| 2014年05月28日(水) |
母と実家に行き、祖母を見舞った。 |
書き物はまあぼちぼち。最近進行具合がぐっと落ちたが、実家のことや祖母のことなどに忙殺されているからだろう。時間はないわけではないが、集中できない。でも原稿用紙換算で90枚超えたぜ。ワイルドだろ。
今日は、一日仕事が休みという母に予定を合わせ、昼から休みをもらって母と一緒に実家に帰った。母の私物の最終確認と探し物、そして庭の樹を見るためである。
母が着の身着のまま突然実家を追い出されたのは、ちょうど27年前の春だった。準備をして出て行った訳ではなく、本当に昼まで普通に生活していたところを夕方に突然放り出されたので、今でも母の私物が少し残っている。もちろん、本当に大切なものは追い出されてから早い時期に持ち出した。
そんなわけで、最後に必要なものがないかの確認。まあ、予想通りなかった。
探し物も出なかった。まあ、これも予想通り。
最後に、庭の樹の確認。この家の庭の樹は、母が植えて育てたものである。そのあとも、てめえが時を見つけては剪定していたが、今回家を潰すにあたり、庭木も処分しなければならない。あまりに大きな樹は、もう仕方がないので植木屋に処分してもらうが、小さなものは母の家に持ち帰りたいという。
持ち帰る樹を選んでもらい、実家をあとにした。もう、来ることはないかもしれない。あと何度かは来るかもしれない。てめえが小学校2年生の時から、断続的に高校3年生まで過ごしたこの家には、正直よい思い出がほとんどない。
祖父母と同居しなければ、両親がそれまでのように住み続けていただろう。そのうち子供が独立し、母があの家の台所に立ち、父は好きなことをしていたかもしれない。そして独立した子供たちの帰ってくる場所になっていただろう。
しかし今は祖父も亡くなり、祖母も叔母の家に移り、父も呆けててめえと同居し、この家には誰も住まなくなってしまった。
「家は生き物」だと言う。人が住まなくなった家はあっという間に朽ち果てるが、てめえの実家も朽ち果ててはいないがもう死んだようになっている。たまに空気を通しに行っていたが、それももう不要になった。もう、誰も帰ってこない家になってしまった。
新築してから30年ちょっとなので、リフォームしたらまだまだ住めるだろう。しかしそういった点も含めてもうしかるべき人に依頼したので、あの家がどうなるのかはもうてめえの手を離れた。
母も淡々としたものだった。滞在時間はさほど長くなく、やるべきことを終えたらさっさとあとにした。
帰り道。祖母の話をしていて、母が突然「やっぱりお見舞い行っておいた方が良いやろか」と言い出した。今までは、やせ衰えた祖母をみたら申し訳なさすぎて鬱になる、などと言っていたのだが、久しぶりに実家に行って何か思うところがあったのだろうか。
「せや、今行っとかんと後悔するで」と、てめえは今までと同じことを言った。
そんな訳で、帰り道の途中に寄り道をして祖母の病院に行った。母と祖母が会うのは一体何年ぶりだろうか。おそらく、あの実家を追い出された27年前の春の日以来ではないだろうか。
祖母の病室に入って、母が祖母の側に行った。それはとても自然だった。そしてどこから出るのかわからないくらいの優しい声で母が「おばあちゃん」と呼びかけた。涙なんて一滴もない、むしろあらゆる悩みから解放されたような笑顔をそのときに母は見せた。
それまで眠っていた祖母はわずかに目を開けて、小さく肯いた。祖母には母の姿が見えているのだろうか? いつもはてめえが見舞った時も、呼びかけたときには目を開けることがあったが、すぐに目を瞑っていた。しかし今日は違った。祖母はずっと、母の方を見ていた。そして母が何か話しかけるごとに、小さく肯いていた。祖母は、母だと認識したのだろうか、あるいは看護婦さんなどと思ったのだろうか。
おばあちゃん、痩せたね、と、母は笑いながらいつまでも祖母の髪を優しく撫でていた。母が見舞うのはおそらくこれが最初で最後だろうが、二人の間にあった27年間のあれこれはすべてこの瞬間に解決したのではないだろうかと思った。
| 2014年05月27日(火) |
