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まごれびゅ

 
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 ジャン・ルノワール『草の上の昼食』  (59 仏)


 『草の上の昼食』じゃなくて『草の上の昼寝』だな(笑) 冗談じゃなくて笑ってるうちにいつの間にか引っ張り込まれてしまう、そんな映画。
 例えば、ネネット(カトリーヌ・ルーベル)が最初にアレクシ教授(ポール・ムーリッス)のところに訪れたとき、使用人部屋の3人の芝居がかった演技がすごくおもしろい。その後ろで肉をぶった切ってたりもして。そのような映画でなくて芝居的な演技のおもしろさがあっちこっちにあるのね。ネネットの家族のシーンなんかもそう。(爆)って笑いじゃなくて、思わず笑ってしまってる。ほんわかとした笑い。
 ほとんどがロケで、そうそうプロバンスなんだ。決して映像的に凄ぇーと唸らされるような風景がひろがるのでもなくて、日本でもありうるようなごくありふれたド田舎の風景。だけれども、すごく緑が濃くて、たしかにこの映画は目に優しいかもしれない。このプロバンスの自然の描写もひとつの見もの。そしてその緑の中で、ネネットの赤いスカートがひときわ冴える。まわりに登場する人物の衣装の色目を極力押さえて、ネネットのスカートの赤1本に絞っています。
 プロバンスというと、プロバンス料理。というわけで、窯の中で鶏の丸焼き。オツにすましたフランス料理じゃなくて、プロバンス料理というのはたかがフランスの田舎料理。鶏を焼く窯がいかにもプロバンスっぽくていいのだ。そしてその料理を目の間にしたネネットの太ったオヤジ(田舎のおっさん)
「肉を取ってくれ、柔らかいところだ、かたいところもだ、魚もとってくれ。野菜はいい、太るからだ。人生は楽しい。」
 このセリフが全てを表しているといって過言じゃないでしょ。
 
 人工授精によって優秀な人類を造っていこうという生物学者アレクシのところに、人工授精をしてほしいとやってくるネネット。なんて書くとすごく硬質なように思えるけれどそんなんじゃないから。それが自然の中で、またその自然の中で生きてきたネネット、そして家族の中で「草の上の昼寝」をしているうちに自然と目覚めていくハッピー・FINなお話。頭を悩まされることもなんもなくていいよぉ。

La Dejeuner Sur L'herbe
監督・脚本 ジャン・ルノワール
撮影 ジョルジュ・ルクレール
出演 ポール・ムーリッス / カトリーヌ・ルーベル / フェルナン・サルドゥー / ジャクリーヌ・モラーヌ
★★★★


2002年01月31日(木)



 ジャン・フィリップ・トゥーサン『アイスリンク』  (99 仏,ベルギー)


 気楽に見るにはもってこいの映画。別にどうってことないんだけど。。。。
 アイススケート場でのラブストーリーの映画をつくる映画。なんて説明だ(^_^ゞ つまりアイスリンクでのロケがネタ。アイスリンクでのロケをロケするわけで、こういうのって、へぇーこうやって映画は作られてるんだと仕掛けが興味津々。実際にはその仕掛けを撮るための仕掛けがあるわけなんだよねぇ。
 まずはおもしろいのが、アイスリンクの上での撮影なのでみんながスケート靴を履いて登場。滑れる人もいればおたおたの手摺り磨きな人もいるわけだけれど、実際にはまがりなりに滑れても台本の上で滑れないという設定もありなんでしょ。まさか役者それぞれのスケートの力量に合わせて本ができてるわけないでしょ。カチンコのADなんかは元々ばりばりに滑れる役者を使っただろうし、当然ホッケーの選手はどこかのホッケーチームのエキストラでしょ。でも実際の撮影現場ではまさかスタッフみんなスケート靴履いてるわけないと思う。
 それでこのツルツルで何が起こるかわからない状況で、まず監督役のトム・ノバンブルはぶっ飛ばされて鞭打ちになったり、カメラマンも橇に乗って撮影してるときに橇が暴走して車イスの人になったりで、こういうドタバタもおもしろい。
 いかにもハリウッドという俳優にブルース・キャンベル、その恋人となる女の役にドロレス・チャップリン(チャップリンの孫)。ドロレスに監督は脚本通りになってもいいんだけど二人の成り行きで変わってもいいんだとそそのかすわけ。そしたらほんとにその撮影の合間にメイクラブ。こういうのってほんとにある話なんだろな。AVなんかでは結構やっちゃってるみたいだけど(汁) さていざ二人のキスシーンとなると監督がやきもちやいちゃって、そこはこういうふうにしたらいいんだとかドロレスにキスのふりつけ指導やってはキスしてしまったり。こんなのも有りなわけ。
 そのほかとにかく映画作りのエピソードもりだくさん。ほんと別にどうってこと無いんだけど、どたばたのようでさらっとしてるから見ていて飽きないんだね。↑のチラシを見たらどんなアクションもんかと思うけど、おしゃれなドタバタコメディー。最後には映画祭出品のためよそのロケ現場にヘリコプターで乗りつけるおまけまでついて、たっぷり裏側を楽しませてくれます。

La Patinoire
監督 ジャン・フィリップ・トゥーサン
出演 トム・ノバンブル / マリー・フランス・ピジェ / ブルース・キャンベル / ドロレス・チャップリン
★★★


2002年01月30日(水)



 トッド・ヘインズ『ベルベット・ゴールドマイン』 (98 英,米)


 1974年当時全盛のグラムロックが下敷き。ブライアン・スレイド(ジョナサン・リース・マイヤーズ)がデビット・ボウイ、その愛人カート・ワイルド(ユアン・マクレガー)がイギー・ポップ、ん?愛人ったってゲイです(^◇^;) 
 が、それが現実にボウイとイギー・ポップがホモセクシャルな関係にあったのでなくて(かもしれないけれど)、彼らをもとに、ルーツをそれからさらに100年前のオスカー・ワイルドにまで求めてしまう監督トッド・ヘインズのイマジーネーションに脱帽。トッド・ヘインズがよほどのグラム・ロックへの思い入れがなければできなかっただろうな。ちなみにボクはその頃はブルースからサザンロックにはまってたもんだから、グラムは横目で見てしまってた。音そのもので勝負しろよな、なんて言って、後になって音だけでなくファッションやライフスタイルやひっくるめてグラムがあったんだなと思うようになるまでに何年も遅れてしまった。おかげでリアルタイムでいながらねぇー。もったいないと言えばもったいないけど、別の道を走ってたんだから。ゲイにしたって。。。まぁボクの場合は女好きだから、女だったらバイになってたかも(自爆) \(^_\)ソノハナシハ ・・(/_^)/コッチヘオイトイテ・・
 74年に絶頂だったブライアン・スレイドがステージの上で射殺される。というのは狂言で、これが発覚した後、ブライアン・スレイド・バッシングのため、伝説となることもなく絶頂から滑り落ちていく。それから10年、ヘラルド誌の新聞記者アーサー・ステュアートが、言ってみれば「あの人はいま・・・」の企画でブライアン・スレイドのその後を取材していくという形で、74年当時、さらに10年間の解き明かされていく。これはオーソン・ウェルズの『市民ケーン』ね。それはアーサー自身の封じ込めていた10年間を自ら暴いていくことにもなった。
 スレイドの妻のマンディ(トニー・コレット)のインタビューやアーサー自身の追憶をスレイドのステージでつないで行くかたちで、これ、グラムのフリークだとたまらんのだろうな。ロキシー・ミュージック、イーノ、ルー・リード、マーク・ボランとそうそうたる面子が。ようわかっとらんのだけど。。。サントラの名前で引いてみました。で、バックを誰がやってんだかこれもようわかっとらんのだけど、ジョナサン・リース・マイヤーズやユアン・マクレガーがフロントで跳ね回る、これ、ちょっと凄いよ。ヘタすりゃMTVのグラム特集すれすれ。このライブのシーンは絶対見ものだね。
 だけどボクとしてはいまいちピンと来なかったりもする。でもやっぱりひとつのドラマだから、それにあながちグラムが嫌いなわけでもないから、ヘタに伝記物にしたてられるよりずっとずっと面白い。ほんとグラムにはまってたりするとぎゃあぎゃあ喚いて見てたんだろうな。それに時代とちょっとしたきっかけさえあればゲイに走ってたかも(^_^ゞ オフステージでもトニー・コレットいいしねぇ、オスカー・ワイルドからつながるエメラルドのピンの寓話だってさりげなくていいです。これをもっと前面に出して進んでいってたらいやらしくなるところなのに、トッド・ヘインズのセンスなんだろな。ラストのロンドンの煙突の屋上のシーンすごく好き。
 蛇足ですが、"Velvet Goldmine"というのは、ボウイの"The Rise & Fall of Ziggy Stardust"から。このアルバム、グラムなんて言いながらこっそり聞いてたんだよなぁ(笑) 当のボウイはこの『ベルベット・ゴールドマイン』のことは知らぬ存ぜぬを貫き通しております。しっかしこの連中の人間関係も大変だなぁ....

Velvet Goldmine
監督・脚本 トッド・ヘインズ
撮影 マリース・アルベルティ
音楽 ランドール・ポスター
出演 ユアン・マクレガー / ジョナサン・リース・マイヤーズ / トニー・コレット / クリスチャン・ベール / エディ・イザード / エミリー・ウーフ / マイケル・フィースト
★★★☆


2002年01月29日(火)



 木下恵介『カルメン故郷に帰る』  (51 日)


 まずはいきなりなんで『カルメン故郷に帰る』かというと、『ピストルオペラ』なんですね(笑) 『ピストルオペラ』の中で山口小夜子がユニオンジャックを体にまとって「泥まみれ、糞まみれ」云々の独白シーンがあるんだけど、その独白で『カルメン故郷に帰る』で翻っていた日の丸・・・とも言うているんですね。これは観ておかないかんというわけ。で、観ました。翻っていましたねぇ、青空をバックに日の丸が。そしてはっと分かってしまいました。かの『ピストルオペラ』のラストシーンはこの『カルメン故郷に帰る』だったのです。『ピストルオペラ』で平幹二郎が最後によりかかる木(どういうわけか、根元から揺れてました(笑))は、この『カルメン故郷に帰る』に挿まれる高峰秀子が牛に蹴られてパーになった木だったのです。
 と、まぁ、前置き、いつものように長し(笑) この『カルメン故郷に帰る』は日本で最初に撮られたカラー作品としてつとに有名。で、シーンのほとんどが屋外でのロケ(これは当時のカラーフィルムの感度の問題があったらしい)。殊に浅間をバックにして、高峰秀子と小林トシ子が原色の衣装で踊るシーン、これは日本映画史に残さないと絶対ダメだと確信したね。だからこそ、鈴木清順が富士をバックに最後の決闘シーンを撮ったのですね。もうむちゃ納得してしまいます。
 最初のカラーというわけで、前明り(リフレクターで前から光をあてる)がちょっとオーバー気味な気がするけれど、浅間をバックにした高峰秀子の顔は忘れられないね。
 さすがに半世紀前となると、かなり笑ってしまう。中井貴一の父ちゃん佐田啓二も思いきり若いし、何にもまして御前様・笠智衆が。。。。当時からあのしゃべり方ですが。運動場の真ん中にオルガン引っ張り出して、というのはボクは何となく覚えているけれど、さすがに男の先生同士のフォークダンスは記憶に無い(笑) 話の筋立てがどうこうというのは、いやほんとれびゅのしようがないです。そいう時代だったのでしょ、ボクが生まれた年というのは(自爆) 価値観なんて50年も経てばひっくり返ってしまいます。ひっくり返したのがリリー・カルメンだったりするわけです。
 ちなみに初のカラーだけれど、失敗したときのためにモノクロも同時に撮られていたそうです。


監督・脚本 木下恵介
撮影 楠田浩之
出演 高峰秀子 / 佐野周二 / 笠智衆 / 小林トシ子 / 井川邦子 / 坂本武 / 佐田啓二
★★★★


2002年01月28日(月)



 エミール・クストリッツァ『黒猫・白猫』 (98 独,仏,ユーゴスラビア)



ずばりっ、ロマ人によるP-FUNKぅぅっ!

