今日は手短に

Super Bowling@大阪バナナホール
残像カフェ/ANATKIKOU/NONA REEVES/Clingon

あ、楽しいな♪
良い音楽に出会えて楽しいな♪
2003年11月07日(金)

隠れ家

私は隠れ家を持っている。
と言っても本物の隠れ家ではない。
コーヒー専門の喫茶店を隠れ家と呼んでいる。
このお店が実に隠れ家にピッタリなのである。
場所は神戸・元町の大丸近くにあるビルの地下だ。
木製の調度品を基調とした店内はクラシックが流れ
落ち着いた雰囲気を漂わせている。
コーヒーの値段は600円から800円ほどで少しが値が張るが、
それに見合うだけの味は保証する。
普段は紅茶党の私ですらここのコーヒーが美味しいと
感じるのだから、好きな人にとってはたまらないだろう。
スタバやドトールなどには無い深い味わいがある。
コーヒーが美味い街・神戸を象徴しているようなお店だ。
そしてこのお店が隠れ家にピッタリと思う一番の理由は
地下にある店なので携帯電話の電波が届かないということだ。
これは隠れ家としては大きな利点である。
何かと携帯電話に振り回される現代生活から離れ
落ち着いた雰囲気の中上質のコーヒーに舌鼓を打つ。
人生の至福では無いだろうか。
ただ、この隠れ家、定休日が不定休というのが玉に瑕である。
2003年11月06日(木)

究極の選択

昨日あんなことを書いたら、
明け方に「はだしのゲン」の夢を見てしまった。
しかも微妙にゲンのお姉ちゃんが主役やったりするし…
それよりも、あんな酷いことする奴に見せてやってください。
ということで昨日は久しぶりに頭に血が上って
収拾のつかない文章を書いてしまいました。
読み返すとちょっと恥ずかしいです。

さて、今日は究極の選択を求められました。
手持ちのお金が三千円しかなくて、
目の前にpillowのニューアルバムと
Polarisのニューアルバムが新発売のアルバムらしく
二つが並んでディスプレイされています。
ここで私は大いに悩みました。
最近琴線に触れる曲が少ないが長年のファンであるpillowsか
先行シングルが気持ち良過ぎるほど見事なPolarisか。
う〜ん、う〜ん、う〜ん。
pillowsはアルバムが気になるんだよなぁ。
アルバムの出来でツアーに行くかどうか決めようと思ってるし、
Polarisはもう文句の無い出来であるのは確かだし…
嗚呼、どうしようどうしよう。
目の前ではPVがビデオで流れています。
オオヤさんが物凄く気持ち良さそうに歌ってる…
特典はどっちもついているし、どうしよう…
見比べた結果、値段を見て結論を出しました。
その結論とは如何に…
2003年11月05日(水)

だ・か・ら…

ということで、例の日本シリーズ中の地獄のような
野球ネタ地獄を反省した「しばらく野球の話が続いたので」
という枕は今日からは取っ払うことが出来ます。
さすがに1週間も続けるとイヤミったらしくなってきてね。

