おおみち礼治のてくてく日記
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2004年05月24日(月) ●歳

●歳
 34、5歳からですね。社会的には、若いと言われることはあっても、肉体的には、その年齢くらいから変わるのが分かります。女性の場合は、肌の状態が変わってくるとか、そういうことを気にするから、もっと若くても、違ってきたーと思うかもしれない。
 たとえば、徹夜ができなくなってきたとか、筋肉痛が2日後に出るとか、夜食にインスタントラーメンを食べると下痢をするとか、疲れがなかなかとれないとか、お腹が出っ張ってきたような気がするとか、髪の生え際が後退してきたような気がするとか、以前は何ともなかったことが気になり始めます。
 健康のことなんて、ほとんど気にしてなかったし、それは病気をしてからもそうで、真に体を大切にして、少しでも快適に生きてゆけるように、なんて考えたことはなかったと思う。早寝早起きだとか、散歩をするだとか、食事に気を付けるだとか、一時的にはすることはあっても、頭でやった方がいいと考えてしただけであって、分かってやっていたわけではないから続かなかった。
 10年前に撮った証明写真が出てきたんだけど、最近の写真と比べるとまったく様子が違っている。肌も若さがにじみでていて、かわいいといっても差し支えない(^^;男の子なのだ。確かに10年たって、わしもオジサンになったのだなぁ、と実感されたのでした。


2004年05月13日(木) ●オーシャン・オブ・ファイヤー

●オーシャン・オブ・ファイヤー
 ある人に勧められて、見てまいりました。
 どういうわけか、映画を見に行くと気分が悪くなることが何度か続いたので、映画が本当は苦手なのではないか――映画というより、映画館の雰囲気が苦手なのではないか、と思っていたのだけど、そうでもないとわかりました。
 ヴァージンシネマとか、とにかく人が多いところが嫌いなんですね。そういうところにいると、息が詰まる感じがするのだけれども、今日行った映画館はガラガラ(笑)で、まあ、平日だからということもあるんだろうけど、誰もいなかったからねぇ。
 誰も、というのは、文字通り、誰も。
 そういう場所なら大丈夫なんですね。映画館貸し切り状態で、ふんぞり返って見られました。昔からある街の映画館なんだけど、つぶれなきゃいいけどなぁ、なんて心配してしまうくらいです。

 で、肝心の映画ですが、良い意味で安心してみられたエンターテイメント作品でした。CGも使っているにはいましたが、基本的に自然のままでしたから、絵的に安心できたところが大きいかも知れません。ハイテクでハイソで暴力的な作品も、たまには良いけど、ちょっと苦手だねぇ。
 ストーリーは、これも良い意味で黄金パターンだったし、最後のシーンなんかは考えさせられるものがありました。何が、というところを書くとネタバレになってしまうので書きません。(^^)

 同じ階でやっていたキルビル Vol.2の方が人が入っていたようですが、わたし的にはオーシャンがオススメです。


2004年05月12日(水) ●あなたは見かけによらず過激

●あなたは見かけによらず過激
 この前みた、外人と殴り合いのケンカになる夢から理解したことに追加。
 普段は、外見からか、やさしくておとなしい人、と見られる(らしい)のだが、少し深いつきあいがある人には、「あなたは見かけによらず過激」と言われることがある(笑)。要するにそういうことなんだな。
 って、サッパリ分かりませんね。
 わしは力があると使ってしまうのだ。使って人を殴ってしまったり、力ずくで物事を押し進めたりとかね。いや、そんなことはしてませんよ。いまの自分が最も忌避するやり方、精神性を過去(前世)使っていて、今回、力を出せない体で生まれてくることで、それは偏っているし、人を傷つけてしまう下法だよ、と教えてもらっているのだろう。
 肉体的には、確かに力による方法をとることができない弱さがあるが、精神的にはかなりキツイというか、だからなんだ貴様、というような、人を押しのけて突進していく傾向があるのは気が付いていた。多分、本当に力を持っていたら、全身全霊の力を込めて、かーめーはーめー波ー! うおー! とか(爆)、邪魔なら地球でさえぶちこわす、というような罰当たりな生き方をしていたのではないかと思う。
 だから、違和感があったんだな。普通に話しをしていても、これは何か違うぞ、と感じていた。本音は過激なことを考えているのに、やさしい、よわっちいことを言っている自分に違和感を感じていた。だからといって、本音を口にしても、そんなことは出来ないという矛盾がある。昔、星占いで「あなたは強い星がふたつあって相克している」と言われたことがあるが、なんとなく分かりますね。
 力ずくで押し通すのではなく、だからといって誰かにやってもらわなくてはなにもできないのでもなく、中心。筋が通ったしなやかな方法。最小限の力で最大の結果を生む術。
 力ではない、ということを真に理解するまでには、わしの場合大変かも知れない。