 いちおう、CinemaScapeから出演者の名前なんぞパクってきたけど、一人として知った名前なんぞありゃせんわ。それもそのはずでほとんどがジプシー、ロマ人。どこかのロマ(ジプシーがコロニー作って集団で住んでいる)でかり集めてきたんだろ。誰か、映画出たいのおらんかぁぁと、そしたら乗りのエエのんばっかりが、どどーっと押し寄せて大騒ぎ。これもCinemaScapeからのパクりなんだけど、セリフはまともに覚えられんわ、覚える気はないわ、しまいには監督のクストリッツァは切れて「次、間違えたら殺す!」と。そうしたら「おー上等じゃないか、わしも一月前からそう考えとった」。ようこんなのばっかり集めてできたもんだと。。。。ちなみにP-FUNKの連中もたいがい似たり寄ったりなんだよ、ったく。
 だいたいね、ある意味じゃ顔というのは記号だからね、その顔で判別してるわけだけれど、ところが見慣れない顔というのはごっちゃごちゃになりやすい。だからどうなってんだと思うことしきり。しかしそれでもP-FUNKも顔負けの歌とダンス、それからアヒルの洪水にどどーーっと押し流されてしまってる。もうむちゃくちゃ。ストーリー?そんなもの二の次。
 ゴッドファーザー爺ちゃんがクリントンに、チビ女の兄貴がゲイリー・シャイダーに思えてしゃあないんだけど。コズミック・スロップ(slop=肥溜め)にはまるわ、バップガンは(_ _)ノ彡☆ギャハハ!! バンバン!!!だし、ん?マザーシップ、あー出てこないけど、最後に二人が乗る船がマザーシップだ。そうそうシンデレラ・セオリーまで飛びだす始末。
 いちおう黒猫は不吉の前兆で、白猫がいいことのしるしということになってるらしい。が、猫が出てきてそれらしきことになるようだけどはっきりしない。だいたいそのような整合性をこの映画、あるいはこの連中に求めること自体間違っている。で、この黒猫と白猫がまた仲よくて、いつも2匹一緒にいてる。2匹並んで氷が滑るのにそろって顔を動かすところなど可愛いよぉ。あと、上にも書いたアヒルががぁがぁはやぎまわってるわ、豚はクルマをかじっているわ、ヤギがいきなりとびこんでくるわ、えーっとですね、ロマも猫、アヒル、豚、ヤギ....みんな同列。

とにかくこれはファンク、Pファンクだよ。朝まで踊り続けろ!


Chat Noir, Chat Blanc
監督 エミール・クストリッツァ
撮影 ティエリー・アルボガスト
音楽 ドクトル・ネレ・カライリチ / ヴォイスラフ・アラリカ / デーシャン・スパラヴァロ
出演 バイラム・セヴェルジャン / スルジャン・トドロヴィッチ / ブランカ・カティチ / フロリアン・アイディーニ / リュビッツァ・アジョビッチ / サブリー・スレイマーニ / ヤシャール・デスターニ / ミキ・マノイロビッチ
★★★★


2002年01月27日(日)



 パトリス・ルコント『タンゴ』  (92 仏)


 数日前の『キルト〜〜』が女ばっかし集まってああだこうだなら、この『タンゴ』は男3人、しかもおっさん3人集まってのああだこうだ大会。ボクが男だというのもあるけれど、心情的にずっとこっちのほうがよろしい。アホだね、男って。
 だいたい別れた女に未練残ってどうしようもないというのを、はたから、じゃあその女を殺してしまえば未練もへったくれもなくなるじゃないかと、ほんとアホでしょ(笑) いくら未練たらたらのボクでさえもそう考えないけど。

 男ってだいたいできもしないこと口にして楽しんでいる。有言不実行というのでもなくて、誰が聞いても実行できない絵空事を言いあって楽しんでいる、カタルシスを得ているというところがある。それに対して女は気がついたらやっちゃってた。『キルト〜〜』なんて、事後にグチグチの典型みたいだと思うんだけど。。。(この項、反論必至だろうな(笑))
 で、その絵空事の第1弾というのが、浮気した女房をヒコーキに乗せて宙返りで落としてしまうという。これって、ほんと絵空事の典型。実際にこんな殺し方をしたのておるのか? そういう絵空事であっても映画の中であっても(映画の中だからこそ)、見せてくれるというのは痛快そのものでしょ。そして浮気相手の男が乗っているクルマを空爆。この前半のヒコーキのシーンはすかぁーんと抜けていてすごく楽しいのだよ。このヒコーキ乗りヴァンサンがリシャール・ボーランジェで、がらがら声で渋い、渋い。
 ポール(ティエリー・レルミット)とマリー(ミュウ・ミュウ)の夫婦が、これまた痴話喧嘩から、マリーはさっさと出ていってしまう。そこに現れるのが衛星屋作兵衛、あ、いや、ポールの叔父(フィリップ・ノワレ)が上に書いたように殺してしまおうとそそのかしにかかる。この叔父というのがヴァンサンの嫁墜落殺し裁判の判事という設定で、ヴァンサンに有罪にしてしまうぞと脅迫し、マリーの刺客に任命。とまぁ、無茶苦茶でしょ。
 して、この3人でのマリーを追いかける珍道中が始まる。3人3様にとてもクセがあって、アクが強くて、乗りが軽い。この軽快さが暗くじめじめした感じがしないのがいい。精子が欲しい、という女と青姦やってみたり、3分で女を口説き落としてみたり、これだって現実にはありえないこと。目くじら立てないの(笑) あくまで男集まったときのバカ話の域を出ない絵空事。映画の中だからこそできうる話。そんなことよりラテンとみごとにシンクロした軽快さを存分に楽しんでよ。絶対、損はしない。ふふふと思えることいっぱいあるし。。。

Tango
監督 ・脚本 パトリス・ルコント
撮影 エドゥアルド・セラ
音楽 アンジェリーク・ナション / ジャン・クロード・ナション
出演 フィリップ・ノワレ / リシャール・ボーランジェ / ティエリー・レルミット / ミュウ・ミュウ
★★★★



2002年01月26日(土)



 フリオ・メデム『ANA+OTTO』 (98 スペイン)


 出会いや別離、それからすれ違いは偶然なのは当たり前のことだが、その偶然の話もあまりにでき過ぎていると、全くつまらなくなる。そういう見本のようなもの。偶然が重なるごとにどんどんつまらなくなっていく。そりゃ、人生なんて偶然の積み重ねだけれど、できそこないの偶然というのが混ざるからおもしろい。現実に起こってしまうドラマの方がおもしろいと思う。
 それはそれとして、映画の作り方が丁寧な感じがする。これこれを見せておいたら観客は満足するだろうなんて作りじゃなくて、物語の組立自体、非常に整合性があって無駄が無い。それが逆にできすぎた偶然ということになってしまうのだから、すごく裏腹なもんなんだなぁと思ってしまう。
 ANAとOTTOの逆さまから読んでも同じという二人交互の立場から独白していく作り方、これが決してイヤミったらしくなってない。そしてFin-Landsで終わるというふうにドラマの構成もすごく理詰めで整理されている。二人交互の独白なのでそのことで生じる時間の巻き戻し、切り上げというのも完璧に近い。だがこれらもあまりに整合性がありすぎるのが逆に不満が残ってしまう。あ、あれはそういうことだったんだとずいぶん後になってから気づかされるということもなく、わかりすぎてしまうんだよ。だから、あのラストであってもフリオ・メデムが用意した結末に納得させられなければならない。
 嫌いじゃないし、むしろどっちかというと好きなほう。二人の初えっちなんてほんと胸キュンだし、何よりも白夜の沈まない太陽は美しい。でももう少し遊びの部分があってもいいのじゃないか。ドラマになりすぎてドラマにならないドラマという気がして。。。。


Los Amantes Del Circulo Polar
監督・脚本 フリオ・メデム
撮影 ゴンザロ・F・ベリディ
出演 ナイワ・ニムリ / フェレ・マルティネス / サラ・バリエンテ / ペルー・メデム / クリステル・ディエス / ビクトル・ウゴ・オリベイラ / ナンチョ・ノボ
★★★


2002年01月25日(金)



 増村保造『刺青』 (66 日)

 もうもう若尾文子の背中にベタ惚れ。いやそれ以前にこのころの、とくにこの『刺青』での若尾文子はとびっきりに美しい。本当にため息が出るくらいに美しい。そのものすごい美人の背中。透けるような背中。ボクが仮に彫り師だったらぜったいに彫ってみたくなる。66年という時代の若尾文子がいたからこそ撮れた映画といってもいい。実際に増村保造は若尾文子に惚れてんだよなぁ。
 実はこの66年当時というのはボクはまだ中坊で、『卍』とかの映画のポスターを指をくわえてみておったよ。それから30数年経ってもやっぱり若尾文子の背中はもうほんとに最高だ! こんなどきっとする背中というのも見れたものじゃない。はっきり言ってオカズにしてしまえる。今晩のオカズにしてしもたろかしらん。やぁ、まだ興奮してんだから。あ、もう正直に白状しておきます。勃ちました。鬼六先生のイメージの中にあったのも若尾文子じゃなかったかしら。
 そして若尾文子の背中に女郎蜘蛛が彫り込まれたときの背中は凄すぎる。
「重く引き入れては、重く引き出す肩息に、蜘蛛の肢は生けるが如く蠕動した。」
 背中の演技とはこういうのを指すんだろう。本当に「生けるが如く蠕動」させる若尾文子は凄い。あのように背中を動かすことできるものなのか。このシーンを撮るだけにどれだけの時間をかけたものか。
 でね、原作とね、どうしても比較してしまうんだけれど、観ていて、あら、こんなのだったかと思って、大慌てで読み返したよ。10ページほどだから。そうなんだ、これが谷崎先生のデビュー作だったんだ。原作では彫り師と女に終始している。
 余談だけれど、当時大映の社長永田雅一は『刺青』(しせい)などで客が入るものかと、『刺青(いれずみ)』とさせたという。借りてきたビデオのパッケージにもしっかりと「(いれずみ)」と記されている。客が入らなければどうしようもない。だからというわけでもないのだけれど、谷崎の原作に拘泥することなく、
「女は剣のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひびいていた。」
を、さらに突き進んで、自分を陥れた男たちを次々に「こやし」にしていく。ここでもたっぷりと若尾文子の背中が披露されることになる。若尾文子自身のことばを借りると
「本当に自分勝手でわがままし放題の役柄で、ああいう人物を絢爛と描くのは映画として気持ちいいじゃないですか。」
 いきおい、若尾文子の美しさに圧倒されてしまうけれど、例えば雪の中を長谷川明男と駆け落ちするシーンもすごくいい。はっきりとセットだとわかるのだけれど、ところが逆手にここは思いきり芝居がかって見える。芝居の場面をそのまま映画の中に引っ張ってきたようなシーン。降りしきる雪と、その向こうの書割りのコントラスト。これは忘れられないシーン。それから一種幻想的といえる林の中。血なまぐさいシーンであるにもかかわらず、ソフトフォーカスに浮かぶきりっとした若尾文子はやっぱり美しい。


監督 増村保造
脚本 新藤兼人
撮影 宮川一夫
出演 若尾文子 / 長谷川明男 / 山本学 / 佐藤慶 / 須賀不二男 / 内田朝雄
★★★★★


2002年01月24日(木)



 ジョン・カサベテス『グロリア』  (80 米)


 いったい何度タクシーに乗ったことやら。そのうちイエローキャブが何台?
 この冒頭のNYの夜景の空撮、すごく好き。ほんとにほれぼれしてしまう。あらためて見ると、ほんとNYというのは絵になるのだな。しっかりW.T.C.もそびえ立っている、こないだからそればっかし(笑)
 カサベテスが描きたかったのは、かっこいいクールなアクションのはずがなくて、それじゃあ、疑似親子愛なのかというとそうでもない。ボクはずばり、ニューヨークの街を撮りたかったと決めつけよう。まさにニューヨークというのはタクシーと地下鉄の街なのだ。