Airmac time capsuleが届いた! |
仕事から帰宅したらなんともう届いていたので、さっそく色々とセッティング。接続は早くなったし、DELL機からのデータ移行もスムーズだったが、いままでのapple製品と違って「神」ぶりがいまいち伝わってこない。もう少し使い方についていろいろと調べてみようかな。まあ、自動バックアップしてくれるというだけで十分「神」かもしれん。
多分問題は、time capsuleに入れたデータをiPhoneやappleTVですぐに利用できないと言うところにあるのだろうと思う。なんかいい方法はないか考え中。
最近、残念な人を見ている。そして残念なことに、男性では一般的に見られるタイプの残念さ。
「俺は仕事ができる」「俺は人間関係も広い」と本気で思っている人は多い。実際にそうなのだろうが、その多くは、「看板」だけで勝負している。つまり、顧客や「友人」と信じている人は、彼ではなく、彼の背負う看板とつきあっているのだ。これは悲しい話だが、よくある話だ。
どうえもいいが、てめえは仕事ができるとも思っていないし人間関係も狭い。広げるつもりは毛頭なく、付き合いで飲みに行くくらいなら数少ない気の置けない人と飲みに行った方がよっぽど楽しい。仕事関係の飲み会はよほどじゃないと行かないので付き合いが悪いやつだと思われているが、それでいい。その方がどうでもいい誘いもない。くだらない付き合いで飲むくらいなら家で一人晩酌のほうがよほどいい。大局的に意味がないことはわかっている。
てめえはいつも「もうすぐ死ぬとしたら、どうするだろうか」という視点で考える癖がある。そういう人生を送ってしまったせいもあるだろうが、でもそれだけではないだろう。明日死ぬとしたら、この飲み会に参加するか? だいたいはしないという結論になる。それがとても大切な人との食事だったら、万難を排して参加する。だって、明日死ぬかもしれないんだぜ。そんなことはないけど。
話は戻るが、仕事関係の交遊を大事にする人は、概して勘違いすることがある。そうでなく、全く割り切っている人もいるのだが、勘違いしている場合はちょっと悲しいことになる。
「俺は仕事ができる」「俺は人間関係も広い」と本気で勘違いした行き着く先は看板からの「独立」だ。自分一人でもやっていける、顧客もついてくる。バックアップしてくれる友人もいる。
しかし、そうではない。多くの人はその人の看板しか見ていないし、看板を下ろした彼と心中する人もいない。
思いが外れた彼は、仕事がうまく行かないだけではなく家族からの非難にも晒される。仕事中心で家族を顧みなかったからだ。仕事がうまく行っていたからこそつながっていた家族関係が崩れるのはある意味必然である。仕事にも参加させてもらえず家族からも見放される。
仮に「天使」のような家族がいて、彼の代わりに家計を助けようとしても、多くの場合破綻する。なぜならば、そういった男性はプライドが高すぎてそういう事実を受け入れられないからだ。受け入れられる人はそもそも家族より仕事を優先しない。
明日死ぬのなら、どうするだろうか。てめえは間違いなく仕事はしない。状況にもよるけど。切羽詰まっていたら、仕事をきっちりして死ぬだろう。そうでなければ、愛する人の作ったものを食べて笑って死にたい。そして、その場に娘がいてくれればもう思い残すことはないだろう。
| 2014年05月25日(日) |
AirMac time capsuleを買ってしまった! |
今日も見舞いに行ってきたが、祖母の病状は落ち着いていた。ただしかなり傾眠気味で、ちょっと回復は難しそうだ。そんなわけで、早めに実家を売っておきたい。もう話は進めているので、てめえとしてはあとは待つばかり。
今売れると、祖母の取り分はそのまま祖母の分になる。売れる前に祖母の寿命が尽きてしまうとややこしいことになるのは間違いない。法的にはその場合、父と叔母が折半することになるのだと思うが、最後までお世話したのは叔母なので祖母の分は叔母にで良いと思う。
