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まごれびゅ

 
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 ジョン・カサベテス『アメリカの影』 (60 米)


 ほい、2001年のトドメの一発!
 ミンガスが吼えるよ。これくらい、ズージャ(あえてジャズというよりズージャ)が似合うのも珍しい。映画の最後に
「これは(即興)により撮られた」
と明かされる。ボクに限って言うならば、この「improvisation」ということばは、ズージャのアドリブ演奏という意味で最初に入ってきた。コード進行、テーマはあらかじめ決まってはいるが、8小節なりはそれぞれのimprovisationに任される、というのが、モダンジャズ=ダンモの形態なんだというふうに。つまりこの映画においても、チャーリー・ミンガスの地を這うようなベースは、たぶんアフレコで、映像を流しながらのimprovisationであったというのは簡単に想像がつく。
「なぜなら、ジャズはオーガズムだからであり、よいオーガズムと悪いオーガズムの音楽だからである。」(ノーマン・メイラー『白い黒人』'59)
 あえぎ声(実際にそうした濡れ場はないのだが)をジャズが受け持っていると言ってもいい。
 そして、ヒュー(ヒュー・ハード)、ベン(ベン・カラザース)、レリア(レリア・ゴルドーニ )というブラック系の3兄弟、とくに妹レリアと白人のトニー(アントニー・レイ)とのラブ・ストーリーというコード進行は決まっていただろうけれど、それぞれのシーンは彼らのimprovisationに任せて撮られたといわけである。これがちょっと信じられないくらいの完成度を見せているのにはのけぞってしまう。ざらついたモノクロの画面がたまらなくいい。
 ところで、描かれる3人の家族の人種問題、そう、兄貴の「これはオレの問題だ(my problem)」というところに、弟べニーが「オレ達兄弟の問題だ(
our problem)」と切り返すところ。これは兄のヒューが白人であるトニーに向かって妹に「構うな!」と詰め寄るところで出てくるのだけれど、このシーンだってimprovisationなのか、スパイク・リーが『ジャングル・フィーバー』で悪戦苦闘したことをその30年前に軽くクリアしてしまっている。ここでスパイク・リーが黒くて、ジョン・カサベテスが白いということには関係しない。
「経験にたいしてアプリオリ的に考えられた基準、過去から受け継いだ基準で人間性を見ること、というよりもむしろ判断することに、ほとんどなんの興味も持たないヒップの、精神病的な要素のうちに見いだされるであろう。」(同上)
 この『白い黒人』(『ぼく自身のための広告』所収)とこの『アメリカの影』が同時代であること、ボブ・ディランがニューヨークに出てきたのもこのときだ、を考えてみると、根底にブラックである事実はあっても、『アメリカの影』に描かれた世界ではそれ自体がメイン・テーマとならないいで、より普遍的に語られていると思える。嫌みったらしくない。その後、30年の間のアメリカの繁栄が顕在化させたというのも事実であるが。思うに、登場人物がすべて実名で、さらには兄ヒューはピュアなブラック、弟べニーはハーフ、妹レリアはクォーターのように描かれているのもすごく興味深い。
 そうしたことは抜きにして、《NYインディーズの父》の処女作として観るだけでのけぞってしまうことは保証します。ここまで読んだら、絶対、観ろ!

★★★★★  


2001年12月31日(月)



 神代辰巳『赫い髪の女』 (79 日)


 原作は中上健次の『赫髪』 
 この『赫い髪の女』を観なおして、大慌てでようやっと原作を読んだ。どっちがすごいってどっちもすごい。文学と映画を比べることは無意味であっても、「原作を越える映画」とはよく言われる。ではこの神代の『赫い髪の女』が『赫髪』越えていたかと聞かれると、うーんやっぱり中上はすごすぎるというのが正直な印象。どこを比べてそうだというのでなくて、中上はすごい。じゃ、この『赫い髪の女』の女がつまらないのかというと、これもすごい。ボクは日活ロマンポルノでは『恋人たちは濡れた』についで、『赫い髪の女』がいいと思っている。
 じゃあ、『赫い髪の女』と『赫髪』の差は何なんだというと、ずばり「熊野」でしかない。中上は頭の先から足の先まで熊野を体現している。『赫髪』においても熊野がずっしりと重く引きずっている。熊野という風土を抜きにして『赫髪』もないし、中上もない。それに対して神代の『赫い髪の女』は熊野は希薄だ。かすかにけったいな関西弁でしか熊野を感じられない。けったいな関西弁=熊野弁というわけでもないのだけれど。
 ずばり『赫い髪の女』は熊野でなくてもどこでもいい。やっと中上のにおいがしたのは、姉夫婦(山谷初男、絵沢萠子)に会いに行くくだりでしか感じられなかった。しかし目をひるがえしてみれば、『赫い髪の女』は熊野だけでなく、普遍的に描かれているとも考えてもいいのじゃないか。そこのところで、どちらがどうなのだということはできないと思う。ただ、最初に『赫い髪の女』を観たときには、中上を意識しないで観れた。今度は、中上が原作なのだという上で観てしまった。この間に中上を読み漁り、しかも直後に原作を読んでしまった。それだけのこと。
 光造(石橋蓮司)のところに赫い髪の女(宮下順子)がころがりこんでくる。この男がいて女がいる。ただそれだけのことは、自分はそうじゃないと否定しても否定しきれない。そのことの何が悪いのだという理由も何も見つからない。
 「アドバルーンのあがってるあたりにおいしいラーメン屋が思うて」、インスタントラーメンを作って食べる女。丼に残ったラーメンをつまんで食って「まずい」という男。仕事をして帰ってくると飯の支度もせずに寝ているとなじる男。ふとんをひきめくると男のパンツを履いている女。
 確かに、原作の力に負うところは大きい。それでも、しかし宮下順子という女というぬめっと湿った唇(濡れた性器)を持ちながら、妙にさらっとしたキャラクターを押し立てた『赫い髪の女』はまたすごい。

  赫い髪は美しい。

★★★★★  


2001年12月30日(日)



 スパイク・リー『クルックリン』 (94 米)


 「クルックリン」というのは、ブラックの子どもたちが「ブルックリン」というのに「クルックリン」と訛るからだとか。でもイメージ的に、ブルックリンでもなさそうな、どこか毒気を抜いてしまったブルックリン。という意味での『クルックリン』の気がしてならないんだけれど。これって偏見かい? 淀長は「映画で見る限り都会の下町の古い町。少し気っぷが荒っぽく、そのくせ人情が深い、それに学問とは縁のない町という感じ」と、浅草なんぞを連想するみたいだけれど、ボクはその程度なんかいと思ってしまう。実際に、ブルックリンはほんの少ししか歩いたことはないんだけれど、それもブルックリンのコアなところ(どのあたりなのか知らない)じゃなく、ごくごく限られたブルックリンのごく一部だけ。それでもビビった。ハーレムで言うなら、アポロのある125丁目は確かに浅草や大阪の新世界なんかを連想してもいいかもしれない。ところが135丁目まで行くとがらっと雰囲気が変わる。さすがに入り込んではいけないところに来てしまったという感じが強かったのだ。
 つまり、この『クルックリン』は、まだ外の人間が安心して観てられる部分しか描かれてないのじゃないか、ブルックリンに似てブルックリンに非ず、だから『クルックリン』
 そういうブルックリンであろうがなかろうが、人間としての普遍性を描こうという試みは確か。ただ、淀長のように「人間みんな同じ、人間みんな楽しい、人間みんな泣く日もあるよ」なんて能天気な気持には決してなれない。やっぱりスパイク・リーを観るからには心して観ておるよ。ハリウッド観てるんじゃないんだから。

 そういうことはさておいといて、10歳の女の子トロイ(ゼルダ・ハリス)がむちゃくちゃいいのだ。セントラル・パークでちょうどその歳の小学生の遠足に出くわしたことがあるんだけれど、ブラックの女の子のビーズで編んだ髪の毛がほんと可愛い。トロイが南部の叔父さんだかの家に預けられたときに、そのクリクリの髪の毛をコテで伸ばされてるシーンがあるんだけれど、あれはブラックのアイデンティティをひっくり返そうとしているのだと、スパイク・リーならではの象徴的な表現だったとボクは思うのだけれどどうなんだろう。
 トロイが預けられていた南部から戻ってきて最初に電気を点けて消してなども、すごく細かいところまで表現しているところなどはさすがというべきでしょ。
 母親の葬式に出るのに、「ママはポリエステルは嫌いだ」という緑のドレスを着せられて渋々表の階段を下りてくるときのゼルダ・ハリスの表情がほんとすごくいい。ブラックの子どもたちにとってはごくネイティブなんだけれど、あの表情の出し方というのはちょっと真似できないなと思う。
 長男の名前、クリントン! 断っときますが、決してビルじゃないです!ジョージだよ(笑) 全然関係ないのですが。(うちのホームページのメイン見てたらなんのことかわかるけど)
 父ちゃんのリロイ・ハドソンは、このあたりでちょくちょく見かけるんだけど、渋くて好きなんだよなぁ。額に汗しながら懸命にトロイに語りかけてるところなんぞ、うんうんと頷いてしまいます。
 で、やっぱりにんまりさせてくれるのが、Soul Train のテレビで子どもたちが踊り始める。こうでなくっちゃなのです。Soul Train ネタではもう一度ニンマリさせてくれます。

 ま、あまりスパイク・リー、ブラック・ムービーというのを意識しなければ、ほのぼのと楽しめる、ひょっとしたらほろっとさせられるかもしれない映画。素直にお薦め。

★★★★  


2001年12月29日(土)



 アンドリュー・ラウ『硝子のジェネレーション』 (98 香港)


 かなりしっちゃかめっちゃか。話は飛躍はするわ。尻切れとんぼになってしまうわ。むぅ、極端な話、なんで天安門広場事件が出てくるのか、正直はじめ天安門事件の映像が流れたとき、それが天安門事件だとはわからんかったのだ。それくらいに唐突に挿入されて、しかもあまり脈絡とか意味が見いだせないんですけどぉ。。。そんな調子で、をいをい、この調子だと、ビデオ録ってたの(WOWOWでやってたのを録画)、途中で切れてしまうんじゃないかと心配してたら、オカンが急に逝ってしまって、いきなりまとめにかかると思いきや、そこからまた一山あったりして、とにかくとりとめが無いのだよ。
 が、しかし、これは深く考えたもんの負けでしょ。おおらかなんだよっ。B級映画がと思ったらとてもおもしろくて、けっこうハラハラさせてくれるのだよ。香港ヤクザの出入りには武器というのはそこらの廃材金属棒だったり、あれがぁ、ずらぁーっとマシンガンやら並べられたら興ざめしてしまうんだけれど、をいをい、そんなものでどうやって殺るんだよという滑稽さがとてもいい。出入りのシーンといえば、あいつとの対決というのもなんであんなにでかく撮るのってくらい、いやとにかく支離滅裂。素直な疑問で、あれだけの大人数の出入りで、どうして敵味方の区別ができるんだろう。なりふり構わず、目の前にいる者にナタを振り上げてんじゃないの。
 ところで、Bさん役のン・チーホン、渋い。どことなく若いころの唐十郎に似てたりして。似てるといえば、硝子の少年隊のひょうきんチョウパンのユエン・ワイホーは、これまた所ジョ−ジの若いころを膨らませたよう。サンカイのサム・リーもそこそこで、がいっちり脇を固めて、丘の上のシーンなんて、「これが青春だぁ!」と、「あの太陽に向かって走ろうぜ」とはやっとらんけれど、こういうシーンってすごくうれしくない?
 いちおうヤクザ映画だから、リンチシーンもあるわけ。当然のことながら、ヒーローのニコラス・ツェーはどんな陰惨なリンチを受けようが死なないわけでハラハラなんぞするわけもなく、それより黒龍のネズミだとネズミがうじゃうじゃ入った袋を、な、なんとニコラス・ツェーにかぶせてしまうなんて暴挙は痛快そのもの。こういうリンチは見たことがないので必見!
 要するに、いまだと何? 嵐? とにかくジャニーズの何かにヤクザ映画をやらせてるようなもんだから、わかるでしょ。そういうはちゃめちゃがこっぴどく楽しくてたまらない。
 ヤクザ映画は、東映のこわもてのおじちゃん達ばっかり集めなくてもできる! ジャニーズ事務所で企画制作しないかなぁ。

