Sun Set Days
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2002年11月29日(金) 送別会

 今日は送別会だった。最後ということもありみんなは飲ませようとしてきたのだけれど(今日こそは潰れてもらわないと、とか言われて)、結局ビール一杯にコーラにウーロン茶ですます。やれやれ。
 いろいろな話が出てきて、いつものように笑う。
 来週にはもう新しい環境で働いているというのがなんだか信じられないような気がする。
 けれどもまあ、これもすべて紛れもなく現実で、やや急過ぎる話であるにしても、ずっと希望していたことだ。
 頑張ろう、と帰り道であらためて思った。
 部屋に帰ってきたら、ちょっとしたトラブルで遅れていた引越し用の段ボールが玄関の前にようやく届いていて、月曜日の引越しは間に合うのだろうかとほんの少し思う(明日も仕事だし)。
 でもまあ、後はもう一気に準備をしてしまう他はない。
 そして、来週にはまた別の場所で少しずつ知っている場所を増やしていくのだ。
 少しずつ。


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 お知らせ

 何だか最近は妙に慌しいのです(先週から1週間で3度目の飲み会ということもあるとは思うのだけれど……)。


2002年11月26日(火) 少しずつ

 今日は20人での飲み会。とても楽しい飲み会になったということもあって、めずらしくビールを3杯飲む。

 頭痛い……

 人に言わせればお酒自体の魅力がいまいちわからないということで人生の何割かは損をしているらしいのだけれど、愉しむ前に頭が痛くなるのでこれは体質的に仕方がないなと思う。1杯2杯で頭ががんがんするという感覚は、お酒に弱い人でないとわからないのかもしれない。結構大変なのです。実は。

 あと、後輩から異動になるとのことでちょっとしたプレゼントをもらう。そういうのってやっぱり嬉しい。


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 引越し会社も決まり、明日には段ボールも届く。来週頭には引っ越すことになるので、この週末は引越しの準備で忙殺されてしまうような気がする。
 まあ、引越し自体はもう慣れているので(大変ではあるのだけれど)、大体流れは掴んでいる。段取りも随分とうまくなったと思う(入社時を含めると社会人になって5回目の引越しだし)。
 そして、すでにもう新しい部屋をどういう配置にしようかとか、そういうことを考えていたりする。
 そういうのが楽しいのだ。
 物件の間取りをコピーしたものに、ペンで書き込みを入れたりして、この部屋にこれを入れようとか、そういうことを考えている。
 引越しはパワーがいるけれど、おっくうさよりも楽しみが先に立つのでいいなと思う。
 気分をリフレッシュというか、そういうところもあって。


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 お知らせ

 午後の紅茶のレモンとハニー(ホットのやつ)がおいしいなと思うのです。コンビニとかで売っているやつ。


2002年11月25日(月) 知恵蔵

 先日、『知恵蔵』を買った。毎年、同じ時期に示し合わせたように発売される3種類のうちの1冊だ(残り2冊は『イミダス』と『現代用語の基礎知識』)。
 個人的にはどれでもいいので(そんなに内容が変わっているとは思えないし)、結局付録で決めることが多い。
 それで、今回は「とっさの日本語便利帳」という付録に惹かれて『知恵蔵』を購入することにした。
 これは、季語とか、記念日とか、ビジネス用語とか、覚えておくと損はないようないくつもの言葉をまとめたもので、国語辞典の巻末に付いているような付録だけを1冊の本にしたようなものだ。
 もちろん、中には便利と言われても実際使わないよなというようなものもあるのだけれど(外国の国名を漢字で書くとどうなるかとか、メール言葉とか)、それはそれで結構面白い。
 たとえば、メール言葉のページには、「おなクラ」=「同じクラス」とか、「じゃねバイ」=「じゃあね。バイバイ」、「ロイホ」=「ロイヤルホスト」とか、なんだかなあと思えるような略語が多数紹介されている。「じゃねバイ」なんてはじめてみたけれど、確かにメールの場合は様々な言葉を短縮した方が早く打つことができるので重宝するのかもしれない。
 じゃねバイか……
 けれど、この付録は本当に便利だ。
 たとえば、こんなことも載っている。


 星のささやき

 屋外の気温が氷点下50度以下になると、人の吐く息が耳のあたりで凍り、かすかな音をたてる。シベリア東部のヤクートでは、この音を”星のささやき”という。(「四季の言葉」のコーナーの単語。31ページ)


 はじめて知った。思わず厳寒のシベリアを頭の中で思い浮かべてしまう。フードをかぶった鼻水も凍るほどの寒さの中にいる2人組なんかのイメージを。


『知恵蔵』とかって、ぱらぱらとめくって読んでいると、結構様々なことを知ることができておもしろい。というか、自分があまりにも多くのことを知らないことにあらためておどろかされてしまう。もちろん、すべてを知り得ることはできないし、そうする必要もないとは思っているのだけれど、それでも世界はあまりにも多くの事柄から成り立っているのだということをまざまざと見せ付けられてしまうような気がする。インターネットもそうだけれど、こういう本もやっぱり便利だ。自分の専門外の、様々な事象をわかりやすく、シンプルに説明してくれているもの。

 そして、様々なことを知らないという意味で言えば、僕はいまいわゆる全国紙をとってはいないし、夜のテレビのニュース番組だって見ていない。
 ニュースはネットのニュースサイトで結構事足りてしまうと思っている。
 もちろん、それでは絶対量として少ないのだろうけれど、職場にも新聞はあるし、ニュースはある程度知ろうと思えば果ても切りもないため、それくらいがちょうどいいんじゃないかとも思うのだ。一時期、結構しっかりと新聞を読んでいた時期もあったのだけれど、多くのニュースは忘れてしまうし、読むためにかける時間の方が、そのニュースに付随する物事から得られるものよりも、圧倒的に多いような気がしたのだ。収支がマイナス、という感じ。
 それに対して、ネットのニュースは見出しのみで興味を抱いたものだけクリックすればいいわけだから、都合がいい。
 興味のあるニュースだけを知っていればいいという考え方はもしかしたら偏っているのかもしれないけれど、それでも時間は限られているのだから、一日を自分なりの優先順位で線引きを行っていかないと、あっという間に埋まってしまう。
 それなのでいまは、これでいいかなと思っている。ニュースは新聞じゃなくネットで確認するというやり方で。


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 お知らせ

 ヨドバシカメラから「POINT NETWORK」が送られてきました。ボーナス前になるといつもくるやつ。物欲が……


2002年11月24日(日) 変化+『マイノリティー・リポート』

 たとえば、時間が進んでいることを実感するために、必要なことは何なのだろうと思う。
 自分が年をとったということを実感するためのいくつかのこと。
 しわが増えてきたとか(?)、
 体力がなくなってきたとか、
 記憶力が弱まってきたとか、
 そういう内部的なことももちろんそうだろう。
 それとは別に、環境的なこともあるのかもしれない。
 たとえば、一番下っ端だったはずなのにいつのまにか後輩に指示を出しているとか、
 友人の子供の写真がついた年賀状が送られてくることとか、
 家族の数が変わっていくこととか、
 本能的に変化を畏れる人とそれを積極的に受け容れる人とがいて、けれども変化は否応なく訪れてくるのでときどき戸惑ってしまうときがある。
 率直に言って、変化を受け容れることはそんなに苦手じゃない。
 随分と様々なことが変わってしまった、とちょっとだけ思うことがあっても、それはそれで現実として受け容れるべきだしその中でまたできることとしたいことをちゃんと把握しようと思うだけのことだ。
 けれども、ときどき思う。変化の中には、そんな悠長なことを言ってられない、たとえば空から無数の星が降ってきて、ビルというビルを根こそぎ破壊してしまうような変化もあるのではないかということを。
 空は地上から見上げている分にはとても美しいし奇麗だけれど、実際に降り注いできたら立っている大地が根底から揺り動かされてしまう。
 遠くて美しく見えるのに、近付くと圧倒的な破壊力を持っているもの。
 そういう変化もあるのではないかと思う。
 もちろん、たとえ無数の星が降ろうとも、誰もがその圧倒的な破壊をよけながら、あるいは傷を負いながら乗り越えていかなければならないのも確かなことだ。
 星は大地をえぐるように大きなクレーターをつくり、山をくりぬき、南極の氷を溶かす。
 それでもなんとか耐え忍ばなければならないし、そうすることをやめてしまったらカタストロフィーものの映画に出てくる群衆のように、変化の最初の方で犠牲になってしまうのかもしれない。
 もちろん、いまのところはそういう変化は起こってはいない。もっとずっと緩やかで、穏やかな変化の方が多い。時折、突風が吹きつけるような変化もあるけれど、それだってどうにか受け容れることができている。
 変化。
 きっとこれからもいろいろなことが(穏やかなものも、そうではないものも)起こるだろうけれど、しっかりとそれらを超えて行きたいなとは思う。

 ……少し前に、ある人から来た話なのだけれど、人生には3つの坂があるそうだ。
 それは、「上り坂」と「下り坂」と「まさか」で、そういう坂に対するときにその人の人間性が出るのだとのこと。
 なるほど、と思う。
 なるほど。