 話の筋立て、整合性などはまず二の次。そんなものは超越してしまっている。
 ニューヨークの街の中でギャングの乗ったクルマがド派手にひっくり返るの、いいじゃない。あれがグロリア最初の一撃。決してそこまでのグロリア=ジーナ・ローランズはかっこよく描かれてるわけでもないし、クールなわけでもない。もちろん美人なわけでもなければ、若くてピチピチしてるわけでもない。言ってみれば、ドヂなありがちなおばはん。すいません、大カサベテス監督の愛妻をぼろんちょに言って申し訳ないm(__)m ところが突然あそこでピストルを乱射するのはカッコ良すぎます。ほんとカッコいいんだから。あのですね、またまた登場の『レオン』ですが、だって『レオン』はこの『グロリア』を下敷きにしてるわけだからね。そのジャン・レノだと、もともとかっこいいんだから、当然ああなるのはわかってるわけですよ。変なたとえが、中村主水vs木枯らし紋次郎(古っ!) この落差が素敵です。
 もうね、あの目玉焼きのシーン、たまらなくいいです。あ、あんたねぇ、目玉焼きくらいまともに焼けんか。それで焦げ付いたフライパンポッとトラッシュしてしまいますか。ますます主水ですねぇ。
 それとガキんちょフィルのジョン・アダムズ、こいつ決して上手い子役というわけじゃないけど、ボクはこういうガキんちょのほうが好きだな。だいた、あいつとか、あいつとか、こまっしゃくれてやがって、おまえなんかな、ガキのうちからそんな世界にいて、それで女でも知った途端につぶれんだろう・・・あ、脱線しました(-.-;) いわゆるボケとツッコミの役回りがきっちりできてるんですよ。このけったいなおばはんとガキんちょのコンビ。
 ボクが好きなのはプエルトリカンの街をタクシーで流していくところ。あのように描かれるニューヨークというのが焦げ付いた目玉焼きなわけ。そして地下鉄のアッカンべぇーが圧巻。
 カッコ悪いということはなんてカッコいいことなんだ。ずばっとクールなギャングを描くだけが映画じゃない。

Gloria
監督・脚本 ジョン・カサベテス
撮影 フレッド・シュラー
音楽 ビル・コンティ
出演 ジーナ・ローランズ / ジョン・アダムズ / バック・ヘンリー / ジュリー・カーメン / ジェシカ・カスティロ / バシリオ・フランチーナ
★★★★☆


2002年01月23日(水)



 ジョセリン・ムーアハウス『キルトに綴る愛』 (95 米)


 一昔前、編み物教室なんてのが流行って、世の中の中年の女の人(うちのオカンなんだけど(笑))は毛糸の編み針を手に集まって、ああだこうだと。今だったら、ちょいマシなファミレスに昼間に行ったら、ヒマな女たちが、ああだこうだと。そんな話を横で見せられてもつまんねえ。「うつくしい」だけ。。。。
 7人だったか、すでに薹(とう)が立ってしまった女たちが集まってキルトを縫っている。その女たち、誰もが脛に傷をもつ身、つまり男関係でよろしくない。そこにキルトで論文を書こうとしているウィノナ・ライダーが紛れ込んできて、彼女らの過去話をとつとつと順番に聞かされていく。退屈せずに端で見てられたのは、グラディ(アン・バンクロフト)とハイ(エレン・バースティン)の姉妹の話だけ。姉妹の痴話げんかでぼんぼん物が飛ぶのが痛快。。。って、をい。マジにこの姉妹くらいでしょ。見てれるのは、見れば見るほど、本当の姉妹であるように作りこまれている。キルト作りのリーダー・アンナ(マヤ・アンジェロウ)なんて、相も変わらずの黒人悲話でうんざりよ。どうしてこういうふうな話にしか出来ないのかね。
 7人が一通り語り終わり、予定調和が見え透いてしまっているのに、そこからがだらだらと長いんだよ、ったくぅ。なんで何度もリピートするかねぇ。カラスがフィアンセの元に導いていくなんてもうただただアホくさくて。
 ウィノナ・ライダーにつられて見てしまったのに、こんなのでお姫さましてたらダメだな。

 同じ頃にホイットニー・ヒューストン主演で『ため息つかせて』やってたんだなぁ。そっちのほうも、女3人集まって、男運のなさの嘆き節だけれど、これは見てないからなんとも言えない。テリー・マクミランの原作は読んだ。こっちのほうが、この『キルトに綴る愛』の何倍もおもしろい。

How to Make an American Quilt
監督 ジョセリン・ムーアハウス
出演 ウィノナ・ライダー / アン・バンクロフト / エレン・バースティン / ケイト・キャプショー / アルフレ・ウッダード / ダーモット・マルロニー
★☆


2002年01月22日(火)



 ジェームズ・アイボリー『眺めのいい部屋』 (86 英)


 '87年アカデミー賞3部門(脚色賞/美術賞/衣装デザイン賞)のほかに、なんじゃかんじゃいろいろ賞をもらっとるけど、そんな映画なんか? 美術賞/衣装デザイン賞ってのはわからんでもない。フィレンツェの街並みをはじめとして、文字通りの『眺めのいい』映画ということには文句はない。これは誰だってそう思うでしょ。たいそうなセットを使っていかにもそれらしく作られていても質感的に安っぽかったりする映画も多いけれど、これはずっしり重い。ホンモノ。ただしボク自身、フィレンツェには行ったことないので、ほんまにあんなに塑像が立ち並んでるのか、ほんとだとしたらすげぇーなぁと感心しきり。それで現在も同じように立ち並んでるんだろうか、そうしたらこいつをロケしたときなんか大変だったんだろうなとか、ぼーっと観てしまってた。話がイギリスに戻ってからも、ルーシーの家の書庫というか、ずらっと本が並んだ部屋なんか、ほんと凄いの一言に尽きる。
 で、映画そのもの、と、いうのも変か。美術とかすべてトータルして映画なんだから、んーと、上に書いたようなことをさっぴいて観たらどうかってことなんだけど、これはもうはっきり言ってずばり漫画です。どこらあたりの漫画かというと桜沢エリカとか森園みるくってところ(笑) あ、これは評価してるんですよ。 あのずしっとした美術・装置で、さらに生真面目にやられたら疲れてしまいます。さらっと、あらららと、肩透かし喰らわせてくれるから、観てられるんだけどね。完璧にコミックですねぇ。でもなんかなぁ、世間一般の評判みたいにいいようには思わないんだけど。。。どうなんだろ。
 筋立てとしてはすごく簡単。なんのひねりもないし、ラブ・ストーリーにありがちな障害なんてなぁ〜〜んもありゃせん。婚約者セシル(ダニエル・デイ・ルイス)なんて完全に道化でしょ。これじゃ、ジョージ(ジュリアン・サンズ)の恋敵になんぞ仕立てられるわけない。そんな話にする気は毛頭無いと見た。付添のシャルロット(マギー・スミス)にしたって、セシルに負けず劣らずの道化でしょ。二人でボケ勝負やってるようなもの。そして、当のジョージと、牧師(サイモン・キャロー)だぞ、神に仕える牧師、それと弟(ルパート・グレーブス)とすっぽんぽんで池で泳ぎ回って、あのシーン、ボカシだらけなんですけどぉ。さすがのボクでもあそこまで振りチンではしゃがんわい。蛇足ですがヘア解禁時代になって、ばっちり棒だけでなく袋までぶらぶら揺れてるのが映ってるそうです。
 どこから感動の巨篇なんて(そんなこと誰も言うてへん?)出てくるんだか。なぁーんの葛藤も問題もないです。観て楽しむだけ。そしてこれを観たものがロケ現場探しで倍楽しい。それだけのコメディ。監督から役者までみんなでよってたかって、いわゆるお堅いイギリスの伝統と格式をよってたかって茶化しまくるコメディ(そのためには荘厳な道具立てが必要だった)。そういうふうに見てみるととてもおもしろい。

A Room with a View
監督 ジェームズ・アイボリー
出演 ヘレナ・ボナム・カーター / マギー・スミス / ジュリアン・サンズ / ダニエル・デイ・ルイス
★★★☆




2002年01月21日(月)



 アラン・J・パクラ『推定無罪』  (90 米)


 たまにはこういうアッパッパァ〜なのもいいでしょ(笑) 何より息抜きになる。を、W.T.C. まだ聳えたっとるなぁとか。
 別にそれ以上のものはなんもないよなぁ。映画にする必要もなくて、ひたすら本で読んでれば済む。ボクは読みませんけれど(笑) と、いうことは、短時間に最小のエネルギーで楽しめるのだから、それもまた良し、良い。
 スコット・トゥローの同名の原作で、BOOKOFFなんかでも結構100円で見かけたかなぁ。どこまで原作と異なるのか、読んでない(読むはずない)からわからんけど、想像するに大筋としては、原作のまんまでしょ。そうすると、120分程度によく収められてるなという印象。退屈させないしね。バカみたいなこけ威しもないしね、非常に淡々としてる、そういう意味で嫌いじゃないな。特にボクは、ハリソン・フォードに別になにを期待するわけでもないしね、そつなくていいんじゃない。
 結局、これとて、非常によくできた火曜サスペンス劇場の域から出なくて(なんてのたまうと猛反発くらうだろうけれど(笑))、火曜サスペンスとの差はなんかというと、金のかかりかたぐらいか。別にこの『推定無罪』が金がかかってるなぁと感心するようなこともなくて、これもそつなくかっちりと出来てるという程度。
 枝葉とったら、最後にハリソン・フォードの妻のボニー・ベデリアが、とつとつと告白してくれる通りで、だから火曜サスペンスだってぇーの。それだったらそれでこの夫婦の間のもっとどろっとしたものが描かれてたらもっとおもしろいんだけれど、120分の制約からすると無理でしょ。
 アラ探しと言えば、どうして犯行の凶器というのが、最後まで浮上しなかったのかということ。それって犯罪捜査の常識なんだけれど、それは結末まで引っ張っていくためにはどうしても目をつぶらなければならないというのが辛いところ。その分、法定劇において、原告・被告の対立構造、元検事が被告になって立場が逆転するという、さらには判事までを巻き込むことで、目を逸らせているというたらアレか(笑) そっちに重点が置かれてたのね、そういうた方がいいですね(笑) うん、こうした構造はおもしろいね。
 あえて、言うなら、最後まで凶器を伏せておいたのは、これにて一件落着したあとでも、ハリソン・フォードが一生「凶器」を隠蔽し続けなければならない運命を抱ええてしまったということにつながる。身から出た錆とはこのこと。
 結局、映画としての面白さじゃなかったというのが辛いところ。

 ところで「推定無罪」というのは、「疑わしきは罰せず」どころか、原告(検事)側が有罪を立証できない限り無罪だという原則で、無罪が推定されるというのとはちょっと違う?


