| moonshine エミ |
| 2003年01月08日(水) 燦たり筑紫 我らが母校 | ||||
| 本棚の一角に、中身の入っていないフラットファイルが何冊も保管してある。 ふと見ると、背表紙に私の字で「カウントダウン」と鉛筆書きされているファイルがあって、 一瞬「はて?」と首をひねった。 思い出した。 「センター入試までのカウントダウン」の日々に、高校で配られていたプリントを綴じていたものだった。 確かラスト100日から始まって、5教科それぞれ、先生たちが精選してきたのだろう問題を、授業で、あるいは宿題として解いていたのだ。 なつかしい。 私の高校は進学する人のための学校だった。 ちょっとした田舎にある公立高で、その近所から通う生徒が多く、予備校に通っている人は少なかった。 (そもそも予備校が近くにないのだ。) 地元では、けっこう教育方針が厳しい学校として認識されているけれど、 実際に制服もダサいし、 集合時間とか挨拶とか言葉遣いとかを徹底的にきちんとさせられて最初は戸惑うのだけれど、 抜き打ちの風紀検査とかは一切なくて、それは抜き打ちをする必要がないってことで、 つまり先生と生徒との信頼関係がきちんとあった。 厳しくても、きちんと面倒をみてくれた。誠意と責任感のある先生が多かった。 そういう学校の姿勢は、高校生にもなれば生徒側にもきちんと分かるものだ。 学校には活気があった。体育祭も文化祭も合唱コンクールも寒稽古も、行事は何でも盛り上がった。 近辺の公立高校と比べて、受験間近になって、模試などでの学校の平均点がグーンと上がることにも定評があった。 その理由の一つに、学年ぐるみで取り組んでいた「カウントダウン」と銘打たれたプリント問題もあったんだろう。 励ましあったり刺激しあえる雰囲気があった。さあ、あと100日!となってからの集中力があった。 私は高校時代、校則で禁止されていたアルバイトを、こそこそと、でもかなりハードにやっていたので、 部活もしてなければ、心に後ろめたいところがあり、学校にどっぷり浸かってはいなかったのだが、 それでも、いい高校だよな。と、在学中も素直に思ってた。 なのになァ・・・人気、ないんだよな。 11人受験したら、10人は合格するくらいの倍率なんですもの。 やっぱり、「いなか、校則と勉強に厳しい」って評判が効いてるな。 まあ、かくいう私も、何でその高校を受験したかというと、 “中学3年生のときに片思いしていた、同じクラスのN君が、その高校を受けるから” なんだけど・・・(^ー^; 違う公立高校の願書を既に書いて中学に提出していたのに、 “N君、第一志望C高らしいよ!”と友人から聞いて、 その晩、当時の担任の家に電話をかけて、 「あの願書、取り消してください! C高を受けます!」 と意気揚々と言ったのだった。 いや〜、一途やね。かわいいったら。 こういう、無鉄砲な行動で、さまざまな成功を収め、さまざまな失敗を犯してきた私です。 今日は定時で上がったので、バーゲンによって、3点お買い上げ♪ 気に入ったのが買えて、とっても嬉しい。 とっても嬉しいけど、ちょっとだけ、虚しいのよね。 モノを増やすのって(お金はかかるけど)簡単なんだよな・・・。 ちなみにタイトルは、校歌の歌詞で。 3番まであって、それぞれ 「燦たり 凛たり 冠たり」 という詞になってます。けっこう気に入ってました。 |
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| 2003年01月07日(火) 子供にも大人にも。 | ||||