★★★☆  


2001年12月28日(金)



 ジャン・オーレル『恋のマノン』 (68 独・伊・仏)


 いきなり日本の空港のシーンから始まる。日本語のアナウンスが流れておよっと思ってしまう。をいをい、ほんとに日本かよ。日本からヨーロッパまでファーストクラスに換えるのに15万円だとか、な、なんちゅう時代や。よく考えたら1ドル360円の時代。空港で出会ったサミー・フレイとドヌーブの甘い、あまぁーい恋物語・・・・と思うたら大間違い。は?これってもうほとんどコメディーでしょ。コメディーと思って見たらとてもおもしろい。日本からパリからストックホルムからニースと、恋のドタバタ劇。そうと見た。
 マノンから連想できるように原作は『マノン・レスコー』 原作読んでないから、ん?読んだんだっけ。読んだとしても覚えてない、とにかくわからんけど、大筋は原作通りで、美貌を武器に、オヤジ連中から金をまきあげては優男グリュー(サミー・フレイ)に貢ぐ、をっと貢いではない、それを資金に優男と遊ぶ娼婦マノン。貢ぐだの、じめじめした恋愛が語られるのでなくて、あっけらかんとしてるとこがいい。そんな女に振り回される男の悲劇、じゃなくて喜劇だって、これは。なんか原作だとグリューの真剣さにマノンも目覚めていくとかなってたような、あ、男が落ちぶれてって最後には二人とも死んでしまうのか。あ、そうじゃないね、この映画の『恋のマノン』のほうは。ラストもあくまであっけらかんとしてるところがよろし。グリューの方もマジに惚れてんだかどうだか、たまにはこういう男と女というのがあってもええでしょ。しまいにゃ君ら血ぃみるぞ。
 ね、そう観るとお気楽に観てられるでしょ。ほんとドヌーブ絶頂のときで、お人形さんで済ませておかないところはさすが。それでもしっかり、ドヌーブにはあれやこれや手を替え品を替え、見せてくれるのもいい。
こういうふうにふっと肩の力を抜いて、ぼけーっと映画を観るのもいいもんだ。
 ニースの別荘?だかでふっと犬の狆が歩いて横切るのがおっされぇー。あ、それとダンスホールで踊るエキストラの女、あれはたぶん日本人、ビーチクすけすけ。とても時代を感じさせてくれるって。あ、そうそうドヌーブのファッション、やっぱりいいです。それ見てるだけでも十分。

★★★  


2001年12月27日(木)



 フィリップ・カウフマン『存在の耐えられない軽さ』 (88 米)


 これはずっとアメリカ映画じゃないと思ってた。なんでアメリカ映画なのか、いまだもって不明。英語でしゃべるのやめてほしいよなぁ。なんか似合わない。でもフィリップ・カウフマン監督は、ジョージ・ルーカス とともに『レイダース/失われたアーク』の原作だってんだから、ますますもって、わけわからん。『ヘンリー&ジューン』の監督というのはつながるんだけど。そんなふうに考えると、これはミラン・クンデラの原作の力なのかとも思えてしまう。
 
 これって結局のところ、ダニエル・ディ・ルイス、ジュリエット・ビノシュ、レナ・オリンの三つ巴戦なんだね。そういうふうに観ると、軸としては、ジュリエット・ビノシュであっても、蜘蛛女=レナ・オリンに食われてんじゃないかと思う。だけど、ここでジュリエット・ビノシュ演じるテレーザという女は、脆いの反対、鉄でいうと、鋼ではなくて軟鉄のような二枚腰な女なわけで、レナ・オリンのサビーナのほうがぱきんと行ってしまいそうな女なのだから、そこは当たり前か。『二人のベロニカ』のイレーヌ・ジャコブに重なってきたりする。ソ連が進攻(ポーランドとチェコの違いはあるのだけれど)が絡むというだけで、それは単純か。
 ボクはよりアクの強いレナ・オリンのほうが好み。顔なんかもそうだし、この映画の中での役回りなんかもそう。でも現実に、その二人の女がいたら、ころっとジュリエット・ビノシュのほうに行っちゃうんだろうな。そういう意味でいうと、トマシュに重ね合わせてしまっている。つまり男なんて、女でころっと変わってしまう。。。。『存在の耐えられない軽さ』が意外と中盤で出てくる。そう「あなたのその存在の軽さが耐えられないのよ」という一言で、トマシュが変わってしまうように。それでも、まだふらっと行ってしまう男っておバカなのか、逆にその軽さが男なんだと思うんだけど。そう考えたら、この映画は、男が観るのと女が観るのでかなり違って見えるのじゃないかなと思う。

 それで、原作は読んでないのだけれど、書評などを見ていると、女男女の三つ巴より以上にチェコ、プラハの春が軸となったトマシュの話のようにとらえられる。原作の冒頭でいきなり「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」と書かれているという。そうすると、これがアメリカ映画だからこそおもしろいかったのじゃないかというところに戻ってくる。アメリカであろうが、日本であろうが、フィリップ・カウフマンが意図したであろうが、なかろうが、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を逆転して、さらに逆転してしまって(逆説の逆説)るからおもしろかったのじゃないか。これが『二人のベロニカ』のように地つながりのヨーロッパ映画であったのなら、「存在の耐えられない軽さ」にまで至らなかったのじゃないかという気がする。何はともあれ、ボクにはすごくおもしろい映画である。

 トマシュ=ダニエル・ディ・ルイスのギラギラの眼に憧れる。

★★★★★  


2001年12月26日(水)



 ロベルト・ロッセリーニ監督『殺人カメラ』(48 伊)

善人も悪人も同じ顔をして一緒に歩いている。至言でしょ


 タイトルからしたら、ホラーもんの走りかと思いきや、さにあらず、のどかな寓話。こういうのが許された時代ってよかったなぁと思う。ロッセリーニというのは「ネオ・リアリズム」として語られるけれど、じゃあ、現代描かれている映画のほとんどすべては何リアリズムというのだろうか。よりリアルに見せようとするあまりに滑稽でしかないんだけれど。逆にロッセリーニのどこがいったいネオ・リアリズムなんだいと聞かれても、さぁ?としか答えられませんけど。その道の人たちは勉強してくれい。ボクは楽しければいいです。

 まず、あれは何てんでしょうね、要は子どもが家だとか人形だとかを並べて遊ぶように、山だとか、それを隠していく家々、そして登場人物の人形を並べていく、それもきっちゃなぁい手が映しだされて、「さぁ、物語が始まりますよ」という冒頭に思わずのけぞってしまう。その昔、1960年以前のこと、ボクのオヤジが8mmを買って、ボクや弟をモデルに映画監督のまね事をやっていたころを思いだしてしまった。技術の進歩でどこかに置き忘れてしまっていたことを思い起こさせてくれて、非常に新鮮に見えてしまう。
 さてと、話はイタリアのどこか、山と海に囲まれたかなりのど田舎。乞食然としたじじい聖人が写真屋チェレスティーノ(ジェンナロ・ピサノ)の前に現れて、彼のカメラを写された写真を再度カメラで写すと、その瞬間に、写された人物が謀殺されてしまうという呪いの殺人カメラに変えていく。
 試しに表にいるロバを写し、その写真を写したところ、はたしてロバはその姿のまま死んでしまっていた。このくだり、ロバを一度写してそれを現像し、ただちに現像された写真を撮るなんてのは、時間的にどう考えたっておかしいのだけれど、そんなことは一切おかまいなし。この隙だらけと言ったらいいのか大らかさがたまらなくいいのだ。
 思わず正義の力武器?を手に入れたチェレスティーノは次々とカメラによる殺人を犯していくのだが、まったく罪の意識はない。あくまでカメラを使うのは正義のため。おりしも、そのど田舎でも、越後屋はおるわ、悪代官はおるわ、悪徳金貸し婆あはおるわ、町議会はまるでどこぞの国の国会みたいで、田中真紀子までおる始末。この国会、いや町議会シーンはほんと見モノだよ。むちゃおもろい。その連中をチェレスティーノは、必殺仕置き人となって、町の中を駆け回る。ほんとこのおっさん、ほとんど全てのシーンで走りまわっているのだ。が、しかしその騒ぎの中で、突然、浜で日光浴する半裸の女が現れるのだが、まわりが写真写せぇーと騒ぎ立ててもチェレスティーノは写そうとしないのはさすが。写真屋チェレスティーノが、ぼそっと語る。
    「世界最後のバカであるオレは原爆より強いのだ」と。
 やがてチェレスティーノの闇の仕事に気づいた医者が止めに入るのだが、ひょんなことでその医者を撲殺してしまう。このときに初めて、チェレスティーノは殺人を意識するのだ。そうして彼のとった手段は。。。。と、そのときに聖人が現れ、自分は11万3000歳の悪魔だと明かすのだった。

 これで物語はおしまい。最後の教訓は寓話のお約束です。心しましょう。

★★★★  


2001年12月25日(火)



 スティーブン・ダルドリー『リトル・ダンサー』  (00 英)

 眠かった。なんだこりゃ、ヘタすりゃ、『フラッシュダンス』少年版じゃないかと、こっくりきかけたときに、突如、
   ウォウォウォウォー・・・・・
ロンドン・コーリング」かっこいいいいい。これでパチっとスイッチが入った。ビリーのステップも軽快になった。あそこの全く予想できない音楽の使い方は抜群。でもね、「ロンドン・コーリング」をボクが知ってるから、まざまざと「ロンドン・コーリング」のジャケット(リンクしといたから、知らない人はとりあえずジャケットをチェックすべし!)が浮かんでくるから、あそこであれだけはまるんでしょ。知らない人、とくに中学生とかが観たらどうだったんだろう。CinemaScapeのピロちゃんきゅ〜さんのコメントが言うようにまさに
「やはり血わき肉踊る。あれが兄貴の精一杯のダンスだったという哀しい比喩なのか?」
 そのコメントにほぼ全面的に賛成。悪くはない。実際にあのラストのショットには一瞬ほろっとさせられもした。悪くはないんだけれど、どことなくすっきりしない。そんなにみんなが良い、良いというほどいいのか。みながいいというほど、そうかぁ?と疑問を投げ掛けるひねくれもんだからね、ボクは。親兄弟の家族愛、同胞愛を描いているのだったらきっと嫌いだ。少年の健気を描いているのだったらもっと嫌いだ。
 ところで原題はずばり『Billy Elliot』。『Little Dancer』じゃないのだね、ちょっとホッとしたよ。『ビリー・エリオット』じゃ、まぁ何だかわからないからだろうけれど、『リトル・ダンサー』と「少年」を出してくることで矮小化させてしまってないか。ボクはそういう偏見で観始めてしまったが、一般的に『リトル』をそのまま拡大解釈してしまってる節があるようにも見えるのだけれど。つまり「少年の健気」に涙。。。
 話は戻して、なんとかもちこたえられたのは、おもしろいことに、中途半端さのおかげ。どれをとっても中途半端なのだった。上に書いた「少年」の健気さをいやらしく描いているのでもなく、家族愛、同胞愛を嫌みったらしく押し付けてくるのでもない。オヤジの頑固さ、「男とは」にはいい加減、辟易してたけれど、それも頑固一徹星一徹でなかった。が、あのクリスマスのシーンは哀しい。それがあまりに美しく撮られている故になおさら哀しい。きょう、クリスマスイブに2ショットになれない人向き、ひとり淋しくこれ観て泣きましょう(苦笑)
 師弟愛を押し付けてくるのでもない。ビリーをバレーにひっぱりこんだ女の子もいつの間にか消えている。それらもろもろの中途半端を帳消しにしてしまうくらいにビリーの踊りがすごいのかというと、これまた中途半端。よく言えば中庸の美徳ってところなんでしょうか。
 ということは、ラストで成長したビリーがばっとステージに飛びだし舞い上がるショットで終わってしまうとういうのは、「ゑ、おしまい? もっと観たい!」という中途半端な終わりかたをしてしまうのだけれど、ボクはあれでひどく満足。「白鳥の湖」を長々とやってくれちゃったらと思うとぞっとする。
 ところでアステアにはならなかったんだよね。

