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まごれびゅ

 
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 スティーブン・ソダーバーグ『イギリスから来た男』 (99 米)


 なぁんてことないなぁ。ただの火曜サスペンスだね、というのは言い過ぎか(^_^;アハハ… と、糞ミソには言えないんだよなぁ。ボクの永遠のヒーロー=ピーター・フォンダだもん。多分にソダーバーグはそこんところを狙ってんだわさ。「それが60年代だ。いや、60年代じゃない。66年から67年の初めにかけてだ。」というセリフにはどきっとさせられる。ピーター・フォンダの「66年から67年の初め」というと"The Trip"。
 娘の事故死に疑いを持った父ウィルソン(テレンス・スタンプ)がイギリスの事故現場であるロスにやってきて、その事故を突き止めていくうちにバレンティン(ピーター・フォンダ)に行き当たる。と、このストーリーの本筋に別に関わってくるものがなくて、いたって単純。それはそれでいいんです。最近、あざとい偶然性をおしつけるのが多いだけに簡単なことはいいことだ。それよりもテレンス・スタンプ自身の過去からの娘との関わりのほうがこの映画の主題になってるらしいのだけれど、そこのところもいまひとつくっきり描かれていなかったのがちょっと辛い。
 映画を通して、とくに前半、時間の軸がぼんぼん飛ぶ。時間の流れが右往左往する。だからといって、観てる側が混乱するというわけでもなくて、そういうところは整理されてるんだな。そして父=テレンス・スタンプ自身の過去にまで時間が飛んだときに使われるのが、なんとテレンス・スタンプ自身が出演している"Poor Cow"('67)からのカットという粋な仕掛け。はっきりとわかるわけではないんだけれど、どこかソダーバーグに60年代、いや、「66年から67年の初め」に対するこだわりがあるんじゃないかな。ただ後半になると、そうした時間の切り貼りにも慣れてしまって、観る側の緊張感がなくなってた。
 いいんだか、つまらんのだか、ようわからんわ。ちなみに原題""はイギリス野郎という意味のスラング、ライムばっかり喰らってるから。
 
The Limey
監督 スティーブン・ソダーバーグ
脚本 レン・ドッブス
撮影 エド・ラックマン
出演 テレンス・スタンプ / ピーター・フォンダ / レスリー・アン・ウォーレン / ルイス・ガズマン / バリー・ニューマン / ジョー・ダレッサンドロ / ニッキー・カット
★★★☆


2002年02月28日(木)



 アンリ・ジョルジュ・クルーゾー『密告』 (43 仏)


 この『密告』どころか、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾーも知らなかった。これは見っけもん。儲けた気分よ。
 『密告』というタイトルからしてわかるように、サスペンスもの、サイコスリラーというところ。ヒチコックなどと同じラインと言ってもいいでしょ。ちなみに調べたら、クルーゾー監督の作品はほかに『恐怖の報酬』 (52)、『悪魔のような女』 (55) 、『ピカソ?天才の秘密』 (56) なんてのがあるのだ。勉強、勉強_¢(0-0ヘ)
 さてと、この『密告』、殺伐とした殺人が起こるわけでもないのに、超怖いのだ。どう怖いかというと、別に霊が出てくるとかじゃないのね。人間というのが怖い。それが、集団の怖さだったり、施政者の怖さだったり、人間の隠された裏の怖さだったり。だから表向きはサスペンスという形をとっていうけれど、人間の素性を暴いているドラマなわけ。それが半世紀前のもので、かつ「とある小さな町」というのに、現代においても十分普遍性があるのが一番怖い。集団の怖さなんて松本サリンのこと思い起こしてしまう。
 怖いといえば、集団に追いつめられた最初の容疑者マリー(エレナ・マンソン)が自分の家に逃げ込んだところで鏡は割られている。その割れた鏡に映るマリーの顔は怖いねぇ。
 話は小さな町の病院に勤める医者(ピエール・フレネー)に脅迫状が舞い込む。おまえが堕胎医で、不倫はしとるやんけというところから始まる。実際に不倫はしとるんだけれど、その脅迫状が医者だけじゃなく、当時のマスコミにも流されて、小さな町は「カラスは誰だ?」と騒然となっていく。カラスというのはその脅迫状に書かれていたイニシャル。
 ラストのシーンがその「カラス」でまたちょっとぞっとします。
 
Le Corbeau
監督 アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
脚本 アンリ・ジョルジュ・クルーゾー / ルイ・シャヴァンス
撮影 ニコラ・アエール
出演 ピエール・フレネー / ピエール・ラルケ / エレナ・マンソン
★★★★☆


2002年02月27日(水)



 マニ・ラトナム『ボンベイ』 (95 印)


 まぁむちゃくちゃですね。田中康夫ちゃんがヒゲはやしてマリオになって、鈴木保奈美をマハラジャに連れてったような、その恋物語の臭いの、なんの。臭すぎますよ。その臭さがまたたまらなく良くてうれしいのだ。恋する二人が、別れ別れになって、康夫ちゃん一人ボンベイに出ていく列車を見送る保奈美。。。その臭さと言ったら筆舌に尽しがたいのだよ。笑うシーンじゃないのに笑けてしまう。
 とりあえず要約してみると、セーカル@マリオ康夫ちゃん(アルヴィンド・スワーミア)がシャイラー@保奈美マハラジャ(マニーシャー・コイララ)に一目惚れよ。セーカルの猛烈アタックにシャイラーもその気になったのはいいものの、セーカルがヒンズーの家の出であるのに対して、シャイラーはムスリムの出。これはボクらが知る以上に険悪な関係らしい。インド-パキスタン紛争は知っていてもインドの国内でもやってしまってんだ(-.-;) まぁ、そいうところはおいといて、双方の父親のいがみ合いなどが思いきり軽いタッチで描かれていて、完璧にコメディー。こういう両家の敵対関係の悲劇となると、つい『ロミオとジュリエット』のパターンかと思ってしまうのね。で、そのなりゆきとして、二人とも勘当され、親を捨て、故郷を捨てて、ボンベイに移り住むことになる。と、前巻の終わりなのでありました。
 ところで、ほんとそこまでの話はまったく悲劇的じゃなくて、ミュージカルありーの、能天気まるだしの超コメディー。そのコメディーの粋な演出はあちこちに鏤められているので確かめてみて。お電話ごっこ(耳うちで次から次へ伝言していく)のとこなんてすごく好き。そして極め付けは、やっと迎えた新婚初夜、ここでまずはベリーダンスのお姉ちゃんのグラインドで始まったと思ったら、いきなりファンクダンスになって、臭さ丸出しのマイケル・ジャクソンもどきが踊りだして、そこまでやるかぁぁと、さすがボリウッドじゃあああ!というわけ。すっかり観てる側は混乱させられて、インドじゃこういうのもありなわけね、そういう映画なのだと思い込んでいたら、そっからが大変。
 そこからあとの1時間ががらっと一転。実際に起こった92年のアヨディヤ事件に一家が巻き込まれるのを延々と。そこまでのコメディーはきれいにふっとんで、社会派ドラマに。
 これには思いきり外された。こっちはまるっきり準備ができてないわけね。少なくともヒンズーとムスリムの対立を植え付けられていても、そこまでのしゃっちゃかめっちゃか無茶苦茶さ加減に、いくらシリアスに描かれようとも、そのラインに乗っていけない。だけれども、もうとっくにラストの絵なんてのは見えてしまうわけ。それなのに2度にもわたって、その宗教暴動、いや戦争だね、を見せられると、遠い地の出来事と平和ボケしてるボクなんかはさすがにうんざりしてくる。確かに史実に基づいて描こうとした意図はわかるけれど、それならそれで前半の描きようもあるだろうし、また現実に起こった事件をもっとカリカチャュアしていれば、監督自身が伝えたい後半に、観る側をもっともっと取り込むことが出来たのに。この後半なんかもけっこう臭い話がね、たとえば親同士が和解するとこなんかね、思いきり臭いです。
 ほんと作る側のテンションに反比例して、ボクのテンションはだだ下がりだったね。お山でのミュージカルシーンなんてすごくよかっただけに、いっそ、前半、後半、別々の映画として観たかった。ソフトクリーム食ったあとに超激辛カレーを食わされたような、食い合わせが悪すぎ。前半★4,後半★1。
 いまになって気がついたけど、Bombay こりゃヤバイっす!


Bombay
監督 ・脚本 マニ・ラトナム
撮影 ラージーブ・メーナン
音楽 A・R・ラフマーン
出演 アルヴィンド・スワーミ / マニーシャー・コイララ / ナーザル / キッティ
★★☆




2002年02月26日(火)



 黒沢清『カリスマ 』(99 日)


 いきなり人のコメントで申し訳ない。CinemaScapeの新人王赤星さんのコメントを引用すると
「皆さん色々な解釈されてますね。僕の解釈はそれらを一まとめにしたものとしとこう(笑)。テーマをセリフで説明するのには白けましたが。だからビビッと来そうで来なかったです。演出は相変わらず上手いですね。」
 ボクもまさにそうとしか思えなかったの。理屈をこねすぎるとどうしても交通整理、つまり「テーマをセリフで説明」、をする必要がでてくるのね。そうすると逆にあまりに理路整然としてしまった。だいたい薮池のカリスマの跡に若い芽が芽生えてるなんてまさに「やり過ぎの作り込み」(スタジオボイス97/11)以外のなにものでもなくて、「自慰のよう」(同上エピキュリアンさん)とコメントされたって仕方ないね。
 と、ボロクソだけれど、黒沢清の映画はほんとにおもしろい。この『カリスマ』だってじゅうぶんにおもしろいんだよ。ぐいぐい引き込んでいく求心力は、これとて抜群。真っ暗な廃ホテルの中で滑り台を滑る役所広司なんてまさに黒沢清そのものなんだよね。だからこそ、セリフの雄弁さにあまりに愕然とする。言うてみれば、取調室で容疑者が自分のとった行動をなぞるように供述する。するとまたしても、その供述をなぞるような供述を用意しないといけない。辻褄などあわなくたっていいじゃないか。

 
監督・脚本 黒沢清
撮影 林淳一郎
音楽 ゲイリー芦屋
出演 役所広司 / 風吹ジュン / 池内博之 / 大杉漣 / 洞口依子
★★



2002年02月25日(月)



 アルフ・シューベルイ『もだえ 』(44 スウェーデン)