さて、11月である。
もう今年もあと2ヶ月を切ってしまったのである。
自分の中ではまだ夏のイメージしか思い起こせないのだが、
ずいぶんと世の中も寒くなってきたものである。
いや、秋で気温が寒くなってきたからというのは
少し違うのかも知れない。
というのも、ニュースで知ったのだが、
最近広島の原爆に関するモニュメントへのイタズラが
相次いでいるという。これは嘆かわしいを通り越して
もはや情けないというレベルに達しているのではないか。
確かに終戦から60年近く経ち、当時のことを語る人が
少なくなったのも事実であり、記憶が風化しつつあることは
否めないが、しかし、それにしてもである。
原爆に関するモニュメントというのは極端な話
お墓に近いものがある。犠牲者を弔うもの故にそのような
意識を持たなければならない。
そういうお墓に対してイタズラをするとはどういう事か?
ましてや原爆の犠牲者に関するものである。
やったのは浮かれポンチのアンポンタンの若者だろうが、
こいつらは一体何を考えているのだろうか。
果たして奴らは原爆の被害に関する写真などを見た事が
無いのであろうか?(以下想像力が豊かな人は見ないように)
黒焦げになって炭化した少年の遺体は?
抉れて骨が露出してしまった腕は?
熱線によって着物の柄が焼きついてしまった皮膚は?
ただれてケロイドになってしまった顔は?
ちぎれた指や爪は?眼球が飛び出して繋がった神経だけで
目をぶら下げて苦しみながら歩いている人たちは?
そんな悲惨な状況を伝え聞かされていれば
普通の神経を持っている人間はイタズラなど出来ない筈である。
しかも恐ろしい事に原爆ドームの柵を越えて侵入している
不届き者がいると言う始末である。
記憶がおぼろげだが、確かあそこは原爆の熱線によって
座っていた人の影だけが残っている階段があったのではないか?
座っていた人が熱によって蒸発してしまったのか、
遺体が残っていたのかは失念してしまったが、
そんな痛ましい痕跡がある場所に遊びで入るなど
もはやキチガイとしか言いようが無いのではないか?
就職先が決まらないからムシャクシャして千羽鶴を燃やした
馬鹿もいたが、ああいう奴は全員そろって原爆の被害状況を
調べさせてみてはどうだろうか?
自分たちがどれほどの愚行を犯したのか、
被害に遭われた方や遺族の心をどれだけ傷つけたのか、
そして、今、何事も無く生きている自分たちが
どれだけ生きたくても命を奪われてしまった人々に比べ
どれだけ幸せであるかということを思い知らせるべきではないか。
人類史の中で伝えていかねばならないことはたくさんあるが、
こと、ナチスのユダヤ迫害、特に強制収容所に関する事と
米軍による広島長崎での原爆を使った人体実験は
後世への人類の凶行に対する戒めとして確実に伝えていかねば
いずれ人類自身が自らの手で首を締める事になりかねない。
不埒な人間が増えたという事は人類が自分の首を締めるために
自ら手をかけ始めた前兆なのかもしれない。
2003年11月04日(火)

地獄鼻

しばらく野球の話が続いたので今日は野球の話。

何とは言わないけど、臭いますね。
プンプンと怪しい臭いが。

どこが野球の話かって?
怪しい臭いというので察してください。
この日のニュースを調べればわかりますよ。
2003年11月03日(月)

kihonnha

Shibaraku yakyuu no hashi ga tuduita node,
kyou ha ro-ma ji no hanashi.

Chotto shukou wo kaete ro-ma ji de nikki wo utte mimashita.
Yominikuidesho?Yominikuidesho?
Demone kaite iru hou mo tottemo kakinikuinn desuyo!
Korekaraha amari konnna kibatuna kotoha yaranai node
goannshinn kudasai. Datte yatteru hou mo komarunndamon.
Sorenishitemo koredake Eigo no bunnshou wo utteru to
kannchigai suru hito ha irunndarouka?
Sore ha sore de omoshiroi toha omoukedo,
chotto hito wo ochokurisugikanaa...
2003年11月02日(日)

