みかんのつぶつぶ
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2001年04月30日(月)

やたらと眠いらしく、気がつくとトロトロとしている。
抗癌剤は昨日で終了。
今日からは、体内に残留している抗癌剤を体外に出すために、生理食塩水を入れている。

首の痛みが、復活してきているし
歩き方もナンだか…脱力していってしまっている。
頻繁にトイレに行っているし
腎臓からの出血がないように祈るばかりだ。

日一日と、容態が変化する。
重病なんだと思い知らされるばかりだ。


2001年04月28日(土)

「左腕は、もう動かないままかも知れないってさ…」

回診の際に、言われたらしい。
左腕は脱臼したままにされていて、おかしいと思っていたのだろう。

「この左腕じゃあ、困るなぁ…」

うんうんと、相槌をうつことしか出来なかったよ(泣)

心を痛めることばかりだよね、こんなにツライのにね、まだダメなことばかりでね・・・
これからもきっと、もっと、もっと・・・

連休明けには、泌尿器科の診察を受ける予定だ。
頻尿のため・・・
もしかして、管を入れられてしまうかも・・・(T_T)そ、それはあんまりだ・・・


2001年04月26日(木)

戦艦大和のUさんから、病室にお手紙が届いた。
前の病院で同室だったおじいちゃん。

達筆で達者なお方(笑)で、彼とは戦中戦後の話題で盛り上がっていた。
私とはゴルフの話しぃ〜〜♪

回りがうるさいので、
仕方なく静かにしてるって…( ̄∇ ̄;)元気な姿が目に浮かび
手紙を読んで、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
Uさんのような、元気なおじいちゃんは
残念ながらここには・・・いないみたい(泣)


「看護婦さんが言ってたよ。
私達、すっかり奥さんに甘えてしまって、すっかりお願いしたままで
奥さんとっても大変だと思う、ごめんなさいねってさ」

こうやって毎日お風呂に入れるのも、お前が来てくれるからだねと、
湯船にプカリと浮かびながら
さらりと言ってくれちゃったりして(〃∇〃)

いいんだよ。
文句も言うけど、イヤじゃないから。
喜んでいるのなら
それで十分だよ。
たまにお説教するけど
許してね(笑)


あと三日間、がんばれよ〜〜〜!

メイロン      ソリタT3
セロトーン     ソリタT4
ペプシド
イフォマイド
ウロミテキサン


2001年04月24日(火)

5年後に再会できる人は、この中に何人いるのだろう・・・

毎日通う病室。
いったり来たりする病棟の廊下。
花々に囲まれた喫煙所。
行きつけの売店。
玄関横にある花屋さん。

だんだんと挨拶する人が増えてきた今日この頃。

「ずいぶんと良くなりましたね〜〜」

コインランドリーへ車椅子で行ったときに
居合わせた男性。
大腸ガンを手術したが、トイレで踏ん張ったらお腹の縫い目が裂けてしまい
緊急手術まで経験したという。怖すぎ…^^;
今日は談話室でお会いした。
点滴をひき、バンダナを頭に巻いた軽快な姿の彼を見て、驚いていた。
もうすぐ退院の予定だという。

昨日、素敵なプレゼントを下さったOさん。
泌尿器科の患者さんだ。
病状の詳細は聞いていない…というか
ほとんど寝ていらっしゃるばかりで
お話しする時がない。
食事になると看護婦さんに起こされ
ベッドの上ではなくて
車椅子に座り、テレビ台のトレー(?)に食事を置き、テレビに向かって食べている。
ベッドの上なら向き合うことができるのに
いつも背中をこちらに向けて食事をしている状態なのだ。

その様子を見て

「ん?パソコンしてるのか?」

と思ってしまった彼だった(苦笑)

そんな状態なのに、いつ見かけたのだろう
私達の歩く姿を・・・
看護婦さんも驚いていた。
きっと、すっと目に飛び込んできたことを
ササッとイメージで描くことができる方なんだね。
すごいなぁ・・・

