ネガティ部 May日記

2002年11月04日(月) 
頭が痛い、胃が痛い。
やらなきゃと思うほど、やろうと思うほど、眠気より先に鈍痛に襲われる。
どうしようもなく逃避だな。とは思うのだが、原稿とか予定とか、そんな言葉ばかりが先走っていて全然身に添ってない感じ。
今日もゾロサンのアンソロを読んでいて、豪華執筆人の物凄くうまい言葉の使い方だとか文章構成の仕方だとかに感銘を受けるもどこか自分とは別世界のよう。ああ上手いなぁと思うばかりでこん畜生とは出てこない。
そんな自分にまた凹んでしまったり。
目の前のものをひとつずつとは言うものの、既にどっさりと積み上げられた課題(元はと言えば自業自得)を前に途方に暮れる。
要するに私はいざという時に何もできないただのお人好しの無能者だ。
そう思ってしまうのは多分私の公的イベントが終わって、時間が経つにつれて自分の無能さ加減を知らしめされたり、その時の高揚した気分の反動が来ていたり、そのせいだと思うのだが。
何にしろ宙に浮いたような、思考すら自分から離れているような、そんな状態。
誰に何を謝ろうにもまったく心のこもらない、また心にもない言葉だというのが自分でわかるので謝りようがない。謝れないことに対して、私はひたすら詫びたいと思う。


これは私の悪い癖なのだが、その昔「お蔭様で」という言葉が使えなかった。
例えばちょっと調子が悪かったりして後日ひとさまに「具合どう?」と聞かれても、ありがとうとは言えてもお蔭様でとは到底言えない。
よしんば「心配してたんよ」などと続けられても、それが心から心配してくれていたかどうかは言わずともわかるからだ。(これは私が他人に対して冷たいからで、単に自分の枡で他人を計っていただけかもしれないと今にして思う)お蔭様でという言葉には、貴方が祈ってくれたおかげで私の事態は好転したという意味がある。ありもしない祈りのお蔭で良くなったというのは、社交辞令としても相手に失礼ではないのか。そんな風に思っていた。
今でも、言葉はあるがままにしか使えない。
お蔭様でと言えるようになったのは、その時だけでも相手が気遣ってくれたということに思い至ることができるようになったからだ。
だから、もう次は会いたくないなと思うような人には社交辞令としてでも決して「また」とは言わない。それが私の矜持でもある。
閑話休題。



とまあ、愚にもつかない言い訳を並べ立てても〆切は来るわけで。
なんだかえらくダウナーな文章を書いてしまった。
明日は明日の風が吹く。
     
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