★★★  


2001年12月24日(月)



 カルロス・サウラ『タンゴ』 (98 スペイン・アルゼンチン)


 文句なしに★5つつけてしまいます。話の筋立てが『カルメン』の二番煎じだとか言われるようが、ボク、見てないもーん、だから番茶も出花じゃないか、な、何だかようわからんけれど、二番煎じだろうが三番煎じだろうがとにかくいいのだ。文句あるか。観終わった後すぐ、タンゴのステップというか、足の出し入れだね、あれをちょっとやってみた。できるかっ!(^_^ゞ
 いや、冗談抜きに、これまでずっとタンゴというのをなめておったな。ビートがすごいのだ。そのタンゴのビートというのを知っただけでも、これはすごいよ。だいたい、タンゴなんてのは、おっさんとおばはんが澄ました顔してダンスホールでこれ見よがしに踊ってるときに鳴っている音楽だという偏見があったからね。だいたい、ボクは偏見ばっかりで物事を語っているぞ。あの日舞のお澄まし顔が生理的に受け付けないんだけど、日本でダンスしてるのってそのノリがあるんだよなぁ。 話を戻して
 セシリア・ナロバを最初に出してくるシーンから思いっきりかっこいい。こんだけ決め決めで出されたんじゃ、かなわないというもの。照明の使い方がとにかくすごいのだ。スペインならではの色の使い方なんだね。ラテンの情熱とでもいったらいいのだろうか、あれだけ燃えるようでいて、すきっとした色の使い方なんかちょっと真似できない。
 カルロス・サウラ監督自身がダンサーでしかも振付師だから踊りの見せ方というものを知りつくしている。ちょうど『ジェリコ・マゼッパ伝説』を撮ったパルタバスが曲馬団の団長で馬の美しさを描いたのと同じように、ダンスの美しさを描きつくしている、だからもうそれだけで圧倒されてしまうのだ。
 それだけでさえ圧倒されてしまうのに、このタンゴ・ダンスを使って、二重構造の三重構造の映画に仕立て上げてしまう凄さ。しかもフランコ政権への痛烈な批判(スペインでの対立の根の深さはボクらには想像しにくいことだけれど)を織り交ぜて行く。ラブロマンスにしたって、素の映画で表現したとき、とるにたりない陳腐なメロドラマになってしまうのに、タンゴ・ダンスという武器をもってすると、どれほどに官能的になることか。実際、濡れ場なんてものは1ヶ所もない。ただひとつキスシーンがあるが、そのキスの激しさはちょっとひるんでしまう。ミア・マエストロが口を大きく開けて舌が入ってくる。これはそこらのAVなんぞハダカで逃げ出すってもの。そんなキス・シーンであってもタンゴ・ダンスの表現には及ばないのだから。
 地のパートでも、きっちり言いたいことだけは言って、何だか中途半端だと思えるかもしれないけれど、ボクはあれで十分だと思ってる。その淡泊な演技のパートがあるからこそ、ミュージカルというにはもったいないダンスのパートの濃密さを引き立てていると思う。

 これって魔術だなぁ。それであのラストをもってくるんだもん。正直、降参です。

★★★★★  


2001年12月23日(日)



 デビッド・クローネンバーグ『イグジステンズ』 (99 英・カナダ)


 はい、やっぱり外しました。期待はしてなかったんだけど。
1. ジェニファー・ジェイソン・リーがスキー靴背ったろうてでてきたときにはマジやばいと思った。
2. 脊髄に穴を開けてケーブルでマシンを直結させるなんて、どこが近未来やねん、と失笑してしまう。どたまにチップ埋め込んで、赤外線でデータ飛ばすとかでけへんのかなぁ。
3. 両生類の有精卵?これも結構失笑モン。グロならもっとど派手にグロってほしい。なまじSFXなんて使うから滑稽なだけ。いっそ、生きてる両生類を素手でぐにゅっとハラワタかっさいてくれたらいいのに。あ、動物保護団体がうるさい? それなら食用ガエル使うとか、ウナギだとかヘビだとか、生きたヘビがぐにょっとかたまってるのは、ヘタなSFXより何千倍もグロい。昔、少年探偵団で小林クンが閉じ込められたところに、ヘビの樽があったんだけど、あれには字面だけで恐れおののいたもんなぁ。
4. 最後にさ、ゲームに参加したのがコメント述べあうところなんて、ほんとゲームヲタクの集会かよぉ。ちょいと閉口。
5. ラストも現実とバーチャルの錯乱という予想できる結末で、全然はらはらもしないで終わってしまった。
 思うにクローネンバーグに過剰の期待をしすぎなんかなぁ。エロくないクローネンバーグなんて、クリープのないコーヒー(古っ!)みたいなもん。
 2の文句なんて、逆に考えてみれば、そのむちゃくちゃさがクローネンバーグらしくていいんだけどね。例えば、バイオポッドの穴に、唾をつけた指を挿入するのなんて、思いっきり変態なんだけれど、それ以上に進みようがないんだね、このネタでは。無理がある。
 クローネンバーグが扱うにはあまりにB級であまりに安易すぎたんじゃないか。これが期待過剰だって。『裸のランチ』のエロさ、グロさはバロウズに負うところが大きかったというべきなのか。
 一番の見どころは中華料理屋のスペシャルランチを食すときくらい。ヌチャピチャ感がたまらない。

★☆  


2001年12月22日(土)



 アラン・ルドルフ『モダーンズ』 (88 米)


 舞台は1920年代のパリ。いわゆるエコール・ド・パリと言われた古き良き時代。つまり見ていていちばん楽しくて、絵にするにも一番おいしいところ。
 実際、ヘミングウェイ(ケビン・J・オコナー)が実名でばっちり出てくる。パリのカフェで、モデルのような女が、『日はまた昇る』がどうったらこったら、「あら、それはフィッツジェラルドよ」なんてシーンには思わず笑えてしまった。舞台仕立てがそれだもんだから、をーをーと喜んで見てました。うーんと、あの時代のパリの女のファッションがとにかくいいのだな。
 が、ところが、なんだか安易すぎないか。それが、ヘミングウェイだったり、モジリアニだったり、いわゆるエコール・ド・パリ初級編ばっかし。キスリングありーの、藤田ありーの、ジョイスありーの、掘り起こせば、いくらでもいるだろうに、なんでもかんでもひっぱり出してきたらええってもんじゃないけれど、見かけばっかり20年代パリだけれど、いかにもって感じで安っぽくて、そっちのほうはすぐに飽きてしまった。その20年代パリの雰囲気は、そういう美術・装置、音楽というのじゃなくて、ハート (キース・キャラダイン)のアトリエの窓から向いの娼婦の部屋が丸見えで窓越しにヘミングウェイとしゃべったりするところ。をー、そうそう、カフェでジャズとかもやっちゃたりしてくれてんだけど、それなりにいいんだけど、やっぱりわざとらしい。わざとらしいといえば、章の区切りでモノトーンにフェードされて切り替わるというのも、をっと思えるのは初めの1,2章まで。全体的にわざとらしさが目についてしまう。

 それよりジョン・ローンの情けないのを見てるほうがずっとおもしろかった。いやぁ、ジョン・ローンって、嫌みな男やらせたらほんと天下一品だね。徹底的に情けなく傲慢で、これじゃ女も逃げ出して当たり前でしょってくらいに描かれている。揚げ句の果てには、レイチェル(リンダ・フィオレンティーノ)振られて飛び込み自殺はやらかすされる始末。脇役としてピカピカ光ってる禿のオイゾー(ウォーレス・ショーン)が、自ら偽装死亡記事を出して葬式までやってのけるんだけれど、その棺桶にかわりにジョン・ローンがほりこまれ、最後には霊魂となって出ていくなんて遊びまくられている。ジョン・ローンのファンは絶対に認めたくない映画だろうなと思うけど、ボクにはピカ1に思えた。はい、実際、この映画のメインはキース・キャラダインだけど、彼なんてどうでもよろし。ボク的にはああいうタイプの二枚目男優というのはどうも好かん、おもろくないんだよ。メインはなんといってもジョン・ローンの情けなさですよ。これが最大の見モノ。ほんとすごくはまってんだから。
 ところでリンダ・フィオレンティーノはボクは好きよ、って、他に出てるの観てないけれど、だってボクの守備範囲外にしか出てないでしょ、あの声が好きだな。ちょいと低い目で、あの声で耳元で囁かれたら、ボクならころっと行ってしまいそう。

★★★  


2001年12月21日(金)



 ブリュノ・ニュイッテン『カミーユ・クローデル』 (88 仏)


 伝記モノというのは、いまいち好きではなくて、やっぱり前半は結構退屈してた。それでもなんとかもちこたえれるのは、イザベル・アジャーニはボクのいっちゃん好きな女優だから。良くも悪くも、彼女のエキセントリックなところが好き。
 で、ロダンとの関係が怪しくなるあたりから、イザベル・アジャーニの本領発揮。吼える、吼える。現実のカミーユ・クローデルもかくやと思われるエキセントリックさにただ唖然。ヘタすれば、うーん、ロダンってこんな悪役だったのかと、同じ組み合わせで『ロダン』も観てみたいぞ。
 それはそれでおいといて、うーん彫刻家というのはすごいものだな、カミーユのご近所さんのボクちゃんが「石の中に人間がいるの?」というように石から人間をとりだしてしまうというのはすごいのだな、そして魂がのりうつってしまうとその土なり石なりの塊を激しく抱擁しさえするものなのだと。
 でもそういうのって、へぇそうだったんだというだけで、映画としてのおもしろさがいまいちつかめない。とくにカミーユ・クローデルという人物に対して、あらかじめこちらが持っている鍵がなさすぎる。だからイザベル・アジャーニがつきつけてくるカミーユ・クローデル像がほとんどすべてになってしまう。解釈のしようによっては、イザベル・アジャーニという彫刻家がカミーユ・クローデルの像を創り出したのだと考えられないことはないけれど。ちなみに、イザベル自身がプロデューサーでもあり、監督のブリュノ・ニュイッテンが元内縁の夫(この映画の時点では別れている)で、イザベルの気性からして、少なくともカミーユに関する部分は彼女自身が創りあげたと言い切ってもいいんでしょ。だからイザベル自身があまりにカミーユにはまりすぎていて、観る側はあっけにとられていて、そういう意味でいまいち楽しめなかった。
 もちろんセットがすごいなぁとか、絵画ならまだしも、彫像のレプリカをよくこれだけ作れたなぁと感心もしてしまうのだけれど、やっぱりアジャーニがきつすぎて、そういうところにはまって行けなかったのが正直なところ。すごいなあとは思うんだけれど。
 むしろロダンのジェラール・ドパルデューを観ているほうがおもしろかった。やっぱりあのロダンの手。触感フェチのボクとしては、彫像を手でさぐっていくところなんかぞくぞくしてくる。カミーユが抱いて欲しいというのをそっちのけで、カミーユの創った彫像を目を閉じて手の感触だけで確かめようとするシーン、ボクとしてはもっともっともっと官能的であってほしかったけれど、でも最高だったね。
 それでもその彫刻家ロダンの手であっても、幾度もカミーユのおなかを確かめておきながら子どもができていることに気がつかなかった、とカミーユがロダンをなじるのが、もっともきつく印象的な言葉だった。

