浅間日記

2005年04月30日(土) ラジオ体操の記憶

片付けをしていたら、昔使っていた画材や道具が出てきた。
クロッキーブックとかデッサン用の木炭、そして大事にしていた銅版画用のスクレイパーなんかも出てきたので、とっておいたのかと結構驚いた。
十年以上使っていなかった部屋に、久しぶりに足を踏み入れたような感じである。



芸術家でない人の芸術活動というのは、ラジオ体操のようなもので、
日常的に、身体を使って心象を表現することができれば、それでよい訳である。

実践と鑑賞では、喜びの在りどころが違う。行為として別物なんだと思う。
自分でやるのは子どもでもできるけれど、優れた作品を味わうためには、人間としての成熟とか、何かそういう自分自身の気付きのようなものがなければ難しい。

さらに、芸術活動を生業としているプロの世界で、実践と鑑賞はどんなふうにあるのか、ということは、もうこれは自分には想像がつかない。


そして、こんな前置きをしなければ、ささやかな日記の中でさえ「絵を描くのが好きだ」と書くことができない自分が滑稽だ。

まるで「聖書を否定するものではない」と長々書かなければ本旨に入れない、欧米の進化論みたいである。

2004年04月30日(金) 記念行事の押し売り



2005年04月29日(金) 春も静かに飲むべかりけり

マメ科植物の花が好きだと言うと、
植物をよく知る人からは、口の端っこの方で笑われる。

可憐に健気に咲くというよりは、繁茂してどうしようもないという様だからだ。
特にニセアカシアとかクズなどは、普通は「駆除するのが大変」としか形容されない。
花もどちらかというと原始的である。

それでも好きなのだから仕方がない。
私の雑味のあるものを好むのは、酒の好みと共通する。
シングルモルトウイスキーを好むHに哀れむような目を向けられても、
テキーラとかピンガ酒とかラム酒のような、
原始的な雑さと力強さをもった味わいは、どうにも捨てがたいのである。

まあ好きなのだから別にいいのだ、と、
庭で満開のハナズオウを眺めながら、しみじみ再確認した。

2004年04月29日(木) 気の抜けたビール



2005年04月28日(木) ファンファーレ

いよいよこの季節がやってきた。

モモ・レンギョウ・アセビ・ヤマブキ・木蓮と、
数え切れない種類の花が、いっせいに開花する。
山からの爽やかな風と呼応するように、優しくゆれている。
春先はたどたどしかったホトトギスのさえずりも、いまや完璧である。

「ザ・シーズン」とでもいうべき、信州の素晴らしい季節が始まるよ、と
すべての生命が、ファンファーレを鳴らしている。

2004年04月28日(水) 奴らの足音のバラード



2005年04月25日(月) 都市の影

東大阪市の公園で4歳の子どもを殴り重傷を負わせた17歳の少年は、
生命がつきる様を見たかったのらしい。

どうしようもなくひどい出来事であり、
同時にその動機はあまりに素朴すぎる。

法的には言うまでもなく相応の重罪であるだろう。
その一方で、このことは犯罪とすら言えない稚拙なものだとも感じる。
幼い子どもが、手にした花や虫を握りつぶして
その感触を確かめているような、未成熟な行為だ。



命をいじくってどうなるか確かめたいという「遊び」は存在する。
昔の人なら、カエルの腹に爆竹を入れたとか、
結構残虐な遊びを子どものころにしている。
そこまでいかなくても、いたずらに花や葉をむしったり、
アリの行列を踏み潰したりするのも同じ遊びである。
もう少し言うと、クローン技術などの生命科学だって、
所詮その延長にあると私は思っている。



17歳の少年の「命の遊び」は、何故ヒトでなければいけなかったのか。
そこに命を感じる存在がヒトだけだったからではないかと、私は推察する。

都市というものは、人間に機能的な空間として編み出された最大の発明品だ。
環境を整理整頓し、自然の未知数の危険や不便不快を解決し、社会基盤を整えるわけである。
これがないと人間社会は成立しないか、社会経済構造の質が低下することは間違いない。
しかしその一方で、ヒトしか生命体が存在しない都市空間には、独特の閉塞感がある。
その閉塞感が、ヒトがヒトの命をもて遊ぶ、という行為に至らしめている。ありふれた論旨かもしれないが、やはりそう思ってしまう。



殺しても殺しても湧いてくる害虫の駆除とか、
間引きが必要なスギやヒノキを切り倒すとか、
一雨降ればまたもとどおりの畑の雑草抜きとか、
そういうことをやっていれば、
そうそうヒトの命を奪うなどということは思いつかなくなる。