お昼に、何か落ちた音が聞こえたので
どうしたのかとOさんの側に行って見ると
梅干の入れ物が落ちていた。
どうやら梅干が好物らしいのだ。

「すみません・・・あとでお返ししますから
梅干しをいただけませんか」

ある日の朝食で、Oさんからお願いされたらしく
でも彼は、残念ながら梅干しを持ち合わせていなかったので(笑)看護婦さんに伝えたのだそうだ。

「俺も長いこと入院生活してるけど、梅干しをねだられたのは初めてだ」

私は梅干しの容器を拾い、座っているOさんに合わせてしゃがみ込み、話しかけてみた。

「昨日は素敵なイラストをいただいて、ありがとうございました。とっても嬉しいです・・・
また、楽しみにしていますから描いてくださいね」

Oさんは、いやいやぁ…という風に手を横に振り

「手に力がね…ないからね…もっと力が出ればね…」

弱々しいけれど、でもしっかりと答えて下さったのだ。
嬉しかった。
何日間も同じ病室にいるのに、初めて会話ができたのだ。


今日から抗がん剤が入った。
変化は特になし。
今日のお風呂はとっても気持ちが良かったらしく

「ああ、さっぱりした。そうだ、お前も美容院へ行ってさっぱりしておいで。
ずいぶん伸びたんじゃないの、髪の毛」

坊主頭に言われちゃあ行くしかないでしょ^^;

じゃあ、お言葉に甘えて行ってこようかな、と言うと
だから今日は早目に帰っていいぞというお言葉。

四時に病室をあとにして、美容院へ向かった私であった( ̄ー ̄)

カットの担当が変わったので
いまいちフィーリングが伝わりにくく
軽く、手櫛で済む、動きのあるカットが好き…と解釈したらしい青年美容師は
何を思ったのか、メルモちゃんみたいな髪型にしてくれた・・・( ̄∇ ̄;)
ん〜〜〜…素敵なんだけど・・・イメージ違うなぁ…(泣)


2001年04月23日(月)

とっても素敵なことがあった(^.^)

お向かいのベッドにいらっしゃる患者さんが、
私達夫婦の姿を、イラストにして下さったのだ。

絵を描くことが好きな、そのご老人は
ほとんど眠っていることが多いのだけれど
リハビリを兼ねて、スケッチブックとサインペンを渡されている。
車椅子に座って、窓辺でスケッチをしている後姿を、昨日微笑ましく見ていたばかりだった。

点滴をひいて歩く彼に寄りそう私の図。
線描写の柔らかいタッチに
彼の頭には、鮮やかなオレンジのバンダナが描かれている。
私の赤いベストも見逃してなかったし…(笑)

きっと強烈な色合いだったのでしょう(^^ゞ

まるで小説のイラストのような
素敵な1ページになった。


2001年04月21日(土)

「さぁ、これで俺の一日は終わった」

昨日、最後の一服から病室に戻り
ベッドに上がりながら言った。
私は帰り道、この言葉に含まれている
『アリガトウ』をみつけた気がした。

そうなんだ。
私がいないと一人で出歩けない。
ちょっとでも足を下ろすとセンサーが働き
看護婦さんが

「どうしたの〜〜」

と飛んでくるという。

「俺の仕事を全部取られちゃう…」

だからこそ私がいる時に
自由に病室を出入りし、動きまわり、
「日常」を「暮らし」たいのだという気持ち。
洗濯や、売店へ買い物に行き、
病院中を散策してまわり、
入院生活を満喫したいのだ。

それに黙って付き添ってあげることが
いま、いちばん彼の望むことなのではないか・・・

つい昨日まで動いていた左腕が
今日はまったく動かなくなったら
どんな気持ちになる?
認めたくないよね…
そんなに病気が重くなっているなんて
知らないよね、知りたくないよね?

