ネガティ部 May日記

2005年09月24日(土) 
サラダのように、パック詰めして売っていないものだろうか。


野菜が食べたい。
体が野菜を欲している。
と思ったとき。

ただレタスをちぎったりトマトを切るという作業すらおぼつかなくて、
それをするためだけの体力と気力ほしさにサラダを買ってしまったり、する。

そんな時、味や質なんてものはどうでも良くて
むしろそんなことに気を回す余裕さえないのが実情で。





『何を』かはわからない。
でもきっと今の私にはその『なにか』が必要なのだ。と思う。
何もかもが八方塞りに思え、またそれを改善するための一挙手一投足が億劫な自分に。





*



正直、今のままでは生きてるだけで穀潰しだし、だからといって存在をなくしたとしてもそれは尻拭いを他人に押し付けることにほかならない。
そもそも、存在をなくすなんて言葉の上では簡単だけれども、実際にはそんな簡単にいくことではない。場合によれば補償や賠償だって必要だろうし、葬式出すのだって大変なことだ。保険を切り替えて3年満たないので明らかな事故でもなければ保険金も下りないだろう。消息不明ともなれば、残されたほうは一生(少なくともしばらくは)思い悩むだろうし(というのは私の心無い期待だろうか)。



なんだか、落ち込んでるとか凹んでるとか、そういった心境では最早なく。
上向いてるたり下向いたりしながら、最・低調維持。
その昔、友達が「死ねないから生きてるだけ」と言った気持ちがこういうことなのかしらと思ってみたり。
あー、私はとくに死にたいと思ってるわけじゃないんです。念の為。
死にたいなどといってる人によく「死ぬ気があれば生きていける」なんて申しますが、死ぬというのはひとつの決断なわけですよ。決断する気力があれば前へ進める。
死を選ぶ、というのは方向さえ違えど一歩進んだことには違いない。それが是か非かは別として。
後のことは好きにしてくれ給え。という強烈な意思さえ感じると思うのは私だけだろうか?
今の私にそんな気力はありません。


その場しのぎの「死」には意味がない(と自分はそう思って生きてきた)が、
その場しのぎの「生」に意味はあるのか。
と私は問いたい。





***


先日、友人と話していて、
「本代は生活費には入らんのだよ」と言われたので「そんなことはわかっている」と憤然として答えたのだが。

えー・・・。



古書店の店主とか、いいんじゃないかな。元手もあまりかからなさそうで。
好きな本を仕入れて並べて、お茶飲みながら店の本読んでお客さんと本談義。
趣味と実益を兼ねて・・・て実益あるのか。


新刊購入を控えて手持ちの本を再読しようと努めていますがうまくいきません。
「ローマ人の物語」文庫版続刊がそろそろ出(て)る頃で・・・ぇー・・・・・・


     
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