amatelasuの日記

2003年06月22日(日) バイク乗りとして。

走るという行為はエネルギーの増加を促す。

運動エネルギーは速度の二乗に比例して高まるわけだが、内燃機を使用して生身の身体ではありえないスピードで走る事は、車体とともにそれに乗った自己を通常ありえない高エネルギー体へと上昇させる事である。

素粒子物理学が粒子を加速器によって加速し高エネルギー状態にするのと同じ事をバイクは身体にもたらす。その先に待っているのは場の変容である。古典力学の通用しない高エネルギー状態での物理法則。バイクによって生身では体験不可能な速度域=高エネルギー状態は、身体に通常体験しているのとは異なった世界を提示してくる。そこは日常生活とは異なった理が支配している世界であり、日常とは場が変容している。

だからパワーがいるのだ。運動エネルギーは速度の二乗に比例して増加し、増加したエネルギーによって場は変容するが、逆に言えば場の変容をささえるのためにエネルギーを必要とする。その非日常の場を支えるためにパワーが必要なのだ。

たとえば、同じスポーツ(サッカーや野球のような)であってもプロと素人では全く異なる種目のようですらある。それはプロがその競技を極限まで高めることによって場が変容してしまうからである。

ある事柄を極限まで高揚させ続ければ、その極限に達したとき、その本質において変容する。スピードの虜となって没入するものは、その臨界点を目指しているのだ。



2003年06月20日(金) メディアを哲学する。

大澤真幸の「電子メディア論」を真面目に読み始めました。

マクルーハンは、メディアは身体を拡張すると主張したようです。現在のメディア論もたいていはマクルーハンの立場を肯定していてるようで、大澤真幸も基本的に肯定的な立場にあるようです。

ただ、「電子メディア論」を読み進めていると、どうも「メディアは身体を分離する」と換言した方がよいのではと思う論を展開している。メディアに接続することによって自己の内部に他者を抱え得る、つまり現実の自己とは別に、メディアを通じたコミュニケーションの内部にいる自己それ自体が独自に”自己”として存在し得る。それはつまり、メディアによって媒介される身体が現実の自己から分裂している、と考えることは出来ないだろうか。

電話が例に挙げられていたが、電話を通じると時に電話の中の私(それは声だけの存在である私)が現実の時空とは離れた存在として認識される事があるという。つまり、電話に夢中になり踏切の中に入ってしまった女性のような状態だ。その時、電話の中の私と現実の私は分離している、と言えるかもしれない。

ならば、電話の延長線上で携帯電話を捉えるとするなら、携帯は分離を加速するのではないだろうかと考える。つまり、いつでもどこでも使用可能な携帯電話は、いつでもどこでも現実の自己から分離した携帯というメディア上の自己を出現させることを可能とする。また、メディア上の分離した自己によるコミュニケーションが一般化するなら、自己を形成するコンテクストの一部しか共有していない関係(たとえばサークルだけの友人、趣味の友人など)までも一般化される。

自己という総体を形成するコンテクストの一部は、あくまでも自己の一部であるはずだが、メディアはその自己の一部を総体である一つの自己として出現させる。よって、メディアを媒介とするならば、その限られたコンテクストしか共有していない事実、コミュニケートする相手のごく一部しか知ることが出来ない事実は重要ではなくなる。メディアを媒介としてコミュニケートする相手はあくまで、メディア上に立ち現れた自己であり、メディアの向こう側にいるであろう現実の自己ではなくなるからだ。

そうなると、コミュニケーションにおいて共有するコンテクストが変わることによって、メディア上に立ち現れる自己は大きく変容する可能性がある。現実問題として、日常生活において対面する相手によって頻繁に自己を変容させることは困難である。あるいは、あまりに自己の変容を繰り返しているとコンテクストの混線が起こりかねない。(家庭に職場のコンテクストが混入するなど)

ここに携帯電話などのメディアを媒介させると、そこに限定されたコンテクストで構成されるコミュニケーションの場が即時に形成される。電話であれば、電話を切ればその場は即時に解体される。この形成と解体の容易性も特徴的であるが、ここでは限定的コンテクスト共有型のコミュニケーション場が形成され得る事が重要だ。つまり、携帯電話によって限定的なコンテクストで形成される自己=メディアによって分離した自己の一部によるコミュニケーションが、いつでもどこでも可能となる。この意味で、私は携帯電話はメディアによる身体の分離を加速すると考える。



