moonshine  エミ




2003年06月19日(木)  確信なき嵐

 梅雨台風がやってきた。
 が、私の一日にはなんの影響もなし。
 もしかしたら来なかったんじゃないかと思うほど。
 えへへ、今日って、お昼くらいに帰れたりするのかなー?
 ・・・なんて、淡いというにはあまりにも強い期待は、あっさりと裏切られた。
 もし早帰りになったら、嵐の音を聞きながら、おうちであれしようこれしよう、
 なんてウキウキ考えていたのに。

 台風なんてどこ吹く風で、眉ひとつ動かさず仕事をしている人たち。
(もちろん私も表向きはそんな顔・・・)
 頑丈な建物、ぶ厚いガラスに守られて、ざあともびゅうとも言わない会社の中。
 コレガ大人ノ世界ネ・・・と思ったことだった。。。
 携帯をみると、
『電車止まったから仕事休みになったよ♪』
 という喜びのメールが約2通。
 つまらない。

 面白い話を提供してくれたのは同僚で、
 昼休みにインスタントのスープの粉を紙コップに入れ、
(ちょうどその階、ポットのお湯が切れていたので)
 裏口のドアを開けた瞬間、
 ザッ!と粉のすべてが宙を舞った、とか、
 ふと見るとコピー機に黒い粉がびっしりとついていて、
「なんだこれ?!」と思ってよくよく見ると、
 機械後ろの壁と壁の間に溜まっていたゴミや埃が風にあおられて付着したのだった、とか。
 そしてお約束、暴風の中、銀行に行くため外に出て、傘が折れかけたらしい。
 お疲れ様でした。
 しかし、それくらい波風たってこその嵐の日だ。

 私はといえば、平常どおりに仕事をして、
 帰るころには復旧していた電車に乗り込んで、
 飛ばされ少しひび割れた屋根瓦も、
 嵩のあがった川を勢いよく流れていく流木も見ることなく、
 いつもより葉っぱが散らばったコンクリートをてくてく歩いて、
 まっすぐおうちに帰ったのでありました。 
 
 母の部屋には、植木たちが所狭しと避難してきていました。
 うちには間違いなく、嵐が来たのだった。


 またキャロキン(=キャロル・キング)プレイ中。
 そのあとは、同僚が落としてくれたエミネムのアルバムを聞いてみるのだ。
 初めて聞くのだ。先入観はポイなのだ。
 CDが(正確にはCD-Rが)増えて机の上に積んである。
 さくっと整理したい。

 6月29日に決勝が行われる「10万円争奪バンドバトル」
 ねじ式やらめがねうらやら出るのでおもしろくなること必至だが、
 ハートビートのHPを見たらなんと、ヘップニッパーズが予選消えしているではないか。
 彼らをおさえて勝ち抜いたバンド・・・見たことない。気になる。そんなにいいのか。
 でもヘップニッパーズ、決勝出て欲しかった!
 三つ巴の争いのはずだったのに(←自分の好み)
 これで双璧になるのか。
 あるいは無印のダークホースが敢然とあらわれるのか。

 明日はどうしよう。

「長崎物語」後も、写真館はときどき更新中。
 チェックしてねー。





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2003年06月18日(水)  芥川龍之介と宮沢賢治。としん氏。

 部署(というか部長宛)には、いろーんな会社からの各種ビジネス系冊子が無料進呈されてやってくる。
 無料とはいえ、全ページカラーで紙もしっかりしていて、ページ数も多く、しかも中身も充実しているようなものも意外と多い。
 回覧でまわってくるその全てに目を通すことはとてもできないが、目次や見出しをぱらぱらめくると、時々「おっ」「へえっ」という文章に出会うことがある。

 今日まわってきた冊子、いつもそうだが部署のほかの人は誰も二度とは見ていないので、ちょっと家に持って帰ってきてみた。
「スミセイ ベストブック 7月号」
 やるねースミセイ、こんな本の情報誌を、毎月つくってるらしいよ。
 そんな金あったら、保険料下げろっていう人もいるかもしれんけど・・・。
 本のレビューや、ビジネス人のインタビュー、エッセイなどなど、なかなか興味深いものばかりである。
 とりわけ心ひかれたのは『羅生門』と『宮沢賢治』についての、数ページに及ぶ文章。
 どちらもつい最近、しん氏と話していてチラと話題にあがったものだ。

 ・・・とここで、30分ほどしん氏と電話。
 思わぬグッドニュースがあるかもしれない。がっかりするといかんので、期待はせんどこう、ああ、でも。

「ねー、会社に行くとき、どんなカッコしてるの?」
 なんて興味津々で聞くわたし、なんか、男女逆かも・・・。
 いや、しんちゃんはスーツ族じゃないもんだからさー。
 愛知はほんと、独立国ですな。 
 
