世の中ってそんなに平等ですか?

中学時代のこと、私は学区が数十メートル違ったために
片道で2キロはあろうかという通学路を歩かされた。
500メートルほど行った所に別の公立中学があるのに、だ。
歩いて20分もかかるのだから冬場の寒さは堪らない。
まだ体の出来上がっていないヒヨッコには辛い道のりであった。
さすがにたまらないので友人にこう漏らした
「一定以上の距離から来ている人間には自転車通学を認めたらどうだろう」
そういうと友人はこう返した
「一定距離と言うが、その一定距離にギリギリで満たなかった人間は
 不公平さを感じるから平等ではない」
確かにもっともな意見だが、それ言い出すと学区割りも
随分と平等では無いではないか。
おかげで私は人生の中で暗黒期とも言える暗くて辛い思い出ばかりの
苦しい中学時代を送る羽目になったのである。
高校に進学した際、自転車通学を認められたのは
高校の近くの区に済んでいる人間だけであった。
私立と公立の違いを差し引いてもやはりあの友人は
平等ではないと主張するのだろうか。
しかし平等というのは一体何なのだろうか?
例えば学校で制服を着せる理由の一つに見た目の裕福さを
服装で区別させないためという話を聞いたことがある。
はぁ、確かにもっともな理由ですな。
でも制服を採用するんだったらお昼は弁当にせずに給食にしろよと。
お弁当の中身でも結構家の内情がわかってしまうんですよ。
裕福な家庭の子は保温機能がついているお弁当箱に入れてきたりするし。
これだけでも見せかけの薄っぺらい理想主義の欠片を見せられた気はしますが、
そもそも平等な社会、差別の無い社会と声高に叫ぶけれど、
本当に世間の人は平等な社会を望んでいるのかは怪しいもんです。
例えば世の中お笑いブームですが、お笑いの根本の部分にあるものって
他人に対する優越感であるところが非常に大きいわけです。
例えば池乃めだかが何故背が小さいだけで笑いが取れるのかということを
考えてみればよくわかるでしょう。
たいぞうが頭の弱いキャラで売っているのも同じで
人の優越感を刺激して笑いを誘うのはピエロの頃から変わっていない。
差別の無い社会なんて言うけれど、差別の無い社会が本当に出来上がれば
お笑い芸人の60%は失業してしまうでしょうな。
単なる偽善で平等だの差別だの唱える前に何故このような社会で出来上がったのか
それを考えていかなければ思考停止状態に陥ってしまう。
もっと考えることが世の中に欠けている気が最近よくします。
嗚呼、自分でも書いていてよくわからなくなってきた…
2005年02月13日(日)

あれあれ

今週は全然日記を書いてなかったではないですか。
えらいスンマセン、ボチボチと書いていくんで
ボチボチと見ていってください。
2005年02月12日(土)

詳しくはグラジャガのHPで

ライブが終わった後はついつい「真夜中ドライブ」を
口ずさんでしまいます。やっぱ良いよなぁ、この曲。
グラジャガのスタッフ日記で書いたとおり
多分今生の別れになってしまったかもしれないけれど
ああいう気持ちになったことが成長したことなのかも。
そういう気持ちの後押しをさせてくれる、
そして心のトゲを抜いてくれるそんな気持ちにさせてくれる
不思議な魅力をグラジャガは持っているな、と改めて感じた日でした。
2005年02月11日(金)

教えてくれてありがとう

先日友人から
「サッカー批評にあなたの研究にバッチリ当てはまる記事が載ってたよ」
というメールをもらってサッカー批評を初めて買ってみました。
サッカー批評という雑誌。その名の通りサッカー雑誌なのだが
季刊でどことなく堅いイメージがある上に何だか理屈臭そうで
敬遠してました。でもこれがなかなか通好みな記事が多い上に
ワールドサッカーダイジェストのようなセリエ最高!
というようなミーハーな記事が少ないのに凄い好感を覚えました。
いやいや、採算を度外視しているというか
サッカーというスポーツをジャーナリズムの視点で切り込んでいる
その姿勢に脱帽してしまいそうになる雑誌でした。
まぁ、サッカーに対して真摯な姿勢がないと何一つ面白みが無い
という風にも取れますが…
2005年02月10日(木)

ああ、なるほど…

先日テレビ放送していた「フランケンシュタイン〜」は
結局エンディングが海外版だったのね。
唐突にデカイ蛸(しかも淡水湖から!)が現れるという
ある意味有名すぎるこのエンディングはもちろん別撮り。
エンディングが何種類もあるというのは最近では珍しくないけれど
この当時では斬新だったのだ。いや、斬新というよりは
商業的な都合上というのが実状ではあるんですが…。
そもそも何故蛸が出てくるのか?これは海外版ということを
考えてもらうと答えは安易に出てくる。
海外、特に欧米では蛸は悪魔の生き物というように恐れられており
食べるのもおぞましいと考えられていたのだ。
確かにあの8本足でヌメヌメとした外見は気色悪いことこの上ない。
その上非常に強い歯を持っており、人間もしばしば噛まれるとの事。
聖書(だったと思う)に出てくるクラーケンという海の魔物も
蛸がモデルらしい。(イカとかクラゲという説もありますが)
そのため映画に蛸が出てくると凄く怖がられるので唐突に出したそうである。
最近でこそ蛸のマリネなど比較的蛸に対する欧米人の偏見は無くなった様だが
昔は意外と恐れられていたのである。
おっと、ここでギリシャ時代に蛸はあまり恐れられていなかった
なんてマニアックな話を持ち出すのは厳禁ですぜ。
ギリシャは海洋民族だったから身近にあった訳であって
(イカ、いや以下この話は省略)
2005年02月09日(水)