沈筒式

しばらく野球の話が続いたので今日は技術の話。

以前携帯電話があまり好きではない話をしましたが、
それにも増して携帯電話についているカメラは大っ嫌いなのである。
200万画素などで騒いではいるが、あんなものは
カメラではない。そう私は言いたい。
そもそも皆さんは「画素」という言葉に騙されすぎである。
デジカメを2台所有しどちらとも検討に検討を重ね
どれが良いか徹底的に勉強した人間だからあえて言うが、
デジカメの性能は画素ではなくCCDとレンズである。
これは間違いの無い事実だ。いくら画素数が多くても
それを取り込む光学装置であるレンズとCCDの性能が
良くなければそのデジカメはカスである。
特にCCDは大事だ。ここで難しい話をすると混乱するので
あえて言わないが、某O社が去年出した500万画素機は
同程度の性能を持つ400万画素機の写真と比べると
明らかに400万画素機の写真の方が綺麗であった。
これはひとえにCCDの性能によるもので、画素が多くても
それを活かすCCDが無ければ無用の長物になってしまう。
レンズにしたって写真が歪んでしまえばいくら画素が多くとも
意味の無いことになってしまう。それに付随することで言えば、
映像エンジンの性能だって見捨ててはならない事実である。
普通のデジカメでさえなかなか難しい技術なのに
携帯ごときについているおまけのカメラで威張らないで欲しい。
それに携帯電話のカメラのほとんどが光学ズームを持たない。
つまりはデジタルズームというハッタリズーム機能で
騙されているのである。それだけじゃない。
いくら画素数が多くなってもあれだけの小さい機体に
どれだけのCCDが積めるであろう?そしてカメラとして
生を受けた機体でないものにどれだけの写真が取れるであろう?
携帯電話のカメラはおまけ程度の性能でいいのである。
30万画素もあれば充分である。100万画素以上はいらない。
カメラとして本格的に使ってはいけない。それは
カメラに対しての冒涜であり、写真に対しての冒涜である。
だから携帯電話のカメラで満足してはいけない。
ついでに言えばカメラ業界の市場を携帯電話が荒らしてしまう。
そのことについても恐れている。以前にも不況の原因は
携帯電話の一人勝ちだということを論じたが、
最近はデジカメによって好調であったカメラ業界まで
携帯電話によって土足で荒らされてしまっては
景気がますます悪くではないか。
カメラ業界、そして日本経済のためにも携帯電話のカメラなどで
満足してはいけないのだ。
私は日本経済のためにもあえて提唱する
「携帯を捨てて街に出、物を買うべし。消費を促進せよ!」
と。携帯電話に支配される時代は終わった。
第三世代に進化する必要は無い。
人間の生活の基本的な部分をもっと見直すべきである。
2003年11月01日(土)

確信犯的ボケ

しばらく野球の話が続いたので今日は何だかよくわからない話。

ところでうただひかるの渾名は何故ヒッキーなのだろう?
ヒキガエルを潰したような声を出すからか?
ヒキガエルのような顔をしているからか?
それとも将来R&Bの大御所達に「偽者」と言われ
ひき肉になる最期を予見しているのか?
それともマニアなダンナを引き込んでくだらん映画を
作らせて映画会社に損失を与えて、その代償を払えと
引っ切り無しに電話がかかってくる未来を予言したのか?
まさか、いずれヒキガエルのような体になるとか?
…まさかとは思いますが、一応断っておきます。
タイトルにあるように確信的にボケていますので
由来の本当の理由はわかっていますのでメールで
教えたりしないでください。無駄な労力となります。
いや、音楽的な才能は認めるが何か気に入らないんで、
上記のようにおちょくってみたまでです。ざまぁみろ。
全米デビューとかする前に学校に行け、戯け!
広末も全国の浪人生を敵に回したんだから卒業しろ、腐れ外道!
卒業する気が無いんなら早稲田なんかに入るな、アホンダラ!
代わりに落ちた人間が何人いると思っとるんだ、ボケナス!
しかも教育学部だろ。教師希望の人間が行くとこじゃないか。
教員を一人無駄にしてしまったんだぞ、その重大な事実を
悟ったのか?簡単に退学とか抜かすな。お前は一人の受験生の
未来を潰してしまったという十字架を背負って卒業せねば
犠牲となった受験生が浮かばれんではないか。
それを軽々しくも放棄しやがって、そんな根性が無いのなら
人にYahooBBを薦めるな、このロクデナシ!
嗚呼、いかんいかん、言葉が悪くなってしまった。
断っておきますが、私は早稲田に行きたかった訳ではないので、
別に上の文章に出てくる受験生というわけではありません。
浪人生ではありましたが…。
おっと、くだらん話をしてしまった。
つまるところ何故上の二人に怒っているのかというと、
世の中には勉強したくても諸事情で大学に行けないという人が
まだまだいるんです。そんな人たちがいるのに、
上の二人と来たら、勉強したいかどうかも怪しい上に
自分のキャリアに箔を付ける為に一流校に入学したわけです。
そんなことだから学校に行かなかったり、退学したりするのです。
本当に勉強したいんなら勉学に専念するために仕事休め!
騒がれたくないんやったらナタリー・ポートマンみたいに
名前変えて入学するくらいの根性見せろ!
と私は言いたいのです。そもそも大学に何で行くのか。
日本人はこの行為自体を見失いがちです。
大学というのは勉強をしに行く所です。
遊びに行く所でも、授業をサボりに行く所でもありません。
就職のために必要だから大学に入ったとか言うんなら、
いっそのこと日本のシステムを変えてしまうべきです。
勉強したい人間は大学に行く。仕事に必要な資格がいるのなら
職業専門学校という大学に代わる学校を作って、そこで
将来に備えるべきです。ハッキリ言って、勉強したくないのに
大学に来た人間が授業の妨害をするのは邪魔以外の
何者でもありません。勉強する興味がもてないは持っての他。
勉強しに来た人間にとって迷惑この上ない。
などと思っているのですが、多分、こんな単純な理論で
世の中動くとは思っていないし、ある意味大学というのは
自分の自主性を試される場所なんじゃないかなと感じてます。
まぁ、私は大学に入ってから随分と頭が悪くなったような気が
ここ数年痛感せざるを得ない状況になっていますが。
嗚呼、高校の時の頭の切れが欲しい…
2003年10月31日(金)