家屋に全く価値はないので更地にして売るつもりだが、土地は立地もよいのでそれなりの値段で売れるだろう。そんなわけで、我が家に入った分は寄付と資産運用にまわす。てめえが払ってきた固定資産税などの維持費も今後は不要になる。
Macbook airを購入してから、本当にパソコン環境が激変した。こんなになるとは正直全く予想していなかった。ただ、一つのデバイスとして使うだけだと思っていたが、あまりに便利なので他のパソコンを全く利用しなくなった。のみならず、kindleも利用しなくなった。やりたいことはほぼ、このMacとiPhoneで完結する。
とすると、次に欲しくなるのはAirMac time capsuleでしょう。笑 いまのところデータ管理は音楽も自炊データも含めてすべてクラウドで管理しているが、さらにバックアップできると心強い。
しかし、もちろんそれだけではない。というよりも、むしろ他の目的がありまして。要は外付けHDDとして使うつもり。今はデスクトップのwindowsマシンに1TBの外付けHDDをつなげているのだが、そこに入れているデータをすべて管理する。
そして、これが一番の目的なのだが、そのHDDには山盛り動画が入っているのだ。これをtime capsuleを使用することで、家の中にあるすべてのデバイスで動画が見れる。これは凄い。てめえはApple TVもすでに導入しているので、テレビでも見ることができる。こうやってどんどんとアップルの罠にはまっていくのだね。しかしすげえ楽しいぞ。この「楽しさ」はwindowsでは全く感じない。ついでに「快適さ」もね。
そんなわけで欲しくなったのだ。いつものてめえなら、それなりに調べてから導入するか結構じっくりと検討するのだが、今回はもうしない。笑 なぜならアップルの製品に裏切られたことはなく、むしろ知らなかった喜びを必ず与えてくれるからだ。
とすると次はiPadか。笑 しかしタブレットの必要性を今はあまり感じないので、もう少し先になりそうだ。とか言ってすぐに買うかも。笑
自宅の茶葉がなくなりそうなので、一保堂でいつもの茶葉を買い足すついでに、新茶を購入してきた。さっそく頂いてみたが旨いっす。これでしばらくは楽しめそうだ。
「大辞林」によると
投資:利益を得る目的で,資金を証券事業などに投下すること。「新事業に―する」 投機:偶然の利益をねらって行う行為。
ということになる。そんなわけで、今日はお金の話。もう、物書きが行き詰まって逃避しているんです。
普通、人は賃金や年金、あるいは不労所得など、なにがしかのお金を得て生活している。得たお金と使ったお金に差額が生じた場合、多くはそれを銀行預金にまわすだろう。特に日本では、それが当たり前のように行われている。
しかし、それでいいのだろうか? 例えば、今の政権はインフレターゲットとして年2%の成長を目指している。これが実際に実現した場合、自分の持っているお金も1年あたり2%以上増えないと、相対的に資産が減っているということになる。つまり、今の雀の涙のような銀行預金の金利では、まったく話にならない。むしろ、資産運用としては最低の方法である。
では、どうしたら良いか。「お金を増やすにはどうしたら良いのか?」について考えてみる。
まずは、投機以下のものから。
「宝くじ」
なんと恐るべきことに、控除率は55%である。つまり、売り上げの55%はどこかに持っていかれ(多くは自治体に行くので、それをよしとする人は購入しても良いだろう)、残りの45%を購入者で分け合うというシステム。つまり、100円の宝くじは、購入した瞬間にその価値が45円しかない債券と一緒なのである。一攫千金を狙うのであればまあありかもしれないが、資産運用にはなり得ない。
「馬券」
馬券の控除率は、単勝と複勝は20%で、連勝は25%である。従って、前者は購入したとたんに100円の馬券が80円の価値しかない債券である。後者に至っては75円の価値しかない。
しかし、馬券に関しては上記のハンデがあるにも関らず、「勝つ」要素はあると思っている。それは「単勝」である。控除率も低いということ、なにより競争というものは、「1位」になるものというのはある程度決まっているのだ。2位には運の要素も働くことがあるが、1位に関してはほぼ「必然」である。これはどんなものでもそうで、会社の経営者しかり、将棋や囲碁しかり、あるいはサッカーや陸上しかり、トップに立てるものというのは限られている。