俺は大丈夫なんだ…

なんで一人で動いちゃいけないんだ…

彼の落ちつきのない行動に
付き合いきれないとストレスになったが
やっと理解できた気がした。

歩くんだ。
健康だから動けるんだ。
動けば腹が減るんだ。
だから食べるんだ。
食べたら歩くんだ。


5時のチャイムが鳴ると、満足気にベッドに上がり
 
「もう帰る時間だぞ」

ベッド廻りに本や新聞を揃えて
明日、私が来るまでの時間を過ごす準備を始める。

彼の一日は、私と過ごす時間だけなのだ。
大切な、彼の一日。


2001年04月19日(木)

明日からは、午前10時までに病院へ行くようにして
午後は早めに帰宅するようにしようと話し合った。
彼も、子供達の食事を心配しているし。

「今日は、まともな飯が食えるな・・・」

私の早く帰宅している姿を見た息子の、第一声だ。

食材を買う時間がないのだ。
自宅近くのスーパーは、8時に閉まってしまう。
生協の宅配でも復活しようかなぁ・・・


はらはらと、見ている側から抜け落ちる髪の毛がうっとおしそうなので
バリカンですっぱり苅り落として貰った。
丸坊主復活だ。


ボランティアの方々のミニコンサート、
図書の貸し出し、
正面玄関の脇には、自動演奏のピアノが置かれ
癒しの雰囲気をつくりだそうと工夫されている。
院内は明るく、よく整備されていて
看護婦さん達は患者に対して『いたわり』の言葉をかかさない。

10階には、緩和ケア病棟を備えている。

「これで効かなかったら、いよいよ10階だなー」

患者同士のこんな会話を喫煙室で耳にして
癒されることのない患者の心理を思うと
生きる気力が萎えてしまいそうだ。

殺伐とした
荒野のような毎日を過ごし
少しでも明日を信じていようと
みんなみんな
生きているんだなぁ・・・


何気なく外を見ると
葬儀社の車が静かに走り去って行くところだった。

なんだか・・・
なんとも言えない気分だった・・・


2001年04月18日(水)

泌尿器科の先生に

「いつもお菓子がいっぱい並んでるんですねー」

と言われ、ムッとしたらしい^^;
私が察するに、そんな悪い意味ではない感じなのだが、
テーブルの上にあるお菓子を片付けろと命令するのだ(ーー;)

なんだか三日前から、やたらとお腹が空くという。
売店でお菓子を買って揃えておかないと
不安になるらしく、並べてあるのだった。

だいたい、どの病室見ても、こんなにお菓子が置いてある患者さんはいませんなぁ(笑)
特にこの病室では、みなさんほとんど寝たきりだし・・・(汗)
 
きみのその姿と光景は、先生にはとても新鮮に写ったのでしょう(爆)


今日もお風呂に入った。
髪の毛が、ゴソッと抜けた・・・
 
ああ、とうとう来たか…

彼は、説明されていたことだから、別に驚きも悲しくもないとケロッとしていた( ̄∇ ̄;)

白血球数2800
これ以上下がらなければ、24日から抗がん剤投与だと主治医から説明があった。


2001年04月17日(火)

久しぶりに、夕暮れの街を歩いた。

「奥さん、旦那さん大部回復されたんで
あんまりご無理なさらないほうがいいですよ。
様子を見て、少し早く帰られたら如何ですか…」

この数日の私の異変に看護婦さんが気づいてしまったらしく( ̄∇ ̄;)
廊下で出会うとみなさん声をかけて下さる。

私のことまでも気遣ってくださる言葉が嬉しくて、
それだけでも励みになるものだなぁ。

みなさん、ありがとう。

「今日は、少し早く帰ろうかな」

「うん、そうしろよ、大丈夫だから」

そう言いつつも、なんだかんだと用をいいつけてくる。

その気持ちが気の毒で、つい面会時間いっぱいまでいるようになってしまっていた。

だが、自分の不調が本格的になってしまいそうなので、
五時には病室をあとにしたのだ。

のんびりと、電車の窓から夕陽を浴びて、
ゆっくり食料品を買って帰宅できた。

今週は、このペースでいけるかなぁ…
来週から、抗がん剤を入れる予定だというから、
自分の体調を整えておかなくてはいけないね。

…今週は、束の間の休息だね、お互いに。
上履きは、歩きやすいって喜んでいたし(^.^)
小学校では1年2組だったなんて、思い出したらしいし(笑)
お風呂上りはホントにイイ気分だと、満足げだったし…

病室で、
ベッドの上で、
一生懸命生きている喜びを
私に知らせてくれる
生きている楽しみを
精一杯味わいたいとせがむ

その姿を思い出し
なぜだか物悲しくなってしまうのは
いけないことでしょうか

病人でも、生きている

夕暮れを
ひとり病室で迎える姿を思うと
やっぱり置いてきた後悔が
心に迫る…


2001年04月15日(日)

