**Secret**..miho
*「桜が咲く頃にね…。」
2003年03月28日(金)
寒くて長い冬も終わり、季節は次第に春めいてきました。全国各地で桜の開花状況が報道される中、私が住んでいる倉敷の桜たちの開花はまだかまだかと毎日心待ちにしています。私が特に、桜という存在を意識するようになったのは、入院中に言った主治医の一言からでした。それまでは、幼稚園や小学校や中学校や高校や大学の敷地内にある桜の木が、春の卒業&入学の季節になると綺麗なピンク色で染まるという、それらの行事を彩る単なる背景のような存在でした。

2000年、二十歳になってほんの約3週間後から始まった私の入院生活…当初は学校の事ばかりが不安になっていました。休学?留年?同級生の友達とは一緒に卒業できるの…?私は心配になって、主治医にいつ退院できるのかを聞いてみました。すると、最低3ヶ月はかかりそうだと言われました。9月、10月、11月、12月…だいたいクリスマス辺りかなぁ…そう言われて、冬休み前に退院だったら、それから挽回して遅れを取り戻して頑張って試験を受けたら、何とか2学年度の単位が取れるかもしれないと思い、休学手続きは行わず、入院中もひたすら友達のノートを借りて、教科書を読んで、毎日ゆっくり療養する事もなくベッドの上で独学していました。私の病室を訪れる人たちにはもう、私といえばいつも勉強を頑張っている学生さんというイメージを持たれ、もしも私が勉強をせずに横になっていたら、今日は元気がないとか、今日は病状が悪いという判断基準にもなっていたほどでした。私にとってこのような独学はそれほど苦痛ではありませんでした。今頑張ったらきっと報われる、もしも頑張らなかったら、取り残されてしまい、その方がもっともっと辛いから。それに、勉強をする事によって学校とのつながりを感じる事ができ、自分が病気で入院しているという現実から逃避できたから…。当初の私は、病気の自分とは真正面から向き合う事ができていなかったのです。

暑い夏が終わり、短い秋を通り過ぎて、いよいよ寒い冬が訪れました。薬の副作用の影響で病棟から出る事は一切禁じられていたので、私は、病室を訪れてくる人たち以外との接触もなく、ひたすらベッドの上で、毎日できる範囲の勉強を頑張っていました。しかし、クリスマスが近付いてきても薬の量は減っていくどころかどんどん増えていき、季節は感染症が危ぶまれる真冬という事もあって、絶対に外出禁止という、いわば隔離状態になってしまったのです。私は3ヶ月間、入院当初の「クリスマス辺り」に退院という主治医の言葉を信じて、学校の勉強が遅れないように自分なりに必死で頑張ってきたのに…その時から、徐々に主治医に対する不信感や反抗の気持ちが芽生えてきました。医師としての治療本位の考え方は決して否めないけれど、当時の私としては、そこまで広い心を持ち合わす事ができなかったのです。とても悔しくて主治医を恨まずにはいられない状況で「じゃあ、今度こそ、私はいつ頃退院できるの?」と、改めて聞き直してみました。すると、主治医は「そうねぇ…桜が咲く頃にね…。」とつぶやいて、私の病室を出て行った時の事を今でも鮮明に覚えています。

桜が咲く頃…主治医は春には退院できると言いたかったのでしょう。私にとってそれはとても衝撃的な一言でした。桜が咲く時期はだいたい3月…つまり、もう2学年度の単位を諦めて、留年を決心しなければならなかったのです。前期、病気である事を知りながらも必死で絶えて頑張り抜いた努力が報われず、同級生の友達とも一緒に卒業できなくなってしまったのです。私はその現実と向き合う事を恐れ、そのような状況に陥りながらも、病院を抜け出して試験だけは受けに行こう、何としてでも取り残されないように頑張らなくちゃと、がむしゃらに無我夢中で独学を続けていきました。それは単なる現実逃避に過ぎず、「今やっている努力は無駄である」という事実を信じて受け入れたくなくて、半分正気を失って突っ走っていただけだったのでしょうね。今思えばなぜ、当時、学校の勉強という目前の事以外には盲目で、もっと大切な、自分の将来に関わる、病気の治療に専心できなかったのかと、後悔してしまいます。きっとこのような私の心構えが、自らの首を絞め、退院を延ばしていたのだろうなぁと思います。当時、私の病気の治療に携わる人たちに一切心を開けなかったのは、まさしく私が病気の自分と真っ向から向き合えていなかった事に原因があったのだと思います。