祝・発売

残像カフェ「あたらしい日々」発売されました。
梅田のタワレコでは特設コーナーがあって
大きなPOPまで作られていました。
楽曲の良さに見合う扱いになっているのが
非常に好感が持てました。
今回はズドンとくるキラーチューンは無かったんだけど
聴き込む度に良さがにじみ出てくるアルバムです。
2005年02月08日(火)

覚えてなかったんですが…

「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」が昨晩やってたので
録画して見てみると、ドイツはフランクフルトの風景が写っている
(多分ミニチュアだと思うんだけど…)おお、去年行った大聖堂が
ちゃんと写っているじゃないですか。すっかり忘れていたが
怪獣映画の足跡を辿る旅を知らないうちにやってたんですなぁ。
で、その怪獣に愛着のない監督が作ったのが今回最後といわれている
「ゴジラ ファイナルウォーズ」な訳で、やはり愛着がないと
良いものはできないんだなぁと痛感させられる痛々いしい映画でありました。
やはりビッグ・マウス北村龍平。日本で嫌々やるんだったら
とっととハリウッドに行けよ。っていうかいつ行くんだ?
しかし、それと全く正反対なのが「アイアン・ジャイアント」の監督
ブラッド・バード。彼の新作「Mr.インクレディブル」では
彼のヒーローに対する愛情が満ち溢れ、非常に憎い演出が凝らされている。
やはりわかっている男は違う。どこかのビッグ・マウスと違い
粋というものを心得ているのだ。願わくばこんな良い制作者が
これから多く育つことを願いたい。
2005年02月07日(月)

あ…

阪神の新外国人スペンサーを初めて見たんだが、太りすぎ。
もうこの時点で「だめだコリャ」という展開だが、しかし
一つ気になるのはアリアスをどうして解雇したのかということ。
確かに波が激しいところは困ったものだが、
使えるかどうかもわからない新外国人よりは計算できるではないか。
ローズ(元横浜、ロッテの方ね)みたいに衰えがあるわけじゃなし。
鳥谷や葛城の偏重や関本が構想に入っていなかったり
岡田はやっぱりダメな監督であることを表していますなぁ。
2005年02月06日(日)

困るなぁ、国民の不安を煽る報道をしてもらっちゃ…

ボウリングフォーコロンバインでもやっていたんだが、
どうも日本の報道はアメリカと同じで恐怖を煽るのが好きなようである。
例えばW杯の北朝鮮戦に対する報道。
はっきり言うが監督がジーコでも普通にやれば勝てる相手である。
データ不足で不安かもしれないが、恐れることは無い。
また殺人事件とかの報道が異常に多いのだが、
しかし身の回りでそう頻繁に起こっているわけではない。
確かに治安は悪化したかもしれないが、それにしたって
異常に反応しすぎなところも否めない。
そして何よりも問題なのが集団自殺に対する報道。
こんなものは報道しなくても良いんですよ、ホント。
だってこんなもんを大々的にしちゃったら後を追うバカが
ワンサカと沸いてくるもん。現に沸いてきたでしょう?
死にたい奴は勝手に死なせておけば良いんですよ。
どうせ一人で死ねない根性無しが集団でしか行えないことなんだから。
生活苦で本当に苦しんでいる人間の辛さもわかっちゃいない甘ちゃんが
軽々しく自殺するようなもんを社会の歪だとかで盛り上げちゃいかんです。
根性無しを大々的に取り上げるなら、永田町の能無しどもを
もっとつるし上げたら良いじゃないですかね?
くだらんことで国会の期間を使うんならもっと身のある話し合いをしろよ。
そのくだらんことを報道するマスコミもいけません。
本筋と離れたところで騒いでいる能無しどもを糾弾するくらいでないと。
特に太田房枝とか大阪府知事とか府政のトップとか
大阪場所で土俵に上がりたいと騒いでる女性とかの批判をしなきゃ…
2005年02月05日(土)

病気

私は文字を目にした時に困る病気を抱えている。
いわゆる中島病という奴だ。ここでピンと来た方は同志である。
中島病とは一体どんな病気か?それは次の文字を見て欲しい
「児童3人らも犠牲か?」
普通の人なら何も反応がないと思うが、私にとっては大有りなのである。
児童3人とらもが犠牲になったのか?と見えるのである。
つまり児童3人と中島らもが犠牲になったのかと認識してしまうのである。
これはらもさんがお亡くなりになられてから現象が顕著になってきたのだが、
どうも新聞の見出しなどで「らも」という文字を見ると
「らも=中島らも」と脳内で変換され反応してしまうのである。
実に困った病気である。中島らものファンでもかなり困った種の
病気であるといえる。これは一生ついて回る病気なのかもしれない。
死してなお影響を与え続けるとはらもさんも罪作りな人である。
(ここで大半の人から「そんなことあるかい!」とツッコミが入る)
2005年02月04日(金)

Dag Soliloquize / tsuyo