今日も娘がヘルプにきてくれた(^^)
やっぱり父親っていうものは、
娘に心が許せるものなのかな。
顔見たとたんに表情が緩んでゆくのが判りすぎだし(笑)

今朝、娘の携帯に着信があったらしく
でも公衆電話の表示がされていたから不信に思い出なかったと、私に知らせにきた。

「それはお父さんだよ」

あ、そうなのかと、娘は電話に出なかったことを非常に後悔したらしく
それに私の体調も気遣って、ついてきてくれた。

今度は娘の胃が心配…^^;

昨晩も、お腹がくだってしまい、看護婦さんに迷惑をかけてしまったとこぼしている。
整腸剤だけでそんなに効いているってことは、
腸の動きも良くなってきたのかな?

何にしても、危機的状態からは一歩抜け出したという様子。
調子が良いと、本人も満足そうだし。

でも左手は、力が入らない。
左足の動きは、なんだか良くなったみたいな気がするのだけれど・・・?

リハビリをして何とか動かそうと必死な気持ち。
ボールを握らせてみたり、右手で左腕を上げ下げしてみたりと。

そんな彼の懸命な姿を見ると、何とも言えない気分になってしまう。

頑張れと、声をかけてあげられない私。

まさかの奇跡があるのだろうか、なんてボンヤリしてしまう。

負の方向へ向いている自分が、
まるで病室の片隅にいる死神のように思えてくる。

ああ・・・


2001年04月14日(土)

今朝、目覚めたとたんに、身の置き所のない体の重さに脅えた。
そのとたんに、全てがイヤになった…

娘が起きてきて、今日は一緒に病院へ行くと言ってくれたので、
気を取り直すことができた始末である。

病院へ近づくにつれて、胃がキリキリ痛み始め、
ああ、私は胃が痛いのだと悟った。

病室につくと、ちょうど昼食の配膳がされたところだった。
そこでホット一息つくことができたので、助かった。
いつもだと、一時間半かけてやっと辿り着いたとたんに車椅子に乗せて一服に連れて行けとせがまれて、
彼の顔を見たとたんに疲れ果ててしまうからだ。

待っている気持ちは、痛いほど伝わってくるのだが、
連日の病室通いで、心身疲れ果てている自分をコントロールできなくなっているのだ。
だから、思いやりよりも感情が先になってしまい、思わず愚痴めいた言葉を発してしまう。

自分の情けなさに後悔するばかりの日々で、
少し神経衰弱になっているのだろうか…

とにかく、胃が痛む。

自分の馬鹿さ加減にあきれる。

どうしてもっと、賢くなれないのだろう。

明日はもっと、優しくしてあげよう。


2001年04月12日(木)

この3日間、痛いという言葉を発しない。
コンチンの濃度が一定してきたのだが、副作用で精神状態が、ちと不明。

動けるつもりでいてしまうから、
左半身と点滴をひきずりながら、エレベーターで降りていってしまう。
洗濯も、暇だったらしておくからと、当たり前の顔で私に言う( ̄∇ ̄;)
何時か、何曜日か、何日か・・・何回も聞きかえす。
ひとつのことに、超こだわる。
・・・・・・・

昨日、私が病棟のドアを開けたとたん

「あ、奥さん、旦那さんが向こうのエレベーターで降りて行ったよ!」

と、同室の患者さんが教えて下さったのだ。
その前に看護婦さんに通報しにきたらしく、
みんなで慌てて捜索にかけだした。

正面玄関で捕まえられて、両脇を看護婦さんに支えられながら入ってきた始末(T_T)

現在、点滴スタンドには「鈴」をつけられ、
ベッドの下には「センサーマット」が置かれている…苦笑…

病室も、6人部屋から4人部屋へ移動した。
車椅子を入れるため、広い部屋のほうが…という理由だが、
その部屋は、ナースステーションの目の前なのだ。
色々な面で、ちょっと複雑な心境だ・・・

しかし一方で、マヒの進行が治まっているのだ。
痛みがなければ体を動かし、
食事も摂れるから、精神的な面もあるのだろうが、
抗がん剤の効き目があったということと思いたい。

小康状態…なのかなぁ・・・

今日はお風呂に入った。
私もコツを覚えたので、短時間で済ますことができた。良かった(^O^)

がんばれー負けるなーっ!