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『マイノリティ・リポート』を観た。横浜にある相鉄ムービル。
 先々行上映だったのだけれど、大きな劇場が結構埋まるほどで、期待度の高さが伺われた(特別プレゼントということで、ポスターのような1枚物のカレンダーを配っていた。貼らないのに……)。
 ストーリーは、未来の世界では、3人の予知能力者の力によって、すべての殺人は発生する前に予知され、起こるはずだった殺人は特殊チームの活躍によって未然に防がれるようになっていた。それによって、危機的な数にまで増えていた殺人事件は激減していたのだ。
 主人公であるジョンは、その予言を下に殺人を予防するチームのチーフだったが、ある日自分が数日後に見知らぬ人を殺すと予言される。追う立場だったのが、急遽追われることになるジョン。それを自らを陥れる罠だと思ったジョンは、「誰もでも逃げる」と、逃走を試みる。
 チームの持つ武器や能力を知り尽くしているジョンは、かつての同僚に追われながらも寸でのところで逃げおおせ、逆に自らの無罪を立証するために情報を集めていく。けれども運命は皮肉にも、予知された状況へとジョンを追い詰めていく……

 面白かった。夏くらいに、気の早い予告編を観たときから観たいなとずっと思っていて、いよいよ観ることができた。
 映画はもうここまで来ているんだという感じ。スピルバーグが描く未来の世界は、現在の技術の進化の延長線上にあるのだろうなと違和感なく思えるようなものばかりで、誰もが瞳孔の光で識別されるような世界は嫌だなと思いつつも、観ていて引き込まれた。

 たとえば、ジョンが勤務先からマンションに帰ってくるときには、ハイウエーから自分のマンションの壁際を上っていく車に乗っていて、マンションの窓に車が横付けされると、窓が開く。そして部屋の中に入ると、すべてのスイッチがついて、「ライト」と言うだけで蛍光灯のような明かりがつくようになっている。そして、コーンフレークは箱に印刷されている動物達が楽しげに動いて騒いでいたりする。パソコンに透明なプラスチックのような板を差し込むと、大型スクリーンに立体的なビデオカメラの映像が立ち上がってきたりもする。
 あるいは、街を歩いていると、瞳孔で個人が識別され、街中の広告が自分の名前を呼びながら、購入を訴えてくるようなものになる。「ジョン、疲れを癒すために旅に出てはどう?」とか。そしてGAP(未来の!)に行くと、ホログラフィーの店員が「いらっしゃいませ! 先日買ったシャツはどうかしら?」というようなことを訊いてくる。
 ありそうな未来だ。

 だから、この映画はそういう未来予想図的な様々なギミックを見ているだけでも結構楽しい。途中で出てくる特殊な服に身を包んで個室に入ると、自分がハリウッドのスターになってたくさんの人の拍手喝采を得ていたり、女になっていたりする状態をバーチャルリアリティーで体験することのできる娯楽施設なんかもあったりするし。

 2時間20分以上の長い映画だけれど、何が起こるのかをしっかりと見ておきたいと気の抜けないようなところがあって、引き込まれて観ていた。
 トム・クルーズは相変わらずかっこいいし。

 SF映画はついにここまできたということを観るためにも、ぜひ映画館で!


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 お知らせ

 週末に同僚たちとしゃぶしゃぶを食べに行ってきたのですが(食べ放題のところ)、やっぱりしゃぶしゃぶとかすき焼きとか焼肉はいいですね。


2002年11月20日(水) 提供

 ほとんどテレビをみないのだけれど、それでももちろんたまにテレビをつけることはある。
 そして、最近ある傾向があることに気がついた。
 それは、商品や映画が番組のスポンサーになっているということ。
 そんなの別にいまに始まったわけじゃないよと言われそうだけれど、それはそれでまあ世間の流行にうといからね……

 何に気がついたのか具体的に言うと、提供のところで様々なメーカーの他に、


 PlayStation2


 ハリーポッターと秘密の部屋


 という文字が混じっているのだ。
 そういうのって、なるほどなあと思う。企業がスポンサーになり、売り出したい商品のCMを流すのはもちろん効果的だけれど、それよりもある商品一点を集中的に売り出したいのであれば、ときに商品名やサービスそのものを提供にしてしまうということ。
 それは確かにインパクトがあるし、「あれ?」とか「お。」というように思う。

 ということで、それだったらこういうのもありなのではというのをちょっと考えてみよう。




「……『クイズファイヤーボンバー』、この番組は、


 マッチ


 ライター


 の提供でお送りいたしました」





「……連続ドラマ『星崎少年野球団』、この番組は、


 バット


 ミット


 の提供でお送りいたしました」




 というように、もうすでに身の回りになじんで、当たり前となってしまったものたちに再びスポットライトを当てるのだ。
 どうだろう、そういうのって?
 意外と、身の回りのものだけに見直してみたり、そっか……ライターって便利だよなあと再評価されたりするかもしれない。
 そういう取り上げ方もありだとは思うのだけれど。
 他にも、「きのこの山」の提供でお送りしましたとか。あえて定番品を再び出すような感じで。結構きのこの山の売上げが伸びるような気がするのだけれど。
 そうでもない?


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 お知らせ

 Linkにあまがえるさんの『深海魚宅配便』を追加しました。
 Fragments16『A calm and a storm』をアップしました。


2002年11月19日(火) 準備

 いよいよ異動(および引越し)の準備がはじまっていて、今日は職場に引っ越し業者から電話が入る。僕の勤めている会社では大体2社に見積もりを取らせて安い方の業者で引越しを行うので、さっそく2社とも連絡がくる。片方の業者は後輩曰く「とんでもない」業者とのことなので、荷物を多く申告しようとか軽く心の中で誓ってみたり。
 また、ネットでいくつか調べていた物件候補の中から、いいなと思った物件の間取りのFAXを送ってもらったりもする(それにしても、たとえばISIZEとかネットに間取りをのせない業者が多いのにはちょっとがっかり。ネットで外観も間取りも全部見ることができたら便利なのに。もちろん、そういうふうにしていると、実際店頭にお客が足を運んでくれなくなるから、業者としては困ってしまうということなのだろうけれど)。

 そして、ある業者に電話をかけて、土曜日に部屋を見せてもらいに行くということを伝える。いい部屋があればいいのだけれど。
 正直な話、いまの部屋が気に入っているので、引っ越すのは結構さみしいのだけれど、新しい部屋を探すのはそれはそれでやっぱり楽しい。
 急な話なのでものすごくたくさんの労力をかけてとはいかないけれど、それなりにはちゃんと見よう。

 それにしても、転勤がある程度ある仕事をしていて、いままでも引越しを結構してきたので、ある程度条件が合えばそこでOKとなってしまうことが少なくない。結局は、その部屋の中でどう過ごすのかということの方が大事だと思っている部分があるからだ。もちろん、間取りは大切だし、細々とした点だってポイントとなることは少なくないということだってわかっている。けれども、結局はその部屋の中で暮らす自分が納得して暮らせていたらそれでいいんじゃないだろうかと思うのだ。

 だから、ある程度条件をクリアしていたら、あとはその部屋をお気に入りにするために自分で工夫をすればいい。ちょっとずつ集めてきた雑貨だってあるし、読んできた、あるいは読みかけの本も、繰り返し聴いてきたCDだってある。
 少しずつ休日を利用して、お気に入りの部屋をまた作っていこう。

 それにしても、ちょうど1年11ヶ月ほどで引越しなので、いつも新鮮でいいなあと思ってみたり。


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 お知らせ

 手続きばかりスムーズにこなせるようになってくるのは、どうなのだろうとちょっとだけ思います。


2002年11月17日(日) 『いつか記憶からこぼれおちるとしても』+いろいろ

『いつか記憶からこぼれおちるとしても』読了。江國香織。朝日新聞社。

 96年や97年に「小説トリッパー」という雑誌に掲載されていたゆるやかな連作短篇に、書き下ろし短篇を加えた作品集。
 先日、別の本を探しに行った書店で偶然見つけ、速攻で手に取り、そしてすぐに読んでしまった。
 まさか新刊が出ているなんて思ってもみなかったから、ちょっとした嬉しいサプライズだ。

 ゆるやかな連作、というのはこの本の主人公たちがほとんどみなある女子高の同じクラスの少女たちで、短篇ごとにそれぞれ主人公が異なっているという意味でだ。たとえば、最初の短篇の主人公はある4人組の1人で、別の短篇では4人組のまた別の1人が主人公になっている。他にも、その4人組とは異なるグループにいる少女が主人公になっていたり、どのグループからも外れているような少女が主人公になっている作品もある。
 駅の中で女性の痴漢にあうある悩みを抱えた少女の話や、親友が壊れていくのを見ているほかはない少女の話、ある旅に出ることを夢想している少女の話……いずれにしても、17歳の、女子高生たちの断片がそこには収められている。僕は男なので、おそらく女の人にはもっとこの小説は共感を得るところが大きいのだろうなと思うのだけれど、それでもそういう時期のぎこちなさや中途半端さ、そして何かをつねにもてあましているようなところは感じることができた。そのもてあまし方が、少年と少女とではやっぱり微妙に(だからこそ決定的に)異なっているのだろうなと思う。やっぱりこのくらいの年齢だと、女の人のほうが精神年齢のようなものが高い……。

 文章はいつもの江國さんのもので、ひらがなもやっぱり多い。江國さんの本を読んでいると、文章の中のひらがなの割合のようなものについて、ひらがなに「おろす」漢字の選び方について、いろいろと考えてしまう。そういうところにも、個性のようなものが出てくるのだろうなと思う。これは安直なイメージだけれど、村上春樹の小説の文章を思い返してみると比喩のことが印象的だなと思えるし、江國香織の場合はやっぱりひらがなの使い方が印象的だ。あと、他には吉本ばななの場合は文章での感情の表わし方について思う。それぞれ好きな作家で、思い返すところは異なるけれど、やっぱりどこかに共通するトーンのようなもの(自分にとっての)があるのだろうなと思う。


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 最近はいろいろと慌しかったりする。
 ついに異動が決まり、引越しをしなければならなくなったり(横浜市在住というのはかわりないのだけれど)、3つ隣の駅に住んでいる恋人ができたり。異動も結構急な話なので、来週から引継ぎ等の準備をしなければならない。それが師走といえばまあそうなのかもしれないけれど。