★★★  


2001年12月20日(木)



 イ・ジョンヒャン『美術館の隣の動物園』 (98 韓)


 ごくごくありふれたラブ・ストーリーで、ラストもごくごくごくありふれていて、さっぱり新鮮味などない。当たり前のように動物園と美術館に行き違いになって、当たり前のようにその分かれ道のところで再び出会ってしまってハッピーエンド。そのすれ違いなど完全に読めてしまう。すれ違いのまま終わってしまうという要素など全編通じて全く無いでしょ。こういうふうにハッピーエンドになりますよ、なりますよと示しておいて、きっちりハッピーエンドに終わってしまうところい全くと言っていいほど、おもしろみがない。
 が、しかし、おもしろいのだ! さんまと大竹しのぶの絶妙なテンポの『男女7人夏物語』の軽さがある。そして脚本自体は『夏7』よりずっと上を行く仕上がりだ。やっぱりテンポがいいのは見ていて楽しい。
 チョンヒ(シム・ウナ)のところにチョンル(イ・ソンジェ)がころがりこんでくる二人の突拍子もない出会いがいい。そのあと展開していく物語は現実には絶対にありえないこと、どう逆立ちしたってありえないことだけれど、そんなことなどきっちり吹っ飛ばしてくれる展開なのだ。
 そして、チョンヒが(を、変換してたら「貞姫」と出たぞ、うんうん、なるぅ〜)、書きかけているシナリオが二人の共同作業で、劇中劇的にもうひとつのラブストーリーが進んでいく。もうひとつのラブストーリーに出てくる男と女は、チョンヒとチョンルの意中の男と女であったりする。つまりシナリオにお互いに自分たちの恋愛の相手を投影させていくうちに、シナリオの中のチョンヒとチョンルに転化していくのだ。そのシナリオの中の人物を借りて、自分たちの恋愛観などを語らせたりして、この構造もすごくおもしろい。ただもうちょっと整理されてもいいように思うが。
 雨降りに二人で一本の傘をさして、そういや雨降り+傘のシーンが多いなぁ、スーパーに買物に行くのだけれど、その帰り道はもうすっかり雨はあがってしまっている。スーパーの荷物はもってやるから傘をさして乾せ、そうすれば家の中が濡れなくて汚れなくて済むだろうとチョンヒに傘をささせるというシーンがすごく好きなんだよね。そのずっとあとでもチョンヒが雨上がりに一人でいるときに傘をひろげるシーンがはいってくるのだけれど、そんなふうにとても繊細なセンスが光っている。そんなシーンの連続。
 とにかく細かいことは抜きにして、久しぶりに邪悪なこのボクを爽やかな気分にさせてくれた、そんな映画。

★★★★



2001年12月19日(水)



 ルイス・ブニュエル『昼顔』 (67 仏・伊)


 『昼顔』が公開されたころ、ボクはまだ厨房で、当時ようやっとエロっぽいのが映画館にかけられるようになって、例えば『砂の女』、『恋人のいる時間』などなど。でも厨房は厨房だからそういうのを正面きって映画館に観に行けない。しかたがないので新潮文庫の『昼顔』を買って、カバーのドヌーブの背中だけ眺めてた。ようやっと18Kが観れるようになって、もうその頃は成人映画を観まくりだったせいもあって、初めて『昼顔』を観たときには、なんだ、おっぱいさえ映っておらんではないか、エロくないじゃん。。。(笑) 甘い、青い! 
 エロいねぇ、この『昼顔』。いやそれでも最近のAV観まくりのこーこーせーには、どこがエロいのと反撃喰らうかもしれないけれど、やっぱりエロいのだ。ドヌーブを撮った監督はすべからく脚フェチと言い切ってもいいかもしれません。しかも当時もうすでにスターだったドヌーブを使ってこんなことしていいのか! というのは偏見でしょうか。どうもそのころ、ドヌーブというと、彼女さえ出しておけば内容なんてどうでも当るという作られ方してるんじゃないかという感じが強いから。そんなスター様をSMもどきまでやらかしてしまうとは。をい。実際、ドヌーブ自身も「なんでこんなことやらなアカンのん」と泣き入れたらしい。
 しかし、のっけから、(-_-)/~~~~ピシ! とは、巨匠やってくれます。それが渋谷で石投げたらあたるようなAVねえちゃんでなくて、ドヌーブなんだから、もうたまらんっちゅうの。ボク、あの背中だけで逝ってしまう。。。もう何度も同じことを書くんじゃない!って、いや、しかしこれは最大の見モノでしょ。ちゃんと保存しておかないとね。
 ドヌーブの性的妄想が日常にはみ出して。。。という形をとっているけれど、うがった見方をしてみれば、ブニュエルの妄想なのでないか、いや、妄想そのものと言い切ってしまいましょう。ドヌーブの妄想としてはさまれる決闘シーンで、ドヌーブのこめかみに銃弾がうちこまれるんだけど、今だったらどばっと飛び散る血しぶきになってるんだろうな、ところがこめかみから一筋血が流れている。それがブニュエルのセンスの良さだと思うのね。
 とにかく巨匠の妄想をがっぷり受けて立つドヌーブ、けなげ、じゃないですね、そこんところが並の女優でなかったと言うべきでしょう。ブニュエルとドヌーブのばちばちと飛び散る火花。同じ組み合わせでもう一本『哀しみのトリスターナ』もマスト。なんで邦題になると『哀しみの』なんて付くのか。いまとなっては探すの大変なんだろうけど。
 とにかくドヌーブの美形最高峰のころでしょ。初めて客をとったり、日本人(中国人? 思いきりスケベ臭い!)がやってきたりしたときのドヌーブの歪んだ顔がたまらない。このサディスト! ボク的にはアナイス(ジュヌビエーブ・パージュ)が好み。ドヌーブに惚れるチンピラもいかにもパリ的チンピラという雰囲気があっていいなぁ。スカみたいな死に方しよるけど。
 なんかさ、同時代ということもあって、若尾文子+増村保造とオーバ−ラップしてしまうんだけどなぁ。

  ★★★★☆  


2001年12月18日(火)



 黒沢清『CURE』 (97 日)

本部長の藤原、あんたは誰なんだ?


 むっちゃ怖いよぉー、久しぶりにおしっこちびりそうになった。むぅ、きのうの晩もきりきりきりきりっ(『オーディション』)でおしっこちびりそうになったばっかりなのに。ひぇ〜〜っ、今晩も眠れない{{ (>_<) }}ブルブル


おれ、あんたの話が聞きたいんだ


 まず音がむっちゃ怖い。例えば同僚を射殺してしまった巡査の取調室。絵づらは怖くないのに、心臓がバクバクしてくるのだ。ま、そこは心臓の拍動音(この音のしつこさが群を抜いてる)、恐怖心を煽る音の定番だろうけど、じゃ、何も入っていない洗濯機が回る音(これは拍動音以上にしつこい)、ぐっと日常的な音だけにいやらしい。それらだけじゃないの、もう音が怖くて怖くて、なんでこういうのに限ってヘッドホンで聞いてるのだよ。ほんとに、もぉー。
 逆にふつうなら怖いだろうというシーンは怖くないんだよね。ボクが変なの? 役所広司の嫁が首つったりするのだけれど、すぐに人形だってのがわかってしまうんだし、確かにXに首を切りつけて血みどろの惨殺死体が一瞬映ったりするけど、別にぃー。むしろ事件があっけらかんと起こってしまうほうが怖い。巡査がいとも簡単に銃殺されてしまうとか、2番目の殺人の実行犯?が窓からダイブしてしまったりするほうが息を飲んでしまう。これらのあっけらかんとなされる殺人の描写がすごくいい。
 そして萩原聖人がむちゃいい。萩原が最初に現れる海辺のシーン、このシーンはもう最高に好き。ボクのどこかで『ねじ式』とダブってしまった。萩原が一貫して同じトーンで貫くからこそ、役所広司との交わされるびんびんの緊張感は、役所広司と萩原聖人の逆転を生じ、さらに通り抜けて観ている側との緊張感に転化してくる。このあたりの役所と萩原がぶつかりあう描写がずば抜けているのだ。 どうしようもなく怖い(^(^;)
 ラストの決着は、逆転した役所広司自分自身を抹殺することでなかったのか。そうした決着方法しかボクたちには残されていないんだといわんばかりの、「コーヒーお持ちしますか」なのがますます怖いのだった。ボク個人的にはうじきつよしはそういう決着のつけ方をしますかと思ってしまったが、やっぱりああしかないでしょね。ん、あ、そっか、そっか、うじきの決着のつけ方は役所のそれと対をなすのだ。どちらも抹殺しようとして抹殺してしまったのは同じだったのだ。。。。。
 いまどういうわけだか受けているホラーものなどと同列で観てしまったら、確実に足下をすくわれてしまいます。

いいか、もう一度聞くぞ あんたは誰だ

  ★★★★☆  


2001年12月17日(月)



 三池崇史『オーディション』 (99 日)


 「村上龍原作は映画にしてもおもしろくない」というもっぱらの風評。
この『オーディション』にしてもやっぱりかと思わせる前半。三池崇史にしてはあまりに淡々としている。ところがどっこい後半から俄然三池崇史の面目躍如というところ。とにかく観てるだけで痛い。
 だいたい我が家では、スプラッター、オカルト、ホラーはご法度だから、ボクはこっそり観てます。まぁ、ボク自身もあまり好きちゃうけどね。原作はとうに読んでたから、痛くなるのは予想できて、だから一人なのをいいことに、しかもヘッドホンして観てたのに、いざ後半の痛いところでみんな帰ってきたから困ったやん。
 どばっ!がすっ!びゅっ!といった劇画チックなスプラッターでなくて、動けなくなった石橋凌に馬乗りになった椎名英姫が「きりきりきり」とにっこり笑って。。。だからタチが悪い。どばっ!がすっ!びゅっ!なら、またまたバカこいてぇーと、血が飛び散れば飛び散るほどに白けて鼻でせせら笑ってんだけどねぇ。「これはねぇ、骨まで簡単に切れちゃうんだよねぇ」と、あれはなんて言うのだ?チェーンソーじゃなくて、刃のついた針金を足首に巻き付けて、わたしこれからあなたのあしをせつだんしますとは言うてないけど、足を切断する遊び。怨念だとか、憎悪から足首を切断するのでなく、単なる遊びで足を切断する。このときの椎名の顔はあどけなくてとても素敵。
 実はこのあどけないことが、   なんだね。敢えてここでは書かないけど。
 後半、大杉漣が出てくるあたりから一気に盛り上がっていく。後半だけとったら★4つか5つあげちゃいます。前半の『失楽園』@みのもんた的つまらなさがねぇ・・・オーディションシーンでももうちょっとなんとかやってくれるかと期待したのに。とにかくこの映画は「きりきりきり」に尽きる!
 この『オーディション』あたりの村上龍好きなんだよね。『ピアッシング』だとか、『イン・ザ・ミソスープ』だとか。ちなみに村上龍著『オーディション』はmago's favorites にアップしてあるのでよろしく。そうなんだよ、映画の前半で、mago's favorites に書いたことが全く表現できてないんだよなぁ。原作、読んでなかったら、前半と後半の落差、まっしぐらなんだと思う。三池監督はそこを狙った前半、というのは考え過ぎか。