「株式やFXなどのデイトレード」
ここから、投機と投資の話。短時間で行われる取引というものは、基本的にほぼ「ゼロサム」である。つまり、勝っている人と負けた人の総量はゼロになる。勝った人がいるだけ負けた人がいるのだ。そこで「いかに勝つか」を考えることになるが、その取引の性質上、最終的にはイーブンになる、つまり勝負の期待値はイーブンに落ち着く。要は、リスクとリターンは同じということになる。簡単に結論つけると「博打」である。
この場合において、勝つための作戦を練るのはもはや全く意味がない。「あればとっくに開発されている」し、「ない以上最終的にイーブンになることしか期待できない」ということになる。
いつも思うのだが、これは錬金術に似ていると思う。錬金術からいろんなサイエンスが生まれたが、錬金術そのものは誰も成し得なかった。あり得ないことをしようとしたからいろんな理論が生まれた訳で、デイトレードに関しては本当に様々な理論がある。しかし残念なことに、「博打」同様優れた理論は存在しない。あるとすれば、博打同様「答えを知っている」インサイダーのみである。要は「投機」でしかあり得ないということである。
デイトレード(正確にはスイングトレード)で巨万の富をえたBNF氏がいるが、彼は「ファンダメンタルもテクニカルも知らない。ただ自分の中にある理論(というか勘だろうな)のみで勝負している」と公言している。しかし彼は例外中の例外だろう。
「株式や投資信託などを長期にわたり持つ」
基本的に、資本主義社会である限り、経済は成長していく。物価は基本的に上がり続けるし、給料も上がる。そして株価も上がり続ける。1社だけ見れば上下しているように見えるだろうが、全体としては上がり続けているのだ。
例えば。日本が2%の成長を続けることができた場合。この場合、10年では20%(正確には、複利が効くので約22%となる)も成長する。つまり、100円で買ったものは120円になっている。
今、多くの人が好きなように100万円分の株を買ったとしよう。誰も売り飛ばさなければ、10年後は平均して120万円になっている。中にはそれ以上に儲かっている人もいれば、損をしている人もいるだろうが、総和を考えると勝っている人の方が多くなる。これが「投資」である。
日本はバブルがあったので、一時的に株価が上がりすぎた時期があったが、アメリカのダウ平均などは基本的に上がりっ放しである。つまり、基本的には常に「史上最高値」を更新している。ちなみに、ダウ平均の最高値は2014年5月13日。その後少し調整したが、また近いうちに最高値を更新するだろう。
ということは。最初の問いに戻る。「経済が成長しているのに、ほとんど増えない銀行預金で資金をプールしているのは最低」と書いた。じゃあどうするのが一番良いのか。それは、てめえの資金をほぼ経済成長とリンクしている「インデックスファンド」で持つ、ということである。しかも、経済が成長するにつれて買い足していくのが最も効率が良いし、この方法だと絶対に経済成長率以上のリターンを得ることができる。「ローリスク・ハイリターン」である。
投機は、要は博打である。趣味で人に迷惑をかけない範囲で行うのであれば勝手にやれば良いと思うが、てめえの大切な資産を殖やす目的であれば、全くお勧めされないどころか意味がないと考えている。
| 2014年05月23日(金) |
バイクって、危ないから乗るんだよ。 |
てめえが中型二輪の免許を取ったのは、だいたい20歳くらいの頃だったと思う。普通は免許証を見ればいつ取得したのかすぐにわかるのだが、てめえは残念なことに「うっかり失効」を1回やらかしているので正確な取得日はわからない。まあ、だいたい20歳くらいの時。
沖縄での激務から解放されて、京都に帰ってきたときに、わずかな余裕を利用して念願だった大型二輪の免許も取得した。そんなわけで、てめえは二輪に関してはすべての車両を運転することができる。ハーレーにも乗れる。いつか乗ってやる。
