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2004年05月16日(日) ■
『ロード・オブ・ザ・リング』あるいは『指輪物語』の世界(原作編)

<原作編>
原作「指輪物語」を読み始める事はずっと躊躇していた。映画第一部を二回見て以来私は、この本を手にとることをずっと楽しみにしていたし、躊躇していた。この本にかかりきりになってしまうのでは無いかと怖れていた為だが、映画第二部が上映されるとあってはもう我慢できなかった。1冊目を読んで私は次第に指輪の「魔力」にからめとられていくのを感じた(笑)。フロドがガンダルフに指輪を受け取ってほしいと差し出したときに、彼があれほどに跳び上がって拒否しているとは思っていなかった。「わしを誘惑せんでくれ!わしにはそれを受け取る勇気は無い。…」映画では確か少し顔をしかめただけだと思うのだが、原作では顔を真っ赤にしてさまざまな言葉を連ねて断るのである。このときから指輪は単なる魔法ツールからこの物語を導く最も大きな力へと変貌していく。
『勇気』といえばこの指輪の所有者であることを引き受けたフロドは最も勇気ある者なのかもしれないが、彼とても迷いはある。森で出会ったエルフのギルドールは彼を慰めて言う。「勇気は思いがけないところに見出される。望みを持て!」思うに、この物語を予言する言葉であった。

「言葉」といえば、このあと原作にあるいろんな「名言」を引用したい。こういう名言に出会うことが長い時間を掛けて原作を読むときに楽しみの一つでもある。また到底引用は出来ないが、「旅の仲間」で特に健著なのであるが、様々な「歌」が作中で歌われる。古代においてはもちろん文字による歴史書もあったのだが、庶民にとっては「歌」によって歴史はまさに語り継がれたのであろう。中つ国における奥深い伝説も歌われるし、まさにフロドたちの冒険によってそのとき「伝説」になったばかりの「歌」も歌われる。まさに映画第二部の最後において、サムが「私たちもやがては語りつがれる物語の主人公になる」といったように。この本を読む(私にとっての)最大の喜びは、そういう「英雄伝説」誕生の瞬間に私たちが居合わせているという実感を持てる事なのだ。しかしその事に付いてはこの長い駄文の最後にいたってもう少し詳しく述べたい。

第一部最終巻での「言葉」。モリアの坑道の難から逃れ旅の仲間はロスロリアンの森に至る。迎えに来たハルディアは言う。「なるほど世の中には危険が満ちみちています。そしてあまたの暗黒の地があります。しかし美しいものもまだたくさんあるのです。そしていまや全ての国にあって、愛は悲しみと混ざり合っているのですが、それだけに愛はいっそう強まっているのかもしれません。」この森の描写のなんと美しいことか。神話世界が持つ言葉にならない美しさをトールキンは懸命に文字にしようとしたように思える。
旅の仲間がどこに向かうか決断のときがやってきた。指輪に影響されたボロミアはフロドに迫る。「我々は魔法使い諸侯の所有する力を望んでいるのではない。ただ自らを守る力、正義のための力が欲しいのだ。そして見よ!われわれの有事にさいし、たまたま力の指輪が明るみにでた!」防衛力は戦力ではない。「有事」の場合は特別だ。いつの時代も「力」に「誘惑」された人たちは同じことを言うのだ。そしてフロドは孤独な決断をする。映画では短いセリフで描かれたところだが、ここはやはり原作で読みたい。

第二部の「上�機廖1撚茲涼罎虜任眞鰐�な部分を扱っている。しかし映画には無い、エントの性格、生活。「白の乗手」が゙明かすサルマンの「二重の裏切り」(白の勢力も裏切っていたが、実はサウロンも裏切ろうとしていた)等、原作ならではの楽しみもある。
「白の乗手」ガンダルフはいう。「大きな嵐がやって来ようとしている。だが潮の流れはすでに変わった。」