次第に主治医に反抗するようになっていった私は、耳にタコができるほど聞かされた、「あなたは今、カゴの鳥なのよ。」という主治医の言葉にも反抗するようになりました。親が帰宅して一人きりになったら、こっそりと病室を抜け出し、私の病棟の裏庭にある並木道を散歩していました。さすがに3月の上旬だけあって、外はまだ冬の寒さがかすかに残っていました。入院してから約半年後にようやく外の空気を全身で感じる事ができた感動は、今でもしっかりよく覚えています。そこにある藤棚のベンチがお気に入りの場所となり、ちょくちょく内緒でその場所へ行くようになりました。もちろんマスクも何もせずに、風邪を引く事なんて一切頭にありませんでした。

挫折感に押しつぶされて以来、病気の自分を恨み、生きる気力もなくした私は、誰にも心を開かず、誰とも接しようとはしませんでした。誰かと接すれば、自ずと病気の自分が浮き出てくるから…慰めも同情もすべて、病気の自分の無力さや惨めさを引き立たせるものに過ぎなかったから…。病気の自分なんて消えてしまえばいい…病気の自分を忌み嫌う日々は続いていきました。そんなある日、ふといつものお気に入りの場所に行ってみると、辺り一面がほのかにピンク色で染まっていました。いつも見ていた並木道は桜の道だったのです。この時、生まれて初めて桜を身近に感じました。桜ってこんなに綺麗だったんだぁ…。満開になったと思えばすぐに散ってしまって葉桜になり、いつの間にか幻想的なピンク色さえ夢のように記憶から消えてしまうようなはかない桜が、その時、私の中で大きく花開いたのです。「桜が咲く頃にね…。」約3ヶ月前の主治医の言葉が、ついさっき言われた事のように思えたのです。主治医はこの桜の事を言っていたんだぁ…。何だか嬉しくなってきて、桜の花びらを手のひらにいっぱいすくって遊んだり、形を残して散ってしまった桜の花を拾って、病室に持って帰って飾ってみました。桜は咲いたけれど…実際に退院できたのはそれから約半年後の事でした。

去年、退院してから初めてその桜の並木道を目にした時、当時の思いがそのままよみがえってきました。まるで、当時のパジャマ姿の私が桜の花に喜んではしゃいでいる姿が見えてきそうでした。そして今年も、これからまたその季節を迎える時期になりました。染色家が桜からピンク色を抜き出す時に、桜の花びらからではなく、その幹からあの綺麗なピンク色を抽出するように、桜のピンク色は花びらだけではなく、木全体の色素でもあるのです。桜色は私の大好きな色です。そして、これからも桜を見るといつでも、入院中の事を思い出すんだろうなぁ…。そしていつか、当時の思いや行為を笑って話せるほど、成長して病状も良くなっていく事を願っています。




*ピータロウ
2003年03月03日(月)
<2003年3月3日>

今日は楽しいひなまつり。夕方頃に横浜のお兄ちゃんから珍しく電話がかかってきました。自宅にかかってきて、お母さんが電話に出て、私に代わってほしいと言ったので、何か特別な用事なのかなぁと思い、ちょっと緊張しながらもしもしと言いました。「今日はひなまつりだねぇ。」私は、その予期していなかったお兄ちゃんの最初の発言に拍子抜けしました。わざわざそんな事を言いに、久々に電話をかけてきたの?!と思いながら、本当は一体何を言いたいのか、その先にある言葉を静かに聞いていました。「今朝、ひなまつりの朝にね、ピータロウが死んだよ。」その一言の数秒先に、「そうなんだぁ…。」と、私は冷静に対応したようで、頭の中は真っ白になり、呆然と立ち尽くしたまま、受話器を必死に離さずに握っていました。

お兄ちゃんがなぜ最初に、お母さんにではなく私にその真実を伝えようとしたのかは色々考えられます。お母さんはすぐにパニックになって動じる性格なので、お兄ちゃんはピータロウの死を静かに伝えたかったのでしょう。そこから、お兄ちゃんのショックもとても大きかったという事がうかがえました。しかし、最も重大な理由はきっと、ピータロウの飼い主は私だからだったと思います。

私がお兄ちゃんからピータロウの死を知らされた瞬間、私はとんでもない罪を犯してしまったような罪悪感にひどく駆られました。ピータロウは横浜のお兄ちゃんの家で死を迎えたわけですが、本来ならば、横浜ではなく私の自宅で見届けられるはずだったのです。なぜピータロウが横浜のお兄ちゃんの家に預けられなければならなかったのか、その理由は一つ…私の病気のせいなのです。