2001年04月10日(火)

コンチンが効いてきたらしく、
今日は一日痛がらなかった。

だが、新たな問題発生。

下剤が効きすぎて、
ほとんど垂れ流し状態になってしまった(泣)

息を吐いたでけでも出てきてしまい、
彼もどうして良いのかわからないようだ。

今朝は、ひとりで動いてはいけませんと看護婦さんに止められて、
7時半に電話をしてきた。

「ひとりで何もできないから早く来てくれ」

まさか看護婦さんに喫煙所に連れて行ってもらうわけにもいかず、SOSを発信してきたのだった( ̄∇ ̄;)

お風呂に入れるのも一苦労だった。
泣きたくなった。
湯船に座ったら、立てなくなってしまったのだ。
せめてお湯につかって体を軽くして
少しでも気分が良くなれば…なんて思いは
後悔に変わってしまったし(泣)

体が利かないのに動きたがり、
その度に点滴スタンドから車椅子へ点滴をセットしなおし、
起きあがる介助をして連れだし…

気がついたら私の右肩が痛んできた。

健康だった時のペースを崩したくない彼は、
その自分のペースを私に言いつける。
思うように動かない私に、
次から次へと指示を出すのだ。

「私に指示をしないでっ」

思わず叫んでしまった私…(T_T)

ああ…連日の自己嫌悪は、いったいナンなのか。
思いやりがあったら、怒らないよね、きっと。

怒った自分に疲れてしまい、
ほんとダメだよねぇ。。。(泣)


2001年04月07日(土)

『死』に対しての価値観?
『生きる』ということに対しての意義?

いったいどうしちゃったんだ…



疲れ果て

ただ疲れ果て

暗いバス停に
佇む私がいる

これで永久の別れになるかも知れないと
想いを残してバスに乗る日々…

ベッドの上で
穏やかな寝息をたてる彼に

「また明日」
と言って
別れの言葉を残す日々…

目が覚めて
痛みがこないように
目が覚めて
ベッドから身を起こせるように

祈りながら
病室を後にする

桜が道に舞い降りて
足跡を残すかのように
アスファルトに貼りついている

その様を見て
目をそらす私がいる

疲れ果て…


2001年04月06日(金)

昨日よりも今日と、状態は悪くなっている。
痛みも治まらない。

新聞を読むのが日課なのだが、ベッドの脇に置いてあるだけで、広げた様子はない。

「マンガも新聞も読む気になれない。腕が利かないから読んでいても面白くない。
一服しに行くのも億劫だ・・・」

ウトウトと、眠っている時間が長くなった。
でもそのほうが、痛みを感じなくて好都合なのだが・・・体が思う様に動けなくなった。

彼は悟るしかないのだ。
自分の状態の悪さは、ただ事ではないと。

「入院するたびに、悪くなっていくな…
こんな状態になるんじゃ、ここに入院した意味が無いじゃないか」

と、彼は静かに嘆いた。

「いまはまだ治療中じゃないの。
抗がん剤も、まだ二日目だから効果はまだでないよ。
でも今日は、頭が痛いって副作用だから、体の中で闘っているんだよ。
効いてきてる証拠だって先生が言ってたよー。
効果が出れば、腫瘍が小さくなって痛みもマヒも消えるんだから。
頑張ろうね」

彼は、私の言葉にコクンと頷いていた。

悲しかった。
自分の言葉が、恨めしかった。

この少し前に、主治医と話し合いをしたのだ。
「人工呼吸器は、つけないで下さい」

彼の状態を見て、これ以上は、もう十分だ。
私と子供のために、もう頑張らなくてもいいよ。

「もう・・・お願いだから、苦しまないでよ」
この想いだけで決断したのだ。
最後の思いやりとして、割り切るしかないだろう。
後悔しても、これでいいのだ。

彼の場合、呼吸ができなくなる時に、意識がはっきりしているために、
非常に苦しい思いをするだろうと予測される。
溺れるのと同じ状態になるのだ。
それは何故かというと・・・腫瘍のできた場所が悪過ぎるのだ。

