心の時間は過ぎ去りて

日頃通らない地元の商店街まで歩くと、
驚かされることの連続である。
いつの間にか自分の知っている風景と言うものが、
全く無くなっているのである。
この商店街は物心がつく前から連れられてきているので、
よく知っているはずだった。
そして、いろいろな思い出がそこにあるはずだった。
その風景はもはや無い。
人も風景も時代と共に変わっていく。
それは当然の摂理だ。
変わっていくことは悪いことではない。
人の生活も変わるのだからそれだけ街も変わっていく。
しかし、人間というものは厄介なもので、
いつまでも心の中にあるものにしがみつきたくなる。
懐かしい風景であればなおさらだ。
しかし、変わったことは現実だ。
それは受け止めなくてはならない事実である。
だからと言って悲観することもそう無いとも思う。
心の中の時間では今でもその風景は残っているのだから。
2002年03月07日(木)

遠く遠く

人というものは時にさまざまな試練を受ける時がある。
それはあまりにも残酷で思わず目を背けたくなるものだ。
その試練というものは多くが別れというものだと思う。
肉親や友人、恋人。人は生きているうちにさまざまな人に出会う。
しかし出会いがあれば別れがあるのも当然であり、
また、人は多くの別れを経験して成長していくものである。
しかし、仲には別れたくない人がいるのも事実で、
そんな人と別れなければならないのが試練なのだろう。
人との出会いは一期一会と言うが、実際にそうである。
たまたま電車で隣に座った人だって明日必ず会えると言うわけではない。
むしろ、そうやって隣に座っていること自体が奇跡に近い。
旅先で出会った人、それも海外で出会った外国人の人に再び会うことは
ほぼ不可能に近い。それだけに再会できた事が嬉しくなる。
しかし、そのような人との出会いは旅だけではなく、
日常生活にも多くある。道ですれ違うこと自体が偶然の産物なのだから、
出会い、友達になり親しくなることは、出会ったことに
もっと感謝するべきことなのかもしれない。
自分には大事な友人が多くいる。
その友人達はそれぞれの自分の世界を持ち、
その世界の中に自分が接触したこと自体が奇跡なのに
その上その世界で友人として認識されるようになる。
こうして世界は広がっていく。
しかし、いくら大事な友人でも別れの時は確実にやってくる。
それは価値観の相違や遠く離れてしまったり、形は様々だが
「死」というもっとも恐れるべき形でやってくることもある。
今まで自分の世界にいた人間が突然遠い世界に行ってしまう。
そして永遠に戻ってこなくなる。
渡したかったもの、伝えたかったこと、全てを残して
自分には手の届かない遠い遠い別の世界に行ってしまう。
会うことも話すことも触れることも二度とできなくなる。
それが喧嘩の最中だったりすれば、後悔しても仕切れない
自責の念に襲われるのは確実だ。
もし、一度別れても生きていれば再び関係が戻ることもある。
しかし、遠い世界に行ってしまうと関係はおろか会う事すらできなくなる。
今、自分が抱えているもの、自分の周りにあるもの、
全てを見渡して改めて思う。
自分にとって大事なものに感謝し守っていかねば、と。
2002年03月06日(水)