  ★★★  


2001年12月16日(日)



 アンソニー・アスキス『予期せぬ出来事』 (63 米)


 ハリウッド、といってもやっぱりこのころのハリウッドはさすがだなぁ。いまのハリウッドはもうほとんど観る気がしないけど、ほんとこのころのハリウッドはおもしろい! おもしろすぎる。
 いきなりオーソン・ウェルズだもん。なんだ、なんだ、コメディーかと思わせといて、しっかり人間ドラマに引っ張り込んでいくなんてのほんと最高よ。
 舞台がロンドンの霧に閉ざされた空港とホテルだけで描かれきってしまうのもなんとも言えずにいい。空港ロビーにしたってほとんどセットだろうし、大量のエキストラが、いかにも時代を感じさせてくれるし、何よりも映画というのはこういうふうに丁寧に作っていったんだなと思える。
 そしてやっぱり女優なんかなぁ、いまさら何を言わんかなのリズだもん、もう風格が違うってところ。すっかり周りを整えておいて、よっ!待ってました!とばかりに、リズとバートンがヘリコプターで現れる、なんて言うとど派手に思えるけれど、まぁ、ど派手じゃなくて颯爽と現れる、こういう主役の出てきかたというのいいなぁ。
 このエリザベス・テーラーとリチャード・バートンにルイ・ジュールダンがからんでの三角関係が、三つ巴演技というかバトルだな。そのどの組み合わせもinterestingなおもしろさ。このメインを軸に、マギー・スミス+ロッド・テイラー、オーソン・ウエルズ+エルザ・マルティネリの3組の男女の機微を描くいわゆるグランドホテル方式になっていて、このメインとサイドの力点の配分がすごくいい。いくらリチャード・バートンとリズの組み合わせでも、メインだけだとヘタすりゃタダのメロドラマになりかねないのとちがうかなぁ。そして忘れちゃいけない、でぶ婆ちゃん=マーガレット・ルザフォードがとぼけて味を出してむちゃいい。しかもきっちり締めるところを彼女に締めさせている。ちなみに、マーガレット・ルザフォードはこれでアカデミー主演女優賞を獲得してるのもうなずける。とにかくこれら俳優の演技力、話術で、ぐーっと引っ張って行ってる映画。またそういう引っ張り方で見せることができたんだから、いろんな意味で何やら羨ましい。
 それとミクロス・ローザの大時代的な音楽、これがまたいい。音楽の入り方なんかはさらに20年古いような気になってくる。良き時代のハリウッドで渋くきらっと光る佳作だね。

  ★★★★


2001年12月15日(土)



 ローレンス・カスダン『白いドレスの女』 (81 米)

 いやぁ、女ってホンっ・・・・ト怖いものですね〜 (水野治郎風に)

 きれいさっぱり忘れておりました。15年ほど前にいっぺん観てるんだけどね。最後のどんでん返しさえきれいに忘れてるんだからどうかしてるって。忘れてしまうような結末じゃないねんけどなぁ。アホです。
 これはビリー・ワイルダーの『Double Indemnity』(1944)のリメイクらしくって、便利ね、いまはこうしてすっと調べられるんだから。その元のは観てないから何とも言えないけれど、元がかなりしっかりしてたんだろうな。
 それでいっつも思うんだけれど、邦題が『白いドレスの女』 わからんでもないけど、これ、原題通り、ずばり『ボディー・ヒート』のほうがばっちりでしょう。蒸し暑さがただよってくる。蒸し暑くて、その上に緊張からの脂汗が加わって、さらにエロくさいセックスの真っ最中ですという暑さも加わって、きのうきょうの寒い日向きだね。
 あ、覚えてるシーンがひとつだけあった。キャサリン・ターナーがウィリアム・ハートの弁護士事務所に行ったときに、ブラインド閉めてしまってキスシーン。このブラインドを閉めるというのだけ覚えてた。じっとり汗で濡れてきそうな、あ、ばっちり汗だけじゃなくて、汁でも濡れきますですが、以前に観た時はこれはエロそうだとビデオ借りてきたのだった。はい、エロさはたんまり、ハイレベルで持続されてます。でもポルノじゃないな。
 汗といえば、ウィリアム・ハートが追いつめられていくところで、取調室から出ていくときシャツの背中がびっしり濡れている芸の細かさ。こうした芸の細かさがあっちゃこっちゃ、かっちり作ってるよなぁ。
 その後半は前半のエロさから一転心理戦に展開されていく。このサスペンスの緊張感もいいねぇ。かつての朋友の刑事(J.A.プレストン)と検事(テッド・ダンセン)に追い込まれていくくだり。この検事がまたいい。行きつけの茶店で」、必ずアイスティー2つ同時に注文するなんて緊張の中で粋なんだよね。ジーン・バリー風のステップも踏んで
 ところで、爆弾男、ミッキー・ロークだったんだぁ。若ぇ〜

 こわいですねぇ、最後にマティーが暗闇の中に アイラブユーと残して消えていきますねぇ、そしてばぁーんっと、こわいですねぇ。。。。
ではあしたまたおあいしましょう、さよなら、さよなら、さよなら

★★★★☆  



2001年12月14日(金)



 アニエス・バルダ『アニエス・vによるジェーン・b』 (87 仏)


 アニエス・バルダはかの『シェルブールの雨傘』のジャック・ドゥミの嫁さん、そしてジェーン・バーキンはかのセルジュ・ゲンズブールの元嫁さん。嫁さんどうしがよって作ったドキュメンタリータッチの映画と思ったらもう大変。この女2人、タダモノじゃねぇ。
 アニエス・バルダというのは、ボクが高校時代、というからもう30年以上前に観た『幸福』の監督。この映画は一見、ごくふつうのメロドラマであったけれど、その映像のきれいさにびっくりした、というか、ボクのフランス映画萌えだった。
 かたや、ジェーン・バーキンはというと、アントニオーニの『欲望』でヘア出したヌードモデルで映画デビュー。でもボク、『欲望』を観たときそれがジェーン・バーキンだと知らずに観てた。しかし調べてみたら、このジェーン・バーキンという女、見た目よりすごい人生だなぁ。
当時売れ売れのルノー・ベルレーと『カトマンズの恋人』で恋人やってたんだ。全然知らなかった。これはくだらない映画で、ただのルノー・ベルレーを使いましたというだけのしろもの。なんでそんなのを覚えてるかというのはおいといて、それでもこの『カトマンズ〜』にゲンズブ−ルも出てたってんだから。
ゲンズブールとも別れたあとに、くっついたのが、なんとこないだ書いたばかりの『ふたりだけの舞台』の監督ジャック・ドワイヨンだってんだからどないなっとんねん。

 前置き終わり。
 そんなヌーベルバーグずぶずぶの女二人が作ってる映画。といってもこの撮影でジェーン・バーキンちょうど40歳を迎える。40歳なんて、おばはんやんというのは、君、まだケツが青いねん。40代の女はこわいよぉ。身をもって語る40女の怖さ。(また横にそれてきてるなぁ(^_^ゞ) 本題に戻って。。。
 俳優と監督というそのあまの立場に立って、そのままで、映画を作っていく二人の会話が基本の流れ。そこに、何本も織込まれるショートストーリー。これが、さすがアニエス・バルダと思わせるくらいいいのだ。文句つけるとしたら、きれいに撮りすぎ。アニエス・バルダに限ったわけではないんだけど、こうした映像作家と言われる監督たちは、絵画にすごく影響されているのだなと思う。絵画に対しての造詣がバックボーンにあって創りだされる映像なんだとあらためて感じてしまった。だから観る側に対してもある程度のレベルを要求されるわけ。
 ストレートに絵画の中の人間に、生身の俳優を置き換えて、その絵画からのインスピレーションを見せていく。たぶん、あれはマハでいいんだよね、違うたら恥ずかしいなぁ、そのマハをジェーンに置き換えて、まずは着衣のマハから始まって、次に裸のマハではジェーンの足の指の先から、彼女の体の線に沿ってなめるようにカメラが動いていくのには思わずため息もれてしまう。これがスタートで、「何なんでしょ、この映画?」というところか一気に二人の世界に引きずり込まれている。
 もちろんゲンズブールとジェーンのフィルムもサンプリングされるし、二人の息子シャルロットも出てくる。うーん、そうだなぁ、ジェーンとゲンズブールの関係を観てると、メープルソープとパティ・スミスを思い浮かべてみたりもしてました。
 『百一夜』観たい。

★★★★☆  



2001年12月13日(木)



 ミシェル・ドビル『読書する女』 (88 仏)


 読書する女が『読書する女』を朗読する。二人のベッドで。そして「読書する女」になっていく。つまりはこうね。二人のベッドで男が女に本を読んでいく。「いいわよ、それなら短いから」と読み始めたのが『読書する女』
 読書する女、ミュウミュウは、本を読んで聞かせるという仕事を思いつく。あ、こういうのってアリなんだね。朗読を聞くのというのは楽しい。自分が読んだことのある本ならなおさら楽しかったりする。ボクも年老いて金があったら、若いきれいな声の女に頼んで本を読んでもらおう。
 さて、読書する女を雇われて出向いていくのは、半身不随の少年、自称100歳という老婆、女がいない会社社長、子守がわりに子どもに本を読んでやってくれという女。。。ミューミューは次から次へとその家に出かけていく。その軽快なフットワークがベートーヴェンのピアノなんたらに乗ってすごくいい。町中を軽いフットワークで歩いていくミュウミュウの姿が思いっきりいいのだ。そして、服のセンスがもう最高。あれってとても日本人には真似ができない着こなし。頭から足の先まで青でコーディネイトされた服のセンスがむちゃくちゃおしゃれ。これぞフランス映画ってところ。
 で、これぞフランス映画というもうひとつは、そこはかとないエロチックさ。モーパッサンというのはあんなにフェチだったんだ。少年に読んで聞かせるくだりは、はい、興奮します。当然、半身不随の少年が興奮しないわけがなく、少年の目は、露出したミュウミュウの膝に釘付け。それがやがて徐々に移っていく。
 女のいない中年社長は、当然のように新手の風俗と勘違いする。考えようによっては当然といえば当然。二人だけの家の中、またこの家のデザインがもうフランスー!というかっこよさ、ボクでもむらむらむらと。。。。をい。それがどうなるか、は、自分で観るべし。この中年社長とのエロチックなくだりもすごく好きだな。
 自称100歳の老婆は旧貴族のようでありながら、読んでくれとさしだす本は、マルクス、レーニン。ひどくアクが強くて、それに輪をかけたようなメイドがからむ。その二人の間にも女のセックスの確執、というのはたいそうか、要はセックスなんだよ。
 そして、最後は、うひゃ、ボクも爺になったら、アレの類を読んでもらって、にんまりと。
 とにかくねっちりどろどろっとしたのが好きなんだけれど、逆に『読書する女』のようなさらっとしたのもボクには絶対必要。すごく好きでもう何回か観てます。 

「君はキスをするときにわたしに耳を向ける。そして空気にキスをする。」

  ★★★★★  


2001年12月12日(水)



 斎藤久志 『サンディドライブ』 (98 日)


