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2012年07月06日(金) 【Works―短編】春の前…『春へ』




 小学生のころ、父さんのことを、大人なんだな……、としみじみ感じ入った瞬間がある。
 “十希に観せてあげたい映画があるから週末一緒にいこう”と誘ってくれた父さんが、上映時間の確認と指定席の予約をするために映画館に電話をしたときのことだ。

 おもむろに電話の受話器をあげた父さんは、臆しもせずにボタンを押して耳にあてた。
 そして一度も会ったことのない、顔も見えない初対面の相手に対してにこにこ平然と話しかけたんだ。

 すごい、とびっくりして、隣にいた俺は思わず父さんの横顔を凝視してしまった。

 電話に不慣れだった小学生の俺には、父さんが漫画や映画のヒーローに感じられるほどの驚きで、だから思いがけない恐怖心にまで襲われた。

 “自分はちゃんと、父さんと同じヒーローになれるかな?”
 “知らない人相手に電話をしたり、初対面の人を前になにか訊ねたりできるようになれるかな……?”

 大人になるって、なんて勇気のいることだろう。そう思った。

 怖いことも我慢できるようにならなくちゃいけないんだ。
 強くならなくちゃいけないんだ、と。

 ……いま思えばとても些細なことだけど、自分が父さんを見て育ってきたんだと実感させられる大切な記憶のひとつだ。


 父さんが亡くなって、ひとりきりの生活が始まってから二ヶ月半が経つ。

 死を迎えるまでのあいだにたくさんの話をしたから、父さんが人生の途中でさまざまな紆余曲折を経てヒーローになっていったひとりの平凡な男なんだということは、もうわかっていた。
 勇気や強さが、どういう感情から生まれでるものなのかも。

 父さん。

 新しく教えてもらった料理は、もう全部メモを見なくても作れるようになったよ。
 ごみ捨ても忘れたことない。掃除もちゃんとしてる。
 お風呂掃除も洗濯も戸締まりも完璧。

 いまのところひとりで生活できているし、困ったことがあれば政吾伯父さんや担任の前田先生に相談してるから大丈夫。
 心配しないでね。

 それと明日、旭のところにいくよ。

 父さんが高校生のころ心から怯えるほど想った旭に、最後まで渡せなかったあの手紙を、俺が届けてくる。

 ヒーローが強いのは、守りたいものがあるからなんだよね。
 決して傷つかない怖れない完璧な心を持っているわけじゃなくて、悩んで苦しみを背負って、それでも努力しているから格好いいんだ。

 ひとり息子の俺を、父さんはいつも映画や演劇や絵画展に連れていってくれたし、仕事が忙しくても夕飯は毎日俺と一緒に食べてくれたね。
 死ぬまで俺を守ろうとして愛してくれた父さんの気持ちを、俺も守りたいよ。

 この手紙を届けて、旭が幸せに暮らしているかどうかちゃんと見てくる。

 きっといい報告をするよ。
 だから、待っててね。

 おやすみなさい。


あさ。