Presumed Innocent
監督 アラン・J・パクラ
出演 ハリソン・フォード / ブライアン・デネヒー / ラウル・ジュリア / ボニー・ベデリア / グレタ・スカッキ
★★★



2002年01月20日(日)



 アンヌ・フォンテーヌ『ドライ・クリーニング』  (97 仏,スペイン)


 フランス版『不機嫌な果実』・・・・って、ボク、その『不機嫌な果実』はほとんど知らない(ヘ。ヘ) あ、じぇんじぇん違いますよ、『不機嫌な果実』とは。
 これはボク的にはかなりやばいです。あーん、ちょっと、わからない人にはわからないかも。ボク個人的には妙にわかってしまって、はらはらどきどきしてしまった。こういうバランスというのは非常にあぶなっかしい。だけれども、そうしたバランスというのもどこかで必要だったり。。。。なんて思えるようになったのは、ほんのここ数年のこと。アンヌ・フォンテーヌ監督自身のことばを引くと
「夫婦とは何か、同じ人と何十年も暮らすことは可能なのか。そんなモヤモヤした疑問が以前からあって、脚本を書き始めました。これは不倫を超越した作品。欲望と性のアイデンティティーについての寓話(ぐうわ)なのです」
 ロイック(スタニスラス・メラール)という姉弟で「夜の女王」というコンビのクラブ芸人の弟。彼がジャン・マリー(シャルル・ベルリング)とニコル(ミュウ・ミュウ)の夫婦で営むフランスの片田舎のドライクリーニング屋にやってくるところが発端。この「片田舎のドライクリーニング屋」というのがものの見事に象徴的に表されている。それと、キーになるスタニスラス・メラールという新人を起用したことも大ヒット。ひょうひょうとした演技ながら、アンドロギュヌス的魅力を十分に引きだしている。そしてシャルル・ベルリングとミュウ・ミュウの渋い役者を揃えたこと。派手なオーバーなアクションじゃなく、その人でなく、演技そのものをじっくり見せてくれます。この三者三様の絡みがひどくエロくって、と言っても見えるわけじゃないのだけれど、ぶんぶん妄想をかきたてられるのにはほんと困ったもんだわ。
 確かにこれは不倫話じゃないね。ロイックを間にした三人の三角関係で、その三角関係が絶妙なバランスで成り立っていた。それを引き起こしたのが「片田舎のドライクリーニング屋」であれば、それを崩すのも「片田舎のドライクリーニング屋」。ドライクリーニング機の窓から絡まるように洗濯物がくるくる回る映像がほんと象徴的。
 ジャン・マリーの年老いた母ちゃんもいい味出してます。「片田舎のドライクリーニング屋」をサイドからもっともよく表しているのも見事。無駄なシーンがほとんど見つからないね。
 ラストにジャン・マリーとニコルが無言で歩き続けているというのも意味深。このアンヌ・フォンテーヌという女性監督は要チェックだな。

Nettoyage a sec
監督 アンヌ・フォンテーヌ
脚本 アンヌ・フォンテーヌ / ジル・トーラン
撮影 カロリーヌ・シャンプティエ
音楽 エドゥアール・デュボワ
出演 シャルル・ベルリング / ミュウ・ミュウ / スタニスラス・メラール
★★★★☆



2002年01月19日(土)



 ダルデンヌ兄弟『ロゼッタ』 (99 仏,ベルギー)


 99年のカンヌでパルムドールを受賞したというけれど、正直、こればっかりはカンニンしてほしい。悪くないんだよ。観ていてむかついてくるとか、やたらこちら側を挑発するかのような嫌悪感をわざと引き起こそうとかいう意図などさらさらないんだよ。ごくごく現実をありのままに描いてみました、というのが、ボクにはちょっとしんどい。主人公のロゼッタのキャラも、映画そのものもしんどい。嫌いじゃないけど、好きになれないな。どこかで『カルネ』に共通するような底なし沼。同じ底なし沼であっても、『カルネ』ならすごく好きで何度も観たく思うんだけど、正直、たった1回でつぶされてしまった。ロゼッタに底なし沼から引っぱり上げてももらえないで。。。。あくまでボクがしんどいというだけで、いい映画だとは思うよ。だからきっとはまる人にははまるんだろうけれど。
 一つに手持ちカメラの多用。これも悪くないんだけれど、ひどく疲れる。物陰から向こうを盗み見るロゼッタが幾度も描かれる。これも悪くない、ロゼッタを描くうえで必要十分なのだけれど、例えばびくついた猫にいくら声をかけようが逃げ出してしまうのと同じ疲労感が襲ってくる。
 空のガスボンベと満タンになったガスボンベの重さの違いが、あまりにもリアルに表現されることに少なからず怖れてしまう。それがロゼッタ自身でもあるし、誰かが運んでやることなど到底できそうにないことを思い知らされて、どどどっと疲れが。。。。。

Rosetta
監督・脚本 リュック・ダルデンヌ / ジャン・ピエール・ダルデンヌ
撮影 アラン・マルクーン
出演 エミリー・デュケンヌ / ファブリツィオ・ロンギオーヌ / アンヌ・イェルノー / オリビエ・グルメ
★★☆



2002年01月18日(金)



 クロード・ジディ『アルレット』 (97 仏)


 ヒロイン・アルレット役のジョジアーヌ・バラスコというフランスの女優は全く知らなかったんだけれど、AMGで《Josiane Balasko》で検索かけてみるとずらっと出てくる。フランスではけっこう名の通った女優みたい。日本でいうと樹木希林といったところか。実際、樹木希林を置き換えてみると、容易に想像つくかもしれない。
 フランスのどっかの田舎のモーテルでウェートレスをするおばさんがアルレット。当然のことながら、恋愛経験なんてあるわけない。自分が恋い焦がれることはあっても誰も結婚相手になど考えない。彼女も知らないところで死にかけのオヤジがいて、莫大な遺産を残そうとしている事実をどこからか嗅ぎつけたギャングが、クリストファー・ランバートを使って、その遺産をぶんどる計画を立てる。そんな謀略があるとは知らないアルレットは。。。。
 と、いうたら、もうだいたい話の筋は読めるでしょ。それだけ。これといってすごいというわけでもなくて、あくまでB級のおもしろさ。いきなり、アルレットが金玉クラッシュをやってのけるところから度肝を抜かれる。いくら樹木希林でもやらないよねぇ。
 はい、そこで樹木希林がラブラブに舞い上がってしまう役回りを想像しましょう。そしてそれを暴アップさせてみたのがアルレット。もうしっちゃかめっちゃかになっていくのは火を見るより明らか。
 ところがこのバラスコと樹木希林との違いは、コメディーでありながら、なんとラブ・ロマンスになってしまってるところ。いや、ある意味、まじラブ・ロマンスですよ。これは。モーテルのおばちゃんがどんどこ「美しく」なって行くのだもん(あくまで「 」つきです)。そしてついにパンクロッカーにまでなってしまって(笑)、樹木希林にとうてい真似の出来ない半ケツドレスでおけつぷりぷりで歩いてしまうんだもん。これには降参してしまう。うわ、見てはいけないもの見たぁ(^_^ゞ
 かのマリアンネ・ゼーゲブレヒトとタイマン勝負できるのこのバラスコをおいて他にないんじゃないか。樹木希林では圧倒的に格が違いすぎる。こういうキャラって日本にはおらんなぁ。育たなんのだろうな。
 バラスコはフランスではかなりのキャリアの持ち主で、脚本にも一枚かんで、さらにはクリストファー・ランバートを自らご指名したらしい。指名されたほうも迷惑な話だろうけれど(笑) ベッド・ミドラーほど知ってたらもっと楽しめたんだろうけど。。。。

Arlette
監督 クロード・ジディ
脚本 クロード・ジディ / ジョジアーヌ・バラスコ
出演 ジョジアーヌ・バラスコ / クリストファー・ランバート / エンニオ・ファンタスティキーニ / ジャン・マリー・ビガール
★★★



2002年01月17日(木)



 レミ・デュシュマン『ア・ラ・モード』 (92 仏)


 BS2でやってるのは、どんなんだという情報が少なくてほとんどアテモノっぽかったりする。ただボクが疎くて知らないだけだったりかもしれないけれど。で、そういうのはあたったらうれしいし、はずしたところでたいしたムカツキにもならない。受信料なんてとんと払ったことないし、今後とも払う気など毛頭無いのででかいことは言えないのですが。。。。 でもちゃんとネットで検索にかかってくるというのも、ネットはすごいね。

 自転車で親子で走っている。をっと、やばい、ファミリーもんはいらねぇ。と、思ったら、両親そろってトラクターに激突してあっさりあの世行き。南無ぅ。残された少年は施設に入れられ、そこのボスとそのとりまきから寝込みを襲われてションベンかけのいたぶり。をいをい、女囚サソリぢゃないんだから、やばい展開だよナァ、こういう展開というのは重くひきずってたまらんよなぁ。
 この美形の少年ケン・イジュランの名前がファウストというのもなんか意味ありげなんだけど、メフィストはでてきません。この少年が直談判に行って、部屋を変えてもらうのだけれど、新しい部屋主であるおならの達人レイモン(フランソワ・オトセール)と出会って意気投合するところから、これがフランス映画かというほどのしっちゃかめっちゃか。なんか頭から撮り始めて、いきなり製作方針が変わったんかいなと思ってしまうくらい。この二人の屋根の上のシーンがいいんだよなぁ。
 施設から働きに出た仕立屋に行ってからというもの、デザイナーとして目覚め、一気、一気のサクセス・ストーリー。いわゆるフランス映画っぽい屈折というものが全く無い。理屈もへったくれもありゃしない。サクセス・ストーリーと並行して、トニ(フロランス・ダレル)とのラブ・ストーリーまで展開。しっかりボカシまで入るんだからなっ! このフロランス・ダレルのハダカ、ボクの好みなのであった。
 とにかくテンポがむちゃくちゃにいい。仕立屋のオヤジ、のちにファウストの養父になるのだけれど、そのジャン・ヤンヌのしゃべくりのテンポの良さといったら最高。このしゃべくりと音楽とがばしっとシンクロしてる。そうそう、かのベートーヴェンの「運命」がものの見事にはまってるシーンもみものだな。
 とにかくヘタすりゃ、ケン・イジュランが美形なだけにアイドル映画になってしまうところを、ジャン・ヤンヌやフランソワ・オトセール、その他、肉屋のオヤジやら、ほとんど知らないバイ・プレーヤーでわっしょいわっしょい。なんのヒネリもなく、アホかと思ってしまうところを、ほっと一息ついて観れる超お薦め。
 紛れもないフランス映画、粋なんだよねぇ。

A La Mode
監督 レミ・デュシュマン
脚本 レミ・デュシュマン / リシャール・モルジエーヴ
撮影 イヴ・ラファイユ
音楽 ドニ・バルビエ
主演 ケン・イジュラン / ジャン・ヤンヌ / フロランス・ダレル / フランソワ・オトセール / アルチュール・H
★★★★



2002年01月16日(水)



 リュック・ベッソン『ニキータ』 (90 仏)


 『ニキータ』好きです。『レオン』はいまいちだけど。この二つ、ほんとに非常に好対象。男は黙って引き鉄を引くと言いたいけど、それが逆に感傷的過ぎでないかい。ああいうクールさというのはあまり好きでなくて、ラストに自爆して何なんだという疑問しか残らなかった。逆に『ニキータ』のように喚き散らして、揚げ句の果てに自己撞着引き起こしてぐっちゃぐちゃになるというほうが好み。ぐっちゃぐちゃになって、逃亡を企てる。この生命力の差だな、好き嫌いというのは。

 どうしても比較してしまうんだけれど、『レオン』とゴルゴ13とどうもダブっていけない(笑) 表情が動かないんだよなぁ。それが売りなんだろうけれど。『ニキータ』の終盤で出てくるジャン・レノ扮する掃除屋が『レオン』のプロトタイプなんだから頷けるが、その掃除屋自体がニキータと対極をなすのでなかったのか。ニキータの表情の豊かさを凍らせてしまったのが掃除屋だった。ボクは、そのニキータの表情の豊かさが好きなのだから。。。。ニキータが笑顔を作ろうとするシーン、これ、どんなアクションシーンより名場面だよなぁ。もうひきつった頬が緩むに緩まない、ニキータの顔が最高。そしてあのジャンヌ・モローですよ。ジャンヌ・モローとアンヌ・パリローを一つ鏡に収めてしまう。これってね、私生活でリュック・ベッソンがアンヌ・パリローに贈った最高のプレゼントだったんじゃないかと、要らんこと考えてしまいます。
 全編を通してニキータの表情、顔がどんどん変わっていく。それが『ニキータ』の全てだと言い切ってもいいんじゃないか。そしてそれはアンヌ・パリロー自身によるものというより、リュック・ベッソンによるところが大きかったんじゃないか、やっぱり恋愛にはかなわないもんね。
 ボク個人的にはどうでもいい(笑)と思ってるアクション・シーンだって、レストランでのシーンなんてすごくかっこいい。トイレに逃げ込んだときに窓が塞がっているのに気がついたときのニキータの狼狽ぶりは一気に少女ニキータに戻ってしまっていたし、さらに逃げ込んだ厨房での銃撃戦では再び「アサシン」に戻っていた。厨房のかげに隠れて身構えるニキータのかっこよさ、どうよ。こんなかっこいいのを作ってしまうからダメなんだよなぁ。だから、だから、なんだよなぁ(笑) レストランの派手さに比べて静かだけれど、ベニスでの狙撃シーン。このときの軍用ライフルを組み立てるところが、これまたすごくクール。そしてバスルームのドアを通しての、あれは心理アクションとでも言うべきシロモノ、音や動きが派手なばっかりのドキューンよりずっとずっとはらはらどきどきだって。なのに、なのになんですよ(苦笑)
 ジャン・ユーグ・アングラードとチェッキー・カリョ。ニキータへ対極的な二通りのアプローチをする男二人の語りによって閉じられるラストはとてもクール。
 ニキータは破壊され、そして再生していく。が、その破壊者である掃除屋が生き延びてしまったのも皮肉な話。