 それを狙ったんだろうけれど、終始だらぁーんとしていて、『サンディドライブ』というにはドライブ感がまったくない。いろいろと探ってみたよ、いいところを。ああ、でもついてけない、このテンポの悪さには。監督が斎藤久志であるというよりも、塚本晋也の名前が先に立ってしまって、『サンディドライブ』も塚本晋也=『鉄男』『東京フィスト』で観てしまうから、あの駆け抜けるスピード感はどこに消えたんだという拍子抜けが拭えないからなのか。
 監督自身が《 1.説明がない 2.登場人物がストレートに感情を云わない 3.カットが長いの3点から「よくわかりにくいと云われる」》とパンフに書いてるらしいけれど、わかりにくいことはない。塚本晋也のぼけまくってる味が全編を通してぼけまくっていて、それが噛めば噛むほど味が出てくる。ところがどうもばちっと来ない。唯一、どんぴしゃ合ったのは、あ、この話このままで終わればベストだなと誰もいなくなった車の中の長回しだけ。
 「俺がやったんだ」という塚本のことばにしろ、ぼけた味が逆に効果的なのだが、そう塚本が何度も自分自身に言い聞かせて、シンジのところに強盗に入ったときに、これもまったくリアルさがない。緊迫感がない。この緊迫感のなさが全編を覆い尽くしていて、観る側には妙な安心感がある。ところがだ、叩き起こされたシンジの顔が笑っている、というか芝居になってない。これではその逆説的な緊迫感がぷっつり切れてしまうのだ。こんなシーンがいくつかあったのではちょっとねぇ。
 さらに音録りの悪さ。より自然感を出す意図なのかもしれないけれど、「・・・・」の多い会話であるに関わらず、会話そのものが聞き取りにくい。まさか会話にならないことば数の少なさをリアルに表現しようとしたのでもあるまいに。しかし肝心なシーンでの会話まで意味のない「・・・・」に聞こえてしまう。劇場で観るならまだしも、家のビデオで観たボクには辛すぎる。
 例えば風呂場のシーン、風呂の外から唯野未歩子が話かけるシーンだ。ここで鏡の中に風呂の外に立つ唯野未歩子と塚本晋也の裸の背中の長回し。この構図はいいのだけれど、だからといってあれだけ長いのも飽きてくる。さらには風呂の外から話す唯野未歩子の声はしっかり聞き取れるのに、風呂の中に入ってきた途端、何をしゃべっているのか、非常に聞こえにくくなる。このシーンというのはすごく大事なシーンであるのに。そう、ここで唯野未歩子が塚本晋也の背中を流すのだけれど、あの背中の流し方はないなぁ。これも緊迫感がぶち切れられてしまう。
 このボソボソリアル感、時間の流れの遅さに、思わず、『萌の朱雀』と比較してしまっていた。『萌の朱雀』のほうはなまじ海外で賞とったりしたものだから、あっちこっちで叩かれてるけれど、どちらもそれなりに面白い。とくにこの『サンディフィスト』のアイロニカルな話しの展開はすごくいいだけになんだかもったいないような。
 ぼけた味の緊迫感のなさ、ボソボソリアル感というのは両刃の剣になってしまう。観る側にとってどちらの刃で斬られるかにどちらにでもころげる映画だなと思った。

  ★★☆  


2001年12月11日(火)



 セオドア・ウィッチャー『ラブ・ジョーンズ』 (96 米)


 このサントラ盤は出てすぐに買って、いつも車の中で聞いてた。ブレイクする直前のLauryn Hillだとか、Xscapeのあの"In The Rain"が入ってたり、あのあのEllington & Coltraneの"In A Setntimental Mood"だ。これ、昔よく回したなぁ、昔って30年前だけど、夜遅くになると無性に回してみたくなって、ピロピロピロロンというEllingtonのピアノがリードしてブァブァブァブァババババーとトレーンのサックスが追っかけて入ってくるの。ちゃんと自分でもっとけよ。これマストだよなぁ。映画の中でもはじめにダリウス(ラレンツ・テイト)が、ニーナ(ニア・ロング)を口説きにかかる詩の朗読の部分がサントラにも入っていて、一気に気分なんだけどな。とにかくそのサントラCDはよく車でかけていたのに、「まごさん、これいいねぇ」ってそのまんま裸で持ってきやがって、早く返して下さい! うちにはそのCDのケースだけが寂しく残っておりま。
 で、映画の方だけど、ブラックムービーって思って観たからこけました。とりあえず、こういう切ない話には黒い音楽がよく似合うということだけ確認。いちおう、かの"In A Setntimental Mood"が挿入されるところは胸キュンとはなるけど、それとてこの曲へのボクの思い入れの強さからだけで、欲を言えば、もっともっと決め決めのところで使って欲しかった。やっぱり口説くのならRアンドBだな。
 ちょいとお上品に気取りすぎってか、9時台、10時台のトレンディドラマ。もっと猥雑であってほしいんだよ、ブラックムービーなら。でも考えてみたら、この映画が出た97年あたりからは、さすがのHiphopにもストリート性がなくなって、"The Miseducation"でLauryn Hillがグラミーとったのも98年だもんな。そのストリート性の削除と引き換えにブラックミュージックが一般受けするようになったってこと。そうなんだよ、この映画にもストリート性が感じられないのだ、ということはもっと一般受けしてもいいわけだ。つまりブラックムービーという括りもなくなって、ブラックムービーと意識すること自体もはや遅れているというべきなのか。チープな、チープってのはボクの場合、褒め言葉にもなるんだけどそうじゃなくて、安易なつくりのアメリカ映画の真似したっておもろくないやんねぇ。をっと、これもアメリカ映画だったか。
 でもブラックムービーなどと意識せずに、ごくごくふつうに映画観るなら、色だってきれいだし、わけわかんねぇと嘆くこともないだろう。胸キュンになりたい人には絶対お薦め。
なんだかんだって、ブラック好きだから仕方ない。。。。

  ★★★  

 
あら、このニーナのニア・ロング、先週の『ソウル・フード』の末の妹じゃないの。それくらい気がつけよ(^_^ゞ>自分
 ちなみにウーピーの『メイド・イン・アメリカ』でもウーピーの娘です。


2001年12月10日(月)



 デレク・ジャーマン『ラスト・オブ・イングランド』 (87 英)


 この徹底的に構築された映像というのには正直びびってしまう。実際に映像勝負の映画だからね。デレク・ジャーマンに関して難解だとか、前衛だとか、言われているけれど、ボクは超現実主義(シュールレアリズム)というよりあえて極現実主義と勝手に名付けてしまいたいと思う。それくらい極めて現実を表現しすぎていて、ここまで突きつけられると怖いのだ。
 それでデレクが表現しようとしていることのどれだけがボクがわかるのかといえば(シェアできるじゃなくて、うんうんなるほどそいうことなのねというわかる)、恥ずかしながら全然(笑) ということはやっぱり「難解ね」と言うてしまってもいいのかも。
 じゃ、難解だから、退屈なのかというと、全然そうでなくておもろくてしかたがない。わかる、わからない以前の原初的に迫ってくるものがある。その一点で辛うじてデレクとボクがつながっているというおもしろさだ。この迫力ってのはそれはすごいよ。ボクが観た映画の中で断トツのトップでしょ。
 映像の美しさというのは半端なもんじゃない。だからといってうっとり見とれてられるような映像でない。それに絡んでくる音楽というのも半端じゃない。ただし音が入ってホッとするところがあるのも事実。だぁーーーっと無音のまま流れて行くシーンのほうが実は怖い。普通じゃないね。普通は恐怖心などを煽るために音が使われているところがあるけれど、逆に音がないために、こちらの落ち着きがなくなってしまうのだ。この落ち着きがなくなってしまうというのは、意味不明であればあるほど落ち着かない。恐怖であろうが、感嘆であろうが、それが何に由来するのかわかっていればいるほど、観る側は納得し共感することもできるし、批判することもできる。ところが正体不明のものがじわじわとしみ込んでくる落ち着きのなさ。確実に侵入してきてるのはわかるのにそれがなんであるのかわからないから落ち着かないのだ。
  はっきり言ってお薦めできません。(そういうと観たくなるもんでしょ(笑)) 思うに難解だという以前に、イメージを自分の中で紡ぎだす、再構築する作業を怠っていないか。どうしてそのような作業をする必要があるのだ、わざわざ映像としてイメージを提示されているのに、どうして観る側が自分でイメージを再構築しないといけないのか、という人にとっては退屈きわまりない映画だと思う。それでもユニオンジャックの上でのファックなんかひどく直線的だと思うんだけどな。ボクはラストのシーンで、一枚のを絵を想い浮かべてたけれど、実はタイトル"Last of England"というのは、この『Last of England(最後の一瞥)』からとられたという。ボクはボクで全然違う絵を思い浮かべてたのだけれどそれもまた良し。そして"Last of England"というのは文字通り『大英帝国の最後』でもあるし、大英帝国だけじゃなしに、『世界の最後』と思うのはボクだけじゃないだろう。
 ちなみに冒頭で襲い掛かって姦ってしまう絵画は、これのデレクの前作、16世紀イタリアの画家『Caravaggio』の「Profane Love」←ネットで探したが見つからず。電子化されたもの持ってる人いたら下さい。

  ★★★★★  


2001年12月09日(日)



 石井輝男『ねじ式』 (98 日)


 つげの漫画を映画化するっていうのはやっぱり大変なことなんだなぁとつくづく思う。それとやっぱりボクにとってはつげの漫画のイメージが強烈すぎる、染付いてしまってるので、これまでずっと避けてきた。『ゲンセンカン主人』しかり、『無能の人』しかり。それでも避けてばかりいるのもアレだし、アレってどれなんかようわかりませんが、たまたま目の前にあったのが『ねじ式』だっただけ。
 『ゲンセンカン主人』(93)にしたってそうみたいだけど、この『ねじ式』にしても、あまりに原作に忠実すぎるってところがある。崩しようがないといえばないわけだし、いくつかをリミックスさせる方法もあるかもしれないけれど、石井監督自身が
「大変におそれ多いことなんですが、どこまでできるかはともかく、暴走せずに許される範囲でぶつかって挑戦する気持でやってみたいと思ってるんです。(中略)つげさんの作品は、コマが計算されつくされて描かれているでしょう。ライティングも逆光線はきっちり描かれているんで、僕のほうはそんなにいじくれないですよ。(中略)だからぎりぎりなものが原作としてあるんだから、変な付け加えはよくないと思ってるんです。」(『夜行』第18号)
 と言う。
 これてすっと読んでたら、とくにつげの原作を読んだこともない人が読んだら、へぇーそんなにすごいのかと思ってしまうでしょ。原作のつげってどんな人? あたし浅野忠信が出てるからって見ようと思うのに、って人ははじめからやめときましょう。吐きます。あら、話がずれた(-.-;)
 いや、ボクの思うのは石井輝男監督って人はすごい人だなぁと思うの。1937年生まれのつげ、あ、つげさんです(^_^ゞ そのつげさんより一回りも年上の1924年生まれ。しかもキャリア的にはすごい監督 ? 石井監督だと意識もせずにその昔にオールナイトで『網走番外地』や、『徳川女刑罰史』に夢中になってたんだけど、高倉健を「健ちゃんねえ、彼も若かったですねえ。今から見たら子どもみたいな顔をしていましたね」言ってのけるほど ? そんな石井監督をして上に揚げた発言をさせる。これって、つげ漫画のすごさというのもあるだろうけれど、それ以上に石井監督の凄さを感じてしまう。だから文句や注文はあるんだよ、でも文句なんてとても言えません。
 それと、この『ねじ式』に賭ける石井監督の執念のようなものが表れていると思う。実は『ゲンセンカン主人』もこの『ねじ式』と同様に、4話のいちおうオムニバス形式らしいのだが、つまり『李さん一家』、『紅い花』、『ゲンセンカン主人』、『池袋百点会』の4話。ところがこの原案にはなんと『ねじ式』が上がっていたという。な、なんと贅沢な(^_^ゞ ところがクランクイン直前に、『ねじ式』が外されてしまったといういわく付きなのであった。思うに、それって正解だったのかも。腹8分目というけれど、『ねじ式』も加わった5話だと、もうおなか一杯になりすぎて死んでしまうでしょ。
 はい、ここまで前置きみたいなもんです。その石井監督のあまりに思い入れの強い『ねじ式』なのであります。
 で、いきなりやってくれます。がちーんと一発、褌の女の尻がこっちに向けられたときには何が始まるんだと、えぇーーっ(@_@;) まさにブレヒトのV効果。ところが意外と静かに始まるのだった。
 「私は、映画化するのであれば、『別離』のほうを映画にしてほしかった。映画の『無能の人』の中に『別離』が取り入れなかったのは残念でしたね。」(『夜行』第18号)と菅野修がつげさんとの対談でも言っていたその『別離』が映画になった。これで一気につげさんの世界にぐいっと引っ張り込まれる。「ボクの場合、やはり原作のイメージは大事ですから、カメラの前でガタガタ震えちゃうのは困るけれど、多少演技力がなくたって普通に歩けるんならいい」(同) と、普通以上に歩ける浅野忠信を普通に歩かせてしまった。感情を殺したボソボソとしたしゃべり、演技をするんでない演技がいい。かの人が「霊界!」と言いだしやしないかと冷や冷やしましたがね。。。
 「今にも消えてしまいそう」で消えてしまわない、消えてしまえない、つげワールドは、次に『もっきり屋の少女』の前に現れる。ここのつぐみ、こういうタイプむちゃ好きなのね、ボク。杉作J太郎、むかつく。つぐみの乳首、つまみやがって。んがぁ〜〜っ。ちょっとだけ文句言わせてね、もっきり屋の提灯、いかにもさっき作りましたって、もっと汚しかけてくれい。「頑張れ、チヨジ」と叫びながら、酔っ払いのチキやんはN浦へ、をっと、チキやんでなかった(^_^ゞ 『網走番外地』だぜ、『やなぎや主人』だぜぃ。これです、これ。『ねじ式』が先の『ゲンセンカン』に入ってたら、ひょっとしてこの世になかったかもしれない。もうこの話、むちゃくちゃ好きで、この『ねじ式』でもベストと言い切ってしまいますよ。あ、非のうちどころがないとはこのこと。網走をイメージさせるのに、石井監督をおいて他にないでしょ。いやぁ、ほんとこの話は、最初から最後まで好きなんだわ。
 そして、頭上にヒコーキも飛ばずに、メメクラゲが襲ってくるのだった。やっぱ、清川虹子だねぇ。すごい存在感。完全に浅野忠信を食ってしまっております。が、あれは清川虹子をおいてほかにないでしょ。『ねじ式』はつげファンそれぞれに思い入れが強いし、ほとんど話を覚え込んでしまってるから、うんうん、それで次はどういうふうになるんだ、という調子で見るわけでしょ。逆に、『ねじ式』って何って人には、原作そのものがシュールだから、なんなの、これ?となってしまうわけで、それでも何年か越しに『ねじ式』に賭けた石井監督に敬意を表しておきます。