 それでも、この週末は満喫。遊んだし本も読んだし、映画も観た。

 まず、本は2冊。ともにエッセイ集。

『タケノコの丸かじり』読了。東海林さだお。文春文庫。

 いつもの大好きなシリーズの文庫の最新刊。いつもながらくすり、にやりとさせられてしまう。

『ほんじょの鉛筆日和。』読了。本上まなみ。マガジンハウス。

 恋人が貸してくれた本。ananで連載していたエッセイをまとめた本。本上まなみがこういう独特の文章を書く人だとは思っていなかった。これも思わずくすりとなってしまうような内容がたくさんある。『tokyo.sora』にも出ていた人だし、個人的には結構タイムリーな感じだった。

 映画も2本。

『マーサの幸せのレシピ』

 新宿のタカシマヤタイムズスクエアの中にある映画館で。あの映画館はすごい! まるでクラシックでもやりそうな急勾配のホールのような映画館。デパートの12階の奥にひっそりとあって、思いがけず非日常的な空間だった。はじめて訪れた映画館だけれど、かなり印象的だった。また、そのフロアからはデパートの一角にある展望台のようなところにでることもできて、随分と寒かったその場所からは、紅葉の鮮やかな新宿御苑が思いがけず近くに見えた。

 また、映画は予告編から想像していたようなものとは違ったのだけれど、劇場に入る前、初日ということで瓶に入ったジャムをひとつずつに配っていた。アプリコット味のジャムをもらう。映画館で初日の特典をもらうのははじめて。

『ショウタイム』

 こちらはいつものシネマコンプレックスで1人で観た。設定はとても興味をそそるのだけれど、少し消化不良な感じ。でも、デ・ニーロはやっぱりいい俳優だと思う。


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 お知らせ

 Bbsにも書いたけれど、TLCのニューアルバム『3D』の4曲目と8曲目がとても好きなのです。


2002年11月15日(金) 夫婦の通知表

 私のパパとママは、お互いの通知表を送りあっていた。春夏秋冬、季節の終わりに。学校に行っているわけでもないのに、わざわざお手製の通知表を作ってお互いに交換していたのだ。
 まだ小さかった頃、私はどうしてパパとママは通知表を渡すの? と訊ねたことがある。ただ単純に不思議だったのだ。私にとって通知表はあまりありがたいものではなくて、それほどよいイメージのものではなかった。だから、そんなものを大人になってまで交換するなんて、全然信じられなかったのだ。
「ママたちの通知表はね、ユカリちゃんのとはちょっと違うの」
 お菓子作りが趣味でいつも部屋の中で忙しそうに立ち働いていたママは、微笑みながらそう言った。
「どう違うの?」
 ともちろんまだ小さかった私は訊ねた。その頃の私はいろいろなことを訊ねていた。どうしてお空の雲はときどき雲や魚に似ているのか、どうして朝に雪をじっと見ていると目がしばしばするのか、どうして息は寒いときだけ白く見えるのか。それから、どうして手袋は暖かいのか、どうしてマフラーは暖かいのか、どうしてかまくらの中だと外より暖かいのか……とにかくいろいろなことを訊ねていた。ママやパパは私のそんなつたない質問に、丁寧に答えてくれた。
「そういうものなんだって最初から思わないことが大切なんだ」と眼鏡をかけたパパは言った。
「いつも見えているものをよく見てみるのね」と髪の長いママは言った。

 私はきっと愛されていた子供だったのだと思う。2人の目は、手は、それに愛情は、私のほうに注がれていたから。

 通知表の話に戻そう。
 まだ小さかった頃、私は一度ママの通知表を見せてもらったことがある。そこには、3つの枠しかなかった。

「家族のこと」

「2人のこと」

「自分のこと」

 そのそれぞれの枠に、パパの細い字がぎっしりと埋め尽くされていた。私はそのママの通知表が、パパによって書かれているのだということを理解した。内容はずっと忘れていたのだけれど、久しぶりに実家に帰ったときに荷物の整理をしているときに、偶然その通知表の束を見つけた。それは不思議な感覚だった。まるで偶然迷い込んだ森で、歴史的偉人の墓を見つけてしまったみたいだった。私は和室の畳の上にジーンズ姿のまま座り込んで、目の前に広げた通知表をゆっくりと広げてみた。

 通知表は、季節毎に違う色の紙に書かれていた。春はピンク色で、夏は青や緑、秋は赤や黄色やオレンジ、冬は白やグレー。サインペンに定規を当てて引いたような線が何本も引かれていた。そして一年分毎に紐で綴じられていた。私は紐をはずし、それからゆっくりと広げてみる。

 たとえば、通知表の1通にはこう書かれていた。




「家族のこと」

 この夏は、いつものように道東の海に行きました。いつものように温泉に入って、また夏が終わることを家族で確認することができました(星がとてもきれいでしたね)。来年も同じようにどこか別の海沿いを車を走らせながら、後ろの席で子鹿みたいに眠っているユカリをバックミラー越しに見つめながら、2人で小声で囁きあいましょう。また来たいねって。あなたはいつものように、あの言葉をまた囁くことでしょう。「もうこんな遠いところまで来てしまった」って。いつもの、毎年の、同じ台詞。
 本当に、随分と遠いところまで来てしまったと、今年もやっぱりそう思いました。けれども、もっとずっと遠くに行きましょう。この世の果てまで。はじまりの場所さえ思い出せないくらい遠くに。

 この夏もボクたち3人は合格点をつけられたと思います。誰も風邪も引かなかったし(ユカリはついに歯医者通いを始めましたが)、沈んだ表情はほとんどなく、会話と笑顔があったことでもありますし。


「2人のこと」

 この夏の喧嘩の回数は、9回。つまらない理由の喧嘩が6回に、まあ納得できる理由の喧嘩が2回、残り1回は深刻な喧嘩でした。今年の春には深刻な喧嘩は0回だったけれど、0記録はやっぱり2つの季節で途切れてしまったようです。ということは、だいたいいつも半年に1回は深刻な喧嘩をしているみたいです。
 でもこの夏も、ちゃんと仲直りをすることができました。次の季節もまあまた喧嘩をたくさんするでしょうが(平均値というのは結構当てになるものなのです)、その度にちゃんと後に残さずに(ボクたちの喧嘩のいいところは、遺恨を後に残さないところですから)、ちゃんと仲直りをしましょう。満身創痍で、ちゃんとぶつかり合った後で。
 ということで、こちらもまあ合格点をつけられると思います。これはまあいつものように、あなたがどう考えているのかを読むのが不安であり楽しみでもありますけどね。


「自分のこと」

 この夏にボクが新しくはじめたことは、(あなたもご存知のように)ユカリが6月のお祭りのときにすくった金魚(パール)の世話です。ボクはパールのことが随分と気に入って、毎日のように玄関の小さな水槽まで見に行きます。いまのところ、パールは元気です。うんちもちゃんと長いし。
 この夏にボクがやめたことは、1日に飲む缶コーヒーを2本から1本にしたことです。特に理由はないのですが、なんとなく減らそうと思い、それがよかったのか減らすことができています。
 また、会社で急遽必要になった資格を取るための勉強もはじめました(本当にいろいろなことが急に必要になる会社です)。全体で言えばまあぎりぎり合格点というところですね。秋に資格を取得することができれば、まあいい点をつけてもいいのでしょうが。




 そんな相手への手紙のような夫婦の通知表が、ずっと何年分もたくさんあった。私は随分と長い時間をかけてその通知表を読んで、同じものを何度も読み返して、部屋の中が薄暗くなりはじめる頃までずっとそこにいた。不思議な感じだった。あの優しいパパと幸福そうなママの間に、そういうやりとりがあったことを嬉しく感じると同時に、あらためて変わった人たちだとも思った。私はいまでは随分と現実的だと周りに言われるけれど、それはやっぱりああいう両親の元で大きくなったからなのかもしれない。

 けれど、夫婦で通知表を渡すという考えはいいかもしれないと思った。

 季節ごとに、自分たちの家族のことを、相手と自分のことを、そして自分自身のことをちゃんと振り返ること。それを言葉でちゃんと残すこと。

 さっそくいつもの部屋に帰ったら、一緒に暮らしているあいつに通知表をつきつけてやろうかしら、そう思って、私は思わず笑ってしまう。
 パパとママの真似をして、机に向かってこの夏の相手のことを思い返していたら、なんだか随分と幸福にさせてくれる相手と一緒にいるように思えてしまったからだ。
 いつもは憎まれ口ばかりを叩いているけれど、思い返してみるとなかなかどうして私はちゃんと幸せな相手と一緒にいるのだと、そんなふうに思えて、それはそれでやっぱり幸福なことだった。


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 お知らせ

『いつか記憶からこぼれおちるとしても』読了。江國香織著。朝日新聞社。
 96年や97年に書かれた連作短篇と書き下ろし短篇が収録された新刊です(!)。
 詳しくは、今度のDaysで。


2002年11月11日(月) 坂道の記憶、風景のこと

 学生時代、大学のすぐ近くにやたらと急な坂道があった。冬になると、本当におっかなびっくり下っていかなければならないような傾斜の坂だ。そこには車も通っていたし(自分がドライバーならあんまり通りたくはないような道だった)、たくさんの学生も歩いていた。僕はよくその坂を下り、そして上っていたのだけれど、その度に不自然なくらい急なその坂道を、なんなんだかなあと思いながら歩いていた。
 自転車で移動しているときには、その坂道を上りきるためには、結構前から加速をつけなければならなかった。加速をつけて上りきったときにはなんだか軽く達成感すら覚えたし、そうじゃないときには途中で自転車から降りて押しながら上った。無理無理とか思いながら。
 逆に下るときには、スピードが出すぎてちょっと怖いくらいだった。殺人的なスピードだったと思うくらい。