遠くアムステルダムは夜更けを過ぎて

Ajaxというチームを自分はどうしてこんなに好きなんだろうか?
多分それは自分のサッカー観に一番影響を与えた
ヨハン・クライフの存在が大きいのだと思う。
多分クライフがいなければ今の自分のオランダ好きも無かったし、
攻撃的サッカーへの関心と言うのもそんなに無かったと思う。
まだ僕がバレージが好きな頃、もちろん自分の中では
イタリア代表が一番で、もしクライフに出会わなければ
そのままカテナチオを信奉していたかもしれない。
それだけクライフの存在は強烈だった。
ヨハン・クライフ。1947年4月25日生まれ。
幼少の頃に父と死別し、母親はアヤックスのスタジアムで
清掃員をやり生計を立てていた。
路地裏でサッカーをやり始め、アヤックスユースに入団。
その後17歳でアヤックスとプロ契約をし、
アヤックスにチャンピオンズカップ三連覇を始めとして
数々の栄冠をもたらす。1974年のワールドカップでは
「トータルフットボール」と呼ばれる先進的なシステムで
旋風を巻き起こすも決勝で皇帝・ベッケンバウアー率いる西ドイツに
敗れるがその年、自身三度目の欧州年間最優秀選手賞を受賞する。
この年の夏にバルセロナに移籍し、低迷していたチームを
宿敵レアル・マドリードに大差をつけ優勝。
バルセロナ市民から救世主と呼ばれる。
その後、アメリカに渡り数シーズンを過ごした後、
スペインの小チームに所属する。このときが彼のキャリアの
一番惨めな時であったかもしれない。
しかし1981年からは古巣アヤックスに戻り、
若い世代に魂を植え付けていく。
往年のスピードは無いもののテクニックに衰えは無く、
チームに再び活気を取り戻すことに成功させたのも束の間、
ライバルフェイエノールトに移籍してしまう。
そこでも、彼自身の実力を如何なく発揮し、リーグ、カップの二冠を
チームにもたらす。(ちなみにこの時は背番号10が多く小野入団時に
「クライフの付けた背番号14を受け継いだ」なんていうのは嘘である)
そこで彼の現役のキャリアは終焉を迎えるが、そこで終わる彼ではなかった。
再び古巣アヤックスに戻りTDとしてチームを総括し、カップウィナーズカップ
等を獲得する。ちなみに彼の役職がTD(テクニカルディレクター)なのは
オランダにおける監督のライセンスを持っていないためである。
その後バルセロナの監督に就任し、リーグ戦4連覇を始め
チームとしては初のチャンピオンズカップ優勝をもたらし、
クライフ監督の率いるクーマン、ミカエル・ラウドルップらのチームは
当時のバルセロナ五輪のアメリカ代表バスケットチームにちなんで
「ドリームチーム」と呼ばれた。しかし、健康上の問題を抱え
心臓の手術を二度行い、タバコとは縁を切っている。
また、チームが不振に陥ったために95年に突然解雇されたものの、
バルセロナ市民からは英雄として扱われている。
また、彼のサッカーの理論は「美しく勝利せよ」で
「1−0で勝つくらいなら4−3で負けたほうがましだ」
という言葉を残している。その攻撃サッカーへの精神は評価が高く
現在でも監督要請の話が絶えないが、本人はピッチに戻るつもりは無く、
若手の育成に従事し、サッカー界全体のレベルアップを図るべく
さまざまな事業を行っている。
2002年03月05日(火)

結果

1対1の引き分けでした。
やはりAjaxはシャドーストライカーの不在が大きいようで、
得点機は作るもののもう一歩が出ないという展開。
結局引き分けという結果に終わったものの
やはりこの試合は勝っておきたかったのが正直なところです。
一応勝ち点差は5点ついたもののもう少し差を広げられれば
今後の展開が楽になるはずです。
やっぱりRafael君の負傷は大きいなぁ。
2002年03月04日(月)

予告

首位に返り咲いたものの
得点源Van der vaartを怪我で欠き
攻撃陣の爆発が無くなったAjax
一方UEFAカップでAjaxOBが多く在籍する
レンジャーズを破り波に乗るフェイエノールト
リーグの覇権をかけてその両者が今夜激突する
次節
「決戦アムステルダムアレーナ!」
2002年03月03日(日)

それぞれの道

東京から友達が帰ってきた。
その友達は高校時代下宿していたにも関わらず
皆勤をとったという非常に偉い友達で(おいおい)
東京の大学に行ったのでなかなか会うことができなかったのですが、
こちらに帰ってきたということなので、
その時のクラスの友達数人(これまた久しぶり)と
会うことになった。
感想。
やっぱり高校の友達は一生の友人だ。
別れ際が惜しいと思える友人はなかなかいません。
家に帰ってからショッキングなことがあったために
余計にそう思えます。
自分にとって友達は一番大事なものだと。
だから、今揉めている友達との仲を考えると…
2002年03月02日(土)

