東行庵の軒下で

2001年09月22日(土) ごめんよ〜

武田真治のファン、晴美に
「武田真治も、キヨシローと一緒に自転車で鹿児島に向かってるんだよ」と話すと、
「はー!?!どこの道通るん?3号線通るんやったら、家の前で見れるやん!」と興奮気味に話にノッてきた。

道路地図を見ていると師匠が
「本州から来るんなら、関門トンネルの人道で待ってれば確実」と門司港を示した。
「そのあと、熊本方面から行くか、大分・宮崎から行くか、どっちだろう」
というと、
「別府で温泉につかるかもしれんねえ・・熊本の八代の先から、加久藤越えるのは大変だし」
「でも、ループ橋とか通るの好きそうじゃない?」と言うと、
「ループ橋、歩道あったっけ?チョーキさん・・・・」
・・職場の人たちを巻き込みながらLSDの進路をあれこれ予測したのが、木曜日。

最終的に今までの走行距離、日数、峠越えの余裕を加味して、九州入りは、21日あたりだろう・・ということにおちついた。
晴美は
「あたし休みだから、トンネルで張っとく!」
と、「いいなぁ〜俺も休みたい!」「キヨシローが見えたら連絡してよ〜」等の声を気持ちよさそうに浴びながら、準備室から出て行った。

当然、晴美からの連絡はきていない。
火曜日の朝がコワイ〜〜〜!!まさか、四国から来るとはねぇ〜・・



2001年09月19日(水) 眠い・・

三千世界のカラスを殺し 
 主(ぬし)と朝寝がしてみたい
           −東行


三千世界の時計を壊し
 もうちっと朝寝がしてみたい
           −ぐうたらにゃにゃ


最近、眠くて眠くてさ〜。学生の頃なんかオールナイトニッポンきいて学校いってたけど、平気だったのにな・・トシかな・・と思っていたが、よく考えると学生の頃は授業中に寝てたから、平気だったんだよね・・・一番後ろの窓から抜け出して食堂に行ったり・・母、父、スマヌ。



2001年09月12日(水) Glint beat

アルフィーの新譜。3年ぶりだ〜。

ディスクがプレイヤーに飲み込まれ、音が聞こえるまでの時間。久しぶりにドキドキした。思わず正座してたもん。

遊園地のゲートをくぐり、いきなりジェットコースター!!って感じだ。

80年代最後の年にリリースされた「DNA〜communication」の一曲目は「Heart of Justice」
この曲で歌われていた「自由」と「正義」という言葉は、21世紀最初のアルバムで「ネジ曲がった自由」「歪んだ正義」と形容されている。

「何の為に生まれそして消えていくのか 何をすればどこへ行けばいいのだろう」
「何を祈るのか 何が叶うのか 何が自由なのか 何を残せるのか」
疑問符だらけだった、「DNA」というアルバム。後に少しずつではあるが、高見沢さんの、彼なりの答えを見つけそれを作品に残している。ただ、答えはひとつではないはずだから、この先の作品の中でまた違った彼の思いを感じることもあるだろう。

それにしても、いつから命令形の言葉が、影をひそめたのだろう。今回のアルバムで、改めて感じたんだけど。
「終わらない夢を見続けることさ」
「走り出してみようぜ!」
語りかけるコトバ。
格言のような、厳しいコトバではないし、場合によっては曲に乗せるのに少し違和感があったりする、不器用なコトバ
そして、身近なコトバ。だから、現実味がある。ストレートに伝わる。

曲のほうは、これが「アルフィーなのぉ?!」と耳を疑ってしまうほどイメージがガラッと違う。まさに、Glint(きらめく、光る)金属的なギターの音。しかし、切れば血が出ちゃうようなギターの音も変化球的にかんじる。歌っている声にもそれは感じる。
だからこそ、詞のほうは直球なんだろうか・・・

ネジ曲がった自由
歪んだ正義

白という字を黒で書く・・みたい。そんな、やり切れない何かを感じた日でもあった。














2001年09月11日(火) デストロンの手先

なななんと!会社の車が、高速道路上でエンジントラブル。
合流地点だったためか、まわりをみても、非常電話が見当たらず、一番近い料金所まで運転手が自力走行・・

先週、友達の車に乗っていて、オーバーヒートという経験を積んだばかりなのに。そういえば、朝乗ったバスの「降ります」ボタン、私のところは故障してたしなぁ〜

おかげで、デストロイヤーという名前を、いただいてしまった。





2001年09月10日(月) タトゥー

北九州は、アジアの玄関口(らしい)
そのせいか、輸入雑貨の店が多い。東南アジア、インド、パキスタン、ネパール、そしてネイティブアメリカ。多国籍雑貨店なのだな。

ネパールのスカートに、中国系インド風ジャケット、アメリカ風の羽細工のトルク。まったく、異国風というより、国籍不明人になってしまう。街頭のキャッチの兄ちゃんから「アーユージャパニーズ?」と怪訝そうに声をかけられるのも無理はない。

そのお店で、ヘンナという薬草を使った、ボディペインティング用のペースト状インクがチューブに入って売られてあった。250円というチープさに、一抹の不安を覚えたものの、私の好奇心は、すでにレジに向かっていた。

家に帰ってすぐに開始!チューブの先に、ちょうど生クリーム搾りのような先細りのクチがついていて、それで、細い線もOK・・ok・・??最初の何センチかは足の上に線を描けたのだが・・でない。チューブの中でインクが固まってしまったのか?
箱の中を見ると、換えのクチが入っていた。今のより、搾り出し口がやや大きめだが、交換してみよう・・と、いままでのクチを取ったとたん、モリモリモリ!でとでとでと!!インクが、ペースト状の紫のインクが、チューブの中から止め処なく湧き出てきたのであった。

チューブの中でなく、先の細いクチの所で固まってしまっていたのだろう。チューブ内の圧力を、私があげてしまったため、行き場の無かったインクは、障害物が取り除かれたとたん、栄光への脱出をはかったとみえる。


当然、手は紫に染まり、足には静脈瘤のような、ヘンナのへんな模様が残ったのであった。時間がたつほど取れにくくなる・・というのは、本当だった。



2001年09月05日(水) お昼事情

おいらの会社の近くに、コンビニ誕生!青いマークのニクイ奴!

まわりに食べ物関係の店が3件しかなくって、誰かが脱サラして、弁当かパンかを、軽トラに乗せて売りにくればいいのに・・と、お互い勝手なことを思っていた日々から解放されたのだ。

当然、お昼になるとウチの会社の人々が占拠する事となる。上の人から下の人まで、レジの前では平等に並んでいるのが何だか楽しい。

コンビニは、おいらが出勤する早朝6時でも開いていてくれるのが、たまらんウレシか〜。
4時に起きて、朝ごはん食べれなくって(食欲無いよフツー)ひもじいよ〜と、会社においてある「お土産」の名残りを漁らなくても良くなった!
朝食がわりのパンをバッグに入れて、なぜだか知らないけど会社につく頃には、パン屑がバッグ内に散らばってしまっており、その後バッグのなかが臭くなる事ともオサラバさ!!

ただ・・前菜のサラダから、仕上げのプリンまで揃っていて、いつになく予算オーバー、カロリーオーバーになってしまう・・というのが、ウチの会社の部署ごとの唯一共通の課題なのさ。



2001年09月03日(月) お見舞い

手違いで、仕事が無いのに仕事場に行かされて、ラッキー!と思ってたら、人生、山あり谷あり。バッドなニュースが・・

オイラの「ギター師匠」の知り合いが、急病で入院。
検査技師やってるので、腹部エコーなど見せてもらったらしい。
この程度なら大丈夫、とか分かる反面「あちゃー・・」って事も分かってしまうのが、怖くないだろうか?

一緒に見舞いに行った師匠は「悪かったら嫌だから、肝機能調べたくないなぁ〜」とこぼしていた。だめだよ〜そんなことじゃ〜と思いながら、オイラも去年の点検、半分しか受けてないなぁ・・・



2001年09月01日(土) 鳥ロジー

坂崎さんと、飼い主の身勝手で放り出されたネコ達の本「ネコロジー」を読んでいる。
不幸な野良猫をこれ以上増やさないために、坂崎さんと秘密組織のおばさまたちが、ノラに避妊の手術を施し、そのネコが天寿を全うするまでえさを与えてノラを一代限りで終わらせる・・里親もさがす。病気のネコは自分で飼う。最後の最後の瞬間まで・・・
芸能人・・と呼ばれてしまうこの国で、芸能人の出す本は数知れず。だけど、こんなに普通の文章(けなしてるんじゃないよ!幸ちゃん大好き!!)ということは、ゴーストライターがいないってことでしょ?(幸ちゃん、ちかっぱい好き!!)
「アルフィーの坂崎さん」じゃなくて、「ノラネコを飼っている飼い主・47才・男性」が書いた本に仕上がってる。

そのなかに、病気で死んでしまったネコのことが書いてあった。病院に入院させたその晩、すぐに息を引き取ってしまい、坂崎さんは「仲間も誰もいないところでたった一人で逝かせてしまった・・」とめちゃくちゃ後悔しているのだ。

つい何日か前に、これと似た経験をしていた。
路上にスズメがうずくまっていた。こりゃぁ車に激突したかなぁ・・と思ってみていると、そのスズメはパチクリと瞬きをしたのだ。生きている。でも片翼と片足は完全に折れている。じきに死んでしまう。

こんな、味気ないアスファルトの上で死なせるのは、非常に忍びなかった。両手でスズメを抱えあげて、手のひらで包み込むようにして帰路についた。この間に息を引き取ったとしても、アスファルトの上で、迫り来る車のタイヤに命をさらして最後の時を待つより、少しは良いだろう・・人間の自己満足だけど。
ところが、歩調の揺れが心地いいのか、いつしかスズメはウツラウツラしていた。大丈夫かもしれない・・鳥は外傷には強い、と前回の、伝書鳩事件のときに獣医サンが言っていたのを、思い出していた。

次の日、スズメ=ヘースケは生きていた。外でスズメの声がすると、盛んに羽をばたつかせていたが、折れた右側の羽は動かなかった。右足は変な方向に曲がっていて、ブラブラしていた。どちらにせよ、医者に診せないと、骨折した先のほうに栄養が行かなかった場合、肉や組織が腐るだけでなく、腐らせる菌が体全体に回ってしまうことがあるのだ。
いつ死んでも覚悟はできてる・・は、なんとかして生かしてやりたいに変わっていた。

夕方、母と二人がかりで、練りエサをどうにか食べさせようと、悪戦苦闘。ヘースケは、餌ではなく私たち二人の手を凄いチカラでついばみ、えさを豪快にぶっ飛ばしながらなんとか食べていた。「なんとか食べてくれた〜あたしゃ〜明日からどうしようと思ったんやけど、とりあえず、これが食べ物って分かってくれたらしいし・・」と、母が言った。そうだ。わたしは、明日から東京へ行く。この時点で、少し母に後ろめたさを感じた。

次の日。東京へ出発する日の朝。ヘースケは冷たくなっていた。
予期してつれて帰ってきたはずなのに、ショックだった。一番のショックは、一人で冷たい路上で逝かせたくない、と思ってつれて帰ってきたのに、私はヘースケの最後の時に、傍にいなかったのだ。ヘースケはやっぱり一人ぼっちで逝ってしまったのだ。
私がいるときにヘースケが死ぬ、なんて、そんなのは人間の勝手な思い上がりだった。ヘースケが死ぬ時に、私が居る為には、片時も目を離すべきではなかったのだ。鳥かごの中には、いつも「死」が入っていたのだから。

ヘースケは、バラの植え込みの下に埋葬された。「ここには、ずっと昔に埋葬したスズメの雛もいるから・・」母の言葉が続く。「アンタもこれで、心置きなく東京に行けるしさ・・」
一瞬でも重荷に思った自分の身勝手さに、怒りと情けなさと、無力さと、ズルさとを感じた。鳥の雛さえ看取ることが出来なかった自分が、看護婦ヅラさげていっぱしの給料とってるのが、たまらなく嫌だ。
涙が出てきた。
 友達が迎えにくるのに、こんな顔していては、しかも、出発の朝なんだから、泣くのは後にして・・と決めて、顔を洗った。友達にまで悲しい思いをさせたくなかった。泣き虫の自分にとって、泣くのを我慢するのは、辛かった。でも、そんなことぐらいしか出来なかった。

ごめんね、ヘースケ。今なら、思いっきり泣いてもいい?














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