浅間日記

2008年07月26日(土) 経験と概念

遠山啓「数学の学び方 数学の教え方」を読む。
1972年に書かれた本であるが、内容は今でも斬新で、
特にこの本が書かれた時期に算数を習った者には必読かもしれない。

著者は、学校で教える算数が子供たちの数の概念をいかに混乱させるか、
教科書の歴史的経緯や内容を追って、理論的に書いている。





頭の良い子、乃至はまじめに授業を聴く子なら、
どんな風に教わっても自然と学んでいうだろうと思っていたが、さにあらず。
算数を苦手とする人は、ある教育方法の結果なのである。

教える技術というのは恐ろしいものである。概念をかき回す。

著者の言うところによると、私達は、美しい数の世界を
−フランスでは芸術分野とされる−自分のものとする機会を奪われていた。



何事も、概念というのは大切だ。
概念という容器がなければ、いくら言葉を重ねても、
ただこぼれ落ちていくだけだろう。

概念は、経験からしか身につけることができない。
広い、狭い、多い、少ない、高い、低い、暖かい、寒い。
美しい、醜い、良い、悪い。

空間の概念も、数の概念も、言葉にすれば難しいものが、
もののたとえで言えばああそうかと腑に落ちることがある。
寅さんだって、そう言っている。

そして経験は、外注に出すことはできない。
自分でするしかないのである。

だから、代価を支払って便利を手にすることは、それが何であっても、
ひとつの経験の−概念を身につける−機会を手放していると承知すべきである。

そして思う。
よくわからないけれど、子どもの学習が困難になっているのは、
物事を経験する量が不足しているからではないだろうか。

2006年07月26日(水) 
2005年07月26日(火) 哲学者の幸せ
2004年07月26日(月) 



2008年07月25日(金) オンブラ・マイ・フ

猛暑日。

梅干にはありがたいが、この身には少々きつい。

カンカン照りの日差しの中、大きなくぬぎの下へ逃げ込む。
駄菓子屋の店先でアイスを選ぶ時みたいに、身体の熱気とひんやりした空気が入り混じる。
湿った地面は、やけた足元をクールダウンする。
運ばれてくる風が爽やかに抜けてゆく。

緑陰は、涼しさの質が違う。
空調で得る涼とは比べ物にならないほど快適で贅沢である。


2006年07月25日(火) 減る国創造 その2
2005年07月25日(月) 
2004年07月25日(日) 想像力の欠如



2008年07月17日(木)

暑くなる前の午前中、Fさんとコーヒーブレイク。
教育についてあれこれ論議する。

素敵なFさんは元教員で、今でも教育に対して一家言持っている。
教員の仕事について、色々教えてもらう。へええ、という感じで聴く。



子どもの学校教育は日本では歴史が浅い。たかだか明治時代である。
「子どもを一人前の大人になるよう教え込む」ということについて、
西洋ほど肝が据わっていないから、そのメソッドが全然洗練されていない。
効果も十分に検証されていない。
そういう「教育の文化」について素人はよく知らないし、教員は深く考えない。
それなのに、何か情動的な部分だけがねっとりと機能している。



多分、えらく時代遅れの業界なのであろう。
国民に理論的な思考力をつけさせないため、意図的に前近代的なままにしている、
と穿ってしまいたくなる。

2005年07月17日(日) 鎮魂
2004年07月17日(土) 限りなく黒に近い白



2008年07月16日(水) 「チーム北島康介」における北島康介以外の人

何日か前のこと。
朝のラジオで「北島康介プロジェクト」という本の紹介があった。

彼の水泳の実力は凡庸で、とりたてて特別なものではなかったのらしい。
非凡だったのは、彼の自己分析能力と自己学習能力
−解説者は自己修復能力と言い換えていた−であり、
彼を育てたコーチはそこのところを見抜いたのである。



