日記でもなく、手紙でもなく
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2001年02月14日(水) Valentine Day


 朝は、少し曇っていて、JR駅前まできたら、小雪がちらちらと。

 ヴァレンタイン・デイ。会社で少し高そうなチョコをいただく。ネットの友人からは、手作りeカードをありがたくいただく。

 午後友人から電話が一本。
 「チョコレートもらった?」
 「うん、一個」というと、
 「何ももらってないなら、あげようかと思ったの」と、そのおばさんは言う。

 ええい、相変わらずひとこと多いやつめ。
 「でも、電話わざわざありがとう。嬉しい」と言ってから、切る。


2001年02月05日(月) 心の治療

 思い残し症候群というのがあって、小さい子どもの時、親から愛情を注いでもらえなかった時に、成長過程や大人になった今も、過食症とか拒食症とか、集団不適応とか、内に完全にこもってしまう、あるいは、もうどうにでもなれという感じで、他人に対してものすごく攻撃的になってしまう、などということが出てくるという。

 香川大学の(たぶん臨床心理の)先生が、その思い残し症候群を治療するというのをTVのニュースでやっていた。

 親にやって欲しかったことを書いてもらい、その先生が(場合によりその奥さんが)その人の親代わりに、それをしてあげるという治療。大きい大人を子どもみたいに扱うので、先生もなかなか大変な作業。ミルクを哺乳壜で飲ませてもらったり、おむつを替えてもらう、あるいはご飯を食べさせてもらう、おんぶしてもらう、一緒に遊んでもらう−−等。

 26歳の女性も出てきたけど、先生に親代わりでそれらをやってもらう。親にしてもらうことを、そこで再トレースして、生まれ変わる。
 子どもの時親に甘えられず、それが尾をひきずっていて、そんなふうにしてもらうと、まさに子どもに戻っているようで、本人はとても気持ち良い表情の映像が映し出されていた。

 その治療を受けた人が、今自分の子どもと遊びながら、「もし治療を受けてないと、結婚して子ども産んで、今こうして自分の子どもと遊んでいるというのは、想像できない」という話は、説得力があった。
 だから今、子どもにそんなことをしてあげられる、子どもにそうしてあげたいと思う自分がいる、みたいなこと。

 親の愛情というのは、子どもの心を育てるにも、ものすごく大きな影響を与えている、というのがそれを見てるだけでも、ほんとうに良くわかる。
 TVカメラが入っているのだが、親にしてもらいたかったことをトレースしてると、本人はもうその気持ち良さのほうが上回ってしまって、カメラなんかもう全く関係ない感じで振る舞っている。

 もちろん、こういう治療だけで済む場合は限られるかもしれないけど、心の問題って実は何だろうか、みたいなことを、また少し考えたりも。


2001年02月04日(日) 京劇の女形

 興味深い内容の多い「地球に好奇心」(NHK-BS)再放送は、中国京劇の(ひょっとしたら最後の)女形をやってる人の話。今回、とりわけ興味深く見ることができました。

 京劇の女形というと梅蘭芳(メイ・ランファン)の名前は、私でも以前聞いたことのある人ですが、その息子さん(名前があまり見かけない字だったので失念)が、梅派の女形を継いでいます。
しかし、なかなかその後継者が出てこないし、なりたいと考える若手もいないという状況、あるいは京劇そのものの人気も、新しい娯楽におされ、かなり苦しくなっている状況と併せながら、梅派の演技を若い世代に伝えたいと考えていて、その人の現在の日常や、今も舞台に立つ姿などが、本当によく描かれていていました。

 後継者のほうは、次の2年で出てこなければ、また次の2年と、根気よく待つということです。

 文化大革命以降、女性の役は女性がやるという動きが一般化していく中で、男が女性を演じることで、女性らしさをどう表現するか、その知識や技能を、実は若手の<女性>の役者に伝えていっているところなども、後半部分に出てきていました。
 女性の役者にもそれがわかってもらえれば、また男性の女形が、そこから継承できるかもしれない、ということです。

 梅蘭芳は、仏像の手の形から、手や指の形と動きで心の動きを表現し、完成させていて、その記録が記念館にきちんと残されているのを見ると、やはり少しもったいないように思ったりもしました。
 日本の歌舞伎の世界は、これを見ると、まだずっと幸せなのかもしれません。

 演技の世界では、確かに「女らしさ」みたいなものを、客観的に捉え直してみないと、具体的な動きとして表現できない、というのはよくわかる理屈です。ただ、それと同時にもう一つ私などが思うのは、その上での「妖しい美」の世界というのもありそうな感じがすることです。
 例えば楊貴妃なんかだと、女性がそれを演じるのであれば、確かに「美人」の楊貴妃は、とことんまで出てくるかもしれませんが、「妖しいまでの美しさ」をどこまで出せるか、それを男性が演じることで、観客は息をのんでそれを見る、という構図が成立しやすいところもありそうです。

 宝塚のトップスターというのは、男役の場合が圧倒的に多いというのも、考えてみるとわからなくもありません。美男子の主人公を女性が演じてるわけですけど、女性から見た、そうあって欲しい男のイメージが、そこに具現化されて見えてくる−−みたいなことでしょうか(違うか?)。
 宝塚のこのシステムも、なかなかへたりませんし、一時期なんかより、それを支える層は拡大しているようにも思えたりします。

 梅氏が、やはりすばらしい役者がいないと、京劇は廃れる、ということを言っていました。
 今の中国に、やはり中国の玉三郎が必要なんだろうなぁ、そんなふうに私には思われた番組でもありました。


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