持病

しばらく野球の話が続いたので、今日は文学の話。

病気が出た。
といっても体を患ったわけではない。
ここ数年間抑えていた「司馬遼病」が出たのである。
数年前に一度この病気が出た。
その際は戦国物特に桃山時代から幕藩体制が
完成するまでの物語を多く読んだ。
つまりは真田関係及び大阪の陣に関する物語である。
今回はふと思い立って幕末から明治にかけての
諸作品を読んでみたくなった。つまるところ
一人の作家の作品を読み漁りたい、そんな病気である。
この病気に関して言えば私は慢性的な「中島らも病」
というものも抱えているが、今回の「司馬遼病」は
実に久しぶりだった。何故発病したかは覚えていない。
ただぼんやりと頭の中に司馬調の文章が浮かび上がり
それからはどうにも気持ちを抑えられなくなり
書店に向かうことになった。ちなみに彼は高校の先輩である。
しかし、書店で書棚を前にして、はたと困ってしまった。
いかんせん作品が多すぎて選ぶのに困ったのである。
通常司馬作品における幕末物といえば「竜馬が行く」が
代表作ではあるが、いきなり代表作を選ぶのは私の性に合わない。
と、なるとどの作品を選ぶべきか。
ここで一つの自戒を決めた。
新撰組に関するものはタブーとする。
理由は実に単純である。
来年の大河ドラマになり注目を浴びているから。
それだけでは無い。歴史ファンの中には色々な部類がある。
私などはいわゆる真田者と呼ばれる真田幸村及びその関係者の
趣向を持っているが、それ以外にも武田者を始め戦国時代に
ロマンを感じる者と同数で幕末にロマンを感じる者がいる。
もちろん幕末派にもいくつかのグループがある。
その中でもとりわけ人気が高いのが新撰組である。
特に婦女子からの人気は凄まじく、彼女達に言わせれば
新撰組は美男の集まりであるらしい。しかしながら
私は新撰組は単なる乱暴者の集団にしか思えないため
大して興味は起こらなかった。それ故に新撰組に関する
「新撰組血風録」や「燃えよ剣」などは除外した。
さて、あとはどうするか、である。
私は幕末の志士では久坂玄瑞というひどくマイナーな
志士が好きなのだが、彼を主人公にした作品は無い。
かするくらいであれば「世に棲む日日」がある。
確かにいいかもしれない。ただ、まったく別の視点で
違う志士に関するものを取り上げてみるのもいいかもしれない。
ならば「峠」もあるし「十一番目の志士」や「花神」もある。
もちろん短編で暗殺に関するものを集めた「幕末」もある。
また幕末から明治にかけてならば大河ドラマにもなった
「翔ぶが如く」もある。いやいや大河ドラマなら
「最後の将軍」もあるではないか。
しかしどうも決め手にかける。ここは一つ幕末から離れて
明治期に関する話にしてみてはどうだろうか?
「アームストロング砲」とか。そうこうしているうちに、
一つの作品に手にしていた。「坂の上の雲」である。
この作品に関しては多くを語らない。いや、語れない。
何しろ今読んでいるのだから。ただ一つ言えることは
正岡子規が主人公の一人として登場している。
彼の詩作に関する業績は今更語るまでも無い。
しかし彼の業績はそれだけでは無い。
彼が何故野球の殿堂入りを果たしたかご存知だろうか?
もはや有名な話となってしまったのでここでは明かさない。
それはご自分で調べていただきたい。
ということで最後は野球の話になってしまった。まいったか?
(ちょっと腰砕けになってしまいましたゴメンナサイ)
2003年10月30日(木)

