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2001年08月29日(水) 彫物

私は彫物を入れている訳ではありませんが、この伝統芸術が大変好きです。
今はタトゥーが定着してきましたがやはり和彫りが良いですね。
下町に生まれた私にとって彫物は身近な存在で、見事な絵を入れた職人さん
などがまだまだ大勢いました。
ここで少々説明しますと、まず入れ墨、これは江戸時代に罪人が腕に入れられたものでその線の違いなどから過去の罪が判る様になっていたみたいです。ですから彫物と入れ墨は全く違うモノですね。
それから職人は手首から足のくるぶしまでビッチリ入れて、ヤクザ者は腕までとなっていた様です。
まあ現代ではあまり関係無いみたいですが、でも今でも職人さんが彫物を
入れる時は手首から入れている様ですね。
彫物は江戸時代に大流行したのですが、時代劇を観ても解る通り江戸時代は衣服や髪型に大分規制があって、それは多分戦国時代のハデさとの差別化なのでしょうが、ですから着物に下に隠れ、しかも裸になればとてもハデな彫物が流行したのでしょうね。


2001年08月24日(金) 心は

心というモノは一体カラダの何処にあるのでしょう。
医学的には脳なのかも知れませんが果たして本当にそうなのでしょうか?
欧米では心臓、または胸と考えられてきました。ですからハートと言いますね。決してブレインとは言いません。考えの事はブレインと言う事もありますがね。
そして日本ではお腹にあると思われてきました。
「腹積もり」や「腹を割って話す」などの表現がありますね。
しかし際たるモノはやはり「切腹」でしょう。
海外では切腹の事を「責任を取って自決する」と誤解されていますが本当の意味は「腹を切って心を見せる」という事です。
ですから死ぬ事が目的なのでは無く、自分の誠を示す事が目的であって、死はその結果でしか無いのです。
私はやはり心は脳にだけあるとは考えません。
身体中総ての感覚、例え何かの病気などで感覚を失ったとしても実感が無いだけでやはり身体中で呼吸をし、細胞は生まれ続けています。
また手や足を失ってしまったとしても残った身体はエネルギーを受け止め、
また発散しています。
ですから心は身体の総てが培っているのだと思います。


2001年08月23日(木)

私はとても竹が好きです。
竹林などを歩いているととても心が落ち着きます。
また竹垣や竹網代の天井、そうそうお茶の道具も竹が多いですね。
やはり竹に何とも言えぬ侘びたモノを感じるのでしょうね。
しかし「珍竹林」なんて悪口もあります。そこがまた可笑しいですね。


2001年08月21日(火) 観る

「観る」。これは「見る」とは違います。
観音様。正確には観世音菩薩。世の音を観る誓願をたてた菩薩という
意味ですね。
では世の音を観るとは一体どういう事でしょうか。
それは世の総てが発している悲しみや苦しみ、また喜びなどのメッセージを
受け止めるという事です。
ですから観るとは只、眼で見るだけでは無く、全身で、そして心で感じる事
です。ですから「観じる」という表現もあるくらいです。
野に咲く花。空の青さ。煌々と輝く満月。
見るのではなく今度は観てみてください。
きっと今までと違った世界を感じる事が出来ますよ。


2001年08月20日(月) 心眼

「心眼」。よく剣術などの世界で使う言葉ですね。
元々は禅から来ている様です。
でも日常の生活の中でもこの心眼を開く事は大切ですね。
ただ、これがなかなか簡単にはいかないのですが…。
しかし頭から無理と決め付けるのも良くありませんし、また、
心眼=修行の末=難解と考えてしまうのもつまらない様な気がします。
要は形に惑わされる事無く、本質を見極めるのが大事なのであって、
例えば普段の人との接し方の中でそれを磨いていく事も出来るハズです。
自分の心を解き放ち、素直な気持ちで相手を受け止めれば相手の心の芯が見えてきます。
これも心眼と呼んで良いのではないでしょうか。


2001年08月19日(日)

「味」。味覚という意味の他にもこの言葉は色々と使いますね。
味がある。味が出て来た。まあ良い意味でよく使います。
またこの言葉を使うほうもまたモノの解った人が多いですね。
物をただ物としてだけで無く、可愛がったり、愛着を持ったり。
人に対しても使う言葉ですよね。例えば「あの人も味が出て来た」なんて。
この「味」という言葉、私好きなんです。
この散文に於いても、味のある文章が書けたらといつも思いますがなかなか
そう上手く…(この場合、旨くと字を当てましょうか)いかないものです。


2001年08月17日(金) 故郷

私の故郷は東京、文京区の千駄木という所です。その中でも台東区、谷中と接している地域で東京大学がある本郷などとは趣きが違い、江戸下町情緒が色濃く残っている町でした。過去形なのは私が子供の頃とは随分と様変わりしてしまったからです。この町に少しでも興味を持たれた方はリンクページにある「谷根千ネット」を覗いてみてください。まあ、それはともかく、やはり故郷というモノは良いもんですね。私は田舎が無かったので子供の頃、御盆やお正月になると友達が親に連れられて田舎に帰って行くのが何だか不思議でした。しかし、いざ自分が生まれた町を離れて暮らしてみるとその気持ちがやっと解りました。現在暮らしている那須高原はゆったりしていて空気もキレイ、四季折々の楽しみがありとても快適です。でもたまに、あの雑然とした下町が恋しくなります。それと一人暮らしをしていた六本木界隈もとても懐かしく思われます。これが望郷の念というのでしょうが遅ればせながらそういった気持ちになる自分が少し気に入ってます。


2001年08月16日(木) 創る

創作、そして創造。これは誰でもがやっている事です。私共の様な芸術に携わる者だけでは決してありません。会社勤めのサラリーマンの方だって、仕事に創造力と独自性を持ち込む事によって大きな仕事に結びついたり、例えば流れ作業をしている工員さんだってその方独自の方法で作業が早くなったりします。ですからどんな人間も生きている限り創造し続けている訳です。プータロウにしたって「きょう一日どうやって乗り切ろう」とか必死に思い巡らしているんです。ただ皆さんはそれを自覚していない。私から見ればそれはもったいない事だと感じます。日々創造している自分に気付いた時、普段の生活、サラリーマン生活や主婦生活やプータロウ生活がもっと楽しく感じられるハズです。どうですか?気付いてみませんか?


2001年08月14日(火) 抜く

心は鞘。誰の心の中にも刀が納まっています。勿論私の心にも。いつでも抜ける様に、そして良く切れる様に手入れを怠らず、決して錆付かせず、納まっています。しかし鯉口を切り、同時に柄に手を掛ける事はあっても余程の事が無い限り抜く事はありません。そこに確かな「義」を感じた時には息もつかずに抜くでしょう。「抜かば斬れ、抜かずば斬るなその刀」。そう、抜いた限りは斬らねばなりません。ですから余程の覚悟が無ければ抜けません。何だか話しが恐ろしい方向に向かってきましたが、これはあくまでも心の刀の事です。心の有り様です。私達の日常の中では様々な出来事が起ります。楽しい事、嬉しい事、悲しい事、辛い事。我慢しなければならない事。そしてタマには無理難題を押し付けられる事もあるでしょう。しかしそんな事は小さい事であり、侭有る事です。ですからそんな事で心の刀を抜く事は勿論、柄に手を掛ける事もなりません。そしてそんな時こそ冷静に物事を見極められる様に心を鍛える事が肝心であると考えます。剣の奥義に達した人は刀を抜かずに勝負を決したと言います。そこまでの心境に達するのは無理でも心を鍛えていけば、例えば愛する者を守る時、心の刀を抜かずに相手を制する事が出来る様になるのかも知れません。ただ、その心境になる為にはやはり「義あればいつでも抜くぞ」という覚悟の積み重ねと心に刀が納まっているという自覚、そしてその刀を錆び付かせないという事なのではないでしょうか。


2001年08月13日(月) 創道

陶芸家としての私は伝統工芸作家という位置に居ます。しかし現代まで脈々と受け継がれてきた伝統技法も先駆者が居たからこそ誕生し、今まで続いてきたからこそ伝統と成り得たのです。確かに日本の焼き物の大変革期は桃山時代です。そこから学ぶ事柄は非常に膨大で多岐に渡っています。かつて私も山に入り、当時の窯跡を探し、法律を犯してまでも勝手に発掘し、陶片を持ち帰り焼き直してみたり、色々とやりました。しかし現代に於いて伝統工芸作家として活動する私にとって伝統をなぞるだけでは何の意味もありません。「自分が伝統の先駆者たれ」。そう思って作陶しています。しかしこれが非常に苦しい。でもそれを補って余りある楽しさがそこにはあります。折角新しい材料がどんどん開発されているなかで、そういったモノを活かさない手はありません。伝統はただ守るのではなく創っていくモノであると考えます。新しい道を切り拓く事程私の心を震わせる事はありません。


2001年08月11日(土)

「縁」元々は仏教からきた言葉です。何事に於いても総ての根源は縁であるという考え方です。例えばひとつの種があったとします。でもそれだけでは花を咲かす事は出来ません。土があり、水があり、陽光があって初めて種は
芽を出す事が出来、初めて花を咲かす事が出来るのです。土という縁、水という縁、陽光という縁。人の出会いも総てそうですね。ふと立ち寄ったカフェで思いの他美味しいコーヒーに出会ってそこがお気に入りのカフェになったり、歩いていて突然吹いてきた風にとても好い花の香りが混じっていて心和ませたり。ただの偶然なのかも知れません。しかし私はそういった事も総て縁だと思っています。ましてや他人との出会いとなると殊更強く感じます。建物でも外に向かって張り出している場所を縁と言いますね。縁側、濡れ縁、また縁台などという物もあります。これはきっと縁が生まれるところなのではないでしょうか。縁側でお茶を啜っていると誰かが訪ねて来る。
縁台に腰掛けていると誰かが将棋盤を持って来る。出会いの場でもあり、また小さな社交場でもあるのでしょう。こういった事は大切にしたいですね。「縁」、良い言葉だと思いませんか?


2001年08月10日(金) 美学

人それぞれに色々な価値観や美学を持っています。また個人の中にも沢山の美学が混在していると思います。そのひとつにカッコイイ、カッコワルイとう判断基準がありますね。例えば、「この仕草はカッコワルイからやめとこう」とか…。今、問題になってる不法投棄。カッコワルイと思いませんか?
確かに棄てるのにお金が掛かる。けれど夜中にコソコソと見付からない様に
コッソリ棄てに行くのって私の美学から言えばカッコワルイ以外の何物でも
ありません。ただ、お金を払って堂々と棄てる事がカッコイイとも思いませんが。それは只の日常であって特別な事では無いからです。法に触れる、触れない。道徳的、不道徳。それ以前に自分の美学や哲学をしっかり持っていたいものですね。


2001年08月09日(木) 風狂

風狂と言えば一休禅師の代名詞ですがこの域まで到達する人はやはり天才なのでしょうね。散文「自由」で書いた様な、絶対的な自分の価値観を生まれながらに持ち、自然にそれに従って生きているのでしょう。サルバドール・ダリ、アルチュール・ランボゥ、パブロ・ピカソ、などなど芸術界でも数え上げれば切りがありませんね。他人に迷惑を掛けまくっても何故か愛され、心震わせる作品や言葉などを残し、自由奔放に時代を駆け抜けて行った天才達。天才と気狂いは紙一重とはよくそれを表した言葉だとは思いますが、私は実際はこの2つは多分に重なっていると思います。ゴッホが自分の耳を切り落としましたが、これが現代の日本だったら精神病院に入れられてしまうでしょう。同じ芸術を志す者として自分を振り返ってみると全く自信を無くしてしまいます。何だかんだ言ったところで常識の中で生きている自分を見付けて愕然とします。せめて心に狂を持っていたいと願っても結局は自分は自分でしか無いのですね。風にまかせて、狂うにまかせて…。まあ、こんな事を考える事自体が風狂からは遠く離れているのでしょうが…。


2001年08月07日(火)

今までチョット堅い内容が続きましたのでここで少し柔らかめのを…。粋。東京では「いき」と読み、京都では「すい」と読みますね。解釈も微妙に違う様です。私は東京の下町で生まれ育ったものですから粋な大人になる事を目標にしていたもんです。でも今だ到達しませんが…。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口ばっかりではらわたは無し」なんていう都々逸があります。2つの意味に取れますね。1つは「江戸っ子は何にも出来ないのに口だけは達者だ」。もう1つは「口は悪いけど肚の中は清らかなものだ」。私は2つめの解釈を支持したいですね。でも、これ両方共合ってるんです、実は。話しがテーマからずれてしまいましたね。そう、粋についてでした。男のキモノを例に取りましょう。鰹縞の木綿の単衣をゾロっと崩して着流し、雪駄を半履きで裏打ち金具をチャリチャリ鳴らしながら歩く。これは粋ですね。でも京都でコレをやったら大変な不粋者です。だから私は京都でキモノを着た事はありません。難しいですね。料亭などで大金を使いお大尽遊びをする。これは野暮ですね。要するにお金の問題じゃないんですね。最後に一言粋について。「粋なんてぇ事をくっちゃべる程、オイラ野暮天じゃぁねえよ!」


2001年08月05日(日) 自由

自由。それは自らの由に依ってという事です。般若心経の一節に有名な色即是空。というのがありますが、これを現代風に解り易く説明すれば、まず、「色、即ち是空なり」の意味はこの社会は虚ろい往くものと観ぜよと受け取れます。要するに時代、時代によって世間の常識やルールなどというものは変わってゆくのだから、そういった事柄に縛られず、自分の価値観を持ち、それを信じよ。という事です。自らの由に依って判断し、自らの由に依って行動する。社会の常識やルールに流される事無く…。ただこれを勘違いすれば只の自分勝手という事になります。自分さえ良ければ他人はどうでも良いという事になります。我々は普段、自由という言葉を簡単に使っていますが、実は非常に奥深い言葉ですね。「私は会社や家族の中で自由が全く無い」、「私には自由な時間が無い」などという言葉をよく耳にします。しかし本当にそうでしょうか?現実の社会の中でもシッカリと自分というものを持っていれば、それは自由なのではないでしょうか。


2001年08月04日(土) 希望

今、少年犯罪はどんどんエスカレートし大きな社会問題になっています。しかし私はこう考えます。いつの時代の子供達でも大きな可能性を秘めており
、現代に於いてその可能性や希望を奪い去っているのは私達大人であり、その結果、子供達も大人が思っている程馬鹿ではありませんので、見限られているのは私達大人のほうなのでは無いかと。今の子供達の親の世代は受験戦争が社会的に取り上げられた時代を生きて来た世代です。いわゆる教育ママに育てられた世代です。その結果他人を蹴落とす事を憶え、自分の事が最優先という考えを持つに至り、それが親になっても変わらずに自分の描く理想の子供に育てようとする。そこには子供の個性も人格も認めない親の姿がある。テレビのニュースではリストラだの失業率うんぬんだのばかり。これではいくら親がレールを引こうとしたって子供達がそんなレールを信用するはずがありません。その結果子供は親を見限ってしまうのです。ですからこの社会現象を変えていくには私達の世代がまず視野を広げる事が先決です。そして様々な、それこそ星の数程ある生き方を子供達に示し、可能性を広げてやるのが私達の使命なのではないでしょうか。中卒だって良い。不登校だって良い。でももしいつか例えば大学に行き、勉強したくなった時の為に高校はもっと柔軟になるべきだと思います。例えば学校に来なくてもボランティアで単位が取れるとか、一芸で単位が取れるとか。とにかくどんな子供でも
希望を手に入れた時人間的に大きく成長するんです。ですから私達大人が子供達に希望を与えられる様にまず成長しようではありませんか。


2001年08月03日(金) 痛み

今まで色々な国を旅し、様々なすばらしい出会いがあり、また現実を突き付けられる事もありました。アジアに限らず世界中で子供の売買が行われています。子供に恵まれなかった欧米人の御夫婦に買われていく肌の色の違う子供達。その子達はまだ良いんです。良識ある御夫婦であれば子供にキチンと事態を説明し、教育を施し、責任を持って育てているからです。しかし一方で戦争の道具として買われていく子供達がいます。大人達の勝手な思惑で戦争を起し、戦力増強の為に子供達を買う。しかもまだ7、8才の子供達です。その子達にとって勿論戦場は恐怖の場でしかありません。ライフルを構え人を殺す事がその子達に科せられた唯一の生きる道なのです。でもそんな事は7つや8つの子供に出来るはずがありません。恐怖で動く事さえ出来ないでしょう。そこで大人達は考えました。そしてある飲み物を子供達に与えました。そのドリンクとはミルクに爆薬を混ぜたモノです。それを飲むと一種のトランス状態に陥り恐怖感が無くなるそうです。そして子供達は戦場を訳の解らぬまま駆け巡ります。そして多くの命が使い捨てられていきます。まさに戦争の道具です。一発の銃弾と何等変わり無い扱いです。皆様、この現実を認識してください。微力ながら私はこの問題に関わっておりますが皆様にも協力してくださいとは申しません。ただ認識して頂きたいのです。そして普段の御自分の生活をもう一度振り返って頂きたいのです。食べ物を粗末にしない。物を大事にする。そういった事が今の私達日本人がもう一度考えなければならない事だと思います。あなたは胸を張って生きていますか?あなたは誇れる自分でいますか?


2001年08月02日(木) 文化

クリスマス、ハロウィーン…日本人は何でもお祭りにしてしまう。と批判する人々がいます。しかしこれは日本の誇るべき平和的な文化だと私は考えます。この根底には遥か古えに空海が日本にもたらした密教思想が生んだ神仏習合の伝統が脈々と流れております。密教はそれまでの仏教とは違い、何でも大らかに受け入れて来ました。例えばお稲荷さん。京都の伏見稲荷は神道系ですが愛知県の豊川稲荷は密教系で元はインドの悪神ダキニ(狐に跨がり死者の魂を食べる神)を仏教の守護神として祀ったお稲荷さんです。この様に平安以降、日本文化には色々なものを受け入れるという下地が根着き、一般の庶民も知らず知らずの内にそういった文化思想の中で生きてきて、それが現代に於いてもシッカリと息ずいているという訳です。日本人は節操が無い、宗教意識が無いと批判する欧米人が殆どです。しかしどうでしょう。彼等の国々に目を転じてみれば、宗教意識があまりに高い為に同じ宗教の中で解釈の違いからテロ行為などの殺し合いをしている国があります。いったいどちらが人間的でしょう。ですから私はこの日本の愛すべき節操の無さが大好きです。あなたはどう思われますか?


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