 いままでの人生(28年の人生と、そのうちの10年ほどの散歩人生)を振り返ってみても、その坂が一番急だったように思う。その坂の下から上の方を見上げたときのイメージを、いまだに覚えているほどだからだ。
 その坂の下には、当時付き合っていた恋人の小さな学生マンション(ピンク色の壁、3階建てで1つの階に20部屋くらいある細長い建物)があって、そこに行くためによく通っていた。だから、その坂の記憶は繰り返し刻み込まれているのだろうと思う。明け方とか、夕方とか、夜とか、たくさんの時間。その坂道を何度も通ったので、記憶の一本一本が藁のように束ねられているのだろうと思う。

 思い出そうとして、思い出すことのできる風景のストックがたくさんあることは、きっと幸せなことなのだろうとぼんやりと思う。他にも、出張時代とか、旅行とか、普段の(それなりにしばしば行われる)散歩とかで見る風景。そういうものはほとんどすべての時間忘れられている。コンビニで売られているコショウくらい忘れられている。けれども、思い出してみると、思い出そうとしてみると、結構たくさんの風景を思い出すことができる。結構たくさんの場所を通り過ぎてきたのだということを、思い返すことができる。

 とりわけ、何らかのエピソードと重ね合わせることで思い出すことができる風景も多い。たとえば、音楽に記憶が付着してしまいがちであるのと同じように、風景にもある種の記憶が寄り添う影のようにただそこにあるような気がする。

 たとえば、出張ばかりをしていた頃のことを思い出すときに、ある街の名前とその街での印象的な風景がセットで思い出されるように。

 ある旅行のことを思い返すと、あるイメージとともに風景が立ち上ってくるように。

 あるいは、かつて住んでいた街のよく利用していた駅を地図で見つけたときに、その街での出来事や駅の風景が思い出されるように。

 記憶は、いい感じにいい加減で、都合がよくて、けれどもちゃっかりツボを押さえていると思う。
 そういうのって、たとえば女の人にとっての、いつもはパチンコとか競馬ばっかりでだらしないのに、肝心なところではちゃんと優しくて気持ちをぐっと掴んで離さないでいてくれる恋人みたいだ。

 ぼんやりと、いろいろな風景を思い浮かべるようなとき、たくさんの風景が溢れてきて、そうしたらいままでの人生も捨てたものじゃないなとか思える。そんなささやかなことで喜んでいていいのだろうかと思わないわけでもないけれど、けれどもやっぱりそういうのは嬉しいことなのだと思う。

 たくさんの風景を思い返すことができること。
 そして、これからも同じようにたくさんの風景が増えていくこと。

 それは取るに足らない、ささやかなものなのかもしれないけれど、ささやかなもののなかには大切なことが多いような気がする。


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 お知らせ

 日記を書く前に、冷蔵庫の中に「なめらかプリン」発見。
 持ち帰り仕事をはじめる前に食べよう。


2002年11月09日(土) 『鈴木敏文の「統計心理学」』

 今日は仕事。黙々と来期の予算を作成する。電話もかかってこないので、かなりはかどる。
 休憩時間には、スニッカーズを食べる。
 スニッカーズはたまに食べるとおいしい。
 たまに食べるとおいしいものって結構ある。

「かっぱえびせん」とか、

「ポテトチップス」(うすしお味)とか、

「きのこの山」とか、

 子供の頃によく食べたようなスナック菓子ばかりだけれど、やっぱりそういう子供の頃に食べていたようなお菓子って、妙に懐かしかったりする。


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『鈴木敏文の「統計心理学」』読了。勝見明著。プレジデント社。

 鈴木敏文はセブンイレブンの会長であり、イトーヨーカドーの社長。いわゆるIYグループのトップということになる。
 この題名は、フリーのジャーナリストである著者が、鈴木敏文へ数々のインタビューを行い、彼の経営が「統計学」と「心理学」に基づいたものであるという実感を持ったことからつけたものだ。また、サブタイトルに「「仮説」と「検証」で顧客のこころを掴む」とあるけれど、確かにその通りの内容が書かれている。本書を読んでいると、お客様の心理を常に考え、それをただ主観だけで推し進めるのではなく客観的な統計からも読み取って産み出したアイデア(仮説)を、実際に現場で試してみる(検証)ということを非常に重んじているのだなということを強く感じる。

 本書の中には、金言集のようにいくつもの示唆に富む発言が収録されているのだけれど、そこにはセブンイレブンを育て上げた経営者としての一本の柱のようなものがあって、なるほどと思わされるものも多い。もちろん、すべての発言に頷けるわけではないし、たとえば個人的には「他店の店は見る必要ないと社員に言っている」というような部分は、その説の理由には納得することができるのだけれど、その考え方にはやっぱり共感することができない部分はある(やはり、これはある程度すでに店を見ている人の発言のような気がする。経験のない若い人の場合には、ある程度引き出しの中にいろいろなものを入れておかなければならないということはあると思うのだ)。
 それでも、納得させられることの方が多い。当たり前のことを、いろいろな角度から語る人という印象。

 また、セブンイレブンのOFCを毎週火曜日に全国から本部に集め、直接のコミュニケーション(講話)を行い続けているということもすごいと思う。そのための経費だけで年間30億円かかるそうなのだけれど、その経費よりも、その場で共有することのできる形にならない力のようなものを重視しているのだ。

 そして、顧客へのこだわりについても考えさせられる。繰り返し繰り返し社員に向かって基本を説く姿は、本当にある種の伝道師のようにすら感じられる。

 いくつかを引用。 


 環境が目まぐるしく変化する時代には、論理的に導き出せる「正しい解答」はなく、常に仮説と検証を繰り返しながら、変化に対応していかなければならない。(7ページ)


「完売」は「売り手の満足=客の不満足」(56ページ)


「自分だったらこんなものがほしい」と考え、商品をつくったり売ったりするマーケティングを「井戸モデル」と呼んでいる。自分の思いを掘り下げていくと、買い手としてのニーズが湧き上がってくる。そして、掘り進んだ井戸の底には地下水が流れ、その地下水は隣にいる顧客の井戸とつながっている。
 一方、顧客は川の向こうにいるものとして、標的めがけて撃つのが「川モデル」だ。凡人は一度、川の向こうに投げたボールが顧客に当たると、成功体験に味をしめて、以降もそこに顧客がいると思い、ひたすらボールを投げ続ける。顧客はもはやそこにはいないから、当たるわけがない。(64ページ)


 情報には「分子として表わされる情報」と「分母として表わされる情報」がある。(……)例えば、「ピアノがうまい」という分子の情報は、分母が「ジャズメン」か「会社員」かによって大きく変わってくる。(133ページ)


 ここ数年、脚光を浴びているナレッジマネジメントの”元祖”的存在であり、世界的に知られる野中郁次郎(……)教授によれば、企業が追求し実現しようとする価値には、「相対価値」と「絶対価値」があるという。「相対価値」の追求とは、競合他社との比較で、より売れる商品を出して競走に勝とうとすることであり、「絶対価値」を追い求める企業は競争に勝つこと以上に、自分たちがつくりたいものやつくるべきものをつくり、売りたいものや売るべきものを売ることを大切にする。(145ページ)


「失敗学」を打ち立てた前出の畑村洋太郎(……)教授によれば、
「かつて企業の発展期には会社そのものが試行錯誤を繰り返し、一人ひとりの社員も失敗を恐れずさまざまなチャレンジの選択肢があった。それが成熟期に入ると、できあがった仕事の仕方のメインルート以外は切り捨てられ、社員の仕事もマニュアル化し、単線化してしまう。しかし、アイデアの種は一人ひとりが仕事の範囲を限定せず、多くの失敗を含むさまざまな経験から出てくるものだ」(169-170ページ)


「以前、マネジャーを担当した地区は、新規開店の店が多く、最初はなかなか売り上げが伸びませんでした。心配になってお店を訪ねたら、オーナーご夫妻は、こんなにお客が来てくれて本当にうれしいと言うんです。われわれは、お客が少ないから、どうしようと数字のことを考えていた。それに対して、オーナーは、もともと更地だったところに店を出し、チラシを配っただけなのに、これほどお客が来てくれる。だから、自分たちがもっと基本四原則をしっかりやれば、きっとお客は来てくれると信じていた。その店は、今はまったく心配ないほど伸びています」(208ページ)


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 お知らせ

 今日読んだ「日経MJ」に、スターバックスコーヒーが赤字という記事が出ていました。
 週に1度はキャラメルドーナツを食べてささやかには貢献しているのだけれど……。


2002年11月07日(木) 息子には着ぐるみ+『「暗黙知」の共有化が売る力を伸ばす』

 月曜日の夜にカレーを作って、毎日夜に温め直して今日まで食べていたのだけれど(1人暮らしなので1日じゃとても食べきれないのだ)、やっぱり2日目、3日目とかはおいしくて嬉しくなる。
 将来子供ができたら(そしてその子供が男の子だったら)、キレンジャーの着ぐるみを買ってカレーの日には必ずそれを着させて、カレーを食べるときにはそのコスチュームを着なければいけないと信じ込ませよう。小さい男の子がキレンジャーの着ぐるみを着てカレーを食べているなんて、なんだか幸福そうな気がする。
 他にも、部屋のクローゼットにはいろんなコスチュームを用意して、たとえばおやつにどら焼が出るときには青く丸いあのコスチュームを着させるし、ちくわを食べるときには白いかぶり物のようなコスチューム(毛が3本あるやつ)を着させよう。

 ……あれ? ちくわは獅子丸だった?


