるのか、日本はその条件があるのか、私には今だ分からないことだらけだ。例えば日本の場合、単にビュー数が多いという情報が流れただけで、その「真実性」は検証されずに世論が形成されないか不安である。韓国ではその可能性はなかったのだろうか。ただ、日本の『デジタルデモクラシー』の可能性については、公職選挙法の改正を待つ以前に課題はやまほどあることだけは分かった。

敗れた保守政党は反撃をする。インターネットを含むあらゆるメディアを使って。しかし2004年の大統領弾劾決議後の総選挙で再び敗れるのである。韓国は1年後がどうなるか分からない状態が今だ続いている。ただしその激動の中で、昔血を流して戦っていた若者が、今は子供をつれて集会に参加するようになり、韓国の『政治参加』民主主義の成熟度は後戻りできないほど高まっているように感じられる。

著者は韓国と日本の市民社会が連帯する可能性はあるという。「ナショナリズムの動力が推進してきた韓国の『一国民主主義』は、外に向かって開かれた市民的民主主義へ脱皮することを、今こそ求められている」「それに比べて、日本の市民運動は、国家の政策を左右するような闘争力や組織力はなくても日常生活に密着した生活政治の発現という傾向性を持っている。」変な褒められ方をしたものではあるが、確かにそれは日本の国民性の欠点でもあり美点でもある。そこに日韓の市民運動の交流の必要性を、私も切に感じる。映画の製作、共通教科書の作成、いくつかの萌芽はすでに出てはいるのだ。市民運動でどうして出来ないことがあろうか。