おおみち礼治のてくてく日記
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2016年01月06日(水) 左(右)だけあればいいわけじゃない

 右も左も理解はしないと正しいところは見えてこないような気がする。反対側に向けて決めつけや感情的な文句を垂れるだけで、どのような根拠にのっとってそのようなことを述べているのか、しようとしているのかを知り、あいつら駄目だというのではなく感情抜きに冷静に理解して、それで初めて全体像が見えてくると思うのだけど。

 自分とは違うものに文句を言う(口汚く罵る)のがマイナスの気持ちよさとなって、自分は正しいと酩酊して騒いでいるだけようにも見える。これが正しい、というものを作った瞬間、そうでないものは間違っているというものを同時に作り出し、争いの元となる。争いたくなかったんですよね?

 立場ができると、それが自己実現の手段や収入源、自分(たち)さえよければいいという態度、思い込みの強化によってそうとしか見えなくなって簡単には変えられないから、特にその(偏った)組織で代表を務めるような人の言には信をおけない。左右とも事実をゆがめて主張することがあるし、物事を正しく見ているとはとても思えぬ。それは片方に過ぎない。左右あってひとつなのだから、反対のものを否定したら自らが存在できないことになる。ただ違うというだけだ。

 そもそもその政権を成り立たせているのは支持している人たちがいるわけで、総理大臣への個人攻撃や党の批判もいいけど、それを支えている人達の方を向かないとどうしようもないのではないか。向いている方向が逆。結果に矛先を向けても無理がある。国会前で怒鳴ってばかりいたら保守層の印象を悪くするだけで、支持を増やすことはできまい。ものを言いたいなら、もう少し大人になってだな、左右共に理解してからでも遅くないと思うのだが。

 もうひとつ、左右だけでなく中心というものがある。妥協や譲歩の産物ではなく、ここしかないという絶対的な中心。簡単にいえば、30センチの定規の中心は15センチだ。やじろべえのように、そこに指をおけば安定する。1ミリ左や右にずれただけで定規はバランスを崩して落ちてしまう。安定するのは中心しかない。真ん中を知るには左右を知らなくてはいけない。片側からの一方的な主張は物事をかき回すだけだ。中心がわからないのなら黙ってたほうがいいんじゃないかと。


2016年01月03日(日) 片手間で、作業時間は10分、誰でも、とかさ

 そういううたい文句に引かれるのはわかってないからと痛感する今日この頃。だいたい、そんなことがあるわけがない。さんざん煽っておいて儲かるのは元締めだけ。良い悪いは別にして煽る技術はすごいと思うけどもね。それこそ片手間でできることじゃない。

 なんだかもう、産まれたときから違っているのではないかとさえ思ってしまう。そういう安易なものに引かれること自体、自分が安易であり、安易に物事を見ている証拠だ。安易に見ていれば薄っぺらい理解しか得られないし、安易なことしかできない。当然、結果はついてこない。そして不平不満を溜め込んでいく。わかっている人は最初から安易なことはしないで、綿密に計算し、あるいは頭を使い手を使い、あらゆる努力をしてそこにいる。わかっていない人はそこ――なんでも片手間で成すことはなく、それ相応の努力と忍耐をもって築き上げられるものと理解すべきで、精神論を嫌う人もいるけど、何をやってもうまくいかないのは、わかっている人には当たり前の言うまでもないことがわかっていないからのような気がする。
 言葉を聞いて、そうかもしれないと思うだけではまた同じこと――安易なことを必ずしはじめるから、何らかのテクニックだけ覚えても続かない(=うまくいかない)。いや、そのテクニックでさえ漠然としか覚えていなかったりしないだろうか。

 そしてたぶん、もっと重要なのは情熱があるかどうかではないか。したいことが明確になっていないと、「こうすれば儲かる」などのテクニックだけを求めて結局なにもしなかったりする。
 だれかの成功譚を聞いては、それに続けとやってみてもやっぱりうまくいかないのは、情熱がないから。お金が欲しいというのも情熱のひとつだが、自分の殻を破り積極的に打って出ようという気になるには、かなりの決意というかエネルギーがいる。自然にできるというか、やっていける人もいるが、それはわかっているから。そもそもできる人だから。楽にできてしまうとは言っていません。
 心のどこかで、たしかにやばいけど、このままでもなんとかなるんじゃね? などとわずかにでも――本当にちょっと頭をよぎっただけでさえブレーキべた踏み状態となり、情熱がいまひとつわいてこず、無理にやり出しても義務と化してぜんぜん楽しくない。そりゃ続きません。

 その成功譚は正確にはその人だけのものだ。真似するのは構わないんだけどやりながら自分なりのやり方を見つけないと、そのようにできない自分を責め立ててしまう。これ、というものを見つけてすでに結果が出ている人や挑戦中の人はともかく、そうでなければいちどやりたいことだと思っていることもいったん手放して、ゼロから自分を見つめ直した方がいいかも知れない。その思いは外から取り込んだ、「これがいい」「こうでなくてはならない」という思い込み(もっといえば洗脳)に過ぎない可能性がある。

 あるいは、真似をしようとしている人物と自分の人間のできがそもそも違うということもある。極端だが、スーパーマンに憧れて、それに続けと言ったって無理がある。そりゃあ人間の器は大きな方がいいに決まっているが、それこそそれは産まれたときから決まっているように思われる。自分を知らないと、分相応がどの程度なのかわからないし、自分が何をしたいのかもわからない。欲ばかり肥大させて実態がついて行かなければ苦しみの原因になってしまう。

 ちっちゃい器だっていいじゃないか。自分を知ることからだ。その枠に大人しく収まっているのもいいが、ちょっとだけ負荷を掛けるのがいいかも知れない。最初はどんなに小さくても、少しは大きくしていける(自由度が広がる)だろう。分不相応に大きなものを求めても、どこかでつまずくのは目に見えている。己の器を知り、それを受け入れ、だからといって諦めず、坦々と生きていく。それこそ真っ当な生き方だと思う。


おおみち礼治 |MAIL

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