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『「暗黙知」の共有化が売る力を伸ばす』読了。山本藤光著。プレジデント社。

 サブタイトルは、「日本ロシュのSSTプロジェクト」。日本ロシュは外資系の製薬会社で、この本は日本ロシュで実際に行われた営業改革の過程を本にまとめたものということになる。著者もそのプロジェクトのフォローを行っていた人物で、日本ロシュの社員(いまも在籍しているようだ)。外部のフリーライターやどこかの教授などが書いたわけではなく、ある企業の変革の過程を、その企業の社員が自らまとめるというのは随分と生々しいと思ったし、だからこそ手に取った本だった。

 正直な話日本ロシュのことは名前くらいしか知らなかったし、異業界だし、SSTプロジェクトって何なのだろう? くらいにしか思っていなかったのだけれど、この本は面白かった。

 大まかな流れは以下のような感じ。

 日本ロシュも他の製薬会社と同様に多数のMRを抱えていたが、2-6-2の法則で優秀MRと平均的なMRとぶらさがりMRとに分かれていた。そこで、平均的なMRのレベル向上によって企業全体のMRのレベルが向上し、ひいては実績も向上するはずだと、SSTプロジェクトという社長直轄のチームを発足させることとなった。これは「スーパー・スキル・トランスファー」の略語なのだけれど、塾の講師のように、短期間で成績を上げるために編成されたチームだった。

 そのチームのメンバーとして、まず全国各地からトップ営業マンたち24人が引き抜かれた。もちろん、現場の反対はあったが(普通トップ営業マンが抜かれるということは、それだけ支店の成績が落ちることを意味しているわけだし)、それでもトップの強い意志のもと、精鋭たちが集められたことになる。そして、このSSTプロジェクトが風変わりなのは、彼らが行うのは、基本的には3人一組になって3ヶ月間、ある支店のある課にいる平均的MRたちと同行営業を続けていくことなのだ。

 MRが病院や卸を回る一日の営業活動を、通常であれば課長が一緒についていくことを同行と呼び、その同行の質と頻度がO-J-Tとなるのだが、実際には時間の制約などもあり、満足には行われていないことが多かった。それによって、MRたちは、当たり前のことをわからないままの状態で留まるケースもあり、成長したいという漠然とした志向はあっても、その具体的な方法が教えられない、わからない状態にあったのだ。

 もちろん、マニュアルは完備していた。本社から、月に何度かビデオでの新薬や業界動向についての情報提供などもあった。けれども、それらの活かし方もわからず、結果としてMRのレベルは長い間足踏み状態、たとえば病院に行っても毎回同じような会話しかできずに出直しとなるようなことが少なくなかった。

 それを立て直すためにプロジェクトメンバーが選択した方法が、マンツーマンで継続して同行することだったのだ。その中で、SSTチームのメンバーは担当MRと面談を繰り返し、どのような目標を立てるのか、そのためにはどうすればいいのかを実際の同行活動を通じて確認していく。それはまるで親方から弟子への知識の伝達のように、one to oneなものだ。そうされることによって、普通のMRたちはSSTメンバーの話術や知識、医者へのアプローチの方法等を学んでいく。さらに、メンバーが自分たちの向上のために来てくれており、また身を粉にして取り組んでくれていることに信頼感を深め、プライベートな悩みまでを相談するようになってくる。そうなると、モチベーションが、やる気が違ってくる。
 平均的なMR(場合によってはぶらさがりMR)が変わってくる。

 通常、支店には幾つかの課があり、それぞれに課長がいて、その下に8人程度のMRがいる。SSTメンバーが担当するのは、そのある課の3人のMRだから、多くの者はメンバーに直接教えてもらえるわけではない。けれども、メンバーが派遣された課では、そのメンバーの会社をよくしようという熱意のようなものが伝染するのか、また負けられないと奮起するためか、いい雰囲気が生まれてくる。新薬についての勉強会や、営業のロールプレイングなどが、積極的に行われるようになってくる。そして、比較的早い段階で、その課の、そして支店の成績が向上してくるのだ。

 その過程が詳しく書かれているのだけれど、その独特のアプローチの仕方が興味深かった。集合教育やマニュアルではなく、いわゆるスーパーなメンバーに直接ノウハウを叩き込まれること、考えさせられること、触発されることの意味が大きなものだということが実感されたからだ。そして、そういう熱い雰囲気のようなもの、なぜなぜと突き詰めることが当たり前になってくる環境が産み出されていくことが、ひどく魅力的なことのように思えた。
 その同行営業によっていわゆる勘とか技とか、SSTメンバーが持っていた言語化・形態化できない暗黙知が共有化されていくことが、最終的には組織全体を活性化させていったということには納得させられる。

 ナレッジ・マネジメントというのはここ数年の流行で、ビジネス書とかではよく聞くけれど、実際にそれを導入して成功したという事例を知ることはまだまだ不足しているように思う。理論はたくさん見聞きしても、ケーススタディはそうでもないような気がする。それだけに、このように実際に行ったというケーススタディに触れると、よりリアルに理解することができるために興味深く読むことができた。

 帯にはナレッジ・マネジメントの権威である野中郁老次郎教授の言葉でこう書いてある。


 SSTは、「暗黙知」にフォーカスを当てた世界ではじめてのナレッジ・マネジメントである。


 読んでみたら、なるほど、と思える。
 もちろん、このやり方は、その企業のスタイルにカスタマイズして自ら創り上げたものだから、そこに独自性があるわけで、すべてをたとえば他の会社に導入することはできないかもしれない。けれどもその方法の中にある考え方自体は、アレンジしながら自社にも取り入れていくことができる部分はあると思う。
 まずは手近なところから。

 いくつか引用。


 営業課長が熱心に指導したケースと、前記の理由で指導がおろそかになるケースとでは、新人MRの成長度が違う。この理由は「指導の連続性」にある。新人MRの現在のレベルを熟知し、一段高いハードルを用意する。次の日はまたハードルを上げる。部下育成には「指導の連続性」が不可欠な要件である。連続性とは毎日という意味ではない。育成プランに基づいた継続的な指導という意味である。(72ページ)


 SSTは、朝から晩までMRと同行を継続する。毎朝八時半には卸か病院にいる。オフィスへ戻るのは、早い時間でも午後八時。これを毎日やり遂げる。顧客から顧客への移動の車中でも、ロールプレイが行われる。さっき訪問した顧客についての意見交換をする。遅い昼ご飯を食べながら、将来の夢を語り合う。MRのモチベーションを高め、本気でレベルアップに取り組む。(96ページ)


 SM(セクション・ミーティング)の場でMRの成功例を集めて(共同化:S)発表させる(表出化:E)。MRは、その中から自分の顧客に使えるものを書き留める(結合化:C)。それを顧客で実践してみる(内面化:I)。実践した結果を、次回のSMで報告する。(140ページ)


「……をする」「……へ行く」は、いずれも「目的」に到達することを目指した動詞なのである。行動の背景には必ず目的がある。目的につながらない動詞は、存在しないはずである。
 ところが、SSTメンバーからは、MRの訪問目的が不明確な活動が目立つとの報告が多い。(149ページ)


 毎日の訪問目的が明確になると、毎日に起伏が生まれる。月末にのみ一喜一憂していたのが、毎日になるのである。悔しい一日を終えたら、それを翌日のバネにする。楽しい一日だったら、さらに翌日へのはずみにする。一日が充実するということは、翌日も充実するということなのだ。(206-207ページ)


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 お知らせ

 スターバックスコーヒー(最近既存店が前年割れの傾向があるみたいですね)のキャラメルドーナツが美味しいんです。


2002年11月05日(火) 本と付箋紙+『私たちがやったこと』

 ある頃から、僕は本を読んでいるときに気に入った文章を書いてあるページや、印象に残ったページの隅を折るようになった。もっと前は本を折るなんてと漠然と思っていたのだけれど、ある本を読んでから考えが変わったのだ。たとえば、古本に売るというのなら話は別だけれど、買った本を(箱に詰めて実家に送ることはあっても)売るというのはおそらくしないのでまあいいかなと。

 だから、僕は読みながら下か上の隅を折る。より強く印象に残ったページでは下ではなくて上を、かなり印象に残ったところでは上と下の両方を折っている。そして、読み終わってからもう一度最初の方から今度は折っているページだけを読み返し、そのときに自分がそのページを折ろうと思った文章なり内容なりをまた発見することができるかと目で追ってみる。たいていの場合そのときにすぐわかるのだけれど、まれに何でこのページを折っているのだろうというときがあって、そういうときにはそのページの折り目は元に戻す。そうやっておくと、いつかその本を読み返すときに、自分がどこの部分に惹かれたのかということがわかって、興味深いような気がするし、それがビジネス書のようなものであるのなら、後で手に取ろうと思ったときに目指す内容にすぐにたどり着くことができるような気がする。
 たまに本棚から折り目の付いている本を取り出して、ぱらぱらとめくるようなときにも便利だ。

 あと、これは自分ではやってはいないのだけれど、最近漠然と思っているのが付箋紙を使うやり方だ。本を読むときに、付箋紙を10枚だけ用意する。そして、よいと思ったページに付箋紙を貼り付けていく。11箇所目になっても、付箋紙を追加することはできない。付箋紙は10枚だけだ。11箇所目が見つかったら、それまでの10箇所と比べ、どこかから1枚取り外して新しい箇所につける。そうやって最後まで読了したときに付箋紙のついているページが、その本の中での個人的なベスト10ということになる。

