女房様とお呼びっ!
「キミがボクを愛する限り、ボクはここにいるよ。」 愛する人にこう言われたら、どんな感情を抱くでしょう?
「けれど、ボクからキミを愛することはないと思う。」 そう言葉を継がれたら、一体どうすればいいのでしょう?
これは「犬」が「犬」でなくなり、ただの同居人になった頃に吐いた言葉です。 私達の関係はSMの主従関係から始まって、そこに愛情の基盤がありました。 だから、やむを得ずとは言え、それまでの愛を支えてきた主従の形を解消し、 私達は、一つ屋根の下にいる必然、としての愛情の在処に迷いました。
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彼が「犬」であった頃、私はずっとひとつの不安に囚われていました。 私達は「主」と「犬」として、相互に通う愛情を確かめ合ってはいるけれど、 「犬」でない部分の彼にとって、「主」でない部分の私は必要ないのではないか? 目の前には「犬」の彼しかいないのに、私は彼の全てを愛したがっていたからです。
これは、セックスの関係にある男女が、まさにセックスのみの逢瀬を重ね、 気付けばそこに、恋心や愛が芽生えてしまった、なんてありふれた経過の中で、 情を募らせる片方が「結局、体だけが目当てなのよね?」と疑うのに似ています。 体から始まる恋もある。そう片づけられる程、その不安は小さくはないものです。
私は、彼の全てを愛していると自覚するにつれ、何度もその不安に苛まれました。 そしてその度に、今にして思えば鬱陶しい質問を投げかけてしまうのでした。 「犬でないあなたは、アタシのことをどう思っているかしら・・・?」 それでも、主である私が質問する度に「犬」は忠実に誠実に答えてくれました。
「ワタシの根幹は犬なのです。表では、ヒトの衣を被っているだけなのです」 その言葉に励まされ、しばらくの間は、彼の愛情を信じることが出来ました。 けれど、不安が完全に払拭された訳ではなく、再々に私を襲ってくるのです。 私が愛しているのは、彼の妄想が結ぶ幻ではないか?それは恐ろしい考えでした。
と同時に、彼が私に捧げる「犬」としての敬愛以上の愛の形を望む私がいました。 つまり、庇護されたいとか、能動的に愛して欲しいとか、そういうことです。 しかし、受け身であることが全ての「犬」にとって、それは望むべくもなく、 「犬」が自分の全てだと言い切る彼を愛することが、次第に苦しくなりました。
「犬」である彼を、心から愛していました。 「犬」として彼を扱うのも、心が震えるような歓びでした。 「犬」を決して失いたくはありませんでした。・・・けれども。 「犬」は自ら「犬」を降り、私は「主」でなくなりました。 「犬」がもたらす、私の不安や苦しみを払う為の結論でした。
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そして、冒頭に述べたようなやり取りが、私達の間に交わされたのです。 「情はあるよ。でも、自分から愛しているとは言えない」彼はそうも言いました。 『私はこんなに愛しているのに、これ程関わったのに、どうして・・・?』 私は混乱し、彼の言葉をどう自分の中に納めるか、苦悶の日々を送りました。
そして、とりあえずの結論に縋って、私は彼を愛し続ける覚悟を決めました。 『これだけ愛しているから、これだけ愛して下さいって望むのは変だわ!』 『愛し続ける限り、一緒にいられるのなら、それでいいじゃない?』 都合のいい合理化と非難されるかもしれませんが、そうして月日を過ごしました。
今でもたぶん、「愛してる?」と訊いたなら「情はあるけど」と答える夫です。 でも、今ならそれで充分です。勿体ない程の「情」を頂いていますから(笑) 夫はかつて「犬」でした。そして、今でもやはり根っこの部分は「犬」なのです。 自分からは愛せない、愛されて応えるしか、身の置き場がないのです。 そんな愛のカタチを持つ彼を、私は愛しているのです。
世の中にはたくさん人がいて、たまさかの縁で寄り添って、 その間には様々な愛情が、様々な形でやりとりされているのでしょう。 私と夫の間に横たわる愛情もまた、そのうちのただ一つの形に過ぎません。 そして、今あるこの形が変化を遂げるかもしれないことも、私は知っています。 それは期待でも不安でもなく、やはり淡々と訪れる事実の可能性として・・・。
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