ダニエル・ダ・クルス略してダニ

昔アヤックスにこういう↑選手がいたのだよ。
さて、しばらく野球の話が続いたので、今日は音楽の話。
といっても今日の話はおそらく敵を増やすであろう話なので、
嫌な予感がする人は決して読まないように。警告です。

さて、近頃B'Zの人気の無い方がプロデュースして
昔の日本の名曲をカバーするとか言うCDが出た。
ハッキリ、言おう。先達に対しての愚弄であると。
なぜこのようなCDが出たのか、その魂胆は見えている。
おそらく本人にその話を聞いても
「過去の偉大な名曲たちに敬意を表して」
などと建前をのたまうことであろう。おそらくそんな意図だ。
しかし、そんな薄っぺらい当たり前の言葉に騙されてはならない。
彼らのCDに参加している人間を見れば目論見は一目瞭然だ。
まずB'z、そしてZARD、倉木麻衣などなど。
これを見て何かに気付かなかっただろうか?
みな一時は頂点に立ちながらも落目に入ったアーティスト達だ。
しかも事務所まで同じだ。こうなると結論は一つ。
最近にわかに流行ってきた昭和歌謡を出汁に落目の連中が
ブームに乗っかろうとしているのだ。
ああ、浅ましい浅ましい浅ましい浅ましい浅ましい。
何が悲しゅうて安っぽいハードロックにした「勝手にしやがれ」
を聞かされにゃならんのだ。何が悲しゅうてチャラチャラした
「異邦人」を聞かされにゃならんのだ。これは冒涜である。
おまけに志が低い。
その昔北条政子は承久の乱に際して御家人たちに
頼朝公の恩義は山よりも高く海よりも深いと説いたが、
それの例を借りれば、彼らの志は天保山よりも低い。
ちょっと表現が違ってきたが、日本海溝よりも低い。
生半可にブームに乗ろうとしているところに志の低さが伺える。
もちろんカバー自体は悪いことではない。
島谷ひとみという歌手がいるが、私は彼女がオリジナルの
曲を歌っているのを聴いたことが無い。おそらくオリジナルも
探せばあるのだろうが、とりあえずはカバー専門の歌手と
そういうイメージで売っていくのだろう。
それはそれで大変潔いではないか。しかし彼らは違う。
れっきとしたオリジナルのヒット曲を持っているのだ。
確かにみな注意して聴かなければ同じ曲に聞こえてしまう
そんな弱点を持ってはいるが、一応はアーティストである。
カバーと昭和歌謡という二つの流行に、それも二つとも
安易に乗ってしまうとは大変嘆かわしい。
どうせカバーするなら自分達が一番輝いていた90年代初期の
自分達のヒット曲をセルフカバーすればよいのだ。
そして今は亡きWANDSやT-BOLANといったアーティストの曲を
カバーして彼らの功績を今一度クローズアップすれば良いのだ。
そうすることによって90年代の音楽を再び流行らせ、
自らムーヴメントを起こしていけば良いのだ。
アーティストたるものそれくらいの気概が無ければならない。
安易に人のものに乗っかっているだけではなく、
自らが作り出していくのが創作というものなのだから。
それが出来ないアーティストは音楽界に巣食う
ダニエル・ダ・クルス略して…としか言いようが無い。
以上毒舌辛口後ろから刺されちゃいそう独論でした。
2003年10月29日(水)

Dag Soliloquize / tsuyo