 どちらかと言うと、このやり方はビジネス書や専門書の類に合っているやり方だと思う。もちろん、本はそんなことを考えずに、ただ読めばいいというのももちろん事実ではあるということを踏まえたうえで、それでもひとつの方法として、そういうこともありなのかもしれない。本によっては、10箇所は足りなさ過ぎる……ということもあるとは思うのだけれど。

 その10箇所を読書メモとしてパソコンに打ち込んでおくとか、あるいはノートに書き写してもいい。
 いろんなことを忘れてしまうから、いろんなことを形に残しておくこともありなのだと思う。


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『私たちがやったこと』読了。レベッカ・ブラウン著。柴田元幸訳。マガジンハウス。

 昨年読んで強く印象に残った『身体の贈り物』の著者レベッカ・ブラウンの短篇集。全7篇が収録されている。
 読んでいて少し驚く。前作とは結構雰囲気が異なっていたからだ。というのは、随分と顔が見えないような登場人物が多いというところ。前作では、リアルな世界の中で生きる登場人物たちのささやかな機微であるとか、やさしさであるとかかなしみであるとか、率直さのような感情をリアルに描写するところが印象的だったのだけれど(感情の湿りと乾き具合のバランスが絶妙だった)、この作品ではリアルな世界というよりはどこか幻覚を見てでもいるかのような、あるいは思い込みの果てに狂気に達してしまった人の内的独白のような、そういった人物と世界との境界線が曖昧になっているような作品が多数あったからだ。
 たとえば、最初にある『結婚の悦び』という短篇では、新婚旅行で小さなコテージに来たはずの「私たち」が、気がつくと地下室もある大きな屋敷にたくさんの人を招いて、毎夜パーティを開き、自分たちの性生活を映し出したフィルムを上映するようになっていて、「私」は結婚相手である「あなた」とその屋敷のなかですれ違うばかりで出会うことができず探し続ける――といったような、どこかある種の夢のなかのストーリのようなものとなっているのだ。現在形をたたみ掛けるような文章も、前のめりなような、主観が広がって客観性を受け容れないような、そういう雰囲気を醸し出している。
 また、『愛の詩』という作品ではある高名な芸術家の作品を、その芸術家と一緒に夜中に展覧会開場に忍び込んですべて破壊する「私」の一人称の物語なのだけれど、その破壊の行為すべてさえ「私」の思いが昂じての思い込みなのではないかと思わされるほどだ(1人で忍び込んで破壊したのに、その芸術家と一緒に行ったというように思ってしまっているような)。

 いずれにしても、そこにはそこはかとなく狂気が色づいているように思えるし、依存の度合いを高めてしまったが故の妄想の世界、というようなものを連想させる。

 収録作品の中で一番印象に残ったのは『よき友』という本書の中では一番長い話。前作に近い設定の、一番現実的な描写の多い作品。個人的には、あまりに幻想的な雰囲気を持っている作品よりは、どちらかと言うと現実をある程度写実的に物語っている作品の方が好きなのだとあらためて思った。
 ある程度抽象的な作品に関しては、うまくはまるかどうかは結構ケースバイケースで、今回の場合の夢想的な側面に関しては、そういう意味で言うとあまりはまらなかったことになる。

 けれども、それはただの好みの問題。
 幻想的な短篇の方でも、読んでいて考えさせられるような、印象深いような表現はたくさんあったのだけれど。

 いくつかを引用。


 私は彼女の顔をまじまじと見つめ、そこに何かが欠けていることに気づく。いつ見てもそこにあるものだから、いつもずっとあるんだと思うようになっていたものが、いまは欠けているのだ。それは彼女が私に言えない何かだ。(69ページ)


 そこはもう、慣れてしまった白い静かな場所ではない。入院もそんなに悪くないんだと自分に言い聞かせているうちに、健康というものがどういう姿をしているのか、ジムは忘れてしまったのだ。一人の男がホールを走っていって友達を抱きしめ、一人の女がかがみ込んで子供を抱き上げる。ジムが目を丸くして、黙ってそういう情景を眺めているのを私は見守る。ジムの気が変わってもいいように、車椅子をゆっくり押してホールを進んでいく。(146ページ)


 その日の午後、ジムがチョコレートを一箱送ってきた。コピールームにチョコレートが届いたのだ。カードも付いていた。「あんな醜いあばずれのことは忘れなよ。代わりに僕たちを食べなよ、甘美なる君」。(152ページ)


 あるときジムは私に言った。こう言ったのだ。「腰抜けになっているときに話すのは嘘。でもよかれと思って話すのはおはなしさ」
「本当の話じゃなくても?」
「本当なのさ。よかれと思って話せば、本当なんだよ」(157ページ)


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 お知らせ

 今日は仕事で埼玉に行く用事があり、6時ちょっと過ぎの電車に乗りました。いつもと違う電車は結構新鮮だったり(まあ、明日も同じ電車に乗るのだけれど)。


2002年11月03日(日) 『tokyo.sora』+二子玉川

 今日は渋谷まで『tokyo.sora』を観に行ってくる。ずっと観たいと思っていて、けれども1週目は混んでいるだろうなと思って、2週目に観に行くことにしていたのだ。My Favoriteの中にあるインテリアのページで、カラーボックスの側面にこの映画の写真を貼っているのに気がつかれた方もいるかもしれないけれど。
 ずっと気になっていたのだ。

 1時35分からの2回目の回に行く。道玄坂沿いにある「シネセゾン渋谷」。それなりに列が伸びていて、漠然と女の人かカップルばっかりだろうなと思っていたのだけれど、意外と男1人の姿も多い。ふと、「井川命」とかいうトレーナーとか着ている人はいないかなとか思ったのだけれど、もちろんそんな人がいるはずもない。「本上最高」とか。

 映画は本当によかった。何でもないシーンで何度か泣きそうになる。元々が涙もろいのでまあ仕方がないところがあるのだけれど、それでもやっぱりよかった(ちなみに、今日は予告編でも一度じわっときた。僕は予告編で泣くことができるという特技を持っているのだけれど、今日のその予告編は『マーサの幸せのレシピ』というドイツ映画。もうベタな類推できるような展開の映画なのだと思うのだけれど、そういうのが大好きなのだ。絶対観に行こうと心に決める)。

 映画については、あんまりにもよかったので「My Favorite」の方に長々と書く。

 映画を観終わった帰り、渋谷の街を駅に向かって歩く。相変わらずたくさんの人がいて、なんだか不思議な感じがする。それから地下に降りて東急に乗り、パンフレットを読みはじめる。そして、電車が二子玉川駅に着く直前に地下から地上に出るのだけれど、ちょうど夕日が空をオレンジに染めている時間帯で、思わず二子玉川で降りてしまう。最寄り駅まで切符を買っていたのに……。
 けれども、窓から夕日を見て、よい映画を観た余韻もあって、散歩に行かないとならないし、写真を撮りたいと思ったのだ(デジタルカメラはたいていの場合肩掛けカバンの中に入っている。「備えよ常に」と果歩も言っているし)。

 夕日が沈むのは早いので、駆け足で長い階段を降りて、改札口を抜ける。そして、以前と同じ道を通って多摩川沿いに出る。以前は早朝だったのでジョギングをしている人など少ししかいなかったのだけれど、いまは夕方なのでたくさんの散歩している家族や、河川敷に座っている恋人たちがいる。
 歩きながら、ときどき立ち止まって何枚か写真を撮った。映画の中の東京の空は、ビルの谷間から見上げるようなものが多かったけれど、多摩川から見る空は随分と広い。何羽かの鳥が連なって飛んでいて、遠くの森のようなところの方へ消えていく。バーベキューか何かをしていたような若者たちのグループがいる。釣りをしているおじさんと、一眼レフのカメラを3脚に載せているおじさんがいる。風はあまり強くはないけれど結構冷え込んでいる。ただ、それなりに厚着はしていたのと、歩いていることもあって、少しは暖かくなる。

 何枚かの写真を撮った。今日のTopの写真もそのときに撮ったものの一枚だ。11月3日の夕方の多摩川の空。反対側の岸辺にある家々の影と、その先の空だ。

 しばらく歩いてから二子玉川駅まで時間をかけて戻り(すっかり暗くなってしまった)、そのまま二子玉川駅を通り抜けて高島屋SCに行ってくる。マフラーが欲しいなといくつかのお店を見たのだけれど、結局買わないことにする。かわりに、地下の食料品売り場でケーキを買う。いろいろ見ていたら引き寄せられてしまったのだ。どの店のも美味しそうだったのだけれど、和菓子も捨てがたかったのだけれど、「HENRI CHARPENTIER」のやつにする。いろいろなデパートに入っているところ。

 それからまた東急に乗って帰ってきた。
 部屋に帰ってきてから、コーヒーと一緒にケーキを食べる。おいしかった。

 売店で買った『tokyo.sora』サウンドトラックの中の「トライフルソング」を繰り返し聴く。今日の今日で入り込んでいるところはあるけれど、今年の中でも最高の名曲のひとつだと思う。わずか2分の曲なのだけれど。藤原ヒロシの「I dance alone」のようなイメージの曲だ。

 夜に後輩から電話がかかってきて、日経のガイアなんとかという番組で就職についての特集をやっていると教えてもらう。仕事柄参考になるかなと見る。5人に1人の大学生が就職をせずにフリーターとなっている。サラリーマンに魅力がないと感じている、などというところからはじまり、フリーターをしながら道を探している人、独立した人、就職した会社を1月で辞め再就職活動に励む人などが登場してきた。いろいろと考えさせられる。