2003年06月13日(金) 一心同体。

心と身体は分けられません。健全な肉体に健全な精神は宿るのです。

などど歯痛になってから思ったりする。ってゆうか、歯が痛い。歯医者に行けばすむであろう問題なのだけど、とりあえず今現在歯が痛い。そのせいか、頭痛がしてくる始末で。それとどうも腹の調子も悪い。もともと身体が弱いし体力もないのに乱れた生活してるから、こうなるのは分かりきっているんだけど。

ということで、体調が悪くて思考がまとまりません。集中力がもたないっす。なので、やはり安定した健全な思考をするには生活自体の安定がまずは必要なのですが…。とりあえず、今回の命題は「心身は切り離せない」とでもしておきましょう。僕の場合は特に定期的に体調や気分が悪くなるし、その度に何も出来なくなったりするので。

ま、基本的に僕は分けるのが嫌いなので。分析するには分類が必要だけれども、分類するのは分類間の相関を見るためであって、その分類に独立の存在を認めたわけじゃない。現実の生活の中で独立の存在なんてない。全ては関係の中で存在していて、その関係から切り離すだけの分析は現実にある事象を見たとは言えないはずだ。切り離された部分は部分という現象であって全体とは別の現象だと僕は実感する。だから、体調が悪ければ集中できないし気分も乗らない。気分が乗らないと仕事が進まない。という言い訳に繋がるわけですな。

RSのページ、更新はもう少し…待ってくださいね?とりあえず、教習が終わる頃には少しは気分も良くなってるかと思われなので。



2003年06月12日(木) 性質判断と価値判断

今回は語り系日記を久しぶりに。ちょっと触発される事があったので。

僕は誤解されやすいかもしれない。とりあえず否定してみるタイプなのは確かだが、否定したからといって嫌いなわけではない。それに、本当に判断の結果として否定する事は少ない。

僕が良く出す例に、高校の物理の先生が言っていたシマウマの話がある。シマウマはなぜシマなのか?それはシマウマであることを主張するためだ。ライオンはなぜライオンの形をしているか?それはライオンであることを主張するためだ。自然界では喰うか喰われるか。良く話をしてから他人を判断する、なんて余裕はない。とりあえず外見で敵か見方かを判断しなければならない。だから、毒をもった昆虫は毒々しい色をしている。

それにならって僕もとりあえず他人を外見、見えやすい部分で判断する。で、それでとりあえず「どうせ**だろう?」と言ってみるわけだ。どうもこの「どうせ」という言葉が否定的に聞こえるらしい。僕にとって他人を「どうせ**だろう?」と評価するのは属性に関して判断を下しているだけなのだ。そこには良い悪いの価値判断は含まれていない。

僕は性質、属性、現実といった事の判断と良い悪いという価値判断を別個に行う。それは客観と主観と言い換えてもかまわない。客観的判断を行い、その判断に対する感情から主観的判断を行う。

訂正ついでにもう一ついうと、「どうせ**だろう?」には非オリジナル批判が含まれている。つまり、分類可能であることは既知既存のありふれた存在であることだ。それに"無自覚"であることの批判である。ただし、批判は否定ではないし、価値判断とも直結しない。オリジナルでなければ価値が無いなどとは言わない。

ということで、僕が否定する、ダメだというのは性質、属性、現実などがそれの属する状況の中で大した意味や哲学を含んでいないときになる。あるいは、大して意味や価値のない事に無自覚である場合にも「ダメ」のレッテルを貼る。



2003年06月01日(日) 億病

日記の更新が一ヶ月以上空いてしまいました。
この間、僕がしたことと言えばRSのプロモを作ったことと、月姫をやったことと、卒論が全く進んでいないことと、大型の教習に行っていないことと、ninjaの車高が下がっていないことと・・・。

最近、何かをすることが出来ません。何かを始めても数時間ともたない。根気よくできるのはゲームくらい。そして、あまりに思考が散漫。本当にゲーム以外は全く何も出来ない。ま、日記が更新できるくらいには気力も戻ってきましたが。小説もぼちぼち書いてるし。また、やる気がないないと書いておきながら、これは回復の前兆だと思ったりもするのですが。


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