帰ってきたここ天

今日家に帰ると珍しく葉書が届いていました。
何の葉書だろうと思って中を見てみると……
おおっーーーーーーーーーーーーーー!!
最近連絡の無かった友達から年賀状代わりの葉書が届いていました。
その友達は現在アナウンサーを目指しており
進学校から大学に行かず養成所に通っており、
事務所にも所属しているためになかなか連絡が取れなかったそうです。
しかも年明けから体調を崩していたらしく、
この時期になってしまったという訳で
懐かしい感じがしました。
彼自身は高校在学中から事務所に所属していたらしく、
コンテストなどで何度も本選に出場していました。
そんな彼に出会ったのは数年前。
とあるラジオの高校生を集めた放送に出演した時に
偶然知り合ったのがきっかけでした。
お互い似たような道を志す人間だったので、
意気投合し、現在に至ったわけです。
彼自身の実力は疑いの余地は無いので、
前途は明るいでしょう。
2002年03月01日(金)

今日で二月も終わりです

明日からは三月か…
13日が火曜の日記の主役・鈴里真帆の誕生日だったな。
月末にはプロ野球開幕か…
明後日から指輪物語も公開だったよなぁ…
え?「ヘドヴィグ〜」は関西では30日から!?
冗談キツイで。東京は今公開中やん。
去年から話題やのに四月近くに公開って
そら殺生でっせ。
仕方が無い。それまでは「必殺」で凌ぐか…
…………それ以外の映画は?

P.S Nさんへ
キシリトールのピンクミント(?)ありがとうございます。
味は…ミントのわりに甘いですね。
構えていたのでNさんのおっしゃるとおり
子供用風邪薬のシロップという感じではなかったのですが、
この手の物では及第点ではないでしょうか。
今日は帰り道でお粗末な話を聞いていただきありがとうございます。
来年度もよろしくお願いします。
2002年02月28日(木)

人も遠くに流りけり

今日は水口最終日。
今日の講座が終わると
もうこの町に行くことが無いかもしれません。
それを考えると行き帰りの風景を
しっかりと目に焼き付けておこうと思いました。
行こうと思えば行ける範囲ですが滅多な事で
ここに来ることはないでしょう。
そう思うと感慨深いです。(同じことを繰り返してるな…)
残念ながら最後は雨でしたが無事終えることができました。
此処で出会った人たちの今後の明るい未来を祈るばかりです。
2002年02月27日(水)

衝撃の一枚

郵便が届いたので見てみると
体の中を稲妻が迸りました。
その郵便の内容が
「鈴里真帆二枚組ベストアルバムリリース決定!」
というものでした。
ええっ!鈴里…確か名前を変えて洋楽っぽいの出してなかった?
いつの間に本名に戻ったんだ?
っていうかなまえを聞かなくなったと思ったらベストかよっ!
いくらなんでもそりゃねぇだろ!
しかも未収録の音源を収録って言われても買う魅力無いよ。
今、日本にどれだけ鈴里ファンがいるんだろう…
少なくとも僕は3rdアルバム辺りから心が離れて行ったから。
良い楽曲に恵まれれば今の訳のわからん女性ヴォーカリストよりも
売れると思うんだけど。声は良いし実力もあるんだから。
あっ、曲目の中に「YES」が入ってない!
それだけで僕は購買意欲を思いっきり削がれたぞ。
しかも値段が3990円って、中古で千円出したら殆ど揃うゾ!
……えっ、LIVEもやるんですか?
なになに一緒に出てくるのが
…橘いずみ…
…酒井ミキオ…
…篠原美也子…
…モモノミコト(いつカタカナに変えたんだ?)…
…藤重政孝…
……音楽業界の亡霊の集まりか?
2002年02月26日(火)

Dag Soliloquize / tsuyo