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 お知らせ

 My Favoriteの傾向が重なる人は、『tokyo.sora』を気に入るんじゃないかと思います。もう一度観たい……。


2002年11月02日(土) 『物語の体操』+『使いみちのない風景』+『プロフェシー』

 6時10分に目が覚める。昨晩眠りについたのは午前1時30分くらい。
 1日分のDaysを書く。いくつかのページを覗く。PICNICAさんの「てのひらテキスト」がアップされていたのでそれを読む。アップされているのはわかっていたのだけれど、時間のあるときに読もうと我慢していたのだ。メシとフロの意味がわかる。みどりちゃんが魅力的。

 洗濯をして、午前中にAmazon.co.jpから注文していた本が届く。早速読む。

『物語の体操』読了。大塚英志著。朝日新聞社。
 最近、夜に30分ほどアマゾンのページで好きな本を絞り込む行為というのをしていた。アマゾンには購入履歴からオススメの本を100冊程度順位をつけて紹介してくれるページがあるのだけれど、その紹介の精度をさらに高めるために、アマゾン以外で購入しすでに読了している本についても、評価をつけることができるのだ。それで、たとえばオススメの上位には村上春樹の本が紹介されていたりするのだけれど、大半は持っているので、それに主観的な点数をつけていく。そうすると、どんどんオススメの本の中身が変化していく。そして、この本はそういう作業を繰り返していく中で、オススメの80位くらいに登場してきたのだ。
 サブタイトルが「みるみる小説が書ける6つのレッスン」で、帯に書かれている言葉をいま読むと「小説あるいは「文学」を神秘化するあらゆる試みを粉砕しようとする。(……)これは、「文学」の側に属していると自負する者には絶対書けなかった、絶命寸前の「文学」のための(あまりに危険な)処方箋なのだ。」とのことだ(帯の紹介文は高橋源一郎が書いている)。
 アマゾンの紹介文にも似たようなことが書かれていて、それで興味があって購入してみた。
 小説の書き方の本はいままで読んだことがなくて(文章や日本語の本は読んだことがあるけれど)、もちろん興味はあったのだけれどなかなかそういうのを手に取るのもな……と思っていた。けれども、実際読んでみるとなるほど、こういうことが書いてあるのかという感じだ。もちろん、この本自体は帯にあるようによくある小説のノウハウ本とは異なるアプローチをしているのだろうけれど。

 たとえば、著者は最初にこう書いてある。


 けれどもこの講義では「文章」の技術については全くと言っていいほど触れません。「文章読本」の類はいくらでも先人の書として存在しますし、何より、小説にとって文章の技術とはその工程のうちの最後に位置する仕上げの技術であって、数をこなしていくうちに案外自然と上達するものだとぼくは考えます。まんがの書き方を教えるのにスクリーントーンの貼り方のような作画上のフィニッシュワークを熱心に講義している入門書がありますが、小説にとって文章も実はそれと同じであって、ある部分では小手先の技術に過ぎない、とぼくは感じています。(11ページ)


 著者は元々漫画の編集者で(現在は原作者と批評家)、そういう文章の技術ではなく、<おはなし>を作るということに重点を置いて、その切り口から「小説を書く技術」を解説していく。
(この本は著者が実際に小説家を養成するような専門学校で講義していた内容を雑誌に連載したものをまとめたものであるから、引用したような口調の文章となっている)

 そして、こうも述べている。


 けれども小説家は本当に生まれながらにして小説家なのでしょうか。例えば大江健三郎でも村上龍でも吉本ばななでもいいのですが、彼らの小説を書く力はどこからどこまでが凡人には真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのでしょうか。ぼくはこの講義を通じて、その線引きをしてみようと思います。その結果として<秘儀>の領域は小説にどれほど残されるのか。あるいは全く残らないのか。そのことを確かめてみようと考えています。そして仮にそこに残されるものがわずかにでもあるとすれば、ぼくはそれが「文学」と呼ばれ人々の尊敬を集めることに少しも異議も唱えるものではありません。(8ページ)


 そういった試みの講義(=レッスン)ではたとえば「誰にでも小説は書ける」と書き、(物語構造を)「盗作」してみようと述べ、方程式でプロットを作ることができると伝える。他にも村上龍になりきってみようとか、つげ義春をノベライズしてみようなど、結構自由度の高いことを行っている。それらはテーマがどうだとか抽象的なことに触れるのではなく実践的で、ある意味スポーツの練習のような雰囲気もある。ここに書かれている訓練を行うことによって物語る力がついていく、というような。素振りを繰り返すことでボールを捉えることができるようになるように。シュート練習を繰り返すことによってゴール枠にボールを蹴りこめるようになるように。

 わかりやすく、あっという間に読めてしまう。もちろん、読んでどうこうというのではなく、ここで解説されている課題をトレーニングのようにこなすことが重要ではあるのだろうけれど。

 でもまあ、トレーニングとしては、個人的には【Fragments】なのだけれど。

 ちなみに、買ったことのないこういう本を購入することにしたのは、上記に述べた理由のほかにもうひとつ、この本の著者が、ジョージ朝倉という漫画家の『ハッピーエンド』という作品のネームチェックを行った人物でもあるから。


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『使いみちのない風景』読了。村上春樹著。中公文庫。
 これもアマゾンで。おすすめランキングから村上春樹の本で読んだことのあるものをどんどん評価に加えていったら、この本を購入していなかったことがわかり注文した。他にも読んだことのないものがいくつかあったのだけれど(エッセイとか)、少しずつ。

 この本は村上春樹が文章を書き、稲越功一が写真を撮り、それらが一緒に収められているものだ。写真は非常に美しく、1ページに余白を大きくとって語られる村上春樹のエッセイも、いつものように面白い。表題でもある『使いみちのない風景』は定住と旅行の比較からはじまり、それぞれに付帯するクロノロジカルな風景――必要に応じていくつもありありと思い出すことができる意識的なもの――と使いみちのない風景――ほとんど身勝手に現れてくる無意識的なもの――とについて説明する。そして、使いみちのない風景についてこう言及する。


 それはリアルな夢に似ていると言ってもいいかもしれない。風景の細部はとても鮮明で現実的なのだけれど、そこでは前後の順番や、相対的な位置の認識が失われている。僕は断片の再現の中にいて、その断片はどこにも連結していないように感じられる。(60ページ)


 けれども、それらの関連性のないように見えるそれぞれの断片、あるいは使いみちのない風景は、いくつもの湖や泉が地下水脈で繋がっているように、無意識下において密接に繋がりあっている。


 それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景に――おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に――結びついているのだ。(96ページ)


 だからこそ、それぞれの風景は連鎖し、やがてはひとつの使いみちのない風景から、別の風景を起点とした物語を生み出していくことができる。文章の中では、そのような使いみちのない風景の繋がりから、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が生まれたのだと書かれている。

 ある種の風景の断片(やイメージのようなもの)が、意識の深層の中で重なり合い、繋がり合い、ある種の化学反応のようなものを起こしていくということはよくわかるような気がする。そこにはロジックで詰めていくことのできない余白のようなものがあり、もしかしたらある種の偶発性のようなものに任せられている世界なのかもしれない。けれども、そういうイメージの集積、使いみちのない風景をたくさん引き出しの中に入れておくことには、決して小さくない意味があると思う。ある風景(やそこから喚起されるイメージ)のストックが組み合わされ、並べ替えられることによって、そこにまったく別の物語が立ち現れてくるということは充分に考えられることだと思うし。
 いくつもの果物をジューサーに入れてごうごう回すと、複雑な味のするジュースが出来上がるように。
 もちろん、記憶の中の、意識の中の風景を並べ替えただけで簡単に物語が産み出されるものではないのかもしれない。けれども、物語世界を構築するパーツとしては(もし物語を構成する要素を自動車のパーツのように分解することができるのであれば)、そういったフラッシュバックのように挿入される風景なんかは、ネジのように断片たちを、人物たちを繋ぎとめる役割を示すのかもしれない。

 大切なのは、まずただ見ること、身を委ねること、それから意識的に見ること。そして、取り込むこと。ごうごう回すこと。あるいはゆっくりとかき回すこと。
 場合によっては、考えること。

 気に入った文章をいくつか。


 結論から言うなら、いささか逆説的なロジックになるけれど、結局のところ僕は「定着するべき場所を求めて放浪している」ということになるのではないかと思う。(17ページ)


 僕はこのような生活をとりあえず「住み移り」という風に定義しているわけだが、要するに早い話が引越しなのだ。だから僕の略歴にはおそらく「趣味は定期的な引越し」と書かれるべきなのだ。その方がずっと僕という人間についての事実を伝えているんじゃないかという気がする。(22ページ)


 仕事の手を休めてそのような風景をのんびりと眺めているうちに、自分はおそらくこの風景をいつか、何年か先に、ふと思い出すことになるんだろうなと僕は予感する。
 そしてその(この)風景を思い出しながら、こう考えるかもしれない。
「ああ、僕はあそこに三年間住んだんだな。あそこにはそのときの僕の生活があり、僕の人生の確実な一部があったんだな」と。(48ページ)


 たぶんそれが僕らの中にある「使いみちのない風景」の意味なのだと思う。
 それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景に――おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に――結びついているのだ。(96ページ)


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 夕方、近くのシネマコンプレックスで『プロフェシー』を観に行く。予言と題された、リチャード・ギア主演の映画。
 リチャード・ギアがラブ・コメディー以外の作品に出ているとどうしてか珍しいような気がしてしまうのは、世代的に『プリティ・ウーマン』のイメージが強いからだろうか? と思う。

 これは、死の直前にあるものを見てしまった妻を失った敏腕新聞記者が、見えざる力によってポイントプレザントという小さな町へ運ばれ、そこで妻が見たのと同じ存在の影を感じ、その関連性について調べはじめていく物語だ。その存在――蛾男(モスマン)と呼ばれている――は、各地で災厄の前にまるでこれから起こる災厄を引き起こしているかのように、あるいはそれについて警告を発するようにその土地の多くの人の前に現れる(それは姿や光や声など、人によって現れ方は違う)。主人公は様々な目撃者たちの話を統合し、少しずつ核心に近付いていく。いったい、ポイントプレザントで何が起こるのだろうか?