ピータロウは、私が高校2年生の夏休みの時に飼い、ヒナから育てた手乗りインコです。以前に飼っていた白文鳥のピーコが亡くなって以来、寂しくなって再び飼い始めたわけですが、ピータロウはインコだけあって、私の声や言葉を真似したり、一緒になってゴニョゴニョとおしゃべりをしていました。毎晩カゴから出して私のお部屋に連れていっては、学校の教科書やノートやプリントをかじったり、大事な書類の上にフンをしたり、机の上から色々な物を落としたりと、いたずらばかりしていました。

そんなまるで姉弟のように仲良しだったピータロウとの最初のお別れは、私が入院をした時の事でした。私は丸一年間入院をしていたために、その間はずっとピータロウと一緒に遊ぶ事は不可能でした。その上、それ以来ずっとピータロウはカゴから出してもらえなくなり、手乗りインコだったピータロウは、ただのカゴの鳥になってしまいました。私の声を聞く事がなくなったせいで、以前は話す事ができていた色々な言葉も全て忘れてしまい、最後は一言「ピータロウ」としかおしゃべりできなくなってしまいました。

私が入院してちょうど一年後、やっと退院の目処が立ってきて、ようやくピータロウとまた一緒に暮らせると喜んでいた頃に、その話を聞いていた主治医がいきなり、「ペットなんてとんでもない!!」と言い出したのです。動物、特に鳥は病気を脅かす細菌やカビを持っているので、野生の鳩にも近寄ったらダメだと注意されたのです。それを聞いた両親は、それは困った困ったと慌てて、ピータロウをどうしようかと悩み、結局ピータロウは横浜に住んでいるお兄ちゃんの家に預けられる事になったのです。

ピータロウが横浜へ連れて行かれる前日の夜に、お父さんはピータロウをキャリーバッグに入れて病院まで持って来てくれました。「明日ピータロウをお兄ちゃんの家に持って行くからね。」と、最後にピータロウの姿を私に見せに来てくれたのです。私はその時、そのキャリーバッグを持って逃走しました。「横浜になんて連れて行かせるもんか!!」そのように思いながら、泣きながらピータロウと一緒に隠れていましたが、結局最後は見つかって、主治医に説得されました。

退院してせっかく家に戻って来れたのに、ピータロウが以前いた鳥カゴの中は空っぽでした。「ここにいなくても、お兄ちゃんの家で元気に暮らしていると思えば、寂しくないでしょ??」両親はそう言って私を励ましてくれました。とても辛かったけど、またお兄ちゃんの家に遊びに行ったらいつでも会える…そして、私の病気が良くなって、免疫抑制剤を飲まなくても良くなったら、再び必ずこの家にピータロウを連れ戻すんだって自分に言い聞かせて、ピータロウのいない寂しさをずっとこらえてきました。

去年の春休みにお兄ちゃんの家を訪れ、ピータロウに再会しました。私の事はもう忘れているようだったけれど、元気そうだったのでひとまず安心しました。それにしても都会は、動物が住むには環境が悪過ぎる…私の家だったら、毎日外から鳥の声がして、ピータロウはいつもその鳥たちと仲良くおしゃべりをしていました。しかしお兄ちゃんの家の中では、聞こえる音はただの車の騒音だけでした。近所は道路や住宅密集地だったので、窓の外に鳥カゴを出してあげる事は一切なく、お兄ちゃんは昼間お仕事で留守をするので、ピータロウは日光もろくに入らない薄暗い窓辺で一匹、毎日どのように過ごしていたのだろうか…。

お兄ちゃんが言うには、ピータロウは今朝からカゴの下でぶるぶる震えながらうずくまっていたようです。昨日はお兄ちゃんもずっと家にいたらしく、久々に敷き紙を変えてあげたようで、昨夜は変えたばかりの新しい新聞紙の上で、バタバタ暴れていたようです。ここ3日、エサもあまり食べなくなり、声を出す事もあまりなかったようです。そして今朝、最後の一羽ばたきをして、息を引き取ったようです。私はお兄ちゃんの描写をただ聞く事だけしかできず、ピータロウを最期まで自ら見取ってあげられなかった…その罪悪感で押しつぶされそうになりました。私が病気にならなかったら…私の病気のせいでピータロウは犠牲になってしまった…私がピータロウを不幸に陥れてしまった…もう一度この手でピータロウを温めてあげたかった…