頚椎の3番と4番の間。
ここは、脳から出てきた各神経の束の出口となっていて、
呼吸を司る神経に作用をしてしまうのだ。
頚椎のもっと上の部分だと、脳に近いため、
意識の神経に作用して、意識が先になくなってから呼吸ができなくなるのだが、
彼の場合は、呼吸が先になってしまう。

主治医は、苦しみの中での処置を徹底するために、私に決断を求めてきたのだった。
夜中の緊急処置に、指示徹底をしておかなければならないから。

人工呼吸器をつけた場合の彼の状態は、
手足は動かず、言葉も話せず、だが意識ははっきりしている…と予測される。

息ができないと苦しんだ結果がこれでは、
あんまりだと思った。
だから、決断をした。

「でも先生。もし私の目の前で苦しんでいたら、人工呼吸器をつけて下さいってお願いしてしまうかもかも知れません」

主治医は、その気持ちはわかりますよ、と言って承諾してくれた。

彼に話してみようかと、本気で考えたと話したら、
その場合は、精神科の医師と私が話し合いをして、
そこで本人に話したほうがいいという結果がでたら、精神科医・主治医・私、そして彼とで話しをする方法があるという。

だが、脳外科患者の場合には、ほとんど告知はしないという。
告知、というよりはむしろ、本人の意思に委ねても、不確かなものになってしまう。
脳疾患ゆえに・・・というのが現実だ。


腫瘍細胞が、しばらく治まってくれないだろうか。
もう少し、頑張らせてあげて欲しい。
抗がん剤の効果を、だしてあげて欲しい。
たとえ先は短くても、
辛い日々を耐えた証しに、快方に向いた体を、味合わせてあげたい


2001年04月05日(木)

病室へ行くと、珍しく眠っていた。
気配を感じて目を開けたが、また意識が遠のいてゆく。
?おかしい… 目が覚めて起きあがった様子を見て、愕然とした。
左の腕は、ぶら下がっている状態なのだ。
日を追うごとに力が抜けて行く様子はわかってはいたが、 今日は、もう、左腕がないのと同じ状態。 トイレに行く姿を見ると、左足も、動きが鈍い。
まさか!と思い、すぐにナースステーションへ報告に行った。
脳の腫瘍が大きくなっているのではないかと。 主治医は手術中のため、終わり次第報告をするというので、待つことにした。
午後5時。
ナースステーションへ呼ばれて、主治医からの説明を受けた。

「私達に言わないですよねー、具合の悪いことを・・・」 主治医の第一声。
そうなのだ。 「問題ありません」 いつも元気に愛想よく答えているのだ。

「日ごとに症状が悪くなってきているっていうのは、 これはちょっと、一刻の猶予もありませんよ」 先日撮った、脊髄のMRI画像を見ながら話しは続いた。
脳と違って脊髄は、腫瘍が0.5ミリ育っただけでも重い症状が出てくる。
左腕、次は左足のマヒ。 しかしもっと懸念されるのは、突然呼吸が止まること。 看護婦さんも気が付かないうちに、止まってしまう可能性も高い。

その場合、蘇生術として人工呼吸器をつけるかどうか…早急にご家族で話し合って決めて欲しいと…

このひと月が山であろうと、前医から聞かされたのはちょうど一ヶ月前。
状態も、聞かされていた通りに進行している。 人工呼吸器についても、避ける方向で話し合っていた。 だから転院を決心したのだ。 それなのに・・・

「抗がん剤は全身に効くから、飛び散った腫瘍細胞にも効いて、悪いものは全部無くなるんでしょ」 点滴を取替えに来た看護婦さんに、彼がそう話していたのは、ついさっきなのに・・・

全て、もうわかっていたことなのだ。 全部全部全部!!!
悲しくない。 涙がでない。 泣けない。 どうしようもない。

「夫婦は結局他人だから割り切れるけど、子供は同じ血が流れている訳だから、 どんな状態でも生きていて欲しいって思うんじゃないかな」 彼の友人が、呟いていた。

もしも、私が人工呼吸器をつけないと決めたのならば、 子供達を説得しなければならないと。 子供達に、父親のために最善を尽くすにはどうしたら良いのかと問いかけた。

息子は、私がどうしたいのか、と聞いてきた。 娘は、終始無言のままだった。 息子は、すーっと部屋に入っていったきり出てこない。
娘は、明日一緒に病院へ行くと言って、部屋に戻っていった。