 冒頭から、謎めいたイメージの集積や、ある種の伏線が多数張り巡らされている映画。いくつかの謎は見終わった後も解明されないし、暗示を示すだけに留まるものも少なくない。ステレオタイプに収斂させ、まとめあげ解答を提示することのできない現実の不可解な現象のように、謎は謎として残るのだ。けれども、それが逆にリアルさを高めているし、超常現象的な題材を扱っているのに、人物造詣もリアルで、そこにしっかりとしたドラマが生まれているように思う。
 与えられた条件の中で人は選択をし、行動を起こしていく。影響力を行使することができるのは、その圧倒的な出来事のなかのほんの一部の部分でしかない。けれども、その行動はその当人にとっては非常に大きな意味を持つものであるのだ――そういう部分がよく出ていたと思う。リチャード・ギアは常に悲哀にくれた過去の悲しみに囚われている人物(ジョン・クライン)を見事に演じているし、一緒に不可解な現象の調査に乗り出す女性警察官コニー(ローラ・リネイ)も自らも巻き込まれながら現実に踏みとどまり、ジョンに手を差し伸べていく役割を巧みに行っている。他にも、演技巧者たちに支えられ、一見陳腐な題材になってしまうような物語を、暗示的なテンションの持続するものへと導くことができていると思う。

 これが実話を元にした物語であるということに思わず驚いてしまう。その真偽はともかく(あると断言することもできないけれど、そういうことがないともやっぱり断言できない)、また主人公の存在は創作だけれど、ポイントプレザントという町であることが起こり、その前に多数の人々の前に蛾男(モスマン)が様々な形で現れたという証言があるというのは事実なのだそうだ。また、その蛾男のような存在はチェルノブイリの事故の前にも、メキシコの大地震の前にも発見されているのだという。
 そういう説明を読み、映画を見ると、知りうることのできない世界の余白について考えてしまう。科学などが発達し、様々なものを認識することができるようになっても、まだまだそういう照明から逃れられている不可解なことは多いのだろうなと思う。もちろん、それはもしかしたら錯覚や幻覚なのかもしれないし、ある意味では紛れもない現実なのかもしれない。
 けれども、そういうものをまったく否定することもできないし、たとえそれが錯覚(たとえば柳の木が幽霊に見えてしまうような)であったとしても、そう見えてしまうことにその人にとっての意味のようなものはあると思う。

 見終わった後も、不思議な余韻の残る映画。


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 お知らせ

 帰り道はかなり寒くて、もう薄手のコートのようなものが必要なほどです。


2002年11月01日(金) 導入OK+『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』

 今日は嬉しいニュースがひとつ。
 仕事の新しいシーズンに向けて、メンバーが本来の核業務に集中することができる環境を整えるために、新しいシステムを導入する計画を立てていた。いくつかの同様のサービス(もちろん、それぞれ特徴と利点と欠点は異なる)を手がける企業の説明と商談を受け、確認をし、コストについて調整を依頼しながら、導入に向けて活動してきた。システムと言っても一千万円以上はするので、簡単に導入OKですよとはならないし、準備等もいる。
 それで、ここ1ヶ月ほど若干間は開きながらも、来期計画の柱として、その選定業務とそのシステム自体の導入のGOサインをもらえるように準備を進めていた。各社の見積もりが出揃い、仕様を確認し、やたらと忙しいマネジャーに変わって社長に決裁を仰ぐための資料を作成する。会社の方針として提案用の資料はシンプルであることが求められているため、別途で大量の資料は用意しておくにしても、メインの資料は稟議書と別に数枚(3枚)にまとめる。

 そして、今日マネジャーが社長に提案し、その導入のOKをもらうことができたのだ。
 正直、嬉しかった。ありがたいことに増え続けている応募者に対応し、成果を挙げるためには、現状のやり方では限界に来ている部分があることは事実で、それをシステムとそれに関連する仕組みの導入によって緩和し、メンバーが本来の核業務に集中することのできる環境を作る。そのための基幹となる提案だったので、OKが出るかどうかというのは重要なポイントだったのだ。

 業者に関しても、細部を詰めていく中で「ここ」と定めていたところに決定した。もちろん、そこが選ばれるように資料を作成したので、それに関しても狙い通りで安心する。コストをかけて導入するからには、最も成果を高く得られそうなところと一緒に、というのはもちろん基本的なことであるし。
 おそらく長い付き合いになることでもあるのだろうし。

 導入の了承をもらうために、様々な検討を繰り返してきたことでもあったので、正直な話嬉しかった。
 今後は、より現実的な実際のフローを作成したりと稼動に向けての打ち合わせに入っていくので、その準備にまた入り込んでいこう。段取り7割とは以前の上司の言葉。本当にそうだと思う。
 実は自分はもう少ししたらこの部署を離れると思っているのだけれど、事前にフローをしっかりと構築しておくことで、立つ鳥後を濁さずということになればいいなとは本当に思う。目指すべき方向とねらいとが明確に意識されてさえいれば、あとは現場でのタイムリーな修正で結構目測通りに事態が進行していく。今期の活動の中で、そういったことはある程度意識することができたし、そういうベクトルのようなものを、ノウハウを遺していければいいかなとも思う。

 こちらがようやくめどがついたので、次は来期の予算作成に入ろう。それに関しても、スムーズに来期の部署の活動ができるようなものを。


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『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』読了。再読。キングスレイ・ウォード著。城山三郎訳。

 これは、カナダの実業家である著者が、息子が高校生の頃から大学時代を経て自らの会社に入社し、やがて社長にのぼりつめるまでの約20年間に渡って、様々な局面で書いてきた手紙を集めた本。そこでは、「教育の設計」、「実社会での最初の日々」、「結婚を気軽に考えないで」、「読書の価値」、「批判は効果的に」、「ストレスと健康」、そして「優れた指導者の条件」などなど、ビジネス社会で生きる人にとって不可欠な事柄が(プライベートな面に関しても)集められ、それらについて言及されている。その筆致は人生の先輩としての父親の暖かなものであり、その中に期待と愛情が充分に混じっている。

 手紙は自らの経験に触れ、様々な識者たちの言葉を引用し、常識に満ちた節度ある(そしてときににやりとさせられる)ものだ。それぞれの手紙の最後の差出人名のところもウィットに富んでいて、思わずなるほど、と思ってしまう(たとえば、「事業を拡大する上で重要なこと」というテーマの手紙では、慎重に検討を繰り返すことの重要さを述べた後で、最後に「臆病者」よりと書いてある。「講演は自信を持って」というテーマの手紙では、はじめての講演に自信を持てないでいる息子に向かって、上手な講演を行うコツを伝授した後、「君に拍手を送る聴衆のひとりより」とまとめている)。

 相変わらず面白かった。この本は以前に読んで、今回が再読だったのだけれど、現実の人生についての示唆にとんだ様々なアドバイスに満ちた手紙に、以前と同じように納得させられた。ウォード氏は誠実さや節度や常識を重んじている。手紙の端々から、そういう気質のようなものが強く感じられる。そして、それは現代のある部分ではもしかしたら失われつつあることなのかもしれず、だからこそ新鮮に響く。

 折ったページは多数。いくつかを抜粋して引用。


 私の見るところ、おそらく常識が実業界の戦いに携えていく最良の武器だろう。困ったことに、多くの人は戦っているうちに常識を忘れてしまうらしい。常識の兄弟分である責任についてもしばしば同じことがいえるが、これらこそ成功の基礎である。(16ページ)


 互いに自分に言い聞かせようではないか、「熟練した小鳥だけが歌うとしたら、森は静まり返るだろう」と。(86ページ)


 世評では、ハリー・トルーマンはアメリカの副大統領であった当時、大統領の地位には不適格であるとみなされていた。しかし彼は(……)非常に強力な大統領になった。彼の成功に関する私の持論によれば、その主たる原因は、彼が十四歳で、ミズーリ州インデペンデンス市の、小さな地域図書館の本を一冊残らず読破した事実である。(177ページ)


 性格が良く、しっかりした倫理観を持ち、廉恥心とユーモアがあり、勇気と確信を持つ人は、捜し求め、親しみ、大切にすべき友人である。そういう人は少ない。「片手の指に余る親友がいれば、恵まれていると思え」とよく言われる。私はさらに付け加えたい。「たとえその手の指を二本、電動鋸で失っていても」。(220ページ)


 サミュエル・ジョンソンも注意しているように、「批判の風が吹くたびに振り回されてはいけない。最後には自信のかけらも残らなくなる。そして、ヘンリー・メイジャー・トムリンスンも言うように、あらゆる批判を注意深く評価しなければならない。「お粗末な、いい加減な批判は……都市の手入れの行き届かない下水施設と同程度に重大な問題である」。
 妥当で、善意からだと思われる批判は受け入れるように。悪意のこもった、あるいは不当な批判は、撥ねつけるように。見当違いの批判をする相手を黙って赦すべきではない。
 君は一生、批判と向き合わなければならないだろう。だから今、若いうちに、対処の仕方を覚えておくといい。(231ページ)


 ちなみに、姉妹編として『ビジネスマンの父より娘への25通の手紙』もあります。


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 お知らせ

 後輩と一緒に回転寿司に行ってきました。回転寿司を考えた人って、すごいなとときどき思います。


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