  ★★★★☆  

 


2001年12月08日(土)



 ダニエル・シュミット『ヘカテ』 (82 仏・スイス)



 まんまとはめられておりま。。。。やっぱり『ヘカテ』でしょ。これは異常にヤバいのでおいときたかったんだけど、もう。しっかし何か書きにくいなぁ。ええいっ、ままよ!
 いちおう、「ヘカテ」からお勉強。めんどくさいので、無断引用
 《ゼウスさえも一目置く存在で、天、地、海を支配する力を持っていた。人間に恩恵をもたらす女神としても崇拝されたが、次第にその地母神的性質から、冥界と関係が深い女神へと変遷していってしまう。月を象徴し、魔術を司る女神としてしばしば様々な動物に変化した。》
 ふむふむ、これ読んだだけでも怪しい。映画の中では
 「犬を餌とする地獄の女神」
そしてこの「ヘカテ」は・・・・な、な、な、ゾクゾクくるだろ。ヤバいだろ。そのヘカテ=クロチルドがローレン・ハットン。ハリウッドの女優だけれど、これがまた妖しいのだ。だいたい一番初めに女優を見せる方法というのがひとつの勝負どころだけれど、ここで胸がざわざわしてくる。まず風にスカートがなびいて、それからブロンドがなびいて振り返ったときには、をっと一目惚れ。ベルナール・ジロドーが一気に落とされるのも頷ける。このベルナール・ジロドーもすげえハンサム男で、もしオレが女だったら、あいつとかあいつとかなんかより、こいつに行ってしまうだろうな。頭の船の上の優男ぶりが際立ってる。その優男がヘカテの手にかかってどんどんやつれていくのを、自分に置き換えて観るというのは、あ、やっぱりバカです。
 その「ヘカテ」というターム自体が怪しいのに、これがアラブ世界を舞台にしてるところが一段と怪しさが増していく。ちょこちょこと挟まれるアラブ世界のカットバックは、ベルナール・シュミットのドキュメンタリー作家としての手腕なんだと思う。ドキュメンタリーといえば、ラスト近くで戦争のセピア色のドキュメンタリーフィルムが流れる。ふつうね、こういうフィルムというのは、どうして戦争を持ちだして何を言いたいんだいと、いやらしさが勝ってしまったりして好きじゃないなけど、そのいやらしさがなく淡々とした時代の流れだけを告げているというのがいい。あ、話がぼんと飛んでしまったけれど、アラブ世界の映像も、淡々と描かれる分すごく効いてくる。必要以上の怪しさが演出されていない。なかにはくどくらいアラブぅーと演出するのっておるでしょ、それってセンスの問題なんだろなぁ。
 その話で行くと、蛇使いが出てくるシーンね、ジロドーがもうパニクってしまってるシーン、あそこの音楽の使い方も見事。アラブ音楽とジャズのクロスフェードが幾度か繰り返されて、観てるこっちまでがぁーっと不安定なところに持っていかれる。そこへ「犬を餌とする地獄の女神」 ちょっとここ思いだしただけでもたまりませんです。
 それで最後まで話はとっておいたんだけど、やっぱり光だね。いや、光と影。照明の当て方がとにかく抜群。いやほとんど照明に見とれておったって。ヘカテが「月を象徴し、魔術を司る」というのが、この照明見てたら、なるほどね。

  ★★★★★  


2001年12月07日(金)



 フランソワ・トリュフォー『華氏451度』 (66 英・仏)


 燃やされる本が何かチェックする楽しみ・・・をいをい(-.-;) そんな惜しげもなく燃やしてしまうんだったら下さい

 これはとても好きな映画で、頭のとこ?なんで頭のとこなんだか(笑)?何度見たことだか。もうあのバカこいたかつては消防隊、いまや焚書隊の出動の大袈裟さがむちゃ好き。いくら66年だというても、あれはないでしょモンのバカくささが受ける。焚書儀式もなかなか素敵。ぐっさりこれからオペやりまっせぇって調子。
 それとあのモノレールだね。駅に到着するたびにタラップごときが下りてきて、階段ですよ、階段。エスカレーターじゃないです。そのくせけっこう頻繁に走ってるの。そういえば、モノレールの窓から見える外の景色も、いかにもがなでいいのだよ。(小田急向丘遊園に行く専用のモノレールがこれにそっくりだという情報有り)
 家の中では双方向テレビ、をっとテレビは補助的に部屋に置かれてたり、本の隠し場所に使われていたりで、メインは壁掛け100インチだぜ。そのくせ照明器具は、まさに60年代っぽくて、もう時代感覚むっちゃくちゃ。このむちゃくちゃな時代感覚がたまりません。
 極め付けは、エイトマンよろしく空飛ぶ偵察隊。人間がジェット噴射で空を飛んでるんだぜ。その偵察隊が飛んでいる下には手漕ぎの舟だよぉ。モーターボートじゃなくて、その手漕ぎの舟でモンターグ(オスカー・ウェルナー)はパドルひと漕ぎで脱出するってんだから。
 モンターグ脱出後、人気のない住宅街を、スピーカーから「殺人犯が逃亡中」とアナウンスして回ったあとに人がぞろぞろと出てくるなんて不気味以外のなにものでもない。そしてテレビでは偽モンターグ射殺報道がされる、それもヘリコプターからの銃撃という手段で。これって、どきっとするよね。しっかり同じことをやってしまってんだから、笑っていいともじゃなくて、笑うてられまへんで、マジ。
 要はSFXだとか、CGだとか駆使したところで、ボクはずっとこのバカこけたSFもどきの映画のほうがよりリアリティーを感じてしまう。それはたぶんにSFXを見せるというところに力点がおかれてしまって、本筋からかけはなれてしまってるんじゃないかと思う。原作はレイ・ブラッドベリーの53年の同名のSF。これは読んでないのだけれど、ナチのユダヤ狩りが暗示しているというのは明らかで、そういう意味で、このトリュフォーの『華氏451度』でのバカくささは、カリカチュアしてあまりあるもんだと思う。
 ラストでブックマンたちが重なるように朗読していくのはもう鳥肌もの。これを大島は『新宿泥棒日記』でパクったのだな。本を口伝していくとこなんてエエんだよねぇ。そうそういちばん最初のタイトル流れる?ところからいきなりはまってくれ給え。
 あ、話の本筋は自分で観ましょう。そうしましょう。

  ★★★★★  


2001年12月06日(木)



 ジャック・ドワイヨン『ふたりだけの舞台』 (87 仏)

 原題が『Comedie!』で、邦題ははじめ『彼と彼女のコメディ』だったのに、いつのまにか『ふたりだけの舞台』になってしまってた。確かに、彼女=ジェーン・バーキンと彼=アラン・スーションのほんとにふたりだけしか出てこない映画。ほかに出てくる生き物といえば、プールに浮かぶ蛾だけ。だから「ふたりだけ」というのはいいんだけど「舞台」というのもなぁ。
 丘の上の一軒家、これがいいんだよねぇ。日本だと豪邸なのかもしれない。小さなプールつきで、1階と2階合わせて220m2などと中で言うてたから、決して大きな家でもないでしょ。この家がまたいいんだわ。こういう家に住むことができるというのは羨ましい限り。そこにかつて彼が住んでいて、そこに新しい彼女と一緒にやってくる。
 ところがその家にあったのは、過去の女のにおい。それを敏感に察知した彼女との間のごったごたに終始。まさにフランス映画ぁぁって感じで、アメリカ映画大好き人間には、けっ、糞みたいな映画だぜって。ボクはこういうねちねちしたほうが好きです。金もたいしてかかってなさそうだし。
 で、男と女の間で、ほれ、よくやるんだけど、微妙な綱の引き合いというやつ。勝手に自分たちで役回り ? 例えば、「きのうの晩にひっぱりこんだ女」など ? を作りだして、それにはまっていって、その堂々めぐりでどうしようもなくなるパターン。恋愛ががぁぁーーっと昇りつめていくときの心の揺れが、一歩間違ったら、はい、もうおしまいだねって終わってしまうんだけれど、あー、やっぱりダメかと匂わせては、くいと引き戻してみたり、その駆け引きじゃないな、そんな駆け引きやりあうほどの余裕なんてなくて、やっぱり微妙な揺れだね。この揺れって役者が上手くなければ成り立たない映画だなぁとしみじみ思ってしまったよ。さすがジェーン・バーキンってところ。
 監督のジャック・ドワイヨンというのは『ポネット』でやっと知られるようになったみたいだけど、ボクはまだ観てない。そのうち探して来よ。

  ★★★★  


2001年12月05日(水)



 フリドリック・トール・フリドリクソン『コールド・フィーバー』 (94 アイスランド)



