 藤が満開になりました。
 牡丹 ‘白王獅子’
 サガエギボウシに変わった葉を見つけました(右奥)。 芽変りのようですが、みるからに不安定な斑です。
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
IT成金のなかには、この世のなかにお金で買えないものはないといい放った青年もいたようですが、たしかにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、いまの社会のうそ寒さと釣り合うようです。市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産みだす無慈悲な場であるという事実を深く内面化しないかぎり、お金まみれになるということの「人間であるがゆえの恥辱」に気づくこともないのでしょう。「人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しない」とフランスのある哲学者は指摘しましたが、留意すべきはわざわざ「民主主義国家」と述べている点です。民主主義と資本の運動は必ずしも対立するものではなく、前者が後者の運動を円滑にしている面もあるということではないでしょうか。
 椿 ‘羽衣’ 普通の羽衣よりも色の濃い花(特に外側の花弁)が咲きました
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
こうした今日的世界では、前述の笑いとチープなシニシズムこそが悪い種子のようにあちらこちらに伝播していきます。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。そう笑っている者は人間ですが、腹話術師のように笑わせているのは人間ではなく、資本ではないかとぼくは思います。人間がいまほど資本の幻想に操られている時代はないし、資本の魔手から逃れる出口あるいはそのヒントは現在の視圏のどこにも見当たりません。先鋭なエコロジストたちも、エコロジーをもほぼ完全に商品化しえた資本の無限大の胃袋を前にしては顔色なしです。前世紀の後半にフーコーら先鋭な思想家、哲学者たちは「人間」という概念は時代遅れだとか「内面の時代」は終ったとかいいだしましたが、ひょっとしたら現在を予感していたのかもしれません。たしかに人類史上これほど内面の貧弱な時代はかつてなかったし、資本万能の時代もありませんでした。ハイデガーが言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタル(資本)と市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です。これが破局の源であり、世界規模の失意のわけなのです。
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
狂想モノローグ――「かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」
体調を悪くするほど腹を立てていたのは、しかし、別のことだったような気がします。それは、一言でいえば、この国独特のどこか安手のシニシズムのような空気でした。あれはいったい何なのでしょう。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。この国では、人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると、恐らく誰が教えたわけでもなく戦前からつづいている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます。何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか、それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意さえ抱いたものです。 結局、ああした笑い、それによって醸される空気(そこはかとない蹉跌感。かつてぼくが書いた「鵺のようなファシズム」とも関係があるかもしれません)が厭さにデモに行ったりしていたのかもしれません。いい歳をして本当は何もそんなにいきりたつことはなかったともいえます。第一、政治状況についてのべつ口角泡を飛ばし、紋切り型の正義ばかり主張するような輩をぼくは最も苦手としていました。わかりやすい正義と悪の模式のようなものを示して、他者を教導したり諭したり鼓舞したりするのを、仮にそれが大枠でまちがっていないにせよ、どうもどこかいかがわしいことのように感じてしまいますし。反動の政治でも革命の政治でも、政治であるかぎり信用できないのです。ぼくはかつて「人間をひと株の樹木に擬するとき、地下茎のない、幹や枝だけの立像としてしか語らないのが政治や社会制度である。人間身体の根茎が、まつりごとにいっかなまつろわぬものであることを、政治は嫌い、故意に存在を無視する。土台、相容れないのだ。」(「地下茎の反逆」、『眼の探索』所収、朝日新聞社刊、角川文庫)と書いたことがあります。いまでもそう思います。

 藤が咲き始め、クマバチが耳障りな羽音をたてています。
 牡丹の蕾(白王獅子)
 ハナイカダ(雄木)
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
思想なのか“心ばえ”なのか
あれは彼の思想がそうさせていたのか、それとも持ち前の性格とか、古い言葉で言うなら、“心ばえ”というものがそうさせていたのか、と。脳出血で倒れる前には、心ばえが一系列の思想の契機になり、翻って、思想が心ばえの背骨になる――くらいに理屈っぽく思っていたこともありましたが、いまは、人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いものがあると、割合単純に考えるようになりました。人は思想を愛するのではなく、自他の躰や内面を裏切らない心ばえをこそ安んじて愛し、自らの体内にもいつかそれが静かに芽生えてはこないかと待ちつづけるのではないでしょうか。
 ツマキチョウ(?)
 牡丹
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