Nikita
監督・脚本 リュック・ベッソン
撮影 ティエリー・アルボガスト
主演 アンヌ・パリロー / ジャン・ユーグ・アングラード / チェッキー・カリョ / ジャンヌ・モロー / ジャン・レノ
★★★★



2002年01月15日(火)



 スティーブン・ソダーバーグ『セックスと嘘とビデオテープ』  (89 米)

 ちょっと、終わってると思うんですがぁ。。。。 ソダーバーグの名前とタイトルにのせられた儂がアホだった。
 CinemaScapeのレビューにも「レディ・コミかい」ってのがあったけれど、はい、そうですね。パターンとして全くそのラインを走ってるとしか思いようがない。
 センスとか超ダサいのに、やたら女を食い散らかしてる男っておるでしょ。それがピーター・ギャラガー。この眉毛の太さと言ったらもうほとんど漫画。それにあの吊りバンが臭いのなんの。思わず、「お坊ちゃま」という漫画ありましたでしょ。それ思いだしてしまいましたです。そこへ病的に潔癖症(流しの掃除なんて笑えてしまう)の嫁がアンディ・マクダウェル。きっとフェラチオなんてするわけないんでしょう。そんな嫁の妹ローラ・サン・ジャコモまで食い散らかして、そりゃそうでしょ、こっちは何でもやってくれそうなコケティッシュな女。
 そこに現れるのが、お目々にキラキラ星のジェームズ・スペイダー。これらのキャラ設定がほんとレディコミそのもの。安易すぎるんだって。精神的にきてしまってる人妻が、ふっと想いを寄せるようになってしまうというのもレデコミ。それが、あ〜ん、素敵だわん、わん(はぁと)で充足してしまってるのはもはやハーレクイーンの世界。どうしようもないのが、人妻昼下がりのお掃除で掃除機に引っ掛かったのが、妹のイヤリング。。。。だ、なんて、これってもうレデコミ通り越して昼メロの臭さ。それで一気に逝くかい。そんな女、描かれてもねぇ(-_-)
 揚げ句の果てに、男同士の殴り合いにもならない殴り合いで、「オレはおまえがずっと想い続けてた女ともやってたんだぞ!」という捨てぜりふにはもうあきれ返りませり。こりゃダメだ。はい、こんだけ。
 だいたい、恋愛関係にもないほとんど行きずりの男に頼まれて、ビデオカメラの前でタダで自分の性体験を語るのか。しかもそのテープをインポ男のオナニーのオカズになるというのがわかっててだぞ。
 女の心理ってそんなもんなんすか? わかっちゃいないよねぇ。(これ、読んだ女性から激しく同意を求めたい(笑))
 映像的にも何ら面白さがなくて、'89当時にビデオ映像を映画にもちこんで、それが受けたというけれど、別にぃ〜、何が目新しい、革新的なんだか。キャラクター設定だけがなかなかよく描かれていました(失笑)
 なんでこんなのが、カンヌのグランプリなんかねぇ、審査委員長がヴィム・ヴェンダースだってんだから、首かしげてしまう。なんかなぁ、「やっぱりアメリカ映画かよぉ(-.-;)」ってところ。AがダメならBで行っとこ、めでたし、めでたし。。。。あまりにお気楽。そんなの救いにもなんにもなってねぇーっつうの。

Sex, Lies, and Videotape
監督・脚本 スティーブン・ソダーバーグ
出演 ジェームズ・スペイダー / アンディ・マクダウェル / ピーター・ギャラガー / ローラ・サン・ジャコモ


2002年01月14日(月)



 ギャスパー・ノエ 『カノン』 (98 仏)


 『カルネ』と来たら、『カノン』なわけで、『カルネ』の全くの続編『カノン』を一気に行ってしまいます。
 『カルネ』が耐えられなくても、『カノン』のほうはなんとかなるとは思うんだけど。とりあえずは、『カルネ』観てからのほうがいいか。別に『カルネ』なしでも、『カノン』を観てもわけわかるとは思う。スライドショーっぽく、『カルネ』の復習してくれてるし。
 しかし、この『カノン』も血が噴き出るシーンがあるので要注意! 今度は、馬じゃなしに人間の首からどっくんどっくん。これってどっちが怖いんだろ。ボクは馬からのほうが怖いと思うけど。だって人間だからウソっこに決まってるでしょ。しかしこの血が噴き出るの、ひどくリアルよ。ほんとに血が噴き出てるのなんて見たことないけど、そこらのスプラッター映画と比較にならないくらい怖い。
 それはそれとして、『カルネ』の救いようの無さが加速度的に進行して行くのが『カノン』。ふーっ、ややこし。あ、原題は『Seul contre tous(全体か孤か?)』で『カノン』じゃないです。でもこの勝手につけた邦題『カノン』はなるほどと思わせるものがあって、ん〜、そのカノンが必要なのか、不要なのか、これは議論が分かれるところだけれど、ボクは素直にカノンでよかったと思ってる。いくら映画の中だと言ってもね。でも現実に、カノンさえない、なんてことがままあることを心してかからないととも思うけれど。
 とにかくその救いようの無さというのは加速度的に進行するというのもごく当たり前のことで、父娘二人で出口が見えない地下道を歩いているのが印象的。『カルネ』のラストがクルマでトンネルをくぐって行くというところだったけれど、トンネルや地下道というアイテムが効果的なんだよなぁ。
 加速度的に落ちていく仕掛けのひとつがオヤジのポケットの中。執拗にあと何フランと勘定するでしょ。映画の技法としては前作『カルネ』とさほど変わらない。スピーディーなカット割りにぐいぐい落込まされていく。オヤジのブツブツにもますます拍車がかかって、これなんか、まんまゴダールなんだけど、だーっと流れる字幕に引っ掛かったらダメよ、音なのです、音。もうほとんど効果音というたらいいのか、これが加速度に落下していく音が唸っている。 不快といえば、オヤジのブツブツに匹敵する不快音、眠くなりかけても起こしてくれるバチューンという音。落下のカウントダウンともいえる。これもかなりしつこく繰り返される。さらには、ブレヒトっぽいテキスト画面、これも映画の中ではそう見受けられるものじゃないので、うざく感じる人も多いかもしれない。それが何度もはさまれる。とにかく不快であればあるほどいいのだ。どういいんだか(笑)
 そして、最後にバンっ!ドクドクの止めの一発。もう立ち直れないところまで、父娘ともども観てるほうも突き落とされて、・・・・・そしてカノン。どっとカノンが押しよせてくる仕掛け。とにかくカノン目指して、逆向きのベクトルを何重にも積み重ねられている。へこたれないように(笑)

 ラストの何でもないパリ郊外?の情景、好きです。

Seul contre tous
監督・脚本 ギャスパー・ノエ
撮影 ドミニク・コリン
主演 フィリップ・ナオン / ブランディーヌ・ルノワール
★★★★★



2002年01月13日(日)



 ギャスパー・ノエ 『カルネ』 (91 仏)


 まず断っておきます。気の弱い人、血を見たくない人は絶対に観ないでおきましょう。R-15指定なんだから。あたしゃ、スプラッターもんは平気だという人も要注意。マジに血が流れます。どどどdばぁーっと流れます。馬の首がたれ下がります。冗談じゃないです。悪いこと言わないから観ないでおきましょう。アレ、モノホンだよなぁ、アレが作りモンだとするとでき過ぎている。
 まず頭のシーンでハンマーで数発どたまをかち割られたような。いや、ずばり屠殺される馬になってしまったように、くらくらと倒れていくような感覚。
 ボクはスプラッターは大嫌いなのね。あれは、どうだ怖いだろ、きもいだろ、きゃーっという見せる側と見る側の馴れ合いの上に成り立ってるからで、そのつもりで見たら反吐はくこと請け合います。ボクはやるならやってみろよといつも思ってるので、がぁーほんまにやるかぁと、やってくれるじゃねぇか。人間を殺るのは犯罪だけど、馬の屠殺シーンを見せたところで文句ないでしょ(わざわざ見せることもないという意見もあるだろうけれど)。現に、その「数日後」、その馬肉ステーキ食わせてんだから。
 『カルネ』では一切の《馴れ合い》は排除されてしまっている。

 長々と冒頭シーンのご注意を書いたけれど、あえて見ようとしない部分をぼーんとつきつけられるのって....ここで、この映画がどうなんだか決まってしまうなと思う。
 そこからは粗削りではあるけれど、このあえて見ようとしない部分をつきつけ続けられることになる。たった40数分のことだが。頻繁にはさまれ神経を苛立たせるばんっという音。ひたすら馬肉の骨をぶった切るのにふりあげられる包丁。もの言わぬ娘の目。いやがおうにも膨らみつつある胸。目の前のナイフに、なぜなんだという呆けた男の顔。かたかた動くオモチャの馬、そして延々と続く呪詛ともとれる馬肉屋のボソボソ。。。。それらを正視できるかどうかは、馬肉ステーキを喰らうものの責任義務だと言ったら言い過ぎかい。
 それをひとりよがりじゃないかと言い捨てるのは簡単。神戸の酒鬼薔薇を少年が異常なのだと言い捨てるもの簡単。どっかに責任を被せるのは簡単だし、なによりもボクらはそうすることで自分自身を納得させてしまっている。そういうボクらが、この40数分、正視したところで、たかが映画の中のことなのだから。がちっと突きつけられて下さい。ボクはそれくらいしても文句は言えないんじゃないかと思う。
 ちなみにcarneとは、「肉、馬肉、肉体、ふしだらな女」という意味

Carne
監督・脚本 ギャスパー・ノエ
撮影 ドミニク・コリン
主演 フィリップ・ナオン / ブランディーヌ・ルノワール / フランキー・バン / マルティーヌ・オドラン
★★★★☆



2002年01月12日(土)



 パトリス・ルコント『サン・ピエールの生命(未亡人)』  (00 カナダ,仏)


 これ、確か1849年のことだとか出たと思うんだけど、1848年に本国フランスで二月革命が起こってるんです。これとて終わってから娘の世界史の教科書でお勉強したから言えるのであって、観てる最中は、なんか本国は共和制どうこうで荒れてるのだなとしかうかがいしれなかった。で、このサン・ピエールという島はフランス領で、ん?どこにあるんだぁ(-.-;)
 例えば、フランス人が、日本の時代劇(だって1848年というと幕末でしょ)をほとんど何の知識もなしに例えば『龍馬が行く』なんてのを観たらどうなんだろ。まだ坂本龍馬なんかだったらコアなところの話なのでわかるかもしれないけれど、その時期の佐渡島で起こった事件をとりあげられたら、かなりとまどうはず。
 いまもって、二月革命でどうなったんやら、ようわかってないし、サン・ピエール島がどこだか。。。。はい、調べてきました。
「カナダのモンレアル(モントリール)の北東1800kmのところ、テール・ヌーヴ(英語名はNewfoundland)州の沖合いにあるのだ。普通の地図では出ていないような小さな島々がサン・ピエール=ミクロン諸島」
http://www.st-pierre-et-miquelon.com/mique/IAM.html
 フランスではけっこう知られてるみたいね、日本人が佐渡島を知ってるように。