 単純におもしろいです。永瀬青年がアイスランドで死んだ両親の霊を弔いに出かける話。だが、厳冬のアイスランドにあの格好でよく行くよな、ったく。
 出てくるの、出てくるの、怪しげな連中ばかり、が、しかしそれがまともなわけだから異様にシリアス。以下、ネタバレ列挙
1 訳がわからず乗せられたバスは温泉巡りのツアーのバスだったり、このバスのガイドが妙に明るくて変。
2 タクシーに乗ると、途中でタクシーの運転手は、ちょっと用をしてきていいかと、ほっぽりだして、何やらわけのわからない宗教の集会をやっている。
3 やっと拾ってもらったトラックの荷台には10数人の男が立っていて、寒風の中走る荷台で歌い続けている。
4 「霊的な絆」で結ばれているのだと、凍てついた車を売りつけに来る女。どういうわけだか、その女のTシャツには霊的とはほど遠く「PIZZA」と描かれてある。
5 命からがらたどり着いた家で、やっと食事にありつくと、わけのわからない肉のかたまり「みんなは頬肉がいいというけれど、わたしは眼球がいいね。プロテインが多い。」と見ると、オヤジのむさぼりついている肉からゼラチン状の糸を引いている。
6 葬式の写真を集めているという女は他人の葬式の真ん中に永瀬正敏を立たせて写す。
7 壊れてかかりぱなしのカーラジオからはアイスランドの音楽ばかり流れ神経を苛立たせる。
8 誰も通りもしないような道で車が故障(なんでそんなとこをわざわざ走っていたのか不明)。厳寒の中での車中泊。次の朝、目覚めるとブリキの太鼓バリの少女が叫ぶと、氷河は崩れ、故障した車は息を吹き返す。
9 拾ってやったヒッチハイカーは音楽がうるさいだの、ションベンしたいだの、腹へッタだのうるさい。揚げ句に入ったドライブインで強盗殺人までやらかして、最後には永瀬正敏の車まで強奪。
10 行き着いたところが、カウボーイ本部のホテル。どいうわけだか極北のカウボーイの祭典があって、どこから湧き出たのか、カウボーイ姿の人間が集まってくる。
 と、こんなふうにむちゃくちゃなのだわ。真冬の恐山を何倍にも拡大したような、それくらいではすまないな。アイスランドという島全体が恐山のような。
 とにかくそのカウボーイホテルで、「黒い死」と言うアイスランドの地酒を飲まされて、へべれけになったところで、やっとアイスランドの爺ちゃんに巡りあって、目的の地まで爺ちゃんと二人で行けるわけだが、そのころには青っちろい永瀬青年は羊の肉にかじりつく男・永島になってたといました。
 えっと、話はほとんどアイスランドなので、永瀬青年はずっと英語でしゃべっている。さもなくば、無言。その中で、ふっと口を突いて出る日本語「腹へッタなぁ」「寒すぎるぅ〜!」がとてもリアル、わかる、わかる、そういうときはつい日本語になってしまうもの。もう1ヶ所、二日酔いで寝ているところにかかってきた電話に「もしも・・・ヘロぉー」はリアルすぎ。
 ちなみに、始まりは舞台は東京です。外人が撮った日本映画ってのも見モノです。をっと、永瀬青年の爺ちゃんは鈴木清順翁なのだった。
 見るのだったら真夏に見ましょうね。



2001年12月04日(火)



 ピーター・グリナウェイ『ZOO』 (85 英)



 トップのシーンで犬を引きずっている男が二人。その引きずり方が何やら芝居がかっていて、何かやってくれるぞと期待わくわく。そして、そのタイトルバックからいきなり、マイケル・ナイマンのアップテンポの音楽が急き立てていく、海老の足のようにざわざわざわざわと。怖いとか、グロいとかじゃなくて、ナイマンの音に急き立てられるのは観てる側の心臓の鼓動、確実に心拍数が上がっていくのがわかる。高血圧の人、要注意! およ、『ピアノ・レッスン』も『髪結いの亭主』もマイケル・ナイマンだったのね。この『ZOO』では思いきりツボにはまっとります。この音のやばさは全編を通じてキープされている。
 そして、もう堪忍してぇ〜なのは、キューブリックも顔負けするほどの左右対称の映像のオンパレード。これでもか、これでもかの左右対称に攻めまくられて、終いにはポーズまでかけて、フラミンゴの数まで勘定したじゃないの。さすがに儂ら以上に身勝手なフラミンゴまで制御することはできなかったようだが、をー、をー、やっとるやっとると、話の流れなどそっちのけで楽しんでる始末。
 へ?話のストーリー? なんやようわからん。なんでカタツムリなんだか、なんで海老なんだか、なんで烏賊なんだやら、ようわからん。辛うじてわかったってのは、なんでこんなに左右対称にこだわるのか。をー、そうなんやぁ、なるほど、なるほど。それよりもカタツムリ、海老、烏賊の動きがすごくおもしろい、美しい。もう「動物わくわくランド」の世界よ。海老の脚の動きなんてもう最高よ。これがまたナイマンの音とばっちり。
 をっと忘れちゃいけない。これ、きっと動物愛護フリークの人は、いきなり激怒しますでしょう。右後肢がなくなったゴリラが出てくるのですね。まさか映画のために切り落としたりするわけないでしょ。でもそれが人間だったら、演技やら何やらで何とかごまかしも効くのだろうけれど、どういうふうにゴリラの後肢を失くしたのやら。このゴリラの三本足が伏線になって、そこに左右対称が絡んでくるわけ。ここらは欠損の美学、そして対称の美学のせめぎ合いと言ってもおかしくないところ。そこに腐敗の美学?林檎が腐っていく、海老が腐りながらも飛び跳ねる、シマウマが干からびていく、エンゼルフィッシュがみるみる干物になっていく?が絡んできて、もうシュールシュール、何やら考えるのも面倒くさくなってきて、流されるままの2時間。
 ネクロマニアや、グロもん好きな人には「なんじゃい、これ」と拍子抜けするかもしれないけど、こっちゃの感性を弄んで欲しい人にはもう最高でしょう。まるで冒頭のワン公になった気分よ。
ちなみに原題『A Zed & Two Noughts』とはひとつのZと2つのO、つまりZOO

  ★★★★  



2001年12月03日(月)



 ジョージ・ティルマン Jr.『ソウル・フード』 (97 米)



 ブラック・ムービーとなると、とんと掛け値なしになってしまいます。理屈でなしに生理的に大好きなもんだから、これと同じのをヤンキーがやってたら、5分と経たずに見るのやめてます。マジ、ほんと。そうか家族の崩壊を楽しみに邪悪なベクトルぎんぎんね。もうとんでもない偏見(^_^ゞ
 とにかく、ブランドン・ハモンドが可愛い。なんでブラックのガキんちょってあんな可愛くて、かっこいいんだろ。母親のマキシーン(ヴィヴィカ・フォックス)と踊るところなんて、すーっと様になってしまうんだから、あれが白いガキんちょだったら、もう小憎たらしくしか見えないのだよ。どのシーンだったかなぁ、ブランドンが口まねで取って返すのがあったんだけど、あれってほんとブラックは小さいころから鍛えられてんだよね。だから白いのがいくら真似してもラップできないとこでしょう。川沿いでマキシーンと喋りながら歩いてるシーンだって、なんであんなストリート系のかっこが決まるんだろ。フリースのひもつき帽子も決まってんだよな。それとちょこっと出てくるブランドンの妹も可愛い。頭をくくってもらってほんとにブラックのガキんちょは可愛い。
 肝っ玉ママのイルマ・ホールって典型的ブラックかあちゃんの雰囲気ぶんぶんで、彼女の作るソウルフードは美味そう、だけどあんなのをしょっちゅう食うてたら豚になるはなぁ。
 バネッサ、元ミス・アメリカだからもっと派手っぽく出てくるのかと思ってたら意外に地味で長女の弁護士。一発バシっとバネッサに歌わせるのかと思ってたらそれもなし。ちなみにTV版の同じ『ソウル・フード』でも、イルマ・ホールがママなんだけど、マキシーンをやってるバネッサ・ウィリアムスは同名で別人。そのバネッサ・ウィリアムスはもっとどっぷりのブラックムービー『ニュージャックシティ』に出ててややこしい。この劇場版で長女テリーのバネッサ・ウィリアムスは元ミスアメリカで、CDも出して、P-Funkにもバックボーカルで入ってる。この『ソウル・フード』でももうちょっとなんかやらしてほしいんだけどね、ひどくクールな女だったな。
 マキシーンと夫のケニーが、家の中でMonica & Usher回して二人で踊るところ好きだなぁ。ああいうのが当たり前にあるってところに憧れてしまうわけね。
 そういや、このサントラ、出てすぐ買うてたのだった。ずっと見よう、見ようと思ってて全然見てなかった。ちなみにサントラはBabyFaceのプロデュースで、Jo-Jo & KCも、モノホンのMilestoneも映画には友情出演(笑)

★★★☆  


2001年12月02日(日)



 ジュゼッペ・トルナトーレ『海の上のピアニスト』 (98 伊)


 ヘソ曲がり。。。あ、1900(ティム・ロス)じゃなくて、ボクがね。
 おもしろいんだよ、美しいんだよ、ぐさっと来るんだよ、でもなんだかすっきりしない。どうして陸の世界が無限なんだろ。どうして「アメリカ!」としか叫ばないんだろ。アメリカ=世界と限定したときに妙に抹香臭いというか説教めいた話になってしまってる。
 「鍵盤が無限にあるピアノでは弾けない」などと、妙に現実を匂わせるから、「憶病者の屁理屈」だなどととんでもないところに矮小化されてしまうんだよな。爆破なんて安易な手段で二者択一を迫るから矮小化されてしまうんだよな。思うに、みんな二者択一がお好きだねぇ。こうでなくても存在できるという選択がないのがイヤになる。あ、でもちゃんとこの映画じゃそうでなくても存在できるといことだけは仄めかしはしてるのにねぇ。でも二者択一が表面に立ちすぎてしまったなというのが、たぶんすっきりしない理由。
 簡単な話、ニューヨークとジェノバ?(と、言うてたと思うんだけど)の航路でしょ。ニューヨークにしか、こちらの世界は存在しないのだろうかと。ヨーロッパで陸に上がっても(船を下りても)いいじゃないの。アメリカったって海を見ることがなかったという人間さえいる、と、ちゃんとこの映画で語られているというのに、どういうわけか、ニューヨークに収束させてしまって、二者択一原理に終わってしまうところがなぁ。そうでなかったらお話にならないんでしょうかねぇ。トランペッタ−=マックス(ブルート・テイラー・ビンス)の回想を中古楽器屋のオヤジに語って聞かせるという構成なんだけど、そのマックスによって創られた話だと考えてみたら・・・そうだとしてもやっぱり二者択一か。
 すっきりしないという文句はおいといて、文句たらたらと書いたのには、それなりに楽しめるし、いい映画だなと思ったから。当時の豪華客船を描いてもかの『タイタニック』とは雲泥の差。揺れる(ううっ、考えただけで船酔いしそう)船の中で走り回るピアノのシーンは文句なしにいいでしょ。ジェリー・モートン(クラレンス・ウィリアムズ3世)とのバトルなんか思わず息詰めてしまうくらい。こいつの大ボラやらせたらブラックだな。それから、眉毛ピクピクバンドマンだとか、鬘つるっぱげ婆さんだとか。ピアノの縁に煙草を置いて演奏するなんて今じゃ考えられんだろうけど。
 エンニォ・モリコーネってどうも『夕陽のガンマン』の印象が強すぎんだけど、この映画では彼の音楽は外せない。「若い男に夫を殺させた」とか、「あいつの衣装は借り物だ」とか、そう語りながらピアノを弾いていく、音のはまり具合など、さすが、って、そればっかり作ってるから当たり前と言えば当たり前なんだけど。
 だからもうひとつひねり効いてたらなと思えるいい映画なのであった。

  ★★★☆  


2001年12月01日(土)
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