 『悶え』というタイトルで若尾文子を期待しないこと(笑) これはイングマール・ベルイマンの監督デビュー前の脚本によるスウェーデンもの。だからといってポルノを期待しないこと(汁爆)
 何なんしょね、学園もの? その割には高校生ったってみんな老けております。みんながみんな、おっさん臭い。それもそのはず44年、世は第2次世界大戦中。"カリギュラ"(スティーグ・イェレル)と徒名される名前からしてろくでもないいじめの教師と、それに果敢に立ち向かうヤン・ヴィドゲルン(アルフ・ケリン)、こいつだけはちょいと2枚目。
 どれくらいろくでもない教師かというと、ラテン語の授業中にヤンに訳させてるわけですわ。ところで英訳の時間を思いだせばわかるでしょ、単語の下に意味書き込むじゃないですか。それを見つけてカンニングだ、そいう奴は退学だと、あー、こういう陰険な教師、いまでもおりますですね。で、このヤンはヤンで、たばこ屋のねえちゃんベルタ(マイ・ゼッターリング)が酔っぱらってるのを送り狼というか、正確には食われたわけですが、その後、恋仲になっちゃうわけです。そこへまたしても"カリギュラ"がベルタを犯すと、うをーーっ、いるいる、こういう鬼畜教師
 と、こういうふうに書けば、殺伐とした学園ものをイメージしてしまうけれど、いまの世の中ではたいしたインパクトないです。そんなふうに女をつくるぐらいで高校生はおとなしいもん。高校の廊下を改造バイクで走るなんて、湘南爆走族かい(^_^ゞ そういうのじゃなくて、他の奴は表立って反抗も出来ずに"カリギュラ"にやられるまま。
 テーマとしては今じゃおもしろくないよのぉ。ただ当時のスウェーデンや、公開当時('66)の日本じゃけっこうなインパクトあったみたいだけど。
 それよりか、T's Soliloquyさんの02/02/21で「建築様式とカメラワーク」と題して「そしてもう一つは、天井の隅などから撮る、ハイアングルショット、もしくはBird's Point Of Viewショット、とも言われているものが目立つ。」と書かれてるのですが、この『もだえ』ではこのBird's Point Of Viewショットが多用されていて、それが当時のスウェーデンの高校の建築様式にビタッとはまってんですねぇ。さらには高低の角度をつけたアングルがほとんどでこれには目をみはるものがあるな。トータルとして表現主義と呼ばれる当時のドイツを発端とする映像で、ベルイマンの資料として見るにはおもしろいかも。

Hets
監督 アルフ・シューベルイ
脚本 イングマール・ベルイマン
撮影 マルチン・ボデイン
出演 スティーグ・イェレル / マイ・ゼッターリング / アルフ・ケリン / グンナール・ビョルンストランド
★★★


2002年02月24日(日)



 フランソワ・トリュフォー『隣の女』 (81 仏)


 ある日、いきなり隣に昔の女が偶然引っ越してきたら...
 こんなもんただのメロドラマだろと片づけてしまえれば簡単なんだけど。というか、はいはいで済まされない年になってしまったのかな。
 平穏無事に親子3人で暮していたベルナール(ジェラール・ドパルデュー)の隣に、引っ越してきた夫婦、その嫁さんが昔の女マチルド(ファニー・アルダン)だったという、そりゃないぜセニョリータな設定。これ絶対困ります。こういうのってないことはないはず。高校時代の同期生が同じマンションに住んでいたなんてよくあるじゃんね。それもかつてただならぬ関係にまでなっていた二人なら穏やかでおられるはずがないし、仮に穏やかでいられたら、その昔はいったい何やったんやということになるわなぁ。昔といっても8年ですかぁ、一番危険な頃だな(^_^ゞ 
 それでこの二人がどうなることやら、書いてしまうとおもしろくないから書かない。ヤブヘビになりかねんし(苦爆)
 マチルドが描いた絵本の中で、窓ガラスが割れ子どもが血を流している絵が映しだされるのだが、このあたりからドラマが急にサスペンスじみてくる。ベルナール夫妻が出かけた留守中に、マチルドが彼らの子どもに家の中に招じ入れさせるくだりなどは、をいをい話がそんなほうに進んでいってしまうのかいとはらはらさせられる。このラッシュ試写で、スタッフの一人が「まるでフィルム・ノワール」と言ったとか言う話もあるほど。こういう話だと下世話なほんとメロドラマになってしまうところをさすがトリュフォー。かの池田満寿夫はトリュフォーでこの『隣の女』が一番だと言ってたんだってね。
 トリュフォーだからこその文句つけとくとすりゃ、なんでテニスクラブのボヤで、他にもいっぱい人がいるのに、マチルドが駆けていって消火器ブシューっとするんだか。そのあとの展開に結びつけるためとは言え、話の流れからして無理があって、とってつけたようにしか思えない。トリュフォーらしくないな。それとテニスクラブ・オーナーのマダム・ジューブ(ベロニク・シルバー)のところに電報をもってくるシーンだって、トリュフォーらしいといえばトリュフォーらしいけれどあれも引っ張りすぎだって。救急車が走るところはこれぞトリュフォーとにんまりさせてくれますがね。
 と、いうことで、ベルナール、マチルド、さらにはベルナールの嫁(ミシェル・ボームガルトネル)、マチルドの夫(アンリ・ガルサン)、4人それぞれの男と女のありようを描き出して、誰のせいでもありゃしない。ベルナールを責めるわけにもいかず、マチルドを責めるわけにもいかず、こうした色恋沙汰はなるようにしかならないのだなと痛感させられたのであります。
 うーむ、フランスのラブホって。。。。あ、ラブホじゃないのか。をっと、このマチルド役のファニー・アルダン、トリュフォー晩年の愛人なのでありました。

La Femme D'a Cote
監督 フランソワ・トリュフォー
脚本 フランソワ・トリュフォー / シュザンヌ・シフマン / ジャン・オーレル
撮影 ウィリアム・リュプチャンスキー
出演 ジェラール・ドパルデュー / ファニー・アルダン / アンリ・ガルサン / ミシェル・ボームガルトネル/ ベロニク・シルバー
★★★★


2002年02月23日(土)



 ビガス・ルナ『おっぱいとお月さま』 (93 スペイン)


 もうこれは手放しで★5つだもんね。ごっちゃごちゃ言わないの(笑) これだからスペイン、あ、いや、カタロニア万歳ヽ(´o`)ノなのでありますよ。
 そうかそうか、ママのおっぱいというのはミルクをためておくところなのね。だから毎晩毎晩パパがママにミルクを入れて・・・と、をりゃあああ、「これむっちゃおもしろいから、おまえも見てみぃ」って思わず娘に言いそうになったではないか。なんぼね、彼氏もいてるとはいえ、父親が嫁入り前の娘にフランスパンの食べ方教えられません。どこからどこまでがマジでどこから遊ばれてんだか。。。。
 冒頭の人間ピラミッド、ん?そうは言ってなかったな、人間タワー、を、そうそうどことなくバベルの塔にも見えたか、その映像に3発くらい横っ面張られて、あ、その前にタイトルバックもおっされぇーでよかったなぁ。うんうん、赤ん坊をあやすのにそういう技があったのか、子育てに悩める若きパパママ、参考になるぞ。おっぱいとおならなんて完全に幼児化現象だよなぁ。ちなみにこのビデオ見てるときに娘がコーヒー持ってきてくれたんだけど(見始める前に自分で淹れたんだよっ)、「おおきに」というかわりに、おならブー.。o0O○
 そしてとどめの一撃、これとてボクシングで言うなら3Rってところ。序盤で早くもKO。それは青空をバックに芸術的な弧を描くミルク、ボクも飲みたいぃぃぃ!って、言うときますけど、あれは飲んでも美味しくないのだぞ。う〜む、この美味しくないと感じたこと自体、子どもの心を忘れてしまったという最大の証拠か。でもおっぱいに顔をうずめて寝ていたい。それでしあわせでしょ。というところで安易に《コメディー》にカテゴライズしないのっ!
 底抜けに明るくて、底なしに切なくて、むっちゃおもしろくて、やがて哀しき鵜飼いかな・・・芭蕉、涙は地中海の味がして、ベッドで歌を歌い続けて、ハーレーは哀しくて、カワサキはぶっ飛んで逝ってしまって、そして月には今や星条旗はぼろぼろになったから、EUとカタロニア(スペインじゃないところが激注意!)の旗を立てるのだ。だから爺ちゃんは腐乱子にモロトフカクテルを投げ付けるのだ。
 何がどうだっていうのは今回は書かないの。三者三様の〜なんて、いまさら言わないの。あ、最後にひとつだけ、ウォーターベッドは慣れないと難しいです。そしてプシュっと穴を開けないように注意しましょう。

La Teta Y La Luna
監督 ビガス・ルナ
脚本 クカ・カハナス / ビガス・ルナ
撮影 ホセ・ルイス・アルカイネ
音楽 ニコラ・ピオバーニ
出演 マチルダ・メイ / ジェラール・ダルモン / ミゲル・ポベダ / ピエル・デュラン
★★★★★


2002年02月22日(金)



 五所平之助『伊豆の踊子』 (33 日)

1933 田中絹代  大日方傳  五所平之助
1954 美空ひばり 石浜朗   野村芳太郎
1960 鰐淵春子  津川雅彦  川頭義郎
1963 吉永小百合 高橋英樹  西河克己
1967 内藤洋子  黒沢年男  恩地日出夫
1974 山口百恵  三浦友和  西河克己