 つまりね、そういうことを知ってたら、もっとおもしろいんだろうけれど、そこんところでつまらなかったな。たしかにギロチンを死刑囚ニール(エミール・クストリッツァ)が自らすすみ出て運ぶなどという不条理は普遍性をもつだろう。だけれど、死刑囚を軍隊の隊長ジャン(ダニエル・オートゥイユ)が管理するというのは理解しがたいし、ましてや、その妻ポリーヌ(ジュリエット・ビノシュ)が死刑囚を牢から外に連れ歩くというのはまずもって奇異以外のなにものでもない。ましていくら自分の管理下にあるとはいえ、妻ポリーヌがニールに、想いをよせるということに対して、夫であるジャンはどういうつもりなんだ? 
 そんな状況把握がほとんどできない状態で、ジャンに、ポリーヌに思い入れなんてできるなんて、とうていボクはできなかった。
 そこはルコントのことだから、それぞれのシーンに意味を持たせているのだろうけれど、そんなのをつかみきれないままに二人の男は逝ってしまった。そしてビノシュが残された。という表面的に上滑りなままなんだね。時代的にも地理的にもかなり特殊で、それらに意味があるはずなんだけれど、ボクら日本人が日本史、日本地理を知ってるのと同程度に、フランス史、フランス地理を知っているフランス人相手に語りかけているようだしか考えようがない。
 ピーター・コズミンスキーの『嵐が丘』でもそうだったけれど、こういうヨーロッパ時代劇でのビノシュはそつがなさすぎて楽しめない。
 ラスト近くでの解き放たれた馬のシーンだってわかるんだけれど、ルコントだと思うと、いまいちキレがない。。。。島に連れてこられた馬が島からは抜け出せないのと同じように、法・秩序の下から抜け出せないのが憐れに思えてしまった。

La Veuve de Saint-Pierre

監督 パトリス・ルコント
撮影 エドゥアルド・セラ
出演 ジュリエット・ビノシュ / ダニエル・オートゥイユ / エミール・クストリッツァ
★★★



2002年01月11日(金)



 ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』 (99 仏,スペイン)


全世界の女性たちひとりひとりの心を
深く揺り動かした、
今世紀最後の愛の賛歌!

最愛の息子の死を乗り越えて母は旅立つ・・・

 これって、「母性愛」だの、「父性愛」(全くと言っていいほど描かれてないのだが)だの、小難しいこと考えなかったら絶対面白い。じゃあ、不幸にして考えてしまったら.....(苦笑) 上のようなキャッチコピーにのせられて観てしまった人、ごシュウショウサマです。
 始まって20分?ほど、要は起承転結の起のところで、あじゃっヽ(゚_゚>)と思ってしまいまった。マジ、アルモドバル???と?が3つほど。なるほど、これで足許すくわれてしまうんだね。ここでアルモドバルの仕掛けにまんまとはめられると何がなんだか、どこからどうつながって、ドラッグやゲイにつながるんやら...
 ちなみに、CinemaScapeでアルモドバルを検索してみると、『セクシリア』、『バチ当たりの修道院の最期』、 『グロリアの憂鬱 セックスとドラッグと殺人』、『マタドール 炎のレクイエム』、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』、『欲望の法則 』、『アタメ 私をしばって!』。。。。。これぐらいでカンニンしといたろ。
 トンネルを抜けた途端に、アルモドバル全開、いわゆる4速に入ったというわけ。をいをいをいという役者がずらぁ〜〜っと。
ウマ(マリサ・パレデス)、アグラード(アントニア・サン・フアン)、ロサ(ペネロペ・クルス)、ニナ(カンデラ・ペニャ)。をっと、母ちゃんマヌエラはセシリア・ロス。
実はこの母ちゃんはメイン・アクトでありながら、言ってみれば司会進行役でしかないのだ。ほっとくと収拾がつかなくなるからね。このメンツの中で一見まともに見えるペネロペ・クルスでさえ、「バチ当たりの修道女」の役回りなのだ。まわりで演ってるほうはおもろくてたまらないだろなぁ。
 この一癖も二癖もありそうな役者を集めて、『欲望という名の電車』を演じさせてみたり、母ちゃんの部屋やら、楽屋で入替り立ち替わりに「」付きの女たちをぎゃんぎゃんしゃべらせてみたり、「わたしは長いことしたことないわよ」なんてウマのセリフはもう最高に爆らせてもらいました。「フェラチオ」というの何回出てきた?
 そしてとどめは、父ちゃん=ロラ(トニー・カント)、一瞬、マイケル・ジャクソンかいっていうほどの白塗り。ずっと隠しておいて、ああいうふうに出してくるかい。しかもロサのボケ父ちゃんの伏線が思いきり効いてるんだよ。この再会の愁嘆場なんて、アルモドバル撮っててもう楽しくて仕方なかったんだろうな。
 一見、メインテーマに見えそうなヒューマニズムを、味の素でしかないように見せかけておいて、その実、底できっちり貫いてしまっている。つまり、ラテンですよ、ラテン。(じゃんじゃか大騒ぎして、どこか哀愁・・・って、ちょっと説明しすぎ(^_^ゞ)
 ずばり、これは「女なんて演じるもの」。そんなもの、起の部分で『All About Eve』が出てきた時点で気がつけよ。

Todo sobre mi madre

監督,脚本 ペドロ・アルモドバル
撮影 アフォンソ・ベアト
音楽 アルベルト・イグレシアス
出演 セシリア・ロス / マリサ・パレデス / ペネロペ・クルス / カンデラ・ペニャ / トニー・カント
★★★★☆



2002年01月10日(木)



 クシシュトフ・キェシロフスキ『トリコロール 赤の愛』 (94 仏,スイス,ポーランド)


 『青』『白』と来ると、一気に行ってしまいます。
 まずはいきなり問題のラストから。ちゃんとチェックしましょう(笑) 『青』のジュリエット・ビノシュとブノワ・レジャン、『白』のジュリー・デルピーとズビグニエフ・ザマホフスキ、あまりにきれいにそろっているので笑ってしまう。ご愛嬌、ご愛嬌。そんなの無理がありすぎだなんて目くじら立てないの(笑) でき過ぎた結末に、肝心のことを見落とすところだった。『青』『白』はそこでのメインのカップル。ところが『赤』では、イレーヌ・ジャコブとジャン・ピエール・ロリ。この二人はこの時点ですれ違いはすれど、全く関わりがない。イレーヌ・ジャコブの相手であるジャン・ルイ・トランティニャンは傍観者でしかない。そのことだけはおさえておかないと。
 この『トリコロール 赤の愛』で映画を撮るのはもうやめると生前キェシロフスキが言っていたとか。そしてこの2年後、55歳で心臓病で急逝してしまった。そしてそのことば通り、この『赤』が遺作になってしまった。若かったから「急逝した」と言うけれど、キェシロフスキ自身は自分の死を予感してたのでないか。
 あのご愛嬌とも、観客サービスとも取れるラストシーンの持つ意味はけっこう大きい。「冗談だろぉ、あのラストはないよねぇ」という声を聞いて、キェシロフスキは、きっとしてやったりと思っているに違いない。これ考えすぎかい? しかし十分にありうる話だろ。キェシロフスキなら絶対にやりかねないって。
 そしてこの『赤』を遺作と決めたときに、もうすでにイレーヌ・ジャコブを使うことは決まっていたはず。ボクはそう決めてかかっとるよ。ほんと、キェシロフスキはイレーヌ・ジャコブにべた惚れだって。ほら、そうすると、ラストシーンの意味、ジャン・ルイ・トランティニャンが何者かというのも見えてくるでしょ。谷崎の『瘋癲老人日記』をキェシロフスキがチェックしてたとしてもおかしくないよな。それも十分ありうる話で、ほら、『愛に関する短いフィルム』・・・、『白』でも
 このトリックさえわかれば(あるいは、そう思い込んでみると)『赤』は簡単。恋愛じゃないですね、まさに赤(=博愛)。そうなんかなぁ。ボク個人的には「博愛」ということばのもつ意味がしっくりこない。恋愛を超越してしまった愛。そういうところに、いい加減ボク自身も年くってしまってるもんだから、ずしーんと来てしまう。そんなのもありでしょ。
 
 『赤』では、でき過ぎた偶然が重なりすぎている。そんなこと現実には起こらないだろうということが、ごく当たり前に起こってしまう。『青』『白』『赤』と進むにつれ、その傾向が大きい。
 が、それはそれでいいじゃないか。ラストのラストがあの広告写真と重なるのまでできすぎた演出とは誰も言うまい。そうあってくれるからこそ、キェシロフスキが見せるマジックに酔いしれることができるのだから。蛇足ですが、蛇足でもないか(笑)、『青』のところで書いた婆ちゃん、『白』でも出てきた、そして『赤』でも。なんと『二人のベロニカ』でも出てきてた。おっと、『白』では婆ちゃんじゃなかった。メインアクトに合わせて爺ちゃんなのだった。その老人に、メインアクトが『青』『白』『赤』の順に老人に近づいて行ってる。こうした意図的なドラマの切り抜きは、撮る側も観る側も楽しくて仕方がない。それが映画ってもんじゃないかって思う。
「赤」の色は鮮烈。よくこれだけ揃えられるもんだと。存分に楽しんで下さい。

Trois couleurs: Rouge

監督 クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本 クシシュトフ・キェシロフスキ / クシシュトフ・ピェシェビッチ
撮影 ピョートル・ソボシンスキ
美術 クロード・ルノワール
音楽 ズビグニエフ・プレイスネル
出演 イレーヌ・ジャコブ / ジャン・ルイ・トランティニャン / ジャン・ピエール・ロリ
★★★★★



2002年01月09日(水)



 クシシュトフ・キェシロフスキ『トリコロール:白の愛』  (94 仏,ポーランド)