都市生活に閉塞感を感じる10代へ、5月の連休にお勧めのアクティビティである。
気楽に言っているようだけれど、真剣である。
さもないと、こういう事件はまた雨後の筍のように発生するからだ。

2004年04月25日(日) 



2005年04月23日(土) 親業セーフ

天気のよい休日。
部屋の掃除を終わらせて、AとHは散歩にでかける準備。

机にむかう私の横へAが神妙な顔でやってきて、
何かと思えば小さな花を届けてくれた。
道端か前の畑で摘んできたのらしい。
お礼を言うと満足して去っていった。

子どもという人たちは、時々こういうことをする。
大好きな人を喜ばせるために、指でつまめるほどの小さな野の花を、
ダイヤか金塊のように大切に運ぶ、なんてことを。
しかも、法王選びに勝るとも劣らない重要任務として、それを成し遂げるわけである。

想像力と許容力があれば、大人でもこの世界は少し共感できるが、
子どもには到底かなわないだろう。

そしてできの悪い親の私は、仕事をするからあっちへ行けなどと
頭ごなしに説教しなくてよかった、と胸をなでおろす始末である。
しかも、今回セーフであったのはたまたまであって、いつもではない。

2004年04月23日(金) 検分上手な話



2005年04月21日(木) 魔法の鏡日記

ここ数日間に書いた日記を読み返す。

論旨はともかく、針のとぶレコードで聴く音楽のように、
なんだかひどい文章だ。

文章の具合というのは、自分の状態をこれほどまで
白日のもとにさらし出すものなのか、と、少々驚いた。
たとえ、精一杯の元気を取り繕って書いても、
シンデレラの鏡のように、私のヨレヨレの姿を映し出す。

2004年04月21日(水) 修繕・トマト・夜道



2005年04月20日(水) クールダウン

朝一番でHから電話。
今日は帰る日だろうから駅まで迎えに行く、という申し出に、
戻るのは明日になりそうだ、と伝えたらがっかりしていた。
Aを連れ上京して、もう一週間になろうとしている。
こういう時、なに憚ることなく寂しさを態度に出すのが、Hの正直なところ。



中国の抗日デモについての、色々な分析が行われ、メディアを賑わせている。
「週刊SPA!」という雑誌にでていた福田和也と坪内何某の対談を読み、
結構賛同する。
分析という作業はものごとを客観視させる効果があるので、
よい姿勢と言っていい。

日本は超高齢化社会なのだから、激高するとか
そういう未熟な若者みたいな態度は似合わないんである。
冷静に解決の方向をさぐればよい。北尾CEOみたいに。

2004年04月20日(火) 現代鬼子母神



2005年04月18日(月) 死者を想え、次世代を想え

中国の反日デモは、国内全土に広がっているというニュース。
一方、日本国内では中国関係の施設に嫌がらせのような形跡が確認された、というニュース。

万が一、日本人の子どもが被害にあって、それが映像に流れたら、
又は日本で在日中国人の子どもが同様な危険にさらされたら、
お互いの感情を元の鞘に収めるのは相当困難になってしまう。
要らぬ心配かもしれないけれど、心がざわつく。

暴力は弱いものがより弱い者へ矛先を向けるものだ。
そして、先の戦争の犠牲となった日中の多くの死者達は、
人間が弱い者を虐げ合うような、そのような事態を絶対に望んでいない。

死してなお、国の政治に利用されている死者を想え。
生を受けながら未来を摘まれる次世代を想え。

2004年04月18日(日) 不在



2005年04月17日(日) 嫌だといっているというのに

裁判員制度についての内閣府による世論調査結果。

「裁判員制度には、参加したくない・あまり参加したくない」−約70%。

「有罪・無罪や刑の内容に適切でない判断が出る恐れがある」−約40%。

「人を裁くことをしたくない」−46%。

この結果について法務省・裁判員制度啓発推進室は
「7割に参加したいと言ってもらえるよう今後努力したい」とのコメント。


裁判員制度啓発推進室によるこのコメントは、
「私たちの努力が足りないから、7割もの人が参加したくないと答えているのだ」
という認識なのだろうけれど、大きな間違いだ。
そんなことを、あなた方の業績とか職務上の達成目標にしないでほしい。
国民の過半数が「嫌だ」と言っているのだ。