2004年05月11日(火) ●捕まりました(笑)

●捕まりました(笑)
 あうー。
 スピード違反です。まさか、あんな田舎の道で張っているとは思わなかった。いや、思うも何も、いつも通っている道だしスピードが出る場所だからいつものように走っていただけなんですけどね。警察はいい場所を見つけたな。あそこなら、来る車すべて捕まえられるんじゃないでしょうか。
 脇道から警官が飛び出てきて、こっちこっちというので、最初は道路工事でもしているのかと思ったんだけど、先の道を見ても何もしていないし、脇道から大型車が出てくる様子もないし、警官に「スピード違反です」といわれるまで、いったいなんなのか想像もつかなかったからねぇ。
 すでに何人もとっつかまっていた。「40キロ制限のところ、57キロですから、そんなではないんですが」という。「こんな田舎で取り締まりたー、警察も暇なんですねぇ」とでも言ってやろうかと思ったが、そんなことをいっても何の解決にもならないので、ぐっとこらえた。
 反則金は1万2千円。
 ……。
 1万2千円!
 コンビニに行くのも悩むくらいの金欠だというのに(^^;、いったい何事ですか、それは。先月のネットショップの利益分、全部もっていかれます。

 帰ってきて、テレビをつけたら、キテレツ大百科でベンゾーさんが駐車違反で車を持っていかれてしまい、「ああ!わしのような貧乏人から罰金を取るだなんて、警察は許せん!」と言っていたので笑ってしまった。

 大きくうなずいたわたくし。(爆)


2004年05月08日(土) ●批判の批判●つぶやき●術●想念

●批判の批判
 人を批判できるほど、自分は清潔なわけではまったくないし、立派でもない。
 変に考え込んでしまうと、自分のずるさや弱さ、未熟さといったものに辟易して、窒息して倒れそうになってしまう。
 名前のある人は、誰でもあるような、ちょっとしたことが明るみ出ることで、人生破滅することがあるから大変です。いろいろなニュースが毎日毎日なだれのように押し寄せ、あっという間に去っていき、去っていくのを見つめる暇すらなく、またもやネガティブニュースがやってくる。
 猫か何かのように、あっちでフワフワものが動けば飛びかかり、こっちで何か音がすれば聞き耳を立て……というように、マスコミの流すニュースにいとも簡単に釣られて悪想念を出しまくっている人がいますが、それは最悪です。
 自分の中身を光に当てたら、誰もが口をふさいでしまうのではないかと思うのだけれども――それとも、それは私だけなんでしょうかね。そんなにみんな清潔で立派なんでしょうか。
 一生、自分に直接関係のないニュースをとらえて罵詈雑言いっていたら、その間放っておいた自分自身はどうなるのでしょう。カビがついて、腐って、見るも無惨なことになるのは分かっていることなんじゃないでしょうか。自分の実際の生活はどうなのでしょう。そんなことをしている暇があるんでしょうか。

 もちろん、人のことを言う人だっていていいんだけどさ。いや、もうなんだか、外側のことで何を知っているのか分かっているのか知らないけれども、いろいろ言う人がやたらといて本当に辟易してしまって。
 他人のすることにいちいち首を突っ込んでいるんじゃないよ、と言うこと自体、すでに他人のことに首を突っ込んでいることになるのだから、黙っているのが本当であり、本当に自分を真剣に生きている人のスタンスなのだが、未熟なわしは、つい口を出したくなってしまう。