「で、クルマの免許はなんで持ってないの?」
とよく聞かれるのだ。確かに、世の中には二輪の免許を持ちつつクルマの免許も持っている人が多いし、あるいはまったく運転免許の類いを持っていない人も多い。しかし、クルマの免許を持たずに二輪の免許だけ(しかも大型まで)持っている人は、てめえくらいの年齢になるとほとんどいないと思う。
なぜか。クルマは安全で便利だからだ。若いうちはバイクばかり乗っていても、大人になると必要に応じてクルマに乗るようになる。クルマに乗ることができた方が仕事の幅も広がるし、荷物を運ぶのも便利だ。何より、天気に左右されない。そして多くの人は、バイクに乗らなくなる。あるいは、レジャーでのみバイクを楽しむ。
バイクに乗っていてつらいのは、天気だ。雨のときに備えてレインコートは常に常備しているし、それでも急な雨の場合は全身びしょ濡れになることもある。ここでも書いたが、沖縄で研修していた時。わずかな時間ができたので北谷にラーメンを食べにいこうと思ったら、途中で雨でびしょ濡れになって、結局食べられないまま帰ってきたのだ。
どうでも良いが、名護から北谷は結構遠い。まじめに距離を調べてみたら、なんと50kmもあった。つまり、京都市から豊中市までの距離に相当する。これは凄い。よくバイクでラーメンを食べにいこうと思ったな。しかも何も食べずによく帰ってきたなと思うわ。何と言っても往復で100kmやで。
まあ、天気に関して言うと雨なんてかわいいもので、雪で凍結した路面とかはほんまに危ない。決してこけることのないクルマの比ではない。
そう、クルマはこけないのだ。二輪は用意に転ける。従って、居眠り運転や飲酒運転はあり得ないのだ。
多くの若者はバイクに憧れて免許を取る。二輪は運転していても楽しい。しかし、とても危ないのだ。体はむき出しだし、何かあれば大怪我をする。天気にも左右される。しかし本当に危ないのはそんなことではない。本当の二輪の敵はクルマである。
二輪を敵視するような幅寄せをするクルマがいる。そしてウィンカーも出さずに左折する多くのクルマ。この場合、巻き込まれて死ぬのはバイク乗りである。二輪にずっと乗っていると、明らかな殺意のあるクルマに出会うことはよくあることだ。殺意がなくても、何気ないクルマの操作が二輪の運転者を殺すことはよくある。同じ衝撃がバイクとクルマに与えられれば、どういう結果になるのかはアホでもわかる。逆に言うと、クルマに悪意があればバイク乗りの命は簡単に左右できる。もちろんその逆はあり得ない。
そう、バイクに乗り続けるということは危ないのだ。賢明な人間はあるときにそのことに気がついて、クルマに乗り換える。
「お前もあっち側に行くのか?」と中二病なことは言わないが、バイクは危ないから乗るのだ。危ないから、安全に乗ろうとする。それはクルマ乗りの比ではない。事故を起こしても、よっぽどのことがないとクルマ乗りはまず命に関わらないが、体が剥き出しであるバイク乗りはあっさりと死ぬ。だから、安全に乗るのだ。
ウィンカーもしっかり出すし、一時停止もしっかり止まる。前後左右の確認は生命線である。何かあれば、死ぬのは自分。安全に走ることのできないバイク乗りは自然淘汰されるのだ。
そのかわり、バイクはいろんな喜びを与えてくれる。
季節が変わるとバイクでの風景も匂いも体感温度も変わる。ツーリングしていて、山に入ると空気と温度と匂いが変わったことがすぐにわかる。海に近づくと、潮の香りをふわっと感じる。
暑い夏はひたすら向かいから熱風を浴び、寒い冬は完全防寒して凍結し得る路面に恐怖しながら、部屋や人のぬくもりを求めて走る。ほんまになんでこんなことをしているのだろうとたまに思うが、これが「バイク乗り」なのだろう。
そんなわけで、長年無事故でほぼ毎日二輪に乗り続けていることは、てめえの密かな誇りである。そして長年戦い続けてきたクルマの免許を取ることはないだろう。てめえは死ぬまでバイク乗りでいたいと思う。
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