行政のやる普及啓発というのは、この間違いに気づかない点で、
ある意味、狂気がかっている。
ハンセン病の一連の問題を引き起こしたプロセスも、全く同じに見える。

彼らの普及啓発というのは、つまるところ、
動き出した政策を、反対意見があろうとなかろうと
とにかく滞りなく継続的に執行するための手法なんである。
だから反対者が多いほど、妙に明るく教科書的な−そして狂気のかった−
ポスターやらパンフレットが登場するのである。

しかし考えてみれば、
動き出した政策を国民の世論で止めるシステムがない、というのは、
結構、恐ろしいことではないだろうか。

2004年04月17日(土) 不必要な不祝儀



2005年04月16日(土) 男シンデレラ

Aを連れて上京。

「電車男」というのは男シンデレラみたいだから、
事の真贋が疑わしくてもそれなりに支持されるのだろうなと、
とりとめのない会話を交わす。

それにしても、「女性に幸せにしてほしい」というそのようなパターンが多いのは何故だろう。

2004年04月16日(金) 記憶の花



2005年04月14日(木) コミュニケーション原点回帰

Aと変な遊びをしてしばし戯れる。
ジェスチャーだけでコミュニケーションするのだ。

使っていいのは、意味のない発音の羅列だけ。
山下洋輔やタモリがやるハナモゲラ語みたいなの、である。

さすが親子と我ながら感心するが、これでいくらでも意思疎通ができる。
頼んだことはやってもらえるし、相手の要望も伝わる。

その様子は、かなり、そしてあまりに馬鹿馬鹿しいので、
あきれたHは、何時間も続くこの楽しい遊びに全く参加しようとしない。

しかしながら、馬鹿なおふざけの弁明をさせてもらうとすれば、
このことは、Aに対して言葉に頼りすぎていた最近の自分を反省するのに
よい機会となったのである。

コミュニケーションに集中するので、
聞こえないふりとか一方的に言いっぱなしというように、
相手をなおざりにすることがない。結構具合がよいのである。



Aがまだ意識の塊だけであった赤ん坊時分には、
こんな感じでずっと、言葉のない真剣勝負のコミュニケーションを楽しんだ。
その楽しさや集中することを、そして真剣に伝えれば真剣に返してくる、
というお互いの信頼関係を、私は久しぶりに思い出したのである。
Aという子の存在が、誕生直後のように再びクリアになった。



かといって、やはり馬鹿馬鹿しいので、あまり人にすすめるものではない。
子どもの年齢によっては、親のこういうおふざけは本気で敬遠されると思う。

2004年04月14日(水) made in Japan



2005年04月13日(水) 花ざかり

ハイオミヤゲ、といってHがくれたダンコウバイの花が、
部屋一面に甘い香りを漂わせている。

山の花というのは、個性的で生命力がある。
根を下ろす土壌が人工的にしつらえられたものと違う、
ということがよくわかる。

そしてこうして里に連れてこられても、
一生懸命、あるがままでいようとする。

Hの今の仕事場では、一面にこのダンコウバイの花が咲き乱れているらしい。
切花とか園芸品種ではありえない、群落という存在のしかたである。

2004年04月13日(火) 阪神ファンじゃないのに道頓堀に飛び込んだ人



2005年04月11日(月) 不売運動

収束にむかう仕事に、まだ緊張を解くのは早いと思いながら、
自分はひどく疲れているのだ、ということがはっきりわかる。

いくらフリーランスだからといって、仕事を
やみくもに引き受けたりするもんじゃないな、と少し反省した。
このような条件ではお引き受けできません、これならできます、と
きっぱり言うのも大切だ。

どこかの国の日本製品も、そういう訳で、無理に売ることなどやめて、
ご要望に応じて一旦引き上げたらどうだろうか。
日本人が真面目に心を込めて開発製造したそういうものを、
みすみす焼き払われたり壊されることもあるまい。

もうソニーの液晶テレビもトヨタ車も、上海では一切手に入りませんよ、
欲しければ台湾まで買いに行って下さいね、というのが、
私流に考えた、資本主義社会の毅然とした態度なのである。



2005年04月10日(日) 団塊の国

行きつけの花屋では、Aに好きなように切花を選ばせるのが
お休みの日の恒例なのだけれど、
今日は有無を言わせず、大好きな芍薬を選ぶ。

ひんやりした家に戻り、白い陶磁の花瓶に、そっと活ける。
薄暗い家の中に、ビビッドな紅が点火する。



中国で大規模な抗日デモ。
主に高学歴層の青年達が、その中心なのらしい。
今回のデモも、インターネットを通じて情報を発信している。

天安門事件依頼、中国政府というのは、国家への不満が暴動化するのを
ひどく恐れていて、だから体のいい鬱憤晴らしに
抗日を扇動しているのではないか、というのが私の考え。

