凪の日々



■引きこもり専業主婦の子育て愚痴日記■

もくじ前の日次の日


2007年01月16日(火) 正月

年末里帰りをするたび、近所のおじさんおばさんがおじいさんおばあさんになっていっているのに驚いたり、甥っ子姪っ子達が昨年よりまたひとつ出来る事が増えていて微笑ましかったり、自分の記憶の中から少しずつ変わっていっている風景とか、日々ぼんやりというか、バタバタとその日をやり過ごして生きているだけの自分だけれど、世の中はこうして確実に時間が流れていっているんだなぁとしみじみ感じる事が多かった。

私の母と夫の母は同じ年齢だけれど、勤めていたせいか、母の方がいつも元気そうだった。
義母も「おかあさんはお仕事されているから元気で羨ましい」といつも言っていたし、皆、そう思っていたと思う。
義父は心臓疾患があるし、年齢的にも、正直、一番先に弱るのは義父かもな…と失礼ながら思っていた。
実際、里帰りのたび、義父は少しずつ小さくなっていっているように感じたし、大好きな酒の量も当然ながら減っていっているし。

しかし今回の里帰りで一番弱っているように見えたのは、私の母だったと思う。
身体的な印象もだけれど、話していて「あれ?」と思うような小さなズレを感じる事が多くなった気がする。
縁起でもないけれど、というか、予感がはずれればいいけれど、母は性質の悪い、怒り癖のある痴呆性の老人になりそうな印象を受けた。

このいきなりの老いはなんだろう、と考えると、母の弟の妻である叔母の死が大きかったのかもしれない。
母とこの義妹は生涯仲が悪かった。
可愛い弟にしがみついた疫病神といった感じに思っていたと思う。
それでも弟の為、世間一般の付き合いはきちんとこなし、なんとか歩み寄ってやっていた、という気分なんだろう。
その叔母があっさり癌で他界。
母は何十年も叔母を影でけなし罵りながら、表面ではそつなく付き合いして、それなりにバランスを保って過ごしてきたわけで。
そのバランスがあっさり崩れ。
母があんなに嫌った最低女であったはずの叔母の葬儀はたくさんの花輪に弔電に香典に、涙を流して別れを惜しむ友達にご近所さんにと、それはたくさんの人々の涙に送られていった。

母の中の価値観があれで多少崩れたのだろうと思う。
自分が死んだ時、はたしてこれだけ花輪が届くだろうか。
泣いてくれる人がいるんだろか。
あれこれ考えたのかもしれない。

思えば義母が急に老け込んだように思えた年は、お兄さんが亡くなられた年だったような気がする。
兄弟姉妹が亡くなると、親戚や親の時より死を痛烈に身近に感じるのかもしれない。

義母がそれでも元気になったのは、やはり配偶者である義父の存在なんじゃないだろうか。
お兄さんの記憶を多少なりとも共有する部分があり、共に歳を取り、互いの体の変調や心を気遣い。
義父より先に死ぬわけはいかない、介抱は自分がしてやらなければいけないのだし。
それが自分の存在意義のように、生きる張り合いのように思えるのかも。

連れ合いを早くに亡くした母にはその話し相手がいない。
今までの人生を一緒に振り返り、老いていく感情を共に語り合う相手がいない。
それは多分、張り合いの無い事なんじゃないんだろうか。

「70までは皆結構生きる。80までの10年でバタバタ死んでいくんだ」と義父は老いていく事について笑いながら語った。


一日一日、確実に老いていき、死に近づいていく体を、繋ぎとめるのは心なのかもしれない。

母が己の心を繋ぎとめる何かを今年は見つけることができるといいのだけれど。





My追加