物事を分析する力と改善するために働きかける力は、
多かれ少なかれ、人は備えているのだと思う。

だけど、その力を自己実現のためだけに集中して注ぎ込める人はそう多くないと思う。

ほとんどの人は、前へ進めば進むほど深まるその孤独を楽しむことができない。
あるいは、そんな小乗仏教の人ばかりだと世の中立ち行かない、とも言える。

2006年07月16日(日) 「地上最大のショウ」風味
2005年07月16日(土) 墓穴から蛍に泣く
2004年07月16日(金) ハイエンドライフの彼方



2008年07月15日(火) ケッヘル様

美しい音楽はラジオからにわかに現れ、心をさらったかと思うと
あっという間に日常の雑踏へ埋もれていく。

日常の中で手を止めさせるほど力のある音楽との出会いは幸福であり、喜びである。
このまま別れるのはまったく忍びない。

そういうわけで、茶碗を洗いながら、537、537とつぶやいている。
この数字さえ忘れなければ、あれにたどり着くことができる。
モーツァルトの、ピアノ協奏曲第26番ニ長調《載冠式》に。

神様、仏様、ケッヘル様である。



2008年07月09日(水)

厚生労働省は8日、プラスチック製の哺乳(ほにゅう)瓶や缶詰の腐食防止材などに使われる化学物質ビスフェノールAについて、国の食品安全委員会に食品安全法に基づく食品健康影響評価を依頼した、というニュース。

胎児と乳幼児の体に影響を及ぼす可能性が国内外の動物実験で示されたためで、必要があれば規制値の見直しも検討するということである。



時すでに遅し、とでも言うのがこの手のニュース。

化学物質だけではない。
何世代にわたって検証されていないものは、その安全性について
現行法規や基準に頼っていたらあぶないというのが私の考え。

しかも、さらに悪いことに、科学的に実証されてから規制が改正され、
さらにそれが実効性をもつまでに、馬鹿馬鹿しいようなタイムラグがある。

その良い事例が、周知のとおりアスベスト−石綿−だ。
科学的根拠が明らかでも、それに従って適切に実行されないことは世の中に山ほどある。
こういうものは、世の中の仕組みを動かす切り札にはならないのだ。

もっとも、この手の情報は、お昼のニュースなどではあまり取り扱われない。
本当に知りたいことはマスメディアには出てこない、そのことも、
科学的ではない。

人間は科学的事実を越えられないということなのだろうか。

2007年07月09日(月) 風林火山馬鹿
2006年07月09日(日) 夢の花
2005年07月09日(土) 鑑賞日
2004年07月09日(金) 落胆



2008年07月07日(月) アテンド疲れ

本日より洞爺湖サミット開催。
そのような日に書く話題としては不適切かもしれない。

聖母マリアの子でなくたって、
子どもが生まれた家というのは来客が多いのである。
しかも、遠方より来るというところまで共通している。

というわけで、毎週末のようにやってくる客のために、
家の中をきっちり片付けて、
飯と宿と、そして物見遊山の世話をしなければならない。
場合によっては、土産も買いにはしらねばならぬ。

大使館勤務の外務省職員のごとくアテンドに奔走し、
今週はもう、疲弊気味である。

そしてこれは、乳飲み子を抱えてする作業だから大変なのではなく、
もともと私は安易に人を生活空間の中へ入れることが嫌いだからなのだろうと思う。

次からは少し考えよう。

2006年07月07日(金) 大暑への道
2005年07月07日(木) 
2004年07月07日(水) カッターナイフ前夜



2008年07月01日(火)

過去を記録するという行為は、人間だけがするのである。

記録、すなわち情報の格納は、人類の発見である。
ヘロドトスが歴史を綴った時から、司馬遷が史記を記した瞬間から、
世界は世界として、国家は国家として成立した。

子どもは過去を記録しない。
子どもにあるのは、現在という瞬間だけである。
でもしかし、それの何と正直なことか。



過去を語るということは、現在を語ることである。
そこで他者に伝えられることは、自分がどんなふうに在りし日を切り取り、
否認、願望、強調のフィルターをかけて編集したかという、
今日の自分の心の在り様だけである。



だから、私は人が昔語りをする時、そういうつもりで耳を傾けるのである。
それはそれで味わいがあるし、よく理解したいと思う人であれば、その助けになる。

でも、私はできればもうあまり、人前で昔の話をするのはやめようと思っている。
何故かというと、「現在だけが全て」という子どもの感覚を、
もう一度取り戻してみたいと思ったからである。

2006年07月01日(土) 人を殺せと教えしや
2005年07月01日(金) シャコンヌ
2004年07月01日(木) 


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