春、特に3月は季節の変わり目で、暖かくなったと思えば急にまた寒くなったりと、気候も不安定です。私にとって春は、あまり良い思い出はありません。昨年の3月にはおじいちゃんが亡くなりました。以前に飼っていた白文鳥は4月に亡くなりました。その前に飼っていたインコは、3月のお父さんのバースデーに亡くなりました。しかし、春は終わりでもあるけれど、始まりでもあります。春と言えば桜…私の大好きな桜色の季節が今年もまた訪れようとしています。毎年、大好きな桜を見ながら、私はどのように成長していくのだろう…。


<2003年3月7日>

今日の午後2時過ぎに宅急便が届きました。その小さな箱には「手作りクッキー」と書かれており、壊れ物注意という表示のため、宅配人はとても厳重に届けてくれました。それはお兄ちゃんからのもので、当然私は中味が手作りクッキーではなく、私の親愛なるピータロウであるという事を知っていました。

私はまず、お帰り♪と言いました。そして、喜び以上に恐怖心に駆られながら、何重にも丁寧にラッピングされたその箱を少しずつ開けていきました。まず目に入ったものは、懐かしいピータロウのおもちゃでした。ピータロウの相棒であった小鳥のお人形さんと、私が高校時代にバッグにぶら下げていたプラスティックのカラフルなチェーン。これはピータロウのお気に入りの遊び道具でした。それらはお墓の上に置いてあげる事にしました。

最後に、ピータロウを包んでいる綿が見えてきました。その時、チリンと音がしたので、何だろうと思いながら綿を少しずつ取り除いていくと、鳥の形をした鈴が2つ出てきました。一つは買ったままの袋に包まれていて、もう一つは袋から出されていて、ピータロウと一緒に綿の中にうずもれていました。袋に入った方の鈴には、「みほに。ピーちゃんとおそろい!」と書かれてありました。すると、もう一つの鈴は、ピータロウと一緒に埋葬するためのもの…?!これは、お兄ちゃんの私への思いやりでした。例えピータロウとはもう二度と会えなくても、この鈴が私とピータロウをいつまでもつなぎとめていてくれるから…だから寂しくない…そして、いつまでもピータロウの事を忘れる事はないよ…。この鈴はお兄ちゃんがくれた、ピータロウと私の一生の宝物だよ。

綿を全て取り除き、中から懐かしいピータロウの姿が現れてきました。ピータロウがこの家に戻ってこれたのは、約1年半ぶりかなぁ…。生きて帰ってきてほしかった…でもピータロウは、離れている間、寂しくて辛くて苦しい思いをしながらずっと、ここへ再び帰ってくる事を待ち望んでいたのかもしれない。そう思うと、今日やっとここに帰ってこれたんだね♪これからはずっと、ピータロウの近くにいるからね。と、言ってあげたい気持ちでいっぱいになりました。

ピータロウの姿は昔とちっとも変わっていませんでした。私がこの家でピータロウと一緒に過ごした思い出は、約2年も前の事ではあるけれど、その名残は今でもくっきりと私の記憶の中に留まっています。家中のピータロウがいたずらをした形跡も、今でも生々しく残っています。たった約5年半の寿命は短すぎでした。その内、飼い主の私はたったの3年間しか一緒に過ごす事ができなかったなんて…。本当に悔やみ切れません。若くして息を引き取ったピータロウの姿は、毛並みもまだ十分に綺麗で、とても死んでいるようには思えませんでした。

インコは自殺をするとも言われています。それほど繊細な心を持った動物なのです。こんな小さな体で、さまざまな逆境や精神的なストレスと闘いながら生きてきたんだなぁと思うと、本当に胸が痛くなります。動物には罪はないのに、人間の都合で一生涯の運命を左右させられて…。そう思うのはきっと、私がピータロウに対して満足のいくほどの愛情を注いであげられなかった後悔の気持ちが、ひたすら自分を責め続けているからだと思います。おしゃべりインコは長生きをするんだよと、小鳥屋さんの店員さんに言われた事を思い出すと、ピータロウはもっともっと長生きできたはずなのにと悔しさと悲しみでいっぱいになるのです。