 『青』のクールな始まりにくらべて、なんとも情けないスタート。白!とまず印象づけられるのが、鳩の糞なんだもん。カロル(ズビグニエフ・ザマホフスキ)がなんとも言い様がないくらい情けなく描かれる。ほとんどマンガとでも言えるくらいに情けない。あとで明かされるけれど、まさかコンクールで優勝した美容師だなんて信じられないです、正直。「紺屋の白袴」で青(紺)から白だなんて、キェシロフスキが知ってるわけないっつうねん。それくらい頭はぼっさぼさで、単なる美容師というのでもたいがい信じがたい。それにひきかえ、ドミニクのジュリー・デルピーの可愛いこと。これ、どう見たって最初からつりあってません。だって、みんなジュリー・デルピーにばっかり目が行ってしまってて、これ、情けなカロルの話でしょ。もうちょっといい男を出して欲しいよのぉ。いい男がガチーンと落込むのを見るのもけっこう楽しいんです(本音)。このポスターのザマホフスキはまあまあいけてんだけど(でもないか、結構情けない顔してるか)、ほんと映画の中じゃ最初から最後までいけてないんだよなぁ。いやほんと、こういうのって俳優のルックスというのも大事ですよ。それで行くと、ミコワイ(ヤヌシュ・ガヨス)のほうがずっとずっと渋いじゃないですか。
 話の流れとしてはミステリー仕立てで、展開としては三作中でいちばんおもしろいんだけれど、好きじゃない。ボクには火曜サスペンス劇場程度のプロットにしか思えないんだけどね。特にポーランドに戻って成功する話にしたって、ほとんど退屈なわけで、この中盤の作りは粗いなぁ。唯一、間を持たせているのは、ミコワイとの関係だけ。
 どんどん枝葉を取っ払っていったら、偏執的な男(ヘタすりゃストーカー寸前)が、結局、ドミニクを騙すことでしか愛を取り戻すことができなかった。そんなのって愛って言うんかいな。というわけでラストでカロルが流す涙なんてのには全く思い入れできない。とにかく最後の最後までカロルがかっこいいと思えたことはなかった。キェシロフスキの美学というのはどこ行ったんだろうと思ってしまう。所詮、愛なんて金とえっちだってか。それならそれでよし。
 結局ね、ジュリー・デルピーなんでしょ。白いウェディングドレスで映像自体がホワイトアウトしてしまうジュリー・デルピーであったり、凍りつくように「ノン」と突き放すジュリー・デルピーであったり、これは確実に男を狂わせますよ。さらには観てる側からすると、そんな妖精とも小悪魔とも形容してしまえるジュリー・デルピーが、終盤でドーンと突き落とされてしまうとなるとサディスティックな快感というか、観る側もその落差に酔ってしまうわけ。
 男を狂わせるという点からみると、確かに、あそこのベッドシーン(ボクはあのベッドシーンはあまり好きでなくて、『青』の2度のベッドシーンのほうが好き)というか、次の朝、情けなドミニクが出ていったあと、赤のシーツにくるまれたジュリー・デルピーの真っ白な背中にぞっこん ? だって、ボク、背中フェチですもん ? 逝ってしまいそう。ボクだったら、あの時点で計画変更ですね。そうすると、ドミニクが仕組んだウソというのが明るみになってしまって、せっかくのドミニクの偏執的計画もおじゃんになって、再び情けないドミニクに逆戻り。そうすると、《覗き》はつかえなくなるのけれど、ボクはそのような結末の方が好きだな。その先にどうなるか、知ったこっちゃない。その結末は『赤』にまかせればいいのですよ。
 あ、話が逸れた。。。ジュリー・デルピーがまずあって、そこに男が情けなければ情けないほど話として際立つ。でもどこかでかっこいいドミニクがないと。ザマホフスキが上手くないというのでなくて、ジュリー・デルピーに完璧に食われてしまってる。ジュリー・デルピーとザマホフスキのつりあいがとれていない。ほんと彼女、出る幕少ないのに、これほんとに男の話でしょ(3つのポスターを見くらべりゃ明らか)、なのにザマホフスキで引っ張っていけないんだから。
 深く考えると徹頭徹尾、情けない男を描きたかった、ととれないこともないんだけれど、それならそれでジュリー・デルピーに対抗できるだけの色気のある男優を徹底的にいたぶってほしかった。

 「白」という仕掛け。。。。自分で観て楽しんでね。そこんとこは十分楽しませてもらいました。しかし、白=平等という意味もいまいち見いだせなかったです。

Trois couleurs: Blanc

監督 クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本 クシシュトフ・キェシロフスキ / クシシュトフ・ピェシェビッチ
撮影 エドバルド・クウォシンスキー
美術 ハリナ・ドボロボルスカ / クロード・ルノワール
音楽 ズビグニエフ・プレイスネル
出演 ジュリー・デルピー / ズビグニエフ・ザマホフスキ / ヤヌシュ・ガヨス / イエジー・シュトゥール
★★★☆




2002年01月08日(火)



 クシシュトフ・キェシロフスキ『トリコロール:青の愛 』(93 仏)


 どこからどう切りだしたらいいのか、これはほんとれびゅ書くのに困ってしまう。とにかくむちゃくちゃに好きな映画。『青』、『白』、『赤』の3部作でいうと、やっぱり間違いなく、青になってしまうのだった。だって一番わかりやすいでしょ。映像的にも色彩としてもっとも強調されているのが『青』でしょ。だからもっと渋く迫りたい人なら『赤』というだろうけれど、ボクは単純に『青』。ジュリエット・ビノシュがどうこう以前に『青』

 まず青のモビール。これが青でなくてもいいようなものだけれど、あえて青にしましたか、なんていうのは無粋というもの。このモビールが赤だったらどうなんだろうとも考えてみるけれど、この話でやっぱり赤は似合わない。じゃ、白(透明になるんだろうけれど)だったら質感が出てこない。そうすると青なのだ。
 わざとらしいといえば青いキャンデー。そんな色のキャンデーなんてあるのか? その色はおいといて、そこでジュリエット・ビノシュのその棒付きキャンデーの食べ方に注目。がちがちがちと噛み砕くように食べてしまう。それが引鉄になってオリビエ(ブノワ・レジャン、亡くなった夫の友人)を呼びだして寝てしまう。このシーン、好きだぁあ〜。見えませんが(^_^;A 朝にオリビエに「汗もかけば咳もする。虫歯もあるわ」とことば ? このセリフにぞっこんなんだよなぁ ? を残してオリビエからも去っていく。壁にこぶしをすりつけて歩くビノシュ、左手には青のモビールを入れた箱を抱えて。これはキャンデーから一つながりの表現なんだよね。うん、わかる、わかる。どこかでそんなことを自分もやってしまったことがるような。
 そうして何からも解き放たれて自由(青)になったはずのビノシュがカフェで見るのは老婆。この婆ちゃん覚えとくように(含み笑)
 青の色ではさらにプールの水の青。何からも解き放たれたはずが、全くそうでなかったことを思い知らされるのがプールのシーン。ここでビノシュの凍りついてしまう表情は絶対青なんだと思う。ここの青い色はとてつもないんだから。
 ビノシュの心を表現していくとき、顔にちらちらと光が当てられる。これは『二人のベロニカ』などでも多用されていたことだけれど、同じスラボミール・イジャクのカメラということで納得させられる。ちょっとくどすぎるような気がしないでもないけれど、とにかく美しいことは美しい。すごく美しい。
 自由(青)であろうとすることは、何もかも消し去ることでなく、より内へ向かって初めて得られる。ビノシュがたどりついたところはそういうところだった。。。なんて、まとめにかかっていいのか<自分
 それでは(笑)、えーっと話がまったく後先してしまうんだけれど、冒頭の事故のシーンというのもいいね。すごく上手いと思う。無駄なくアイテムを配してるんだもん。それでミステリーっぽく仕立てておいて、一気にひっぱりこまれる。ビノシュが初めて現れるのはアレだもん。そこでもこのキェシロフスキとスラボミール・イジャクのコンビはやってくれてます。いきなりこれだもん。
 そしてやっぱり絶対はずせないのが音。もちろんあの交響曲はどんぴしゃはまってるよ。ビノシュの「そこは金管を抜いて」でするっと音が変わってみせたりするところや、指の先の動きで音が動いていくところなども圧巻。そしてあのプールでもね。それでもふっとさりげなくリコーダーを入れてくるところ。この音で、自由(青)であろうとすることが、外に向いていたのが内に向き始めるファンファーレだったとは。

Trois couleurs: Bleu

監督 クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本 クシシュトフ・キェシロフスキ / クシシュトフ・ピェシェビッチ
撮影 スラボミール・イジャク
美術 クロード・ルノワール
音楽 ズビグニエフ・プレイスネル
出演 ジュリエット・ビノシュ / ブノワ・レジャン / フロランス・ペルネル
★★★★★



2002年01月07日(月)



 トニー・ガトリフ『モンド』 (96 仏)


 「モンド」ということばの意味をちゃんと言えるか? ちなみにカタカナ語辞典 三省堂では
 [フ  monde<ラ  mundus  ]世界, 世間, 社会.
かの『世界残酷物語』の邦題が『Monde Cane』。ところがボクの中では「モンド・ミュージック」という語があって、まずそっちから、ふーん、そのような映画なのかと思ってたわけ。「モンド」の意味は知らなかったんだよっ(笑)
 案の定、一緒に観ていたBが「モンドってどういう意味」って聞くので、「あれ、知らん? モンドってよう言うやん、なんかちょこっと変わった音とか...」
 ところが、それらしくはないんだよね。いわゆるボクの頭の中にあったモンドらしくない始まり。ちょっと予想してたのと外れてしまってた。おまけにメインであるらしい子どもの名前が「モンド」 をりょ?! 子どもの名前がタイトルになってるんかい、アテが外れたって。ボクのイメージでは奇異な感じでどこか退廃的で...のはずだったのに。

 モンドというどこからやってきたのかわからない子ども、オヴィデュー・バラン、この子の顔がすごくいい。実際にホームレスとなってルーマニアへ強制送還されそうになっていたという。それを監督のトニー・ガトリフ(彼も元はジプシーという)自身が見つけ出してきて、モンドに起用した。
 この少年が、いろんな人に出会っていく。同じホームレスのべガーだったり、「船をもっていない船乗り」だったり、大道芸人だったり、一人暮らしの老婆だったり、これらの人々の顔がまたすごくいい。世界(モンド)のマイノリティの悲哀とかを表している顔ではなくて、現実に世界(モンド)を生きている人の顔。そしてモンドと彼らの間に交わされる笑顔がほんとどうしようもなくいい。モンド自身でなくても彼らの顔を見ているだけで「癒される」というもの。セバスチャン・サルガドという写真家がいるが、彼などと同様の視線で人間を見ているのだ。世界(モンド)を切り取って見せてくれる。マイノリティーを扱うとどうしてもいやらしくなりがちなところを、強調することもなく引っ張り込まれる。それが甘すぎると言われるかもしれないけれど、観る側に身構えさせてしまわないのはちょっと凄すぎる。
 もちろん映像が文句なしに美しい。夕陽シーンなんてのはありきたりかもしれないけれど、夕陽の水平線に綱渡りの綱を重ねてしまわれると思わず息を飲んでしまう。そんなシーンの連続。ベタ褒めなんてのもそうそうないよ(笑)
 文句つけるとしたら、モンドが倒れ、倒れたモンドにクロスフェードして種明かしがされてしまう。ここで、なぁーんだ、そういうことだったのかと、そこまでの不可解なできごとを解き明かされる。そういうふうに納得してしまうのもいい。だけれど、モンドはモンドなままでおいてほしかったとボクは思う。
 ところで、少年の「モンド」の綴りはMONDO カタカナ語辞典ではmonde フランス語の語尾変化なの?誰か教えて


Mondo
監督 脚本 トニー・ガトリフ
撮影 エリック・ギシャール
出演 オヴィデュー・バラン / フィリップ・プティ / ピエレット・フェシェ / シャーラ・アラーム / ジェリー・スミス
★★★★★



2002年01月06日(日)



 ヴィム・ヴェンダース『エンド・オブ・バイオレンス』 (97 独)


 見始めてから、をいをい、何を借りてきたんだよぉーとビデオ引っこ抜いて確認した。紛れもなくヴィム・ヴェンダースだ。しかしタイトルからして『エンド・オブ・バイオレンス』ってなぁ。臭い。らしからぬタイトル。
 「こんなことならヨーロッパで撮ってればよかった」わかってんだったら、端からそうしなさいっていうの。何もわざわざこういうの見てまで確認しなくてもわかってんだし、やるんだったら、開き直って、セックスシーンだってもっとはっきり見せてくれればいいのに、1シーンだけだでよ。をいをい。アンディ・マクダウェルにしてもね、いちおうラインはきれいなんだけれど、あの豊満さはハリウッドでしょ。ボクは、ノー・サンキュー。
 ヴィム・ヴェンダースがハリウッドに対するアンチテーゼとして、敢えて、ハリウッドの俳優達を使い、ハリウッドに仕立てあげた。あのちくちくねちねちとしたオヤミがなかったら、立派にハリウッドだって思ってしまう。ここにはきっちり
 「セックス、殺人、復讐」
がそろってるんだから。何も意識しないで観たらそこそこにおもしろいんでしょ。ただ、なんでそういう言葉がぽこぽこ挿まれるか違和感をもつだろうけれど。
 あれやこれやと撒き散らしすぎ(かといって群像劇にもなってないのだ)、もっとスリムに深くねちこくもちこめたはずなのに。2度目の4週間後以降はもうだれだれ。何なんだっていう挿話のの連続で、それまでに撒き散らしたお片づけをしてるようにしか思えないんだけど。ビア・ホールだって、どういうつもりやらわからんし、ラストのサンタモニカ・ピア(『スティング』だね(笑))のシーンなんて、そこまで話の整合性をもたせようとしてどうすんのよって思ってしまう。
 なんとか、映像だけでふらふらになりながらもちこたえたって感じ。さすがに空の青さの表現だけはあいかわらず美しい。それとても、いちおう意味は持ってはいても『パリ, テキサス』の空の青さとは意味的にも深さが違うな。
 ズバリミイラ盗りがミイラにという一発。

