日記でもなく、手紙でもなく
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旬のものという意味は、安くておいしいその食材が、その時期比較的大量に出回ること。昔多く採れても(獲れても)、今はそうでもないような食材もあるにはある。
月ごとに上旬、中旬というコトバがあるように、「旬」というのは、10日という期間を示しているわけだが、その前後を入れて長くても1ヵ月くらいの期間が<旬を味わう季節>になるという。
旬の季節に、同じものが数多く出回るということは、その界隈に同じ物を複数の店が置いている場合、店も競争して、より鮮度が高いもの、より美味しいもの、あるいはより安価に提供できるものなどを置いたりすることになる。これはこれでいいことなのだと思う。
けれど場合により、旬の魚の場合、例えば毎日焼いた秋刀魚を食べるというのは、秋刀魚が大好物で毎日でも飽きないという人なら別としても、それだけでは辛くなってくる場合もある。 鮮度の高い刺身は、確かに美味しいと思うけど、そんな刺身を少し食べるのが、一番美味しいと思う私の場合は、毎日同じ魚の刺身だけだと、これも考え物だなぁと、贅沢にも思ったりする。
旬のものは、確かに安くて美味しいのは事実だけど、もう一方では、いつも同じ素材が続くため、贅沢・勝手な食べ手から見ると「飽き」と隣り合わせの意味もある。 たぶんそこに必要なのが、その旬のものを飽きずに食べる「コツ」。
旬のものが出回る地域に、そのコツにあたる調理法が様々な形で存在しているかどうかが、一つの分かれ目だろうか。個々の家に、その家独特の調理法が、伝承されて息づいていることが、実は「食文化」ということなのかもしれないとも思ったりする。
イタリアという国が、マンマの味にこだわり続ける意味が、ひょっとしたらそこにあるのかもしれない。日本のマンマの味がカレーでも別に悪くはないが、それだけだと寂しい。
毎月買って食べる、というわけではありませんが、各季節に、今日はおいしいお茶でもいれて、和菓子でも食べてみようか、というような気になることはあります。
かなり以前、銀座の「とらや」で生菓子(ねりきり)を買ったのですが、高いのにさほど美味しくなくて、それ以来、2度とあの「やらと」と書かれたのれんをくぐったことがありません。 羊羹はおいしいという人もいるのですが、その店の菓子のおいしさを判断する目安は、私の場合いつも、ねりきり=餡の味。菓子職人が、更にどのくらい見た目に美しく、あるいはひきつけるように、デザインしているかもよくわかることもあります。
名前は忘れましたが、本郷にある和菓子の店(の一つ)とか、今まだあるのかどうか定かではありませんが、青山根津美術館そばの(あの庭園内に茶庵があって、そこで茶会が開かれるときによく使われているらしい)店とか、水戸の亀じるし製菓とかの生菓子は、比較的おいしかった記憶が残っています。とらやの生菓子よりは、ずっと良かったですね。
ただ、京都生まれの私からすると、京都の鶴屋吉信の生菓子が(安くはないのですが)なんとなく他の店のものより、美味しいような気がしてしょうがありません。その形に込められた職人さんの技なども、他と比べると、なにかひと皮もふた皮もむけているような感じもします。
鶴屋吉信というと、名前も売れてあちこちで見かけますが、大阪には大阪の、東京には東京の鶴屋吉信があって、3−4年前のことですが、比較的近接した時期に、この京都・大阪・東京の鶴屋吉信の生菓子を、続けて食べたことがあります。どうも、少し味が違うようにも思えました。 今の時点で、まだそうかどうかはわかりませんが、その時は、私には京都の鶴屋吉信のものがベストでした。生菓子なので、たぶんそれぞれの場所で作られていて、菓子職人さんも違ってくることになるのはわかりますが、餡の味がちょっと違うようにも(その時は)感じました。
もう一つ好きな店が金沢<森八>でしょうか。金沢に2回ほど行った折、ここの生菓子を買って帰って美味しかった記憶が強く残っています。 その森八が、この春くらいからでしょうか、池袋西武の地下に店を出しているのに気がつき、2回ほど買って帰りましたが、鶴屋吉信よりサイズはややこぶりながら「安い」こと、もう一つは、ゆずあんとこしあんの麩饅頭が買えることが特筆できる点でしょうか。 創業370年の歴史を誇っている店というのは、京都ですら、かなり少ないと思います。
あと、生菓子というのは店が有名になると味が落ちたりするので要注意ですね。
桜の木が並ぶ小学校の校庭沿いの道を通って買い物に行くとき、そのうち2本の桜の木に、花が咲き始めているのを発見。 咲いているとはいえ、各枝についたつぼみのうち、2つ3つ花が開いたという感じだし、残りの多くの木々は、一つも開いていない状況。でも、桜の花が咲いているのが見られるのは嬉しい。来週や再来週の日曜日は、この道を通るのが楽しみになる。
ぐるっと回って、一通り買い物が終わったら、夕立のような、かなり大粒の雨が降り始める。1時間ほどで小ぶりになっておさまるかと思ったら、一晩降り続く。 桜がちょうと咲き誇る頃に、一度にその花びらを落としてしまうような雨が多いのも、なかなか哀しい−−。
桜の花が、恐くなるほど美しく、また同時に、不気味なほど明るい感じの底無しの怖さをもって撮られていたのが、鈴木清順の映画だったような気がする。なにしろそれを見たのがかなり以前のことなので、ストーリーすらあまり記憶の中に残っていないし、キャストも曖昧でしかない。 が、圧倒的な凄みのある桜の花の、そのイメージを思い出させる映画。
私自身が清順の映画で見たと断言できるのが、「チゴイネルワイゼン」と「陽炎座」の2本だけなので、なかなか情けない話ではある。 タイトルの雰囲気からすると、陽炎座ではなかったかと思うが、なにかどちらにも、ぼーっと明るいおぞましいほどの桜の花のイメージが、確実に残っていたりする。
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