さて、「ホビット庄の掃蕩」に付いて述べたい。なぜ、これがこの作品のクライマックスに当たると私は考えるのであろうか。それは指輪を介さないで、この物語をもう一度なぞっているからである。そして、結末の付け方を気に入っているからである。簡単なあらすじはこうである。4人のホビットたちはホビット庄に戻ると、サウロン、蛇の舌、オークたちにホビット庄が支配されているのを知る。サウロンたちは力をちらつかせ、逆らうものは幽閉し、従順なものは兵士にして、牧歌的なホビット庄をまたたくまに汚染をまきちらす製粉工場を中心とした町に変えていた。しかし、サウロンにすでに魔法使いとしての力はなく、指輪戦争をかいくぐってきた4人たちには、勇気と知恵があった。村の人たちを団結させ、オークたちを退治するのは、死線をかいくぐってきたメリーやピピンには簡単な事であった。しかしフロドはあくまでも防衛上必要な殺害以外は禁じる。特にホビット族は心まで敵側に付いていたとしても殺すな、といい、サウロンでさえ、隙を付いてフロドを殺そうとしたが、フロドはサウロンを殺すのを止める。「それでも彼を殺してはいけない。私は傷を負わなかったのだから。それにいずれにしろ、私はこのように凶悪な気分のままでいる彼を殺したくはない。彼はかつて偉大だった。おいそれと手を振り上げられない高貴なものだった。かれは堕ちた。そしてその救済は私たちの力には及ばぬ。しかしそれでもわたしはかれがそれを見出す事を望んで、命を助けたいと思う。」結局この一言でサウロンの最後の企みはついえたようだ。たぶんサウロンは自ら呪いを掛けながらホビットたちに殺される事で災いの伝説をこの村に残したいと思っていた節がある。「あんたは賢明にして残酷だ。あんたはわしの復讐から甘美さを奪った。」そういい残してさろうとするところを、腹心の蛇の舌に刺され、消滅する。

ここにあるのは一つは「指輪戦争」と「旅」がなにを残したかという事だろう。この物語の大きな主題は「戦争と平和」だと私は思っている。トールキンは2度に渡る世界戦争に対する風刺がこの物語にあるという世評をひどく嫌っていた。かれはあくまでも神話世界を「創造」したかったのだ。その思いはよく分かる。しかし、「神話世界」を語るという事はほとんど「戦争と平和」を語るという事と同義語ではないのか。神話世界はいつの時代でも「戦争」抜きには語る事は出来ない。それは「文字」を獲得した以降の人間の歴史に必ず「戦争」があったからでもある。だとするとこの物語は「平和とは何か」という事に一応の決着を付けて終るのであろう。サウロンが目指したのは小さなモルドールだった。そしてそれは「旅の仲間」によって打ち破られる。「指輪戦争」では多くの人間やエルフやオークたちが死んでいくが、どうやらトールキンは本当はその事は望んではいなかったみたいだ。フロドの態度がそれを代表している。そして「その救済は私たちの力には及ばぬ」という言葉。戦争をなくす事は出来ない。結局当事者自身が変わるほかはない。そういうメッセージが私にはとても心地いい。

もう一つ重要な主題がある。サウロンが行ったのは見ようによってはホビット庄の「近代化」であった。環境汚染は酷いものではあったが、富国強兵は民主主義を破壊してはいたが、しかしそれは「必要な事」ではないのか。しかしホビットたちは当然のようにそれを否定する。しかしそれはあくまでホビット族の「選択」である。彼らには彼らの歴史がある。だからその選択に私たちは納得している。しかしその事は「人間」の「選択」ではなく、その後の選択はあくまでも第4紀が始まっている人間に託された事なのだ。第3紀のこの物語がホビットで始まり、ホビットで終っているのはそういう事なのである。

この駄文を書いている途中、わたしは文庫版第10巻「追補編」を読む機会を得た。その中にアラゴルンとアルウェンのお別れの場面がある。不死の御妃を残して、アラゴルンも長命とはいえ、ついに死ぬときがやってくる。物語の中で「戦争と平和」に並んで「生と死」はいつも大きな主題である。トールキンもその事はよく知っていた。そしてかれに見事な最後の言葉を与える。「しかし、この最後の試練に敗れぬようにしよう。われらは昔暗闇と指輪を拒んだのではないか。悲しみのうちにわれらは行かねばならぬとしても、絶望していくのではない。ご覧!われらはいつまでもこの世に縛られているのではない。そしてこの世を越えたところに思い出以上のものがあるのだ。」この言葉をかみしめながら取りあえず私は原作に付いて語るのを止めようと思う。