| ゆうべは寝たのがほとんど2時だった。 新年早々、予想以上に仕事が濃いので、日中は集中。 さすがに夜になると眠気でだるい。 本。 今は、2冊読んでいるところ。どちらも読み返し。 『月の砂漠をさばさばと』北村薫(新潮文庫) 小学校低学年の少女サキちゃんと、お母さんの物語。 おーなり由子の絵もかわいく、各章が短くて読みやすく、心がほんわか。 だけど、ホンワカだけじゃないのが、このお話のいいところ。 不条理ややるせなさへの扉が、ところどころで開く。 『徳川慶喜家の子ども部屋』榊原喜佐子(角川文庫) 著者は、最後の将軍慶喜公の孫娘。 華族の四季折々の暮らしが、著者の少女時代の日記をもとに綴られる。 広大なお屋敷、7段どころじゃないお雛壇、雲上人となった姉君(高松宮妃)など、 想像するべくもない世界だけれど、なぜだか心が安らぐのがこの本。 こういうときに、「あ〜私も日本人だなあ」と思うなあ。 どちらも、小学生にでも読める内容だと思う。 (確か、『徳川慶喜家の・・・』、単行本のときは子供も読めるように、たくさんルビがふってあった。) やさしい気持ちになれる本。 そして甘いだけじゃない。 かなしみや、さみしさ、そういう感情は子供にもたくさんある。 子供が読んで、ほんのりわかる負の感情が、書かれた本。 大人が読むと、甘酸っぱい気持ち。 疲れてるときに読むのもいいかも。 日本人だなあ、といえば、今日は母が七草粥を作っていた。 どちらかというと薄味好みではあるいけれど、それにしたって現代っ子の私にとっては、お菜が入っていても七草粥はうすい。 でも、おかわりした。 そういうものだ。 |
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| 2003年01月06日(月) 役に立つ、それが何? | ||||
| 2003年の初出勤。 予想通りの寒い朝。0度近かったはずだ。 JR博多駅の信号故障でダイヤが乱れきって、慌てて迂回して私鉄とバスを乗り継ぐ。 私はけっこう会社が近いので遅刻せずにすんだけれど、年始の朝礼に間に合わなかった人も何人もいた。 ったく、JRさんよ〜。 夕刊によると、25,000人も迷惑したらしいぞ!! 仕事のほうでは、4時半くらいになって、予期せぬ、そして私たちでは防止しようがなかった問題が発見される。 さすがに早く帰る人が多い中、初日から2時間の残業。 急なトラブルなんて、仕事につきものだけれどさ。 何も今日でなくたって。 「ちぇ〜〜〜」という感じだ。 ま、小さな谷だろう。 さて、ネットでお知り合いになって、もう2−3年は経つお友だちに、むぎさんという方がいらっしゃって。 今日の彼女の日記に、大共感! (ここでその文章にリンクを貼りたいのだけれど、 ご本人の承諾も得ないうちに、そこまでするのは失礼かな?と思うので控えます。 私のHPのリンクページに、むぎさんのサイト、載せてます。 彼女の今日の日記はもちろん、静かで凛とした「むぎ写真」を是非ごらんあれ!) 社会に出て即、生かせる勉強を大学においてすること、 それこそが正しくて素晴らしい、という風潮って、あるよなあ、と思う。 もちろん、実践的な勉強だってすばらしい。 でもそればかりが、もてはやされているような気がする。 その背景には、大学という最高学府であるはずのところで学んできた人間が、必ずしも実社会に出たときに活躍しない、 もっと言えば、「役に立たない」ってシチュエーションがあるのだろうということも、よくわかるのだけれど。 私は文学部出身なので、在学中も、社会に出てからも、 「大学で勉強することなんて、役に立たんよ」 とか、 「文学部? 学校の先生になろうと思わんかったん?」 とか、さんざん言われてきた。 ええ、大学の講義や演習が、直接、この仕事に役立った!なんてこと、ないよ。 わかってる。 そう、大学で習わないことで、 人間として身につけるべきこと、経験したほうがいいこと、たくさんあるよ。 あたりまえに、身にしみて知ってるよ。そんなこと。 でも、「社会で役に立つ」学問のほうが、そんなにエライの? だいたい、そんな学問、あるのかなって気もするけど。 こういうことについては、おなじみ森博嗣が書いたシリーズの主要登場人物の一人、犀川先生(大学の助教授という設定。)が、面白いことをいくつも言っているので以下に引用しちゃおう。 『僕ら研究者は、何も生産していない、 無責任さだけが取り柄だからね。 でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ』 (「コンピュータばかりが増えてしまって、 人間は何をしたらいいんですか?」という問いに対して) 『何かをしなくちゃいけないなんて、それこそ幻想だ。 (中略)仕事をすることが人間の本質ではない。 ぶらぶらしてるほうが、ずっと創造的だ。 それが文化だと思うよ、僕は』 (学生に、数学は何の役に立つのか、と聞かれたら?という問いに) 『なぜ、役に立たなくちゃいけないのかって、きき返す。 だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。 音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。 最も役に立たないということが、 数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。 人間だけが役に立たないことを考えるんですからね』 『研究ってね。 何かに興味があるからできるというものじゃないんだよ。 研究そのものが面白いんだ。 目的を見失うのが研究の真髄なんだ。 君が今、殺人事件(の解決、つまり犯人さがし)に夢中なのと同じ。 君だって、殺人が好きなわけじゃないだろう?』 音楽だって芸術だって、気持ちを豊かにするという意味では「役に立つ」けど、 ここでの「役に立つ」は、きっとそういう意味じゃないし。 前後の文脈がないので、ちょっとニュアンスが正しく伝わらないかもしれないけど、 引用した言葉、その意志を感じるだけで、私は楽しくて嬉しい。 「役に立つ」っていうのは、結果であって。 それは人間の人生の目的の一つかもしれないけど、全てじゃないと思うんだ。 生まれてきて、学校に行って勉強したり友達できたりして。 仕事だってして。 (私だって学生時代もさんざん労働したし、 今は実務家のヒヨコなんだし、仕事、実務の難しさや素晴らしさはよくわかってます。) スポーツをしたり歌を歌ったり旅をしたり。恋に落ちたり。子供を育てたり。 そういう、もろもろ、いーっぱいの経験があって、一人の人間ができていくわけでさ。 そして、友だちや子供や顧客に直接、あるいは間接的に、仕事を通して社会や産業に対して影響を与えたり、与えられたりして、みんな生きてるのが当たり前でしょ。 これこれに役立つから、この勉強をしなさい。 なんて、大学で、そんな直接的な勉強をするほうがエライの? 効率がいいから? 効率がいいって、人生においてそんなに大事なこと? 何を勉強したって、しなくたって、それで役に立つとか立たないとかって、 全然、問題にするようなことじゃないと思うんだけど。 いきなり書き始めたから、まとまらないな。長いし。もう深夜1時だ。 とにかく、 「そんな勉強して何になるの?」とか、 「大学で勉強したことなんて」とか、 そういうつまんないこと言う大人にはなりたくないな。 自分よりずっと年上の人が、そういう瑣末なことを言うのを聞くと、がっかりするし嫌気がさす。 学校の勉強がすべてじゃないなんて、小学生だって知ってるよ。 学校だろうが社会だろうが、 どこで勉強した事だって、感じたこと・考えたことだって、人生でたくさん学ぶことの一つ。 何だって、生かせる人は生かせる。 どのように生かすか、いつ生かすかだって、その人しだい。 たいして興味もないことを、 「就職に有利だから」「会社に入って役に立つから」勉強しなさい、なんてさ。、 そんなことばかりに大人が価値をおいちゃいけない。 すぐに役に立つことばっかり学ぶ必要はないよ。 人生は長いし、君の人生は君のものなんだから。 大人だったら、そういうふうにデーンと構えてほしいよね。 ちなみに私は、小学校中学校の勉強は、できるだけしっかりやったほうがいいと思ってるんだけどさ。基礎だから。道具と同じ。 もちろん、それを考えること学ぶことの面白さがわかるように、興味深いように教えるのが大事で、難しいんだろうけど。 |
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