モクジ | 今ヨリ、カコへ | 今ヨリ、ミライヘ
| 2013年05月05日(日) |
(その3) 苦と執着 |
◇経集(スッタニパータ) 738-739偈(げ) ---
楽(快感)であろうとも 苦(不快感)であろうとも
ふつうであろうとも
自分の内部でも 外側でも
好きとか 嫌いとかの 対象として
感受されたものが 存在しないだけ
楽・苦・ふつうを全て
「これは苦しみだ 偽物だ 変滅するものだ」
と、感受の接触ひとつひとつを 見つめるものは
欲望から離れる
◇経集 742-743偈---
執着によって 存在が発生する
存在するものは 苦を受ける
生まれたものは 死ぬ
これが苦しみの原因
※生まれたものは死ぬ=執着によって生まれた存在は、いつか消える
※熱心にやっている自分=執着=自分の存在感
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以上。
よく知らない私がこんなことを言うのはアレなのですが
今回のお話は、「やさしい仏教哲学」なのかな?
今の自分にとって、とてもためになりました。
そして、
心は体。体が変れば脳も変わる。
ということを再確認した1時間40分だったかも〜。
来月のお話しも楽しみ♪
| 2013年05月01日(水) |
(その2) unsatisfactory そして not-self |
(前回の続き)
拙いながらも、まとめてみました。
箇条書きにしてしまったので、お話しの雰囲気そのものが伝わりにくと思いますが。
これらのことは、お腹に力が入っていない感じの声で(笑)
淡々と、ほぼ感情を込めずに語られ、お話しが進んでいきました。
なんというか、強制される感じが全くなかったんですよね〜。
それがとても良かった(^o^)
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脳は、
気持ちよいことを・満たされることを求めるように出来ている。
そういう機能のもの。
だが、根本的には"満たす"ことなど出来ない。
満たされてもそれは一瞬、次の瞬間には苦がくる。
どんなに好きなもの、熱中するものがあっても、ずっと同じテンションで好きでは居られない。
飽きる時が必ずくる。
好き、飽き、好きと繰り返す。
うつろいやすいものである。
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自分が
自分の
自分は
自分を
自分に。
強烈な自己中心性
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自分の体が、自分にとっては一番である
(体は認識をする装置。これがないと自分が困るのである)
体の状況が、全てに影響する。
なので、自分の体に起っていることで、機嫌や、考え方や、あれこれがいろいろ変ってくる。
他の人の苦しみそのものを認識することはできない。
体は自分の体であって、
他人の体ではない・他人の体にはなれないのだから。
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同じモノを見ても、自分と人は絶対に同じ見え方にならない。
隣に並べばいい? いや、隣にならんだとしても若干位置はずれる。
全く同じに見たいならば、その人の体を乗っ取り、その人の目の位置で見なければならない。
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人は生きるうえで、
友達と、恋人と、すなわち人と
わかり合いたい、共感・共有したいという希望を持つが、
同じものを見ても、絶対に同じ見え方が出来ないのと同様、
絶対にわかり合うことは出来ない。
絶対に正解はない。
認識は体に閉じ込められている。
故に絶対に、人と完全にわかり合うことは出来ない。孤独である。
だが、いくら完全にわかり合えないとしても、近似値に近づけることは出来る。
誤解を減らすことは、出来る。
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わかり合いたいのに、実際はわかり合えない時間の方が多い。
また、常に気持ちよくなりたいと願うが、実は不快な時間の方が多い。
完璧に欲求していても、絶対できない。
生きている上では、苦痛の時間の方が圧倒的に長いのである。
欲望や執着は強ければ強いほど、
消えるときに激しい断末魔の悲鳴をあげる、苦しみを生む。
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生きるということは、
絶対にクリアできない、イカレたゲーム。
でも、完全にそのゲームから降りることは出来ない。
おりることができないのならば、少しでも苦(苦痛)を減らすようにしていく方がよい。
それには。
追い求めなくなれば、それは欲望ではなくなる。
完璧主義にならない方がよい。
少しだけ力を落とせば、執着が減る、自分の苦痛も減る。
ありのままに受け止める。
そうすれば、余裕が出てきて、
立ち居振る舞いや言葉が、美しくなってくる。
生きていくということは、割に合わないものなのです(苦笑)