今日の天気は悲しくて冷たい雨でした。まだ生きているようなとっても綺麗なピータロウの体を、冷たくて暗い土の中に埋めてしまうなんて…。それでも早く土に返してあげなければ、いつまで経っても天国へ羽ばたいていけないような気がしたので、雨の当たらない縁側の隅に埋めてあげました。ピータロウの大好きだった庭のお花と、大好物だった白菜と、私とおそろいの鈴と、お兄ちゃんからのメッセージも一緒に埋めてあげました。その上には仲良しだった相棒のお人形さんを置いてあげて…。ピータロウのお墓が完成だぁ(*^_^*)♪
これからはずっとずっと一緒だからね。




--春休み--卒業と就職活動と病気の私
2003年03月01日(土)
来年卒業予定の学生たちは、この春休みをどのように過ごしているのでしょうか。私は病気で入院していたために一年間留年をしたので、4月からは二度目の4年生となります。大学によっては、留年をすると同じ学年を繰り返す事になる所もあるけれど、私の大学では、留年の分だけ卒業が延びる、つまり4年生を何度も繰り返す事になります。

3月10日は同級生の卒業式です。本来ならば、私も出席していたはずの卒業式…。退院以来、もう大丈夫と自分の心に言い聞かせてきたものの、実際に当日が近づいてくるとやっぱり不安や寂しさでいっぱいになります。

そして現在の春休み…。街へ出ると、リクルートスーツをビシっと決めて、自分のやりたい事、夢に向って必死に就職活動を頑張っている人たちの姿をよく目にします。本来ならば、私も頑張ってやらなければならない事なのでしょう。けれど、私は就職活動には一切手をつけていません。そして、私の事を知っている人で、その事を非難する人は誰もいません。

一体この体で、社会のために役立つお仕事ができるのでしょうか。そのような理由ならばおそらく、病気を口実にして働く事から逃避しているだけになるかもしれません。それに、それでは私のプライドが許しません。私は、全てを徹底的に頑張らなければ気が済まないという、単なる過度な意地っ張りとも言えるほどの完璧主義な性格だからです。そんな私にとって、同級生との卒業と学生時代の就職活動を諦めるという行為は、とても心痛な決断だったのです。

もちろんその背景には、自分が病気だからという理由が大部分を占めているのですが、例え病気でも、今まで通り無理を通してでも意地でも頑張ろうと思えば、卒業は無理だとしても、卒業後の就職のための準備はできるかもしれません。しかし、無理はもうできない体…無理をしてまた病状が悪化したら再入院…そのように主治医から言われているために、どうしてもここでストップをかけなければならない状態なのです。

私は入院中、主治医に「死ぬから」と言われて禁じられていた事を、それが真実かどうかを確認するために、その限界に挑戦するような人間でした。ですから、もし今でも当時の私のままであれば、おそらく、他の学生たちと同様に就職活動をがむしゃらに頑張って、卒業後も病気である事を考慮せずに普通に働こうと頑張っていくと思います。それが私の本望だったからです。例え病気であっても、人並みに生きていきたいと望んでいたからです。

しかし、病気の体に逆らって、限度を超えて無理をするという事が、自分の体を痛めつける結果をもたらすという事を、必ず後で実際にその痛みから知る事になるのです。それを知ってしまった今はもう、過度に無理をする事はできないのです。例えもしかしたらできるかもしれないという可能性を信じていたとしても、出し切るパワーはできる範囲内に抑える事にして、もうこれ以上病気の自分を傷つけたくないのです。

もちろん、すっきり納得しているわけではありませんが、病気の自分と上手に付き合っていくためには、自分の病気をよく理解してマイペースに生きていく事だと分かったので、とりあえずは自分なりの人生を精一杯に歩んでいこうと決心しました。病気である以上、今まで通り、他の人たちと同様には生きていけない…それは、私と同じような境遇にある知り合いの人たちから教わりました。「病気だから…」その言葉は悲しく思われるかもしれませんが、それをきちんと受け止められなければ、ただ過去の過ちを繰り返すだけで、これ以上前に進めないのです。

大切なのは、何が一番大事なのか…何を一番に優先すべきなのか…それを正確に見極める事だと思います。個々の人生は、そこから始まっていき、一人一人の価値観が違うために、それぞれの人生が個別に独特なものであるという事を再確認しました。何も他の人たちと同様に生きていく必要もないし、私は私、私なりに自分らしく生きていこうと思います。

今年卒業をする人たち、現在就職活動を頑張っている人たち、自分の一番やりたい事、夢をぜひ実現させて、自分だけの唯一の人生を全うしてください。例え思い通りにいかなくても、あなたの人生は途中で消えてしまったりはしないし、いつまでもあなただけのものなのですから。




m a i l



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