そんなものに乗せられて自己実現しているつもりの中国の若者よ、
幼いことはやめたまえよ、と、思うのである。

投石したりモノを壊している若者達とそれを取り囲む者の薄ら笑いは、
この行為の動機が、国家間でなく自分たちの内側にあることを物語っている。

これは全く間違った見解かもしれないけれど、
天安門事件で改革を成し遂げられなかった無念や無力感のやり場が、
こういう形で今の若者に引き継がれている、という気がしてならない。

日本はだからといって、国と国民が正面から向かい合えないこの国の、
板ばさみにさせられる覚えはないんである。
あまり馴れ馴れしくしないで欲しい、と思う。

2004年04月10日(土) 



2005年04月09日(土) 不審者侵入

ローマ法王ヨハネパウロ二世の葬儀の記事。
第264代目の法王だったそうである。

世界11億のカトリックの頂点として世界平和に尽力し、
その遺言の中には、こうあったそうである。
「神の摂理のおかげで、核戦争という暴力なしに冷戦は終わった」

そのような、平和を訴え世界中を飛びまわった偉人を見送る神聖な場に、
もっともらしい顔をしてアメリカ大統領が列席している。

「ウチの国は、ワタクシの判断と責任において、
包括的核実験禁止条約−CTBTというやつだ−の早期発効を拒否し、
「使える核」へ舵取りをすることになりました」、と
そこのサンピエトロ広場で言ってみるがいい、と、一人腹をたてる。

このような不適切な人間が平然と出現するのは、
残念ながら、多分、バチカン市国の警備がなってないんである。

2004年04月09日(金) somebody laughing inside



2005年04月04日(月) 咲き遅れても咲く

年度を越えてしまった年度内仕事というのは、
他の人がゴールしてしまった徒競走のような、
満開の時に咲かなかった桜のような、情けなく寂しい感じがある。

それでも、いいものにしようと関係者一同で頑張っているのだから、
何とか花を咲かせるように、皆にいいものができたと喜んでもらえるように、
もうひと頑張りしようと、一人PCに向う。

東京はともかく、信州の桜は、まだまだ咲きそうにないのだし。

2004年04月04日(日) 春の引き潮



2005年04月03日(日) 潜在職能

Aと一日過ごす。
チーズケーキなどを作ってみたりする。
例によって途中で味見味見と騒ぐので、大変だ。

ケーキというのは分量の正確さが求められるものなのである。
10g単位で狂っては同じものがつくれないし、
材料を混ぜるタイミングや温度管理も、それは厳密さを求められる。

だから、某化学系の会社を退職したおじさん達が
自分達が得意とする技術に最適な職業、としてチーズケーキ屋を始めた、
というエピソードは、私は大好きなのである。

官庁の役人も、単純に業界へ天下りするようでは知恵がない。
行政職という職業経験で蓄積される、特殊技術か特殊技能が何か潜んでいるはずである。

件のケーキ屋は、確か代官山かそのあたりにある。

2004年04月03日(土) 第一声



2005年04月02日(土)

岩場へリリースしてあげることにしたHは、目覚めるともういなかった。

パンケーキで朝食を済ませ、新聞を小脇に抱えて、近くの広場へ。
滑り台の上でAは厳かに包みを開き、シャボン玉の道具を取り出す。
虹色の玉が空へのぼっていくのを見ながら、私は腰掛けて新聞を読む。

内山節は秀逸、というか私好みだな、とその論調に頷いたり、
BSE協議の行方にあきれてみたり、
今週末と来週の天気はあまりよくないことに、雪の心配をしたり。

時事社会のできごとは、シャボン玉のように私の前にあらわれて、
屋根まで飛んでこわれて消えるのであった。

という訳で、広場で思った色々の、仔細はあまり覚えていない。

2004年04月02日(金) 現代人に「ウサギと亀」は創れるか



2005年04月01日(金) fool

気の利いた嘘でも書こうかと一日頭をひねってみた。

落語の「頭山」みたいな稀有壮大なものが望ましいが、
俗世に追われる自分からは、直ちにそういうものは浮かんでこない。

不安やショックはもう現実世界に飽和しているから、
今日それをやる必要はない。

気の利いた嘘は難しいものである。

気が利いた嘘でもそうでなくても、Hは昔から私の出鱈目をすぐ真に受けるから、
もう少し考えて、今日もやってやろうと思う。

2004年04月01日(木) 


 < 過去   INDEX  未来 >


ipa [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加