酷だったね。 なんだか頭が痺れてる。
もし父が生きていたら、 何て言うだろう。 怒るかもしれないな。

「子供を不安にさせるな」って・・・・・  


2001年04月03日(火)

病室に入ると、
まるで『はりつけの刑』を受けているみたいにベッドに横たわっていた。
点滴が見張り番みたいだ。

病室の天井を見つめて、何を想っているのだろう… 想像するだけで落ちこんでしまうから、
なるべく関係ない話題を振りまくことにする。
家では何も食べたくないのに、 なぜか病室についたとたんに空腹を感じる。 彼の顔を見て、ホット一安心するからかな。
売店でお菓子を買ってきては、コソコソバリバリ食べている私を見て、
「ここに何しに来てるんだ・・・」 と言って笑う。 ハーゲンダッツのアイスクリームも、病室で食べるとナゼか、美味しいんだなぁ・・・
一口食べて、そっと差し出すと、素直に口に運んでいる。
何も言わないけれど、きっと美味しいんだよね(笑)

MRIの予約が入っているからと、昼過ぎからずっと待っているのに呼ばれない。 一服しに行くわけにもいかずイライラしていた。
イライラが頂点に達した時に、お呼びがかかった。 PM4:00入室。 30分後終了。 出てきたとたんに「痛い」としかめっ面だ。 それに涙目だったし。
お昼に痛み止めを飲まなかったらしい。 痛いのを我慢してのMRI撮影は、非常に辛かったらしく、こりごりといった感じだ。 さっそくナースステーションに行って、痛み止めを要求していた、よっぽどの事だ。 「痛い」と表現しているが、痛い痛いではないんだな。 「重い」が適当らしく、まるで背中に「子泣きじじい」が乗っているみたいだと本人談である。

私が想像するに、生理痛の子宮が肩にあるみたいな感じではないかと・・・


2001年04月02日(月)

相変わらず、痛みがあって、
ふと気が付いたのだけれど、 ずいぶんと左手の握力が落ちている。
食事をしていても、 左手で持つお茶碗が、傾いてきてしまっている。
力が、抜けていってしまっている。
歩いていると、良くわかる。 左肩が縮こまっている。
看護婦さんが、痛みを気にかけてくれて、 朝と晩だけではなく、
昼にも痛み止めを飲むことになった。 恐らく、先生の指示だろうけれど…

午後3時、抗がん剤を入れる準備のため、 麻酔科の先生がいらして、
鎖骨のあたりを切開して点滴を入れた。
抗がん剤は多量になるために、腕の血管では細すぎるという。
今日と明日は、抗がん剤を入れる準備のために、 生理食塩水を点滴している。
肝臓のデータもOKなので、明後日から開始する。 いよいよなんだ。
点滴は身動きがとれないし、抗がん剤の副作用も心配だけれど、
「治療をされる」という希望を持てたのか、 意外にも彼は、活き活きし始めた。

さっさと済ませて、退院するぞと息巻いている。
頼もしいね(^.^) この調子で、乗りきってよね。

今日で、49歳になりました。
:*:・゚★,。・:*:・゚☆お誕生日おめでとう・:*:・゚★,。・:*:・゚☆


2001年04月01日(日)

今日も元気がなく、 痛み止めは、一日に3回も服用するのはよくないと言われ、
ひたすら痛みに耐えて、 ベッドに横たわっている。
センターのまわりには桜が咲き乱れて、 花見の人々が、のんびりと歩いている。
病気でなければ、 ただお天気のよいお花見日よりの日曜日のはずなのに…
帰り道、 無口になる私を娘が気にしてくれる。

こんな想いをさせて、 ごめんね。 家族でお花見をしたのは、 4年前で最後だね。
あれから、色んなことがあって、 子供達も成長して、 どんどん時は流れていった。

疲れたなぁ…  


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