●つぶやき
 自分の現実を見つめるのが恐ろしいのかもしれない。
 思うようにならない外側の出来事をとらえて批判するのも――何でもいい、何かにはまらなくては生きてゆけないのも、日常の仕事やその立場や自分の容姿にいたるまで、何もかもが気に入らぬ現実、いかに自分が無力で何億分かの一に過ぎない、見分けのつかない蟻に過ぎないのか、懸命に目をそらすための方便かもしれない。
 そのときの自分の決定が未来を決めていくなら、たちまち踏みつぶされてしまう脆弱な蟻一匹に何を決められるだろう。流されゆくほかないではないか。
 積みあげてきた過去――最初はアメーバか何かだったのかも知れないが、人に宿ることを許されるまでの何万年かと、人となって何度生き、死んだか分からぬ繰り返しをしているならば、いま再び生きゆく過程があなたと違うのは自然なことだ。内部の発露が世界であり、過去の理解が映画フィルムのように写し出された世界なら、ただ受け入れ見ておればよいのだろうか。
 しかし、動かぬ石ではなく、確かに意識する自分が在るのであるから、現れ出でたる問題を解かぬわけにはまいるまい。それが自分の段階なのだから仕方がない。いや、いかに信じられぬとしても、その在りようだからこそ、確かに導かれているといえるのだろう。我は物事をややこしくし迷いの道に踏み入らせ、想念は自ら墓穴を掘るようなものだ。妬みも嫉みも相手にしない。相手にすればするほど湧いてくる。自由自在な思考から、理解できればそれがよい。出来ぬ以上、解決しようとせず、湧くに任せて放っておけば、いつかは消えてゆくだろう。
 現象を待つのではなく、気持ちを待てばいいのだろう。頭脳によらず、内側から自然にわき上がる感覚に身を委ね、そのままを行うのがよろしかろう。しかし、それを邪魔する教育された頭脳がある。またもや同じパターンを繰り返し、抜け出せない自分を発見する。だが、それでよいのだ。決まっているだけ繰り返さなくては、次に向かえないようになっている。乗り越えようとしない。だからといって諦めない。ただ、坦々と、てくてくと、歩んで行くのみ。

 ハッキリ書いていないこともあるけど、中身を素のまま取り出したら、以上のような言葉になりました。いろいろあるねぇ…。

●術
 狭い道に駐車してトイレに行ってきたら、変な外人が近づいてきて、流ちょうな日本語で「ここは2メートルの間を空けておかなくてはいけないのですよ。約束を守れないなら、こうします」といって、車を持ち上げひっくり返してしまった。
 さすがに頭に来たので、その外人に殴りかかったのだが、よくみると上背はそれほどないのに筋肉隆々でとてもかないそうになく、腰が引けてしまって力が出ない。

 ……という夢を見た(オイ)。
 目が覚めて、起きあがってすぐに、ああそうか、と気が付いた。力のない、体が小さい自分はダメだ、という思い込み。これは自分を汚す。
 何をするにも、力によらず、中心をとるだけでいいのだ!
 そういう術があったではないか。肉体的な力で物事を進めるやり方もあるだろう。しかし、そういう方法しかないのではない。力を出す才能のない自分は、気に入らない気持ちを押し殺し、力のある人に取り入らなくてはやっていけない弱者であるように感じていた。だから、力のありそうな相手を見ただけで、最初から負けてしまっていたのだ。
 そこに気が付いた。
 力によらない方法があったじゃないか。さんざん稽古してきたではないか。日常に活かされていなかっただけだ。それによって、力のある人にびびることなく、自分を信じて、自分の力を発揮してゆけるじゃないか。

●想念
 たぶんねぇ、他人の想念を受けとってしまうことで、それに自分が動かされてしまうんだと思う。最近は、人の失敗や欠点や、到らない点をあげつらい、揶揄してヘラヘラするのが流行りだかなんだか知らないけれど、そういう、自分のことは棚に上げて下種張る連中の想念が渦巻いていて、本当ならそんなものに乗っかることはないのに、一緒になって何か言いたくなってしまうのは、想念を相手にしてしまうからなんだろう。
 想念が出てきた――もしくはやってきたのを、こんな事を考えてはいけない、と思った瞬間に、それは相手をしていることになる。いけないいけない、と考えれば考えるほど、影響されてしまうんだな。
 どんどん流して、きれいな精神状態でいたいものです。


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