 いちおう、復習してみました。
とそうそうたる踊り子の一番最初、それとサイレントだという歴史的資料。。。。というだけ。なんて書いたらおこられるかなぁ。
 田中絹代がいくら大女優だったからって、まだまだこのときは売り出し中でしょ。なんて書きながら、少々ビクついてるんですが。。。 このときで23歳。いまから見ると、結構食ってるように思えても、時代が時代だけに。だいたい二十歳そこそこに光っていても、女がほんとに輝くのって三十越えてからでしょ。この田中絹代だってそうだと思う。いや、そうだと断言。
 だいたいなんでこんなに『伊豆の踊子』がリメイクされるかね? そんなに映画人にとって魅力あるのかと、はたと疑問に思う。これ作るの絶対に難しい。それは女優がピチピチでなければならないから。もうすでにできあがった女優さんじゃ踊り子にならないんだよね。それでその後の踊り子女優を見てもわかるように、田中絹代も含めて、制作側がこれからばしばし売り出そうと目論んだ女優が使われていること。あに図らずや、しっかり内藤洋子にも山口百恵にもさっさと逃げられましたけどね(笑) だからこそ、監督の手腕が効いてくる、未完成の大器とおぼしき女優をいかに売り出すか。女優にとっても監督にとっても試金石みたいな映画なんでしょ、きっと。
 小難しい話はおいといて、この田中絹代版にはなかったですねぇ。かの露天風呂シーンが。。。当たり前といえば当たり前。昭和8年です。ちなみに2・26事件は昭和11年です。そんな時代に撮りたくても撮れないですね。ただ露天風呂じゃないけど、いちおう風呂に入るシーンだけはあって、がばっと一気に脱いで、一瞬だけ肩から上が。。。。それだけで爺ちゃんの集まりではどよめくらしいですが。それから《トーレコョチクルミ治明》が3度出てきます。《粉白ンオパ》が2度。きっとスポンサーだったんだな(笑)
 そしてやっぱり時代だね、というのは、田中絹代がひどく下膨れな顔だったこと。でもこれが当時の美人だったのです。いま見ると、ゑっ?と思う顔ですが、でもねぇ、とにかくこの『伊豆の踊子』ではおぼこい、おぼこい。まさか、「お座敷におしっこしてやるから」と、ほんとに座敷の真ん中でオシッコした女優には見えないから、女は怖いや。というか、そんな虎をてなずけてしまった監督の勝利なのか。それはそれとして、最後の下田の港で?この愁嘆場はちっとくどすぎるとも思うのだけれど?海から反射する光のように下側から光をあてた田中絹代のどアップはさすがに時代に関係なく美人だと思わせるものがあります。
 ほかの出演者、誰も知らんなぁ。唯一、飯田蝶子は知ってたけど、どこにどう出てたかもわからなかった。やっぱりサイレントだから弁士付きで見たいな。
 

監督 五所平之助
脚本 伏見晁
撮影 小原譲治
出演 田中絹代 / 大日方傳 / 小林十九二 / 若水絹子 / 高松栄子 / 竹内良一 / 河村黎吉 / 飯田蝶子


2002年02月21日(木)



 マウロ・ボロニーニ『ビアンカ』(62 伊仏) 


 なにがどうってことない。極道息子アメリゴ(ジャン・ポール・ベルモンド)が娼婦ビアンカ(クラウディア・カルディナーレ)に入れ込んで身を持ち崩すという、洋の東西を問わない物語。なんて書いてしまったら、あと何も書けんでしょ(^_^ゞ
 えーっとですね、だいたい資料が少なすぎるの。おまけにマジに見てなかったから。今度また機会があったらマジに見ます。はい、おしまい、うりゃあああ
  マウロ・ボロニーニ監督というのは、モラビア原作の『堕落』の監督などで、イタリアでは結構な監督。そのわりには日本では語られてないのね。ボクが知らないだけかもしれない。ただ『堕落』はその当時に見たいと思ったのだけかすかに覚えてる。で、恥ずかしながら、ボロニーニ監督はこれが初めて。
 モノクロだから、なんていうんだろ、あの技は。えーっとですね、わざと露出オーバー気味にしてコントラストをぼかす。これが随所に見受けられて、その使い分けに何らかの意味が見いだされるはずなんだけど、ごめん、ちゃんと見てなかった。ただそのコントラストのとばしかたがすごくおもしろかった。
 美術としてもなかなかのもん。セットにしろロケにしろ、それがほんととってつけたものに感じられない。そういう意味で非常にていねいに作られていた時期の映画だなと思う。ほんとこのあたりのイタリア映画は見ていてほっとするのはそういうところなんだな。彫像一体にだけ明りをあてて、逆に露出をアンダー気味にしてくきっと彫像を浮き上がらせる。いまの技術を持ってすればなんなくできてしまいそうなことだけど、不思議と新鮮さがあったなぁ。
 話としては、最初に書いたように洋の東西を問わない物語だけれど、かなりなところで文楽に通じるものがある。役回りなど、まんまやんか。文楽以上に土着的なのはイタリアの風土というところか。それから女たちがポンパドールで闊歩して、パーティーではいかにもというおっちゃんが出てきたりでうれしい。そしてなによりもジャン・ポール・ベルモンド、クラウディア・カルディナーレ、この二人がもう絶頂の時期、とくにカルディナーレのピチピチったら、ちょっとふるいつきたくなります。
 機会があれば見てみましょう、損はしません。
 
La Viaccia
監督 マウロ・ボロニーニ
出演 ジャン・ポール・ベルモンド/クラウディア・カルディナーレ/ピエトロ・ジェルミ
★★★★


2002年02月20日(水)



 ピーター・ホーウィット『スライディング・ドア 』(97 英米)


あのときもしああなっていたら....
「ifもしも」と同じといえば同じだけれど、この『スライディング・ドア 』では2つの「もしも〜たら」話が同時進行で展開し、テンポがすごく小気味よい。ときには、2つの話がすれ違うかのように重なったりするのがとてもおしゃれ。そういうところは脚本段階ですごく計算されてるなあと思う。
 ヘレン(グウィネス・パルトロウ)がロンドンの地下鉄、いわゆるチューブね、に乗ろうとするときに、乗り込めたヘレンAと乗り遅れたヘレンBに別れてしまう。乗り遅れたヘレンBの目の前を滑り込めたヘレンAを乗せたチューブが出ていくのがひとつの絵になってるんよね。
 さてそこから2人のヘレンの話が始まる。乗り込めたヘレンAは、すっと家に帰ることができたおかげで、同棲中の恋人ゲーリー(ジョン・リンチ)の浮気現場にばったり遭遇。一方、ヘレンBのほうは、直後の地下鉄の事故でタクシーに乗ろうとすると引ったくりに遭って怪我させられると踏んだり蹴ったり。そのおかげでラッキー?にも浮気現場に踏み込まずに済む。が、浮気現場の証拠物件が残ってたりして、そこでのゲーリーの言い訳がおもしろい。しっかりヘレンBが「なんで急にウディ・アレンになるのよ」なんてセリフが飛びだして粋だねぇ。
 いっぽう、ヘレンAのほうは、地下鉄にたまたま乗りあわせたジェームス(ジョン・ハンナ)と、浮気現場遭遇ショックから恋が芽生えて。。。をいをい、そう簡単なものなのか(^_^;… 
 元々ゲーリーと浮気相手リディア(ザラ・ターナー)は恋人で3年前に別れたあとにヘレンが入ってきて、ところが最近ヨリを戻しつつあった。ヘレンBの話では、その浮気があからさまに発覚したわけじゃないから、その後も、うん? こっちの場合はその後もないか、とにかく不倫が継続しつつも泥沼化して行く。
 あーちょっとややこしいでしょ、こうして文章にすると(笑) しかし映画ではほんとぽんぽんとA、Bの切り換えがされるのに、意外とこれらの関係がクリア。ヘレンA、Bの区別がつく仕掛けが施されてたりするけどそれも違和感がない。これほんとに脚本の勝利だね。敢えて言うと、ヘレンAでは、その後のジェームスとの関係が中心になって、ゲーリーはほとんど出番なし。ましてや、ヘレンBではキーになるリディア(ザラ・ターナー)は全く消えてしまってる。とりたてて必要はないけど、ちょっと気になる。
 それで最後は、別々の運命をたどり、どっちのヘレンも可哀想なことになりながらも一人のヘレンに戻してしまう。それもまたしてもドアが閉まって。。。なんてのはとても粋。心情的にヘレンBはずたぼろなんだけど、まぁいいんじゃない、どっちのヘレンもハッピーエンドになることを予感させて。

Sliding Doors
監督・脚本 ピーター・ホーウィット
撮影 レミ・エイドファラシン
音楽 デビッド・ハーシュフェルダー
出演 グウィネス・パルトロウ / ジョン・ハンナ / ジョン・リンチ / ジーン・トリプルホーン / ザラ・ターナー
★★★★


2002年02月19日(火)



 マチュー・カソビッツ『アサシンズ 』(97 独, 仏)


 本質的にバイオレンスものは好きじゃない。これも冒頭のシーンでやばいなと思いはしたものの進んで行くにつれてそうでもなかった。だいたいバイオレンス嫌いって『アサシンズ』なんて(^_^ゞ
 ただ先に文句つけとくと、長い! だらだらと絞りきれない。伏線を撒き散らしすぎなんだよなぁ。その伏線というのはテレビという媒体を通してのメディア。このメディアの使われ方がはじめのうちはとてもおもしろいのだけれど、さすがにちょっとこっちが息切れしてくる。わかるんだけどね。
 簡単には話としては二つある。「殺し屋」という職人の継承。もうひとつはこれは意外に思ったのだけれど、日本と同じようにヨーロッパでも10代の精神的荒廃。日本の事件でいうと酒鬼薔薇やバスジャック。それがヨーロッパでも同様に進行していて、さらにメディアが判で押したようなとらえ方しかできないこと。学校の前での教師とのやりとりなんてほとんど日本と変わらんじゃん、クソ教師、描かれてもなぁ。
 実は伏線として撒き散らかされていたのはこの後者に持っていくためだったのだ。けれどボク個人的には前者のほうが興味深かったから、話が急転直下、後者に受け継がれてしまうと、どうにも疲れがどっと出てきた。後者はどうも生臭すぎるし、結局カソビッツでさえも、テレビの馬鹿バラエティー番組だとか、テレビゲームだとかに帰着させてしまうのかと、もっと目からウロコ的展開がないんかなぁ。
 ミシェル・セローの年老いた殺し屋ヴァグネルが渋いのなんの。彼とマチュー・カソビッツ監督自身のマックスとのからみがいい。テレビに見入るマックスの後ろでマックスの母(ダニエル・ルブラン)とミシェル・セローが話している映像に思わずニンマリ。高速道路と高架線路が二重に架かるのもよくこういうところをロケハンしてきたなとニンマリ。それとか「殺し」の現場で関係なくテレビの音が鳴り響いてるのなんて、抜群のセンス。そうそう『刑事コロンボ』のフランス語吹き替えも楽しめる(どうも小池朝男のイメージがコロンボ作ってしまってるんだけど)。
 ヴァグネルがマックスに「殺し屋」を継承していくのだけれど、このヴァグネルが『ピストルオペラ』の平幹二朗がオーバーラップしてんの(^_^ゞ アクション好きには、どこが「殺し屋」やねんってもんだろうけれど、そこのところはしょぼくないと話にならないんだよっ。雪の中でヴァグネルが撃ったのが当りこそすれ致命傷とは程遠く太腿に当ってるなんてのは逆にうれしくてその後のシーンが生きてくるんだよ。
 「殺し屋」の継承という点に絞って、ヴァグネルからマックス、さらにはマックスの弟分メディ(メディ・ベノーファ)のラインでかなりおもしろかったんだけれど、カソビッツの狙いはそういうところになかったのかなぁ。インタビューで「テレビに限らず、非常に激しい暴力をあつかった漫画、映画…子供たちに、そうした作品をどのように見せるか。きちんとした見方を教えなければならない。」なんてこと言ってるしね。でもやっぱりラストは余計だと思うんよ。ごくありきたりになってしまって。

