天使のながばなし
maki



 言葉で表すもの

昨日の夜中、性同一性障害(GID)についての番組をやっていた。
体の性と心の性が一致しない人のこと。
ある人は結婚していて、妻に20年間黙っていて、
3年前に打ち明けたらしい。
女だけど、妻も子供もいる。
人生のパートナーとゆう意味で、
彼女(彼?)には妻が必要だと聞くと、
それもありだし、何も特別なことじゃないと思うのだけど、
実際に自分だったら受け入れることが出来るかと考えると、
簡単にはいかないと思った。
性別だろうと何だろうと越えたところで、
1人の人間として見つめたいと思っても。
よく考えるとこうゆうのも「常識」なるものに、
がんじがらめにされてる心から来る抵抗や苦しみなんだろう。
そんなものいらないとは思うのだけど。
思うのだけど。と複雑になったりして。



さて最近は「禅的生活」をゆっくり読んでいるので、
それについて心も頭もいっぱいです。
今日読んでいた一節。
 

  言語はどうしても総体から部分を分けようというふうにはたらく。
  「私は寂しい」とゆう表現だって
  「そうでもない自分」は除外することで成立する。
  それはつまり、どんなに精密な言い方でも言葉で表現してしまったら
  総体ではないとゆうことだろう。


私は、私の書く言葉や詩について質問を受けたり、
疑問を持たれたり、意見を投げかけられたりした時、
よく説明してきたことがある。
まさにこの一節に書かれている通り、総体ではないとゆうこと。
1つの詩を見ても、もうそれが私とゆう人間ではないし、
しかし、全体を含んでいる。
その瞬間のみに切り取られた、その思い全体の写し絵のようなもの。
その瞬間、そこに私がいたら私全体ともなり得るのか。
ちょっとわけわからなくなってきたが、
とにかく今の私は違うし、
書いたすぐ後の私だって違うだろう。

だから年末に初めて詩集を作った時の作業は、
奇妙といえば奇妙かもしれない。
あの詩集の塊の思いがすべてではない。
その瞬間ずつのその思いだけのすべてではあったけど。

そんなに分断してまで、なぜ書くんだろう。
何を表そうとしているんだろう。
しかも、言葉(五感や第六感ですら)では表せない種類のものを
書こうとしている気さえする。
う〜ん。
それ自体ではなく、そこへ通ずる道・・・かなぁ。
言葉で道筋をつけているのかなぁ。
人へも自分へも。






2004年05月24日(月)
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