The End of Violence
監督 ヴィム・ヴェンダース
脚本 ニコラス・クライン
撮影 パスカル・ラボー
音楽 ライ・クーダー
出演 ビル・プルマン / アンディ・マクダウェル / ガブリエル・バーン / トレイシー・リンド / K・トッド・フリーマン / ダニエル・ベンザリ / ローレン・ディーン
★★




2002年01月05日(土)



 ビルジニ・テブネ『エリザとエリック 』 (87 仏)


 何がどうってことない映画だけれど、いかにもいかにもという感じのフランス映画で、ボクはこういう系はけっこう好き。エリザ(ミリアム・ダビッド)のセーターの着こなしがすごくいい。それと彼女のヘアカット。。。じつはほとんどそれに見とれておったのだった。
 コクトーの『恐るべき子どもたち』が下敷きにはなっているけれど...
 何もなくなった部屋で壁にぶちまけたラビオリが妙に印象的。何だかエロっぽくて、その後を予感させるような...予感させるだけですが(笑) 姉と弟の近親相姦、そしてゲイが匂ってはくるのだけれど、これとてさらっと流されてしまって、ここから先は観る側のインスピレーションにおまかせ、というわけでもない。ほんと匂わせるだけ。ヘビの生殺しみたいな。ええい、どっちやねん、はっきりせいと言うてもなぁ。
 というより、視覚的にはこの姉弟はノンセクシャル、あまり男、女をぷんぷん匂わせもしないで、そのくせ情感的に男、女はぷんぷんにおってくるというもの。こういうあたりは、ビルジニ・テブネという女性監督によるからなのか。ねちっとしたいやらしさがないのね。その分、ボクにはちょっと物足りない。
 このビルジニ・テブネは、フランスのポップカルチャーのまっただ中におる人らしく、わかる人が見るとニンマリするあたりがゲストで、かの額縁の中におさまったりしてるらしいんだけれど、そんなもんよっぽどの通でないとわかりません。なにはともあれ、姉弟の創りだす額縁ショー(をいをい)はけっこう楽しめます。欲をいえばできあがりのポートレイトをもう少しきっちり見せて欲しかった。
 もちろん、ビルジニ・テブネがそういう人なので、小道具なんかもおもしろくて、話がどうこうというよりほんとミリアム・ダビッドにみとれて、部屋の小道具やら、色とかにひっぱられてたという、なんかぼよーんとした映画。こういうの疲れなくていいね。

Jeux d'artifices
監督・脚本 ビルジニ・テブネ
撮影 パスカル・マルティ / ダリウス・コンディ
出演 ミリアム・ダビッド / ガエル・スガン / ルドビク・アンリ / エチエンヌ・ダオー / アリエル・ドンバール

★★★☆



2002年01月04日(金)



 ビットリオ・デ・シーカ『ひまわり』  (70 伊)


全女性の感動を呼ぶ愛の名作!
哀しく激しく燃えさかる女の心に、
咲き乱れるひまわりは愛のかげろう

 だいたい、ソフィア・ローレンなんて、ラッタッタァーだったし(笑) すでにひねくれ者になっていたボクはこんなの恥ずかしくてとても観れませんでした。とか、言いながら、かの『ラブ・ストーリー』はちゃんと観に行ってるのだった(ナンパ目的だよっ)。仮に観に行ってたとしても、何人周りで泣くだろうなんてアホな興味でしか観てないでしょう。その性癖はいまも治らず、『タイタニック』なんて観に行けません。
 
 きっとたぶんその当時にこの『ひまわり』を観ても、けっ、甘い、甘い、なんてクソにしてたにちがいない。ふん、何が戦争のおかげで引き裂かれたって、そんなものイタリアなんぞでなくても、日本にだってごろごろ転がっとるわい。なんて小憎たらしいこと吐いてたにちがいないです。で、いまは?
 へっ?反戦映画? 冗談は止めてけれぇー。男と女を引き裂くためには当時にしては、格好の材料だったというだけで、それは『君の名は』でも変わらないでしょ。さすがに『君の名は』となると、オカンの世代でなんだけど、誰も戦争がイカンとかというよりも、真知子と春樹の運命やいかにに終始しておったみたいだぞ。
 んで、ですね、これを二十歳そこそこのときに観なくてよかったなと、初めて観たんだけどね、つくづく思った。その頃には、あの男と女の情感なんて決してわからない。どこか、若さのせいか、突っ張ってしまうしね、これが最後(の恋愛)だななんてとうてい思うことなどできないもの。まだこれからどんなふうになって行くやらわからないもの。
 ソフィア・ローレンがソ連の大地を巡ってやっとのことで、マルチェロ・マストロヤンニと出会うとき、それはじんと来たよ。それよりも、その直前、マルチェロ・マストロヤンニがソ連ですでに結婚していた相手のリュドミラ・サベリーエワとソフィア・ローレンのばちばちの緊張感のほうがすごかった。ここは息が詰まるって。そこんところの演出がもうほんと憎いくらいにすごいのだ。このシーンのソフィア・ローレンの顔がとにかくすごくてもう焼き付いてしまってるのだよ。とほほほ。。。。。
 時間として十年からの長尺もんだから、とくにソフィア・ローレンのメイクのつくりの変化に注目。よくぞ、あのソフィア・ローレンをおばさんくさくメイクしたもんだと感心。
 そしてやっぱりミラノを列車が出ていくときでしょ。ぐっと来て下さい。ぐっと来たら、じっくりと自分の歴史を振り返ってみましょう。弱いんだよねぇ。日頃、邪悪なことばっかり言うてますが、こういうのにはからっきしダメ。年、食ってしまったななぁ。
 とにかく、この二人、上手過ぎ。これだけの情感をひっぱり出せるというのは

 できることなら、もう一度、ひまわりのシーンだけでもでっかぁーい映画館で観てみたいと。ミラノのシーンはいいです。つぎ、観たら、今度は大泣きするかもしれないから。

監督 ビットリオ・デ・シーカ
音楽 ヘンリー・マンシーニ
出演 ソフィア・ローレン / マルチェロ・マストロヤンニ
★★★★★




2002年01月03日(木)



 寺山修司『田園に死す』 (74 日)



 とあるサイトでこの『田園に死す』の評を見たけれど、時代は変わってしまってんだよなぁという感じが強い。
「なんか『ピアノ・レッスン』みたいですね。」
というのには、ほんとトホホだった。そう感じる彼がいけないのでなくて、時代がそうだったんだからとしか言いようがない。
 冒頭にテロップされ音読される

  大工町米町寺町仏町老婆買ふ町あらずやつばめよ
  新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

これらの歌にどういう脈絡を求める? ふっと提示されたことばの断片から、どうぞご勝手に、君が紡ぎだしてくれたらよし。
 寺山の同名の歌集『田園に死す』 これとてまともに頭から読んだことなどない。うんうん、あの歌はこうつながって、あ、そうか、あれはこの歌のための伏線だったのか、なんて、誰も読みやしない。ふっと開かれたページから飛び込んでくる歌が自分のヘドロのそこからぽこっと湧き出たメタンガスの泡沫のように浮き上がりぽっと消え去る。ときにはヘドロをかき回し、ただそれだけのこと。脈絡などを求めず、しかし通して読んでいると、ヘドロは知らぬ間にか真っ赤な血の池のヘドロに変えられていた。
 映画のほうだといちおうまがりなりにストーリーらしきものはある(あるからいけないのか)。が、それでもやはり、ひとつひとつの映像の断片が寺山の歌を映像となって現れているだけなのだ。そう考えてみると、をーをーっとのけぞって見られるのになぁ。
どこからでもやり直しはできるだろう。母だけではなく、私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。そしてこれはたかが映画なのだから。

個人史において、物語にもならない澱みがいくつもある。それをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、投げつけられるほうはたまったもんじゃない。その快感。つながりなどはあるというのか、少年の目の前に次から次と現れることどもの葬列。葬列の人々は、つながりはあってない。そしてどのようにでもつないで見せられる。またどのようにつないで見ようがこっちの勝手。
 昭和20年、9歳の時にアル中のためにセレベス島で父は亡くなった。「ちょっと、死んだ父ちゃんに会いたくなったんだ!」と真夜中のに恐山に向かう少年、そのあまりの簡潔さ、あまりのあっけらかんに足許がすくわれる。川を流れてくる七段飾りにがつーんと頭に風穴を開けられる。恐山賽の河原を横一列に並んで向かってくる老婆に背筋をなぶられる。顔の白塗りは予定通りのお約束。だって、「私自身がつくり出した一片の物語の主人公」なのだから。
 あまりに土着的な下北の風景、寺山の繰り出す大仕掛けになすがままに翻弄されよう。それは快感以外のなにものでもない。「これはたかが映画なのだから。」

制作・原作・脚本・監督 寺山修司
美術 栗津潔
意匠 花輪和一
撮影 鈴木達夫
出演 八千草薫 / 春川ますみ / 新高恵子 / 高野浩幸 / 管貫太郎 / 斎藤正治 / 三上寛 / 蘭妖子 / 小野正子 / 栗津潔 / 木村功 / 原田芳雄
★★★★★



2002年01月02日(水)



 デレク・ジャーマン『カラバッジオ』 (86 英)


 とにかくこいつはまずカラバッジオの絵画を見てないとおもしろさ半減。
WebMuseumなどでまずチェック。
 正直、どきっとしてしまった。こういう美術系、そうした伝記的な映画はいろいろあって、そこには当然、現物のコピーなり、作成中の絵が出てくるのだけれど、デレク・ジャーマンはそれを直接モデルで、つまり俳優たちを使って実現してしまった。そこに表された光がまったくホンモノにそっくりなのだ。(ここでホンモノというのは、ボク自身はルーブルなどで見たことはあるかもしれないけど記憶になくて、恥ずかしながらWeb上でのデジタル化された画像でしかない)が、それでもインパクトはきつすぎる。バックのドレープにあたる光なんてほんとそっくり。いや、Webの画像以上に質感がある。なんせ光と影の使い方が抜群なのだ。そして天使の羽だとか、床に置かれたグラスだとか、カラバッジオの絵画の背景に現れるアイテムがたくさん出てきて、さすが映像作家とうならされっぱなし。これだけ作り込んでいる映画というのもちょっとないし、それらを見てるだけでも楽しくてしかたがない。
 実際のカラバッジオは、ボクそんなに勉強してるわけではないので逃げをうっておきますが、当時の画壇にあってかなりのアウトサイダーぶりを発揮してたらしく、たとえば聖母マリアのモデルに川に浮かんだ溺死体の女を使ったとか、そうして揚げ句の果てにテニスの試合のいざこざで殺人事件まで起こしたという、かなり血の気は多そうで、その後、ローマを追われてシシリーなどを転々としたらしい。映画ではその史実通りには描かれてなくて、確かにカラバッジオによる殺人は起こるのだけれど、テニスが原因というわけではない。ここはネタバラシしないで伏せておくけれど、それにからめて、The Death of the Virgin (下の画像)を使うあたりほんとニンマリさせられてしまいますです。
 デレク・ジャーマンはゲイ・カルチャーから絶賛を受けてるので有名なんだけれど、そこらあたりもうんうんという感じ。だけれど、ゲイ・カルチャーが前面に押しだされてるわけでもなくて、そうだからと身構えることもなくすんなり納得させらてしまうのも不思議。
 並の伝記モンの映画とは一味も二味も違う。とにかくもう最高ぉーっ!!

監督 デレク・ジャーマン
脚本 デレク・ジャーマン
撮影 ガブリエル・ベリスタイン
出演 ナイジェル・テリー / ショーン・ビーン / デクスター・フレッチャー / スペンサー・リー / ティルダ・スウィントン / ロビー・コルトレーン / ナイジェル・ダベンポート
★★★★★




2002年01月01日(火)
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