Assassin(s)
監督 マチュー・カソビッツ
脚本 マチュー・カソビッツ / ニコラ・ブクリエフ
撮影 ピエール・アイム
音楽 カーター・バーウェル
出演 マチュー・カソビッツ / ミシェル・セロー / メディ・ベノーファ / ロベール・ジャンドル / ダニエル・ルブラン<
★★★★


2002年02月18日(月)



 マルコス・スリナガ『ロルカ、暗殺の丘』 (97 スペイン, 米)

 あぁ、退屈。。。なんでロルカである必要があんのか、さっぱりわかんねぇ〜。ましてや英語で詠まれるロルカなんて糞飯モノ。なにを考えてんだか。。。。せめて詩のパートだけでもスペイン語ですべき
 ロルカに対してとびきりの思い入れはないけれど、学生だったころにロルカの詩集は1冊だけ持っていてよく読んでいた。ロルカ全集は欲しかったけれど高くて買えなかった。余談だけれど、状況劇場『二都物語』の中での歌の一節がロルカだったのを発見して大騒ぎもしてた。グラナダにも行ったことがある。映画の中で何度か映しだされるアルハンブラの丘を見渡せる向かい側の丘にも歩いて行ったことがある。でもそれっきり...
 ロルカがアンディ・ガルシアとはなぁ。。。イメージ、総崩れ。。。。僕の勝手なイメージと言ってしまえばそれまでだけど。そしてグラナダ、スペインの臭いがまったくしないのだよ。なんでもっと土臭く、もっと猥雑じゃないわけ?
 ロルカが殺されたというのは今もって不明なままに包まれていてそれを解き明かす試みがなされているけれど、それならそれできっちり追ってくれればいい。下手にサスペンスになんかするからたまったもんじゃないのだ。サスペンスにするならロルカに関係のないサスペンスにしてほしかった。そのほうがもっと楽しめたはず。

FEDERICO GARCIA LORCA

A las cinco de la tarde.ハ
Eran las cinco en punto de la tarde.ハ
Un ni撲 trajo la blanca s?anaハ
a las cinco de la tarde .ハ
Una puerta de cal ya prevenidaハ
Lo dem? era muerte y solo muerteハ
a las cinco de la tarde.ハ

Death in Granada
監督 マルコス・スリナガ
脚本 マルコス・スリナガ / ホアン・アントニオ・ラモス / ニール・コーエン
出演 アンディ・ガルシア / イーサイ・モラレス / エドワード・ジェームズ・オルモス / ジェローン・クラッベ / ミゲル・フェラー / マルセラ・ウォーラースタイン / エウセビオ・ラサーロ


2002年02月17日(日)



 ロウ・イエ『ふたりの人魚』 (00 日独中)


 はじめに描かれる蘇州河の川の上から見た上海の町にどこか懐かしさをおぼえる。それはボク自身に、上海と大阪にすごく似通ったイメージをもっているからなのか(上海、大阪は姉妹都市提携を結んでいる)。昭和30年代の大阪といまの大阪をつきまぜたようなどこか猥雑な雰囲気。『泥の河』のイメージが膨らんできたりもするのだよ。
 この物語の語り手は、この映画の中で「僕」といっていることから「僕」としておこう。僕は上海に住むビデオカメラマン。はじめの川の上から見た上海の町の描写も僕のカメラなのだ。そして物語は最後までこの僕の視点、または僕のカメラのアングルとして映画そのものが進んでいく。だからカメラもほとんどが手持ちで、ときには僕自身の目となりメイメイの閉じた目の顔がすぐ近くに迫ってきたりする。だからって「ハメ撮り」やってんじゃないです。 ←マジに書いてんだからちゃかさないの
 『ふたりの人魚』というタイトル、原題はずばり『蘇州河』で異なるが、でもこれからすぐ思い出すのは『ふたりのベロニカ』。この『ふたりの人魚』も同様にドッペルゲンガー譚といえるかもしれない。メイメイとムーダン(ともにジョウ・シュンの二役)が人魚というキーワードでつながる。『ふたりのベロニカ』では共に実在する人間であったけれど、この『ふたりの人魚』ではそれは疑問。「でもこれは僕の嘘かもしれない…」と自身で言うように、それは僕(監督自身とも考えられる)の中でムーダンは創られた人間。というより、ムーダンとマーダー(チア・ホンション)の物語は僕の中のフェアリーテールなのだ。そうして「僕」とメイメイの関係さえもフェアリーテールになってしまって、やっぱりそこに残されるのは蘇州河の川の上から見た上海の町。アホみたいと思うけれど、「悲しい色やね」

 「嘘つき」と言われても、死ぬまで探していたい。。。。

蘇洲河 (Suzhou he)
監督 ロウ・イエ
脚本 ロウ・イエ
出演 ジョウ・シュン / チア・ホンション / ヤオ・アンリェン / ナイ・アン
★★★★


2002年02月16日(土)



 ジョイス・シャルマン・ブニュエル『サルサ!』(99 仏・スペイン)



 強烈に脳天気! それがラテンの血。文句ないです。おもろい。それでいてラテンの泣きも入って。
 『ブエナ・ビスタ〜』にしたって、『黒猫・白猫』にしたって、結局のところボクの場合はP-FUNKに行き着いてしまうんだけど、この『サルサ!』見てても、を〜っ、P-FUNK!!!なわけであります。P-FUNK、P-FUNKと喚いとるけど、何じゃいなって人はこの際、ここ見て勉強しましょう! ってうちの本家ですが(笑)
 バンド(グルーポ・シエラ・マエストラ メンバーもそのまま出演)のね、ボーカルの小さいおっさん、上の写真ではレミ(ヴァンサン・ルクール)のすぐ後ろに写ってるおっさん、これ、中盤のテーブルを囲んで歌い出すところでも、ここもすごく好き、渋いソロ聞かせてくれる。このおっさん、すごくブギー(P-FUNKのメンバー)に似てる。しぐさとかもそっくりなんだよ。メンバーのしっちゃかめっちゃかさなんて見てると、ラテンの血以前にブラックの血なんだね。それを見てるだけで楽しくて仕方がなかった。
 それに加えて、爺ちゃん
バレート(エステバン・ソクラテス・コバス・プエンテ)、婆ちゃん
レティ(カトリーヌ・サミー)が渋いのなんの。ラストで二人が踊るところなんて鳥肌モン。婆ちゃんがナタリー(クリスティアンヌ・グゥ)と踊るところもうごくいいなぁ。銀の皿をおいてね。何ていうセリフだったかな、全てを捨て去っても踊りだけは残る。辛いことは踊りで忘れてしまえる。うんうん。きのうの『ザ・ハリケーン』の「でも白人は踊りが下手だ」の全く逆で、ブラックの踊り見てたら、ソウル・トレインだろうが、サルサだろうが、ゴーゴーだろうが、それだけでボクは満足ね。ちなみにボクはレミと同じように、いやもっと下手ですが(自爆) 当然のことながら終わったあとにはしっかり踊ってる人。。。。すいません、もう50です。でもこれ見てたら年なんか関係ないってのがよくわかるでしょ。はじめの方で爺ちゃん一人で踊ってるところが何ともいえぬ哀愁なんだよ。バリバリのサルサダンスも魅力だろうけれど、年寄りまで踊ってしまうサルサというのは凄い!

 話としてはけっこうベタだけれど、それでもしっかりヒネリはあって、アッと言わされるんだから(これはさすがに秘密。切ないよぉ)。
 ああ、そうそう、「おまえはヴァニーユ(バニラ)だ、サルサはショコラートでなければダメだ」っていうフェリペ(アレクシ・バルデス)のセリフもいいね。そういわれてサルサに憧れるあまり黒くなろうと、日サロに通うレミ。これもわかる、わかる。10年ほど前にブラックになりたくてがんがん焼きまくってたのは誰だ(自爆) そのレミに対して、ナタリーははじめフランス娘でしかなかったのが、突如クバーナの血に目覚め、どんどんクバーナになってく。最後には完全にそうにしか見えなかったよ。
 ちなみにサルサ、それから中で何度も聞かれる「ソン」というのはどちらも英語のsource。ごちゃごちゃ言うな。オレは乗り乗りだぜい。

Salsa
監督 ジョイス・シャルマン・ブニュエル
脚本 ジョイス・シャルマン・ブニュエル、ジャン・クロード・カリエール
音楽 グルーポ・シエラ・マエストラ/ ジャン・マリ・セニア/ユリ・ブエナヴェントゥーラ
主演 ヴァンサン・ルクール / クリスティアンヌ・グゥ /カトリーヌ・サミー /
ミシェル・オーモン / ロラン・ブランシュ / アレクシ・バルデス / エリザ・マイヨ
★★★★★


2002年02月15日(金)



 ノーマン・ジュイソン『ザ・ハリケーン』 (1999/米)


 ルービン・カーターのことを知ったのは当然ディランの「ハリケーン」、1976年のこと。それからもうすでに25年。ボクの中ではきっちりディランが歌った伝説のボクサーになってしまってた。マイルスの「ジャック・ジョンソン」と同じだね(^_^ゞ で、これはその「ジャック・ジョンソン」聞きながら書いてる単純。。。。「ハリケーン」は持ってるのアナログだからアンプの調子が良くなくてかけれないの。あ、全然、映画と関係ない話ですんまそんm(__)m いや、でも映画の中でディランが流れてきたの、すごく懐かしくて。「ハリケーン」の入ってる「Desire」はほんとよく聞いたし
 無実の罪で投獄された元チャンピオンというのはディランで知ってたけれど、ふむふむなるほどね、う〜〜む怒りがめらめらと、ファック!ヤンキーとまた白人嫌いに火が着くじゃんかね(^_^ゞ 監獄の中で、自分を陥れた白人への憎しみに燃えたぎるハリケーンにムスリムの囚人が、悪い白人ばかりじゃないとなだめるところで、「でも白人は踊りが下手だ」というのには思いっきり笑ってしまった。マジ、白人のダンスはキモイです。
 さてまともにれびゅしよか(笑) だってこういう実話ものというのは、意外とどうこう言うの難しいんだよねぇ。というのは、どこまで事実でどこから脚色なのかわからないし、ハリケーンの無実にケチをつけるわけではないけれど、彼を陥れた連中のサイドから見るとウソばっかり並べ立てやがってとなるでしょ。まぁ、それでも連中の悪辣非道なことは信じて疑わないけれどね。そういうことを平気でやれる連中ですよ。それはこの半年ばかりの歴史的事実を見ても明白です。
 それはそれとして、こうした冤罪事件のドキュメントなんてのもテレビでよくやってるわけで、それらとの差異は、そこに提示されるのが現実にその事実に関わった人間、つまりハリケーン本人でなく、デンゼル・ワシントンという俳優ということ。ここで彼は二十歳から五十歳までの一人の人間を演じきってしまう。しかもボクサーという特殊な肉体を持つ人間を演じているということ。このボクサーを演じるために27kgもダイエットして体をつくったというのだから。役者さんというのは大変なものだわ。ん〜っと上でけっこう奥歯にものがはさまったように書いてるのは映画として見たときにいいんだか、つまらないんだか、よくわからない。カナダの3人組の関わって行きかたというのもよくわからない。映像がとりたててすごいというわけでもなくて、そういうあたりはごくごく平凡に描かれてしまってるなぁという気がしないでもない。でもよくわからないままにぐいぐい引っ張り込まれてしまってたのは、やっぱりデンゼル・ワシントンだったからなのか、はたまたハリケーンその人だったのかと。引っ張り込まれたのは、ハリケーンの心の動き、とくに囚人としての心の動きだったわけで、またそこに集中させるためには周囲の人間たち、レズラ(ヴィセラス・レオン・シャノン)であっても極力抑えた表現にしたのじゃないのかなと思う。筋立てにしたってごく平凡で、ときおり時間があっち行きこっち行きするものの、事実をただ追いかけるだけなのは、へたにサスペンス仕立てなんかにされるよりずっとずっと良かったなと思う。
 ちなみにデンゼル・ワシントンはこれで99年のカデミー主演男優賞にノミネートされてるけれど、受賞はケビン・スペイシー(アメリカン・ビューティ)というのもアレですか(苦笑)

The Hurricane
監督 ノーマン・ジュイソン
脚本 アーミアン・バーンスタイン / ダン・ゴードン
撮影 ロジャー・ディーキンス
出演 デンゼル・ワシントン / ヴィセラス・レオン・シャノン / デボラ・アンガー / ジョン・ハンナ/ リーブ・シュライバー / デビ・モーガン / ロッド・スタイガー
★★★★


2002年02月14日(木)



 エリック・ゾンカ『さよならS』 (99 仏)


 かつて70年代に日活っだったかでよく見たことのあるような。。。ゑ?どれ?って言われてもどれだかわからんのですが。こうした挫折ってのはひとつのテーマだったように思う。
 ありきたりにパン工場で働いているエス(ニコラ・デュヴォシェル)。よくありがちな話でありきたりの仕事はおもろくないからマジメに仕事はしない。だからクビになる。_(o`ヘ´)ゞ..こんなとこやめたらぁーと飛びだすのもありがちな話。で、飛びだした先が都会マルセーユ。そこでいわゆる街の今でいうギャング(カポネとかじゃなくて、チンピラ)の下っぱになってしまう。これもありがちな話。そうした武力社会ではなによりもケンカに強くならないとイカン、というわけでキックボクシング修業。これもありがちな話。そんなギャング社会に憧れはして、実際に強盗などにもかりだされはするけれど、毎日毎日強盗やらかしてるわけでもなく、ボスの婆ちゃんの家政夫やらかされて、ちっさえないのぉーというのもありがちな話。さらにはそれでもらったペイもピンハネする兄貴分とか、どこまでもさえないギャング集団。その中でけなげにボクシングの腕をみがいて少しでも強くなろうというのもありがちな話。けなげにボクシングの腕をみがいてもガードだけでもぶっとばされたり、これもありがちな話。さらにはやっとのことで同じジムの誰かに蹴り一発で仕留めるようになったというのもありがちな話。
 いっぽうそういう生活なもんだから、金に困ってるわけです。ところが婆ちゃんの引出しをこっそりあけて婆ちゃんの昔の写真とか見てはほろっとくるなんてのもありがちで、その情にほだされて婆ちゃんからペイもらうの断ってみたり、う〜んありがちだ。ところがほんとに困るとその婆ちゃんを襲ってしまうどうしようもない情けなさというのもありがち。こうして書いているとデュヴォシェルが小倉一郎のような気がしてくるんだけど。
 ついには敵対するギャング集団から首をかき切られてしまう。とこれもありがちで、最後はまじめなパン屋さんに逆戻ってほっとさせてくれるのもありがち。これから伝説となるであろう勲章をかざったエスが、パン生地に切り込みを入れるのが妙になまなましく思える。
 ありがちのオマケといえば、最初にパン屋を飛びだした直後に女になぐさめてもらってのパフパフ。このとってつけたようなパフパフもありがち。
 はい、このれびゅで「ありがち」は何回出てきたでしょ(笑) まぁ非常にありがちな映画だけれど、あなどれない。だいたい「ありがち」という印象もボクが70年代爺いだからかもしれないぞ(笑) そこそこに楽しめて、そこそこにエスに感情移入せられてしまう。チンピラどももどことなく懐かしくて。『ロゼッタ』とともにフランス映画の新しい方向が見えかけてきているような。
 とりあえずは、ヒマなとき、何かない?ってときにでもどうぞ。

Le Petit Voleur
監督 エリック・ゾンカ
脚本 エリック・ゾンカ / ヴィルジニー・ヴァゴン
撮影 ピエール・ミロン
出演 / ヤン・トレグエ / ジャン・ジェローム・エスポジト / ジョー・プレスティア / マルシャル・ベゾ / エミリー・ラファルジュ / ジャン・アルマン・ダロンバ / イングリッド・プレイナ
★★★☆


2002年02月13日(水)



 ベント・ハーメル『卵の番人 』(95 ノルウェー)


 爺たちの一日は短い。朝起きて、ラジオで天気予報を聞いて、うんこして、ときには占いをやってみたり、ときには二人でトランプやってみたり、二人の会話は成り立っているようで成り立っていない。いいねぇー、こういう爺になりたいねぇ。
 自分ごとなんだけど、ボクには4つ下の弟がいて、あと20数年経ったときに、2人して、嫁子に見捨てられ、女にも見捨てられ、岩手県かどっかの雪深くで、もうその頃にはスキーなんてのも出来ずに、ぼーーっと暮して・・・・(;゜゜)ウウ! イヤだぁ、考えただけでおぞましい。きっとうちの兄弟を知ってたらほくそ笑むのがおるんだろうな。。。この頃、よく言うことだけど、このままさらに年とって、人の言うことなんかきかずに自分勝手にうだうだ暮すんだろうなぁ、なんて。
 マジ、そういうのを見せつけられてるみたい。でもほのぼの、もう欲得も色気もなくなって、でも掃除におねえちゃんが来てくれると、そのときの兄貴ファの目ったら・・・雀百までですなぁ。それにうんこシーンは劇爆モン。全体的に雪の中に閉じ込められてしんとした映画で、もう笑い転げてしまいましたです。しっかしヨーロッパ人ってうんこがころころしてるんだろうね、紙もほんのちょっとしか使わないの。まさかケチってんじゃないよな。そしてこの兄弟二人で何だったかなぁ、とにかく賭けをするのね。それで負けたら、これは見てのお楽しみにおいといたろ。絶対、うんうんそうそうと納得させられるのうけあい。
 笑いを無理強いするのでなく、いつのまにかほんわかした笑いを取る。これってちょっとすごすぎるんだけれど。さりげない行動がいっぱいなんだよね。例えば、車が滑らないように灰を撒いてやったとか。ラジオから流れるアレだとかさ。。。
 さて、そういう老兄弟のところに、どこからか、兄貴ファ(ヒェル・ストルモーン)の息子だという障害者の謎の男コンラード(レイフ・アンドレ)がやってくる。この登場のところもおしゃれ。どうも兄貴ファがどこかで作った隠し子らしい。弟モー(スべーレ・ハンセン)の方は何がなんだかわからない。それでそれまでの兄弟二人の安定した共同生活が狂い始める。ファ方は彼のためにバナナをしこたま仕入れるし、ジューサーを買込むし、弟の方はそれが気に入らないわけでもないのだけれど、どうもしっくりこない。このあたりの心の動きもすごくさりげない。
 ただ、この男はいつも鳥の卵の標本を後生大事に抱えているのだけれど、だから『卵の番人』。ときどき卵を口の中で暖めてみたり、鳥の鳴き声を発してみたり。でも未熟なボクにはとうとうなんで鳥の卵の標本でなければならないのかはわからずじまい。
 結局、弟ファは一人出ていってしまうのだけれど。。。
 この映画のさりげなさ、こんなさりげない映画はちょっとないね。すごい!というのではないけれど、ほっと息抜きにいいねぇ

上に使った画像はモノクロだけどカラーです。青の色がすごくきれい。

Eggs
監督 ・脚本 ベント・ハーメル
撮影 エリック・ポッペ
出演 スべーレ・ハンセン / ヒェル・ストルモーン / レイフ・アンドレ
★★★☆


2002年02月12日(火)



 フリッツ・ラング『メトロポリス』 (27 独)


 そんじょそこらのSFモンは総懺悔しなさい。70年も前にこういうの作られてんのに恥ずかしくないんかい。。。。
 なんてボクが言うても仕方がないのでありますが、元々こういう類いのSMモンは、あ、SMモンは好きです(。_・)ドテッ しょうむないこと言うてんと、SFモンは好きちゃうのね。アホくさくて。リアルに作ろうとすればするほどバカくさいのになって見る気しないのだよ。コンピューター技術のおかげで逆に安易に作られすぎていると思う。
 当然、このフリッツ・ラングの時代、つまり70数年前にはコンピューターのコの字もなく、すべていわゆる原始的な特撮なわけです。それでこのほうがよりリアルに見えるというのが何とも。
 よりリアルに演技をしてもひとつの枠の中から出ていくことはできないのに、現実に有りえない所作が逆にリアルに見せるということがあるでしょ。例えばこの『メトロポリス』の地下工場。誰もこれを見ても現実にある工場だとか、あるいはどこかに本当にある工場でのロケだとか思わないでしょ。あきらかに大掛かりなセットと認識するに決まってる。この地下工場の話を出したついでに先に書いておくと、ここでの役者群の統制のとられ方なんてすごいのだ。まさに機械の一部品であるかを表しているわけで、これが現代のようなセットでは逆に同じように役者達を動かしたところでその効果は出てこないと思う。
 はい、いよいよロボットですね。かのC3POは完璧にこれのパクりですね。パクるんだったらもっとマシなのを作って欲しかった。かの『スターウォーズ』がどうしても好きになれない、いいと思わない理由の一つだね。このロボットは完璧だね。多分、いまのハリウッドでもこれを越えるものは作れない。と、断言しておいてやろう。勢いで書いてしまうと、花輪和一の『ニッポン昔話』のロボットはC3POからのコピーだというのは失礼だね、この『メトロポリス』のコピーだよ。
 フリッツ・ラング(1890-1976)でいつも思うのはブレヒト(1898-1956)。同時代のドイツにあって、演劇と映画で絶対に彼らの間に行き来はあったはずなんだけど、ボクの勉強不足でわからない。フリッツ・ラングの映画というのは非常に演劇っぽい、ブレヒトっぽいなとボクは思う。たとえ交流がなかったとしてもお互いにどこかで通じ合うところがあったのは十分にうかがえる。またさらに群衆がマリアに群がってくるところなんかは暗黒舞踏を想い起こしてしまうね。     
   ※ブレヒトとラングの交流はこの時点でも確実にあったようである。
     http://www.netlaputa.ne.jp/~tomoko/lang.html参照
     ブレヒト『三文オペラ』は1928年

 とにかく先にも書いたことだけど、この『メトロポリス』で、マリア(ブリギッテ・ヘルム)やロトワング(ルドルフ・クライン・ロッゲ)以上に、無名のおびただしい数の役者群の使い方が図抜けている。工場労働者の勤務交代のシーンではナチスを予言するかのよう(この27年ではまだ台頭してきてなかったはず)。ブリギッテ・ヘルムのマリア、偽マリアの二役もすごいんだけど、群衆、それも工場労働者一通りの群衆でなく、子どもたちを含めた労働者の家族たち、またプチブル的群衆、それらの扱いにはほんとにため息が出てしまう。さらに70年前の技術から考えると、映像処理がもう特筆モノ。ボクはその専門じゃないからわかってないけど、重ね合わせとかも十分できたんだね。
 ストーリー的にはいまから見ると物足りないような。価値観の違いが大きいからどうしようもない。ラストにしたって、アレはないよなぁと思えるものだけれど、それがあの時点での社会的にも大団円とみておくべきなんだろうな。ただSF的予知だけに終わっていないところもさすが。
 なんかいっぱいインパクトの強いところがあるなぁ。書き忘れてることがまだまだありそう。とにかく凄い映画があったものです。


Metropolis
監督 ・脚本 フリッツ・ラング
撮影 カール・フロイント
出演 ブリギッテ・ヘルム / アルフレート・アーベル / グスタフ・フレーリッヒ
★★★★★



2002年02月11日(月)



 クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜』。(94 仏)


 こういうクレール・ドゥニの淡々とした語り口が好き。何を訴えるでもなく、はらはらどきどきわくわくさせられる映画でもなんでもないのに。もちろん流行りの「癒し」なんてもんでもないし(笑)、癒されません(断言)
 かつてもう何十年も前に東北だとかから集団就職だとか言って東京に出てきた若者、「根っ子の会」なんてのもあった。東京に出てくると何とかなるという幻想に彼らが挫折していく。そのような映画が何本も作られていた。

 リトアニアからパリにやってきたダイガ(カテリーナ・ゴルベワ)、「手の届くところになんでもある・・・・楽園」マルチニック(西インド諸島仏領)から一族で来たテオ(アレックス・デスカス)、カミーユ(リシャール・クルセ)の兄弟の挫折。
 その彼らが「"ムーランルージュ"で有名な歓楽街で、人生を楽しむ街」パリ18区で出会う。出会うといっても彼らの間にラブロマンスが湧き起こるわけでもなく、たまたまダイガが居候することになった安ホテルに住んでいたのがカミーユ。ただ同じ空間に生活するようになったというだけで、二人の間に最後まで接点はない。
 なんて書くとどこがおもろいねんと思うだろ。いやおもろいことなどなんもないねん。
 これがね、昭和30年代日本映画のように、田舎から東京に出てきた若者が一生懸命生きようとするけれど、あえなく挫折していくというのは、その一生懸命生きようという点でいやらしいのだが、この『パリ、18区、夜。』には一生懸命生きよう、頑張れよというのがまるでない。適当に生きてみてダメだったわって、話にならないんだよね。ところがそれがいいのだ(笑) 映画のマイノリティー。。。。。 マイノリティーな生き方、実は描かれることはマイノリティーであっても現実にはほとんど誰もがそうでしかない。その一方でフランスの婆ちゃんたちの空手道場が描かれていたり、また婆ちゃんの若いころへの思い入れだったり、プロコルハルムにはじんと来たね(苦笑)。元来描こうとしないところから、パリという都会、人間を描いた。そいう意味でこの映画はすごく興味深いものがある。
 その上でひとつ書いておくと、テオはクラブバンドのバイオリニストだが、当たり前のことながらそういうのって銭にならないんだよね。だからマルチニックに帰りたがっている。ところがテオとモナ(ベアトリス・ダル)との間に子どもがいて、この子がまためっちゃ可愛い。それはいいとして、モナはマルチニックになど行きたくない。で、子どもの養育権を巡ってほとんど離婚状態。ありがちでしょ。離婚状態といっても二人の間に愛情がなくなっているわけでく、アパートの屋上で朝まで川の字で寝るところなんてほんといいんだよ。それでモナがテオにステージ用の靴を買ってやるのだけれど、マルチニックのことでまたケンカ。モナは出ていってしまう。久しぶりのステージで、テオは一人でその靴を履いていく。これもね、描かれ方がごくふつう。そういうのをやたら強調したがる映画だらけなのに、このクレール・ドゥニのセンスの良さったらない。だからこそボク的には好きな映画。音楽だってクールでいいしね、やたら強調したがる映画に食傷気味の人にお薦め。(実はきのうアップしたベアトルッチもいい加減食傷気味なんだ)
 上に引用した「パリ18区は〜〜」だとか、「マルチニックは〜〜」の提示の仕方もいいよ。どうぞ自分で観て確かめて下さい。

J'ai Pas Sommeil
監督 クレール・ドゥニ
脚本 クレール・ドゥニ / ジャン・ポール・ファルジョー
撮影 アニエス・ゴダール
音楽 ジャン・ルイ・ミュラ
出演 カテリーナ・ゴルベワ / リシャール・クルセ / バンサン・デュポン / アレックス・デスカス / ベアトリス・ダル
★★★★☆


2002年02月10日(日)



 ベルナルド・ベルトルッチ『シャンドライの恋』 (98 伊)



 ベルトルッチの映像は『暗殺の森』や『ラスト・エンペラー』に限らず、びっくりするくらい美しい。映画はこう撮るんだよと言わんばかり。
 当然のことながら、この『シャンドライの恋』でもため息の出る映像の洪水。らせん階段の構図の美しさなんてのは言わずもがな。たとえば「私の夫を刑務所から出して」と叫んだ直後、らせん階段を背にドアのところに立つシャンドライの構図は完璧でしょ。そこからシャンドライをズームアップしていくのに手持ちのカメラを使うなんてのは心憎すぎってもの。ついでにこのとき泣き叫ぶシャンドライ(サンディ・ニュートン)はそのあまりに涎を垂らしています。
 赤をベースにした色調で、その中でとりわけ赤のソファだったり、赤いセーターだったり、こういう赤というのはいかにもイタリアらしい。そして光の使い方がこれまたお手本のよう。例えば、ベッドの下でほこりがきらきら光ったり、さらにはキンスキー(デビッド・シューリス)の前髪に照てられた光がひどくキンスキーの心を表現してたり。あるいは光が作りだすシャドーであったり、シルエットであったり。
 と、まぁこれだけベタに褒めちぎるのも珍しいんだけれど、さにあらず、過剰すぎると、どうしてもっと素に表現できないのかなんてへそ曲がりでしょうか。たしかに困るんだよなぁ。美しすぎるというのも。いくら美味しいとはいえど、ビフテキばかり食べてられないのだよ。だから、良かったぁーと思うのと同時にどこかに突き放された気がする。
 それはそれとして、これにヘタな小細工がどこっと盛り込まれたのなら、ほんとノーサンキューになってしまうものが、この『シャンドライの恋』においてはとてもストレート。話のほとんどすべてがかのらせん階段のキンスキーのアパートで進む。閉鎖性。他の空間、例えばシャンドライが通う医学部の教室であってもその空間から単に伸び出た(地下鉄でつながれた)ひとつながりの空間にしか感じられない。唯一、他の空間、外の空間として現れるのはアフリカの大地なのだ。
 もうひとつ、ことばの少なさ(字幕の少なさ?字幕にしなければならないことば) これも切り詰められた空間と同様に極力切り詰められる。極端なことを言えば、字幕なんてなくてもわかる。どこかわからない国のことばで語られてもわかってしまう。話しことばとして表されるのが極端に少ない。抑えられているのだ。
 話しことばは極力抑えられなければならなかった。それはキンスキーはピアノということばで語りかけ、シャンドライはアフリカ音楽で語っていたから。そしてベルトルッチは光で語っているから。

 ボクが一番好きなシーンは、キンスキーのアパルトメントを右に臨む、地下鉄への入り口が正面に見えるシーン?人通りの少ない朝だね。朝の光がわけもなく優しい。

Besieged
監督 ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 ベルナルド・ベルトルッチ クレア・ペプロー
原作 ジェイムズ・ラスダン
撮影 ファビオ・チェンケッティ
音楽 アレッシオ・ブラド
出演 サンディ・ニュートン デビッド・シューリス クラウディオ・サンタマリア ジョン・C・オイワン マッシモ・デ・ロッシ シリル・ヌリ ポール・オスル
★★★★☆


2002年02月09日(土)



 ジル・ミモーニ『アパートメント』 (95 仏 伊 スペイン)


 男の優柔不断と女の嘘が悲劇を創りだす。と、言い切ってしまいます。
2年の時って、そんなに長いものなのか? 竹内まりあの『駅』もそうだったけれど。。。
 マックス(ヴァンサン・カッセル)は2年前に突然終わってしまったかつての恋人リザ(モニカ・ベルッチ)に偶然見かけたような気になる。この優柔不断男マックスの中ではまだ終わってなかったんだねぇ。そのときすでにマックスは婚約していたというのに。リザらしき女がいた電話ボックスでリザの残り香、痕跡を漁るマックスのどうしようもなさ。どういうわけだか、わかってしまうからイヤになる。そういうボクも多分に優柔不断男の素質十分なのかも。
 婚約者もそっちのけで、リザへの手がかりを追いかけるマックス。というところから、話は急にサスペンスじみてくる。ついにはリザのいないまに部屋に忍び込むのだが、そこへ戻ってきたのはアリス(ロマーヌ・ボーランジェ)だった。そしてマックスには自分がリザだと名のるのだった。
 起承転結の承あたりから頻繁に2年前のできごとがフラッシュバックされる。この時間の切り換え、さらにはマックスから見た世界、アリスが見た世界の視点の切り換えががスピーディーで見事。へたすれば何が何だかわからなくなるだろう。そこにマックスのリザ探しを手伝う友人リシュアン(ジャン・フィリップ・エコフェ)がからんでくると、ラブロマンスがサスペンスの手法で語られ、知らない間にずんずん引き込まれていく。
 ところで、恋愛はすれ違いの連続だというのは真理だと思う。そしてこの映画に描かれるすれ違いはあまりに精緻。すれ違いがあればこそ成り立つ映画なわけ。ただ、念入りにすれ違わせてくれるもんだから、そのあまりの精緻さがこざかしいとも感じてしまうのも事実。そう部屋の鍵を地下鉄の通風口?からつまみあげるとこなんかくどいんだよ。そしてマックスのあまりの優柔不断さにいい加減うんざりだね。だからあの結末は予定調和であるかもしれないが、しかしなぁ・・・という気がして仕方ないんだよ。
 偶然が挿し挟まってくるのはサスペンスの必然。謎解きにそれはないぜセニョリータ(古っ!)っても、そういうことにして見るとおもしろい。あ、そかそか『裏窓』のラブロマンス版なのだ。あの階段のシーンはいいよね。
 
 女優はね、かのマックスの婚約者サンドリール・キベルラン、これは論外(笑)で、ロマーヌ・ボーランジェか、モニカ・ベルッチかってことになる。話の上では ロマーヌ・ボーランジェがいちおうメインでしょ。でもボクは断然モニカ・ベルッチ。あの朝、電話を(あ、そうそう、電話がこの話のキーになってるのも結構定石っぽい)かけに出るときのロマーヌ・ボーランジェの足太かったもん。それに対して、モニカ・ベルッチの白のスニーカー、もう惚れまくり。だから、優柔不断男がああなるのは納得いっても、結局ロマーヌ・ボーランジェが思い描くままに終わってしまうのはねぇ。あの結末は断然モニカ・ベルッチ派としては納得いかないです。

L'appartement
監督・脚本 ジル・ミモーニ
撮影 ティエリー・アルボガスト
美術 フィリップ・シッフル
出演 ロマーヌ・ボーランジェ / バンサン・カッセル / マチュー・カソビッツ / モニカ・ベルッチ / ジャン・フィリップ・エコフェ / サンドリーヌ・キベルラン
★★★★



2002年02月08日(金)



 木俣堯喬『鍵』 (83 日)

 谷崎潤一郎原作『鍵』 これにはこの木俣堯喬監督を含めて5度映画化されてる。ちなみにCinemaScapeから拾ってみると
59年 市川崑監督 / 京マチ子・中村鴈次郎 (3.7)
74年 神代辰巳監督 /荒砂ゆき・観世栄夫 (2)
83年 木俣堯喬監督 /松尾嘉代・岡田眞澄 (-)
84年 ティント・ブラス監督 /S.サンドレッリ・F.フィンレイ (-)
97年 池田敏春監督 /川島なお美・柄本明 (1.9)
()内はCinemaScape平均点 (神代監督はリクエスト中、木俣監督、ブラス監督は未登録 またエブラヒム・フルゼシュ監督=イラン映画は同名で全く別物)

 それほど映画を撮る側からすると魅力的なんだろうか。恥ずかしながら、これまでどれひとつと見てないので何とも言えないです。まぁ、池田監督作品のが平均点1.9というのは推して知るべし。簡単にわかるでしょ。女優の問題(苦笑)
 これ、原作からすると、かなり映画化するのは難しいと思う。原作では夫婦それぞれの日記による告白で、その日記を互いに秘しておくのが「鍵」なのだから、この「鍵」をどう表現するかがキーになると思う。で、この木俣監督作品でははっきり言って、その点に関しては惨敗と言ってもいいのでないだろうか。
 他を見てないからほんと言い様がないんだけれど、やっぱりこの『鍵』でネックになるのは女優なんだと思う。そうしてみると、京マチ子、荒砂ゆき、松尾嘉代、川島なお美とどんどん外れていく気がしないでもない。ちなみに谷崎潤一郎は市川崑監督作品を見て、山本富士子がいいと言ったとか。
 松尾嘉代はボク個人的には嫌いじゃないんだよ。でも、この83年当時ではもう薹(トウ)がたってしまってた。最初に、松尾嘉代の顔がアップになったとき、あれれ、こんなんだった?と、イメージ狂ってしまってた。ボクだけの感覚かもしれないが、彼女はこの郁子、谷崎のイメージじゃないんだよねぇ。もっとしゃきしゃきした淡泊な、淫靡というには程遠い感じがする。それでも進んでいくうちにそのイメージのズレも結構修正はされたけれど、やっぱりどこか違う。松尾嘉代自身、この時点で売れなくなっていたような、それでここ一発で、あの松尾嘉代が脱いだ、大胆な性描写と騒がれていたような。。。おぼろげな記憶がある。この『鍵』は日活ではないけれど、日活の最後近くになって、売れなくなった女優をどんどん脱がして売ったのもこの頃。その中のひとつのようにも扱われていたような。
 谷崎潤一郎原作『鍵』という看板を外してみると、そこそこに楽しめるのは、逆に松尾嘉代だから。やっぱり彼女は上手いですよ。岡田眞澄というのも?モノなんだけれど、夫である岡田眞澄の最期に乳首を吸わせるときの松尾嘉代のふっと微笑むあたりなんかは彼女だからこそ。
 で、この木俣堯喬監督は大蔵、ミリオン、国映といった独立系のピンク映画を渡り歩いた監督で、エロさの見せ方となると絶品。かのポラロイドシーンなんてのは汁モノだよ。カラミよりずっとずっとエロいの。最後の1枚なんてああもうエロいのなんの。ボクはもうこのシーンだけでいい(爆汁)
 返す返すも谷崎潤一郎原作『鍵』を外して、これを下敷きにしたピンク映画としてほしかったな。それを外せなかったのは、松尾嘉代(または岡田眞澄)サイドの問題だったのか。文芸作品なら許せてもピンク映画となると許されなかったのだろうか。ここでこれだけ演れるのならどっとピンクに走って欲しかった。

Wittgenstein
監督・脚本 木俣堯喬
プロデューサー 若松孝二
出演 岡田眞澄/ 松尾嘉代/ 江上慎吾/ 田口由緒/ 渡辺文雄
★★★


2002年02月07日(木)



 デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』 (93 日英)


たとえば、ある人がこう言ったとしよう。
「自分の理解している言葉を聞いたとき、私はいつも何かを感じているように思う。それは、その言葉を理解していないときには感じられない何かである。」
これは、その人に特有な経験についての言明である。別のある人は、おそらくまったく異なったことを感じるであろう。しかし、このふたりが「理解する」という語を正しく使用しているならば、理解の本質はこうした使用にこそ存しているのであって、自分が経験していることについて彼らが何を言うかにあるのではない。
     (ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』/藤本隆志訳)


 あうっ(;-_-;) なんでこんなのをもってくるかなね、デレク・ジャーマン。ヴィトゲンシュタイン。。。。そんなん知るかい(-.-;) じゃあ、なんで借りたんだよぉっておもろそうだったから。デレクの名前だよ、名前、デレクの名前で借りたんです。むぅ、「ヴィトゲンシュタイン」って知ってるのイギリスでも希少だろうな。それも、音楽や絵画とかの分野だったらわからんでもないけれど、哲学だ。大慌てでネットで調べたやんか。それでもようわかっとりません。
 それでもがむばる。頑張って見るのが偉い(笑)なんて、はい、わかっとらんでもおもしろいです(not funny but interesting)。そこはそれ、デレク・ジャーマンでありますからしてやってくれちゃっております。
 まずはオールセット。セットといっても、非常にデフォルメされたオブジェだけ。言ってみればとても演劇的なわけ。いくつかの箱であるとか布であるとかが配置されただけの舞台の上で演じられる芝居。だからって芝居を映像に残したなんてはずがなくてしっかり映画なわけ。ほんと、さすがデレク・ジャーマンなわけです。
 とにかく色彩がすごいんだよね。終始、モノトーンで抑えて、非常に演劇舞台的というのはバックが黒の闇に塗りこめられていて、つまり舞台奥に黒の緞帳があって、その前で演じられる。そこで原色が引き立つ。それもヴィトゲンシュタイン自身はバックに溶け込んでしまいそうな色でありながら、サイドを例えば、バートランド・ラッセル(マイケル・ガフ)が原色の赤であるとか。だからバートランド・ラッセルや、ケインズ(ジョン・クエンティン)らがどんどんヴィトゲンシュタインを引っ張っていくことができるわけだね。時間の軸の使い方も、少年期のヴィトゲンシュタイン(クランシー・チャッセイ)と哲学博士となってからのヴィトゲンシュタイン(カール・ジョンソン)を同時並行に、あるいは重ねてしまうのもvery pleasant pineappleなのでした。
 あたりまえのことだけど、ヴィトゲンシュタインの哲学を簡単に解き明かしてくれるというようなはずがないです。それならそれで彼自身が書いたものを読めばいいわけで、それを1時間少しの中に押し縮めるというのは暴挙というもの。どちらかというと、ヴィトゲンシュタインの哲学を鏤めて、彼の生涯を追いかけていくことでできあがってきてるのは、やっぱりヴィトゲンシュタインではなくて、デレク・ジャーマン自身の像だったんだなと。ボク自身がヴィトゲンシュタインについては全く無知なんだけど、たぶんゲイでなかったはず。それをジョニー(ケビン・コリンズ)という美形の若者を出してくるのもデレク自身の像だったから。
 ちなみにイギリス・日本の共同製作になっているのは製作総指揮としてアップリンクの浅井隆が加わっているから。

Wittgenstein
監督 デレク・ジャーマン
脚本 デレク・ジャーマン / テリー・イーグルトン / ケン・バトラー
撮影 ジェームズ・ウェランド
音楽 ジャン・レイサム・ケーニック
出演 クランシー・チャッセイ / カール・ジョンソン / マイケル・ガフ / ティルダ・スウィントン / ジョン・クエンティン / ケビン・コリンズ / ネイビル・シャバン
★★★★★



2002年02月05日(火)



 ルイス・ブニュエル『哀しみのトリスターナ』 (70 仏,伊,スペイン)


 
 孤児になってしまったトリスターナをドン・ロペ(フェルナンド・レイ)が養女に引き取って。。。が、そこはブニュエル、この養父にじきに「私はおまえの養父であり、夫である」と言わせる。
 な、なんと、ブニュエル翁、カトリーヌ・ドヌーブに三つ編みのおさげやらせてます。これは必見! 強烈な食い合わせの悪さ。どう転んだって、ドヌーブの三つ編みブルセラなんて想像できるかい。それを臆面もなくやらかしてしまうブニュエルに座布団1枚! 正直、これはやり過ぎです。
 ブニュエル+ドヌーブのコンビはこの4年前に『昼顔』やってるでしょ。4年前に人妻やらせておいて、それにつぎは養女ってのもなぁ、この最初の設定は天才だから許せることで、これが駆け出しの監督なんかがやったらブーイングの嵐。いや、それでもドヌーブの三つ編みおさげはしかと目に焼き付けておく必要あり。そういう意味でこれはマスト!
 つぎの見ものはドヌーブの義足。うををーの足フェチここにありなのであります。しっかしブニュエルにかかるとなんでこうもいやらしく淫靡になってしまうんだろ。ドヌーブの裸なんてこれっぽちも見えないのに、つい想像してしまう。変態オヤジロペがオレは夫だ宣言して養女を手ごめに、あ、いや、納得づくでやらかしてしまうところだってね、妄想ぶんぶんのぶん・・・・なわけです。ドアが閉まって、うーむやっぱりそういうのは見せないかと、ところがちーーっとカメラが動いてもうひとつのドアから・・・・・むふふふ。そのドアも閉められて、あ、あのぉーせっかくティッシュまで用意したのですがぁぁぁ。。。。。すいません(・・;)ふざけすぎました。あ、足フェチですね。いやほんとに観る側をくすぐるツボを心得ておられます。この変態! そしてバルコニーのアレだもん。やっぱりティッシュは用意しておきましょう。
 そして終盤のドヌーブ、これを撮りたいための無理を承知の三つ編みおさげだったのです。ここでの凍りつくようなドヌーブの美しさは、今度は観る側のマゾっ気をいたぶりまくってくれます。フェチ&マゾにはたまらんのだよ。いやぁ、ドヌーブってこんなに美しかったかと再度認識し直してしまったわけ。《ドヌーブ=お姫さま》という公式にはめて観るととんでもない破目に陥ること必至。
 もちろんブニュエルのボヤキとも言える社会批判も全編にわたって鳴り響く。

Tristana
監督 ルイス・ブニュエル
脚本 ルイス・ブニュエル / ジュリオ・アレジャントロノ
原作 ベニト・ペレス・ガルドス
出演 カトリーヌ・ドヌーブ / フェルナンド・レイ / フランコ・ネロ
★★★★☆


2002年02月04日(月)



 ルイス・ブニュエル『黄金時代』 (30 仏)


 社交的であることを嫌い太陽を避け岩陰に身を潜める
 孤独を好み侵入者は断固として排除する


 『アンダルシアの犬』に続く2作目。ブニュエル自身が「『アンダルシアの犬』には社会批判はないが、『黄金時代』にはある」と語るようにかなりヤバい。ヤバいからしてこれまでまともな公開はされることなぞなかった。そりゃそうだろ、バチカンの上にヘリコプター飛ばしての空撮だもん。しっかりヘリの影が映ってる。
 まずはいきなりサソリのシーンに始まって「ソドムの百二十日」に至るまで。うはうはの連続。これ、やばすぎくない?の連続。ラストのキリスト演った俳優なんて暗殺された。というのはウソですが、秘かに殺されていても不思議でない。
 よく考えてみると、サソリを先頭にこんだけ動物の出てくるブニュエルってのもないんじゃない。ベッドで牛が寝ていて、ほんとの牛だぞ、そいつがもそもそ出ていくときのカウベルの音がすごく印象的。よくぞあんなもの引っ張り出せたなと思っていると、荷物満載の馬車が晩餐会の会場になんの違和感もなく、あ、大ありか(笑)、現れて、その荷物の上ではおっさんが酒瓶をラッパ飲み。それがブニュエルなら当然と言わんばかりにドタバタじゃなく、それこそ何の違和感もない。ごちゃまんと登場する人物と同列でしかありえない。だから、ぐしゃっとカナブンが踏みつぶされるのだって生きてくる。
 その人間にしたって、サソリのあとの「それから三十分後」(どう30分後なんだかようわかりませんが)に、最初に登場するおっさんの顔も素敵。出てくるのが主人公らしき二人を除いて、なんら脈絡なく、すべてがサソリと同じように、あるいはそれ以下に単なるモチーフ。だけども、盲だの、『エル』だの、インパクト十分すぎる。脈絡ないことはないんだけれどしいかり結びついてたりするから、ふんふん筋立てなんぞ見てなくてもなんて侮ってられない。
 ブニュエルっていうと、あまりに衝撃的すぎるためか『アンダルシアの犬』と出てくるけれど、以降のブニュエルはどっちかというこの『黄金時代』を引きずってたんだなと思える。どっちにしろ、これらが1930年、今から70年前に撮られていたということが\(◎o◎)/!
 「ベルギー王室主催ルイス・ブニュエルの『 黄金時代』賞」なんてのがあるんだね。

L'arge D'or
監督 ルイス・ブニュエル
脚本 ルイス・ブニュエル / サルバドール・ダリ
出演 ガストン・モド / リア・リス
★★★★★


2002年02月03日(日)



 アレックス・デ・ラ・イグレシア『どつかれてアンダルシア(仮)』 (99 スペイン)



 『どつかれてアンダルシア(仮)』という邦題がいいねぇ。語呂がとっても素敵。『Muertos de risa』という原題、もちろんスペイン語だけど、わかっとりません。そのうちまた誰かが教えてくれるだろうけど、どこにもアンダルシアなんてありゃせんし、一瞬たりともアンダルシアの風景なんてものは出てこない。出てくるのは凄絶なる憎悪の闘い。なんていうとまたまたくらぁ〜い話..というわけでもなくて。よくぞこのような企みが思いつけるのだと、さすがスペインであります。
 とりあえずはどつき漫才ですね。どつかれるとか、人がはめられて困っているのを傍観することで喜ぶという下品な根性、これは洋の東西を問わないわけですね。それでだいたい世の常としてボケとツッコミのどちらの人気が出るかというと、ボケの方であってツッコミは添え物的でしかない。ボケがいないとツッコミはなんら魅力がないけれど、ボケの方はツッコミがいなくても、誰であってもツッコミができる。
 ここでボケはニノ(サンティアゴ・セグーラ)、これはどう見ても主役を張れるような風采でなくて、ダサい、さえないのような典型。一方、ツッコミのブルーノ(エル・グラン・ワイオミング)のほうは少なくともニノよりはマシってだけ。顔はジャン・ポール・ベルモンドを石臼で轢いたような。そのさえない二人がコンビを組んで売り出そうとしても、当然のことながら売れるわけない。ところがひょんなことからニノの横っ面をビンタ喰らわしたことがバカ受けして。。。
 映画が面白くなる、あるいはこの映画の見せ場はここから。これも世の常というわけか、こういうコンビの場合、私生活はひじょーーに仲が悪い。険悪ともいえるくらいに仲が悪い。なんでわいばっかりどつかれて人に笑いものにされんなあかんのだ。逆になんであいつばかりが受けて、所詮オレはあいつの引き立て役にしかすぎないのじゃないか。と、いうわけで、憎悪の闘いが始まる。
 このアレックス・デ・ラ・イグレシアという監督はスペイン映画界の問題児らしく、この狂気に至る憎悪の闘いは凄まじいのひとこと。隣り合わせの家に住み、互いに監視するわ、パーティーやってると見せかけてドンチャン騒ぎを流してはノイローゼ状態にするわ、ニノのバッグをコカイン入りのバッグとすり替えて刑務所送りにしてしまうわ、それでもそれが陰湿にならないのがスペイン的。欲を言えば、ニノのパーティーでもっともっとむちゃくちゃやらかしてほしい。女の一人や二人、素っ裸で走り回らすとか。。。これに二人のマネージャー、フリアン(アレックス・アングロ)が絡んで、こいつも相当に怪しい。言うなれば狂言回し。
 このドタバタにスペインのフランコやら1981年のクーデターやら92年のバルセロナ・オリンピックを挿んでくるのは、多分にイグレシア監督の映画界の問題児と言われる所以なんだろう。ここらあたりはスペインの政治事情などに詳しくないとわかりにくい。きっと茶化してるんだろうな。ボクら日本人が知ってる以上にスペインはごたごたしてたようだし。戦車が走る前を、この二人じゃない誰か二人が駆け抜けていくシーンがあるんだけど、これってどっかで見たことあるような。
 スペインという風土はドンキホーテの昔からどうも一筋縄でいかない。

Muertos de risa
監督 アレックス・デ・ラ・イグレシア
脚本 アレックス・デ・ラ・イグレシア, ホルヘ・ゲリカエチェバリア
出演 サンティアゴ・セグーラ, エル・グラン・ワイオミング, アレックス・アングロ
★★★★


2002年02月02日(土)
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