 さて閑話休題。
 しん氏はもともと理系なので(なので、という因果関係はないのだろうが)本はほとんど読まない。が、ごくたまに、思い出したように読んでいるようだ。
 彼の読後の感想を聞くのはけっこう面白かったりする。
 たどりつく場所は同じでも、通る道順がまったくちがうという感じ。道順、というよりも、パッと感覚で着地するようだ。

 最近は『羅生門』を読んだらしい。
「なんかよくわからんかった」
 と言っていた。正直モノだ。
 なので、
「あ、私もね、去年、宮沢賢治を読んだけど、なんかよくわからんし、あんまり面白いと思えなかった。
 まちがいなく名作のはずなのに、良さがわからん自分がショックやったよ」 
 という、話をした。  
 ・・・って、文学的素養のない会話だなー。
 そう、しんちゃんも宮沢賢治を読んでいたんだ。
「なんかねー謎の木があって謎の歌が聞こえてきて、
 謎の木のそばにいる謎の子供ふたりに
『あなたが歌っていたんですか』と聞いたら違うっていわれて、
 そこに謎の人物がやってきて、
『あの歌は君が歌っていたんですか』ときかれて、
『君は君だから、君なんです・・・』みたいな謎の会話がかわされて、
 なんか、ようわからんかった」
 と。謎だらけだ。
「でも、なんかおもしろい感じではあった。非現実をとおして現実のことをいってる感じ」
 と。
 
 さて、そんな謎だらけの宮沢賢治について、この冊子の文章では
『賢治は科学者と宗教家の顔を持つ。そして自然と親しみ自然を愛する顔も。
 賢治はその自然を科学の力で克服しようとしたが(エミ註:宮沢賢治は農業技師でもありますからね。)及ばなかった。
 科学の限界を知って、その限界を超えた現象に対して信仰の力に頼らざるを得なかった。
 その信仰の精神は自己犠牲にある。
(中略)
 少年ジョバンニは、溺れた友人を救うために死んだカムパネルラとともに銀河鉄道に乗って旅をする。
 現出するのは幻想的で美しい死の世界である』
 と書いている。
 すごく、おもしろく読んだ。
 しんちゃん並びにこの文章のおかげで、私の中で、再び賢治に対する好奇心がアップ。

『羅生門』については、この冊子の文章では、芥川の原作と、ベネチア映画祭でグランプリを受賞した黒澤明の映画とを比較しながら書いてあった。
 こちらも面白い文章だった。
 人間のエゴイズム、陰惨な心の闇を容赦なく描いた原作に付加して、黒澤の映画ではヒューマニズムを描く意思をはっきりと見せている。
 それが、殺人事件を見た売り子が、羅生門に捨てられた赤ん坊を拾って育てるというラストであるという。
「俺のところには、子供が6人いる。しかし、6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」
 進んで難儀を背負うこのセリフに、黒澤のメッセージが込められていて、だからこそあの映画は名作として世界に認められたのだって。
 ほー、ってな話だ。
 ただの薀蓄ではなくて、作品や作家に対する興味を盛り上げてくれる文章であった。

 私は原作の『羅生門』の、
 老婆を殺した男が底知れない闇に消えていく、
 という救いのないラストに身震いするような衝撃を受け、
『こういう表現者もいるんだなあ!』と芥川龍之介という作家自体に畏敬の念を感じたものだったが、
 原作の闇とは真逆の味つけをした映画も、まったくいいと思う。

 原作のあるものが映画化されると 
『原作の良さを描ききっていない!』とか、
『原作と筋が変わってる!』とかいう非難を耳にすることがある。
 原作への愛ゆえにそういいたくなる気持ちもよくわかるのだけれど、
 映画は原作を忠実に再現するためにつくられるのではなく、
「原作から何かを感じた監督が、自分の感じたものを表現する場」のように思っている。
 だから、大好きな小説が映画化されたもの、宮本輝原作の『道頓堀川』や『優駿』や、吉本ばなな原作の『キッチン』や、花村萬月原作の『皆月』を見て、筋もオチも違っていても、全然、腹立たしさなどなかった。
 自分と違う人が、映画という原作とは違ったフィールドで表現しようとしているのだから、いいのだ。

 そんなわけで、原作が好きだった『GO』(窪塚のやつね)や、『御法度』(司馬遼太郎の原作)や、『たそがれ清兵衛』(これは原作を読んでないけど、大好きな藤沢周平が原作だ)など、今後も機会があればビデオを見ようと思っております。

 見たいビデオといえばいえば今日、おすぎがすすめるディズニー映画ベスト15、というのをテレビで見た。
 こちらも俄然、見たくなった。わんわん物語とかシンデレラとかノートルダムの鐘とか。

 と、次々生まれる興味関心に素直に書いたら、ばらばらになった今日の日記でした。





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2003年06月17日(火)  存分に起伏

 寝覚めなど良いはずもなく、鏡を覗くと案の定まぶたがぶっくり腫れている。
 ゆうべは散々テルに泣かされた。
 いったいこれまで、何度彼に泣かされたことか。

『幻の光』(宮本輝 新潮文庫)
 よせよ、泣くぞ、どうせ。
 と思いながら先日、買ってしまっていた本。
 やめとけよ、ひどいぞ、明日の朝の顔。
 と思いはしたけど、読み始めてしまった。
 短編集。表題の「幻の光」を読む。

『夢見通りの人々』(宮本輝 新潮文庫)の次に、こんなに泣いたよ。
 自分と三ヶ月の子供を置いて、線路に入って自殺した夫。
 その原因ははっきりとは語られない。
 どうしようもなく悲しい。
 「夢見通り」にしろ、「錦繍」にしろ「蛍川」にしろ、宮本輝の描く悲しみは、悲しい出来事、とか悲しい人生、とかいうのではなく、大げさな言葉だけれど「悲しい宿命」のような気がする。
 どこか歯車が狂い続けているような、小さいけれど必要なねじを忘れて生まれてきたようなそんな人生、
 努力とか、一生懸命とかではどうにもならないような悲しみ、がんばってもがんばっても埋められないことがあるという恐ろしさ、そんなことを感じる。
 もちろん「それでも生きていく」というのが宮本輝の小説の主題になっていると思うし、じゃないとさすがに読めないよね。
 昨夜の短編だって、あれほど悲しいものでありながら、光。幻ではあっても、光なのですから。

 読みながら泣き、読み終わって「もう寝よう、もう」と思って電気を消して目をつぶっても、また涙が出てきてかなわなかった。
 こんなに共感してる自分が妙に悲しかった。
 誰にでも「泣きどころ」というのがあるだろう。感動して涙が出てくるということはまあよくあるにしても、「これはひとごととは思えない!」というような感情移入をさせるものが、どれだけあるだろう。
 たとえば「戦場のピアニスト」を見れば私も泣くだろうが、私は幸運にも戦争を体験していないので、映画が終わってまでえんえんと泣き続けるということはないだろう。エンドロールが終わったら、涙を拭いて同席した友達に向かって「てへへ」と照れ笑いして気持ちを切り替えることができるはずだ。
 でも、宮本輝の小説は違う、泣きながらすごくいろんなことが思い浮かぶ。自分の周りのことが。登場人物は、すぐに自分の周囲に置き換えることができる。どうか愛する人たちが、あんな悲しい思いをしませんように、と私は強く願う。けれど一方で、いつか必ずあの悲しみを通る、とも思うのだ。だってこれまでもそうだったじゃないか、と。

 もちろんそれには涙が呼び入れた一種の激しい思い込みも混じっているのだけれど、そうまで思いつめるほど入れ込んで読んでしまうのは、やはり私の中に、宮本輝の描く悲しみを頭じゃなくて体で感じてしまうような要素があるからだと思う。私の「泣きどころ」が反応しているんだもん。

 人生が変わってしまうような大きな失恋をした人、戦争で家族を亡くした人、身近に身体の不自由な人がいる人、犯罪を犯してしまった人、それぞれ泣きどころは違うだろう。
 私が宮本輝のほかに「これはひとごとじゃないナミダ」にくれた本はほかに、『忍ぶ川』(三浦哲郎)、『駆ける少年』『帰れぬ人々』(鷺沢萠)、そして『キッチン』(吉本ばなな)もそうだった。泣いたり感動したり、っていうのはよくあるけど、打ちのめされるような気分にすらなって大泣きする本はそれほどない。ああ、こうして挙げてみると、見事に私の「泣きどころ」が浮かび上がってくる。しみったれてるなあ。暗い。つまり生活に余裕がないのよね、生まれてこのかた。

 いや、生活人ですから、だいじょぶ、です。
 泣いちゃう夜もあるだけ。
 むしろ泣きたい夜なのかも。わーっと笑うのと同じように、わーっと泣くのも、かえって健康的のような気がしなくもない。 

 今夜は軽めの本を読みながら寝ましょう。

 そうだー今日も『大奥』を見た。
 基本的にノリは昼ドラで筋も脚本もわざとらしいんだけど、
 家定のセリフにはぐっときたね。

「(徳川幕府の将軍という名の飾り物として生きている自分をたとえて)
 手水鉢の亀にも、できることはある。
 それはそこに居続けると言うことだ」
 
 うまい! これには説得力あったね。
 やっぱり、北村一輝といういい役者には、自然といいセリフを書いてしまうものなんですかね、脚本家も。
 菅野美穂(御台所)も、この際、青二才っぽい原田龍二なんかとっととうっちゃって、北村一輝(将軍)とねんごろにすればいいのに。(ていうか・・・あの二人って・・まだプラトニックなのか既に